のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『スターリングラード』2

2008-03-23 | 映画


と いうわけで
3/20の続きでございます。

*****以下、再び完全ネタバレ話でございます。*****

前回、本筋以外の部分についてはより控えめな描き方をしてほしかった、と申しました。
特に恋愛の部分はもっとあっさりさっぱり、サラッと描いていただきとうございましたねえ。
正直、全然無くってもいいくらいでございました。

始めのうちは、別に気にならなかったんでございますがね。
例えばヴァシリとダニロフがファンレターへの返事を書いている場面。
ヒロインのターニャ(レイチェル・ワイズ)が現れたとたん、二人とも微妙にカッコつけだすんでございますね。
ほのかな恋心とほのかなライバル心が画面に漂い、奥ゆかしくってなかなかいいシーンでございました。
しかしその後ストーリー上でこの三角関係がどんどん出ばってまいりまして「実はこれが本筋です」とでも言いたげに幅をきかせておりますのは甚だいただけません。
何よりいただけないのは、映画の最終盤に瀕死の重傷を負ったターニャ、横っぱらにあいた穴から血を流すターニャ、その青ざめた顔で観客の涙を誘ったであろうターニャが、結局は助かってしまうということでございます。
映画の中だって、人が死んで嬉しいということはございません。
しかし、はばかりながら申しますが、彼女は死んでしかるべきでございました。

ターニャはヴォルガ河を渡ろうとする群衆と共に、ドイツ軍の爆撃を受けて倒れます。
まさにオープニングの数分間で死んでいった、あの名も無き幾多の兵士たちと同じように。
ターニャとあの兵士たちとで違うのは、私達観客は彼女がどんな人物であるかを知っているということ、この1点でございます。
彼女が教養ある女性であるということ、ヴァシリを愛しているということ、両親をドイツ軍に殺されたということ。
彼女が個性と来歴を持ったかけがえのない人間であることを、観客は知っています。
にもかかわらず、そんな彼女の唯一性など全くおかまいなしに空から銃弾が浴びせられる。
これによって、「唯一の人物ターニャ」と「名も無き兵士たち」が同列に置かれるのでございます。
即ち観客は、いとも簡単に死んで行ったあの兵士たちもまた、ターニャと同じように個性や、来歴や、愛する人を持っていたこと、今あまりにもあっけなく死のうとしているターニャと同じように、紙くずのように扱われたあの命のひとつひとつもまた、かけがえのない存在だったということに思い至る・・・
はずでした。

一方、ターニャが死んだと思い込んで絶望したダニロフは、ケーニッヒの居所をヴァシリに教えるために自ら標的となって死にます。
隠れ場所から姿をあらわしたケーニッヒを、ヴァシリの照準が完璧に捉えます。
2人はこの時初めて、面と向ってお互いの姿を見るのでございます。
「ああ、君か・・」と言いたげな、撃たれる直前のエド・ハリスの表情が素晴らしいんでございます。
眉間に銃弾をうけ、泥の中に倒れるケーニッヒ。
死闘は終わった。青空を見上げるヴァシリ。



しかし友も恋人も失った彼の胸には、戦争の虚しさがこだまするばかりだった・・・
はずなのですが。

医師の「もう駄目だろう」という言葉にもかかわらず、どんな奇跡が起きたのやら、死んだと思われたターニャが生きていることがラストで明らかになるんでございます。(おぉいダニロフ)
で、病院でヴァシリと感動の再会、と。

はあ。

まあ、ね、観たときは「はあ。・・・よかったっすね」と思いました。
しかし考えているうちにだんだん腹が立ってまいりました。
これでは「有象無象の兵たちや、美人でもなければ天才でもない凡庸な狙撃手たちや、主人公の恋路の邪魔をするやからは死んじゃったけど、かっこいい主人公と可愛いヒロインは生きてるんだもの。めでたしめでたしだよね」と言っているようなもんではございませんか。
非現実的な娯楽アクションものなら、こういうことも許されるでしょう。むしろ奨励されますね。
しかし独ソ両軍と民間人あわせて100万人以上の死者を数えた、苛烈な市街戦を題材にしてやっていいことではございません。
そも、オープニングでは戦争映画であったものが、ラストでは甚だご都合主義的な恋愛映画になっているとはこれいかに。
こりゃケーニッヒ少佐じゃなくったって




どうもずいぶんけなしてしまったようでございますが
駄作だと言うつもりはございません。
むしろいい所が多かっただけに、悪い所も目についてしまうのでございましょう。

例えばヴァシリとケーニッヒを、小道具から色彩までこだわって徹底的に描き分けている点なぞ、たいそう面白うございました。
ヴァシリ陣営は全体的にカーキ色、というか土色で、ごたごたと猥雑な感じがいたします。
床に雑魚寝する兵士たちを横目に、ストーブの上で煮詰まったお茶(か何か)を汚いおたまですくい、カップに注いで飲むヴァシリ。
一方、戦車がおっそろしく整然と並ぶドイツ陣営は冷たいグレーの色調で描かれ、ひとりソファに身をうずめたケーニッヒは、お盆の上のデミタスカップでコーヒーを飲んだりいたします。
ヴァシリたちは適当な紙で巻いたいかにも粗悪な煙草を、まあ、煙草というより煙突といったほうが近いようなシロモノを吸っているのに対して、ケーニッヒの煙草は銀のシガレットケースにこれまた整然と並んだ、金の吸い口付きの見るからに高級そうなもの。
ウラルの羊飼いヴァシリは決して教養が高くはないけれども、純朴な愛すべき青年であり、みんなのヒーロー。自覚のないままにあれよあれよと祭り上げられ、権力者からの祝福を受けてとまどい、スターリンの肖像をきょとんと見つめる。
バイエルンの貴族ケーニッヒは、戦地に赴く間にも分厚い本のページをめくる教養人。同僚とも距離をおく孤高のエリートで、どうやらヒトラーに対しても懐疑的。
常に3人のグループで、どんどん移動しながら標的を狙う、いわば「動」スタイルのヴァシリ。
1人で隠れ場所に潜んで動かず、標的が姿を現すのを待ちかまえる「静」スタイルのケーニッヒ。

このあまりにも対照的な2人が、同じように瓦礫の中に這いつくばり、ひたすら相手の眉間を捉えようと火花を散らすというのが、本作の最大の見どころでございましょう。
こう考えてまいりますとますます、このテーマを描くことに集中して、三角関係やら何やらの要素はあんまり盛り込まないでいてくれたらよかったのに・・と思わずにはいられません。
もしくはもっと時間を長くして、それぞれの要素をメインテーマにつながるまでしっかり掘り下げて描くとか。
(メインテーマというものがあればの話でございますが)
長い映画は嫌だっていうかたもいらっしゃいますけれども、短くて薄っぺらい作品になるよりはマシだと思うのでございますよ。
せっかくジュード・ロウとエド・ハリスという素晴らしい役者を揃えたというのに、勿体ないことでございます。

でもまあ、アレです。
多分この映画が本当に言いたかったのは
脚本がまずかろうとも、ラストがご都合主義だろうとも、みんな英語で話すので「ケーニッヒ」が「コーニック」と発音されていようとも、軍服のエド・ハリスはサイコーだってことでございます。



うーむ納得。


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2 コメント

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Unknown (hx2)
2008-03-24 14:37:30
ハハハハハ!
のろさんの映画評は、視点が明快で読んでて面白いです。
内容は悲惨なのでしょうけれど、ついつい笑ってしまいました。


ところで話はコロッと変わるんですが、

http://www.sven-bremer.wg.am/neuigkeiten.html
これでございますね?ノミさんネタの新しい小説とは。
おぼろげながらもまだ出版されてない感じがするのと、
出たとしてもドイツ語じゃ読めないじゃんワタシ、でございますよ・・・シュン
もしのろさんが手に入れた暁には、ぜひともあらすじと感想を宜しくお願い致します。

実を申しますとセミノンフィクションって辺りが、少々気になるのですが。
と言いますのも「完全演技者」(これは完全フィクションでした)があまりにもつまらなかったもので。
事実は小説よりも奇なりとはまさしくノミさんの事だと、
あらためて思った次第でございます。
(日記の内容と関係ないコメントでゴメンナサイ)
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Unknown (のろ)
2008-03-25 22:30:38
おおお
恐縮でございます。
くだくだしい文を読んでくださすってありがとうございます。

>内容は悲惨なのでしょうけれど
いえ、悲惨なのはまあ、冒頭の10分だけです。
あとはエンターテイメントですね、はい。
美男が好きな人はジュード・ロウを見ていれば楽しめますし
美女が好きな人はレイチェル・ワイズを見ていれば楽しめますし
その他の人はエド・ハリスさえ見ていれば楽しめます。


すみませんちょっと誇張がありました。


それはさておきノミノベル。
そうそう、そうなんですよ。
ワタクシもまだ出版されてはいないものと踏んでいるんですが
何せタイトルも分かりませんし、短編だということもありまして
もしも「Bremer短編集」といいうような形で出ていたら
はたしてそれにノミノベルが含まれているのかどうか
こちとらには分からんじゃないか?と危ぶんでいる次第。

何にせよ、発売が確認でき次第購入しようと手ぐすね引いております。
もっとも今のワタクシの独語力で理解できるのかも
甚だ危ぶまれる所ではありますが・・・
いえっ、読みますよ。きっと読んでみせますとも!

>「完全演技者」
そ、そうですか?
ワタクシはそれなりに面白く読ませていただきましたが・・・
もっとも、フィクションとはいえ
ヤメテケレーと叫びたくなった場面があったことは事実です。
どの部分かはご想像にお任せします。

あの作品はノミに仮託したファンタジーであると同時に
ひとつの「こうであってほしかったクラウス・ノミ」像であるのかもしれない、と思うのですよ。

ここで語ると長くなりますので、
次回のノミ話でちと語らせていただこうかと思います。


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