のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『印象派と西洋絵画の巨匠展』5

2006-07-09 | 展覧会
さてさて
ポルトガルに勝って
ドイツの3位が決定。

クリンスマン監督、相変わらずぴょんぴょん跳ねて喜んでらっしゃいました。
4年後も、この監督の喜びのジャンプを見たいものでございます。

さておき。
通常は3回以内に収める展覧会レポートをここまで引っぱったのは
どうしてもモランディに触れたかったからでございます。

モランディ
モランディ2

そう、本展でモランディも見られるのですよ!
しかしチラシにもHPにも、モランディのモの字も載っていないのは何たることか。怒。

ともあれ
モランディの作品の中で、静かに息づく「もの」達を見ることは、たいそう大きな喜びでございます。
モランディの描いた「もの」たちは、そこに あ る というよりも
わたくしたちと等価な存在として、世界の、宇宙の一部として、そこに い る という感じがいたします。

ここでちと、これまたのろの大好きな日本画家、徳岡神泉の言葉を引用させていただきます。
自作『蕪』について語ったものでございます。

唯一つの蕪が置かれてある。
じっと見ていると何か不思議な力強さと息吹さえ感じる。
そしてこの物の中に宇宙のあらゆるものが凝集している。
じっとここに在る、という気持ちです


(現代日本の美術 4 p113)

この言葉、そっくりそのままモランディが語ってもおかしくないと思うのですよ。
人間による意味付けや価値付け以前に、「もの」、世界、人間、等々は存在しているわけであって
モランディも神泉も、その、いわば意味付け/価値付けの彼岸にある「もの」を描いているように感じられるのです。

ただ、そこに、在る、それだけ。
良いも悪いもなく、そこに、在る、それだけ。
それだけのことでありながら、確かに宇宙の一端を担って、存在している「もの」。

存在していることの免罪符を常に欲しがっているのろといたしましては
モランディや神泉の絵の中の「もの」たちが
「ただ無為に存在している」ということへの、肯定のメッセージを発しているように思われるのです。
それで
彼らの作品を前にすると、胸がいっぱいになってしまうのでございます。

ちなみに『蕪』は ↓ こちら。

生誕110年記念 凝視の眼 徳岡神泉展 - [日本画]All About


はい、ずいぶん冗長になってしまいましたので
ここらで切ります。
とにもかくにも、行って損のない展覧会でございましたよ。


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