のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

ウォルシンガム話11

2011-04-19 | 忌日
えーと
すみません。

やっぱりあと2回。

というわけで

4/16の続きでございます。


ウォルシンガムの私的な書類は政府によって破棄されてしまったので、プライベートなことはほどんど分からない、と前回書きましたけれども、全く何にも伺い知れないというわけではありません。

鷹狩りが好きだったらしい、ということはバビントン事件の所で少し触れました。その他のアウトドアな趣味としては、庭づくりに凝っていたということです。これはセシルやレスター伯とも共通の趣味だったのだそうで。イギリス人ですなあ。もっともセシルともレスター伯とも違って、後代に残るような立派な建築物を建てることには全く興味がなかったようです。お金が無かっただけかとも思いましたが、他のこと-----学問・芸術・航海の支援-----にはしっかりお金をつぎ込んでおりますので、やっぱり興味がなかったんでしょう。

ルネサンスの宮廷人らしく、音楽の愛好者にしてパトロンでもありました。例えばリュート奏者で作曲家のダニエル・バチェラーという人がおりますけれども、この人、国務長官殿から「食う寝る所住む所に着るものからその洗濯まで必要なものはぜーんぶ用意してあげよう」という有り難いお言葉を頂いて、若い頃からウォルシンガム邸住み込みの楽士をやっておりました。彼が雇い主のために書いた作品のいくつかは、現代にも伝わっております。
↓CDまで出してたりして。ちょっとだけ試聴できます。

Amazon.com: The Walsingham Consort Books

また趣味というのとは違いますが、神学や哲学といった学問、それに詩や航海記といった文芸の熱心な支援者でもありました。このあたり、財務大臣を任されるだけあって財布の紐が固かったセシルとは大いに異なる所です。セシルに「たかが詩に国庫から100ポンドも払うなんて!」と非難された「たかが詩」、即ち『妖精の女王』の作者であり、現在では詩人の王と讃えられるスペンサーも、ウォルシンガムの庇護を受けた文士の一人でした。

(ちなみに前回の記事で書きそびれましたが、娘婿フィリップ・シドニーが残した6000ポンドの借金を、ウォルシンガムは亡くなるまでにおおかた返済し終えていたということです。死の直前に売却された3つの所領の代金も、その返済に当てられたのかもしれません)

学術においても、11世紀のノルマン・コンクエスト以降のイングランド史を再検証し、それぞれの時代において社会の革新に役立った法律や起きた反乱とその要因を調べ上げるという歴史編纂事業を立ち上げたり、オックスフォードに神学の授業枠を設けて自らも教壇に立ったり、また母校のケンブリッジ・キングズ・カレッジには多国語聖書を寄贈したりと、多角的にメセナを行いました。
ちなみにこの多国語聖書というのは、16世紀の一大出版者であるクリストフ・プランタンがアントウェルペンで出版したもの。外交官時代に大陸で購入したのかもしれませんね。多国語に堪能で外国人との付き合いも多かったウォルシンガム、他国の言葉を理解することの重要性・有用性をよくよく感じていたのでしょうね。

またドレイクの世界周航を支援するなど、海洋探索を資金面でも政策面でも大いに後押しし、新世界への入植やロシアとの交易にも積極的でした。グリーンランドとカナダの間にあるデイヴィス海峡がその名をちなむ探検家ジョン・デイヴィスや、イギリス最初の海外植民地となったニューファウンドランドに到達したハンフリー・ギルバートのスポンサーでもありました(お金が無くなるわけだ)。また地理学者で著述家であるリチャード・ハクルートのベストセラー、『イングランド国民の主要な航海、貿易、発見の記録』の初版(1589)は、冒頭にウォルシンガムへの献辞を掲げております。

ほらっ


エヴリマンズ・ライブラリーより

この献辞が5ページに渡って続くのですが、途中に”Japan”が出て来たのにはびびりました。「日本人やフィリピン人までもが我が国に暮らし、我々の言葉を話し、彼らの母国について教えてくれる...」というくだりなのですが、それほんとに日本人なのかい?この時代に渡欧した日本人なんて天正少年使節団くらいしかいないと思ってましたが。

さておき。
ウォルシンガムが積極的に海外進出を支援したのは、スペインと衝突せずにアジアや新世界と連絡する航路を探るためでもあり、海外から情報を集めるためでもありました。例えばハクルートなどは「カナダでフランスが何やってるか探って来て」という指示を始め、フランスとスペインの海外での動きを探って本国に報告するようにとのはっきりした指令を受けておりました。カナダまで網を広げていたとは恐れいります。

サー・フランシスが張り巡らせたスパイ網の全容を知ることは、残念ながら不可能でしょう。それだけに興味をかき立てられるものでもありますし、誇張される面もあるかもしれません。Encyclopedia of the Renaissance (Paul F. Grendler 1999) では、

It is safe to assume that little occurred anywhere in Europe of which Walsingham was not aware.
ヨーロッパのどこで起きたものであれ、ウォルシンガムが気付かずにいた出来事はほとんどなかったと見ていいだろう。


なんて書かれておりまして、これはワタクシなどの耳には実に甘く響く一文ではありますけれども、さて、実際はどんなものだったのでしょうね。

上述のカナダのように思いがけない所にも人を遣っていることから、思いがけない所でウォルシンガムの名前に出会うこともあります。
例えば、トバモリーの財宝船伝説。
1588年、無敵艦隊のうちの一隻で、遭難してスコットランド北西部のトバモリー港に寄港していた船が停泊中に爆発し、積んでいた大量の金塊もろとも海に沈んだという言い伝えです。『アルマダの戦い』(マイケル・ルイス 1996)の中での検証によると、無敵艦隊のはぐれ船がトバモリーで爆発・沈没したのは事実であるものの、財宝を積んだりはしていない普通の軍船であったとのこと、船に爆薬を仕掛けたのはジョン・スモーレットという人物で、「この男がウォルシンガムの諜報部員であったことは疑いない」のだそうです。

積極的な対外政策といい、公私に渡る海外行や外国語への関心といい、アグレッシヴなご性格(←これこそ疑いようがない笑)といい、サー・フランシスは外向の人でした。
逆にイングランドから外へはほとんど出たことがなかったセシルは、国としても個人としてもできるだけ正面衝突を避けようとする人だったようです。内側をよく見据えていたからこそ、資源も乏しい新教国であるイングランドが、豊かな国土を擁するフランスや強大な軍事力と制海権を握るスペインといちいち喧嘩してはとても国がもたないということもよく分かっていたのでしょう。そんなセシルが外交政策においてウォルシンガムとは対極にあったというのも当然ではありました。
「家にばかりいる若者は自家製の知恵しか持たぬ」とはシェイクスピアの台詞ですが、辛辣トークをもって鳴らす我らが国務長官も、内心でこのぐらいのことを毒づいていたかもしれません。いや、この人のことだから面と向かって言ったかもしれませんな。

といって、ウォルシンガムが「外向き」であったのは彼の現状分析がセシルに比べて甘かったからだ、ということにはなりますまい。そもそも現状分析の甘い人に、危機下にある小国のスパイマスターなんぞつとまらないって話です。

ただウォルシンガムは、現実を見据える目はごく冷静であった一方、行動に際してはセシルや女王陛下と比べるとかなりの理想家であったようにワタクシは思います。
その姿勢が、私的には「お金が無いのは分かってるんだけど、才能ある芸術家がいるなら援助しなきゃ」、公的には「軍事的に厳しいのは分かってるんだけど、隣の国で新教徒が苦しんでるんなら助けなきゃ」という、リスクは承知だがやらねばならない式の彼の行動指針に現れているのではないかと。

ちと極端な喩えをになりますが、船長エリザベスを頂いたイングランド号において、セシルが「糧食も足りないし天候も不順だし、出航を取りやめて今停泊中のこの島で穏やかに過ごしましょう」と提案する副艦長であるとすれば、ウォルシンガムは、ひとたび正確な海図が手に入ったら悪天候でも構わず出航しようとする操舵手のような所がありました。その大胆さが非常に有効に働く場面もあった一方、この人がフルで舵取りをしていたら、イングランド号の早晩の沈没は免れなかったことでしょう。ワタクシもこの時議会の一員だったらセシルについてただろうなあ。どんなに国務長官のファンでも、戦争は嫌だし。



国家という単位でのまとまりよりも信仰によるまとまりを重要視していた点にも、理想主義的な側面が伺われます。ウォルシンガムはフランスやネーデルラントの新教徒たちにいつも同情的で「あの可哀想な国々(カトリック国スペインに対して反乱を起こしているネーデルラント諸州)」を助けられないことを常々嘆いておりました。

こうした戦闘的かつ理想主義的な姿勢から、時にファナティック(狂信的、熱狂的)というあんまり有り難くない形容が付されることもあるサー・フランシス。確かに彼は熱心な新教徒ではありましたし、カトリック勢力に対しては常にケンカ腰でもありました。しかし狂信者のペンからは、以下のような言葉が紡がれることはありますまい。

(men's conscience are) Not to be forced, but to be won and seduced by the force of truth, with the aid of time and use of all good means of instruction and persuasion.
良心とは強制されるべきものではなく、真実が持つ力によって獲得されるべきものです。充分な時間と、善意に基づいた指導と説得がその助けになるでしょう。


I would have all reformation done by public authority: it were very dangerous that every private man's zeal should carry sufficient authority of reforming things amiss.
矯正はあくまでも公権力を通じて行われるべきだというのが私の意見です。個々人の宗教的熱意がものごとを矯正する権威を持ち合わせているとしたら、危険なことになりましょうから。


へええ、意外に温厚な物言いもできるじゃないですかウォルシー。いつもこの調子だったら女王陛下から物を投げつけられることもないんだと思いますよ。

サン・バルテルミの虐殺事件に対するコメントもファナティックとは呼びがたいものです。
この事件は宗教的熱狂の恐ろしさ、そして異なる宗派の人々が隣り合って暮らすということへの悲観と警戒をウォルシンガムに強烈に印象づけた事件ではありました。
しかし新教徒が旧教徒に無差別に殺害されるという惨劇を目の当たりにし、かつこのあと仏王室に対して強い不信感を抱き続けたにも関わらず、事件そのものについては64ページに渡る報告書(←4日で書き上げた)において「計画されたものではなく、王毋カトリーヌの命令によるというよりもコリニー伯暗殺の副産物として起きた事件であろう」と、恐ろしく冷静な分析をしております。

フランス王弟がネーデルラント支援に乗り出した時も、熱狂的プロテスタントならば諸手を上げて喜んでいい場面なのに「彼には何の徳にもならないはずだが」と取りつく島もないおっしゃりよう。
反逆罪など深刻な場合は別として、カトリックの司祭を処刑することには反対したり、新大陸に旧教徒のための入植地建設を構想したりしているのも、旧教徒を根絶やしにせんとする宗教的ファナティシズムとは異なる、いたって政治的な判断と言えましょう。

カトリックの宗旨がどうこうという以前に、イングランドが新教国である以上、カトリック教徒は国内の政治的な不安定要因とならざるを得ないということ、またフランス・スペインという強大な旧教国がすぐ近くにある上に、大きな権威を持つローマ教皇がエリザベスへの敵意をあらわにしているからには、周辺国の新教徒を積極的に支援せずにいることは政治的には危険であり、道徳的には怠慢であるとウォルシンガムは見ていたのでありましょう。
彼のことはファナティックと呼ぶよりマキャベリアンと呼ぶ方がずっとしっくり来るように思います。

もちろんマキャベリアンという称号が相応しいからには、目的のために手段を選ばなかったりするわけで、そこに権謀術策や拷問台が活躍する余地もあるというわけではありますが、ご存知の通りこの時代には拷問も陰謀も国家によって普通に行われていたものであって、つまりはお互い様ってことですわな。



次回で本当に終了(のはず)。
そう思うと寂しくて筆が進みません。





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