のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

ウォルシンガム話10

2011-04-16 | 忌日
4/15のつづきでございます。




1587年のものとされる肖像画。

ウォルシンガムがバビントン・プロット進行中にいみじくも「If the matter be well handled, it will break the neck of all dangerous practices during her Majesty's reign ことが上手く運べば、陛下のご在位中に起こりうる全ての危険な企ての息の根を止めることができるだろう」と予言したように、1587年のメアリの処刑以降、あんなに盛んだったエリザベス暗殺計画はふっつりとなくなりました。
隣国スコットランドではジェームズ6世が若いながらもよく国を治め、86年に同盟を結んで以来、イングランドとは良好な関係が続いておりました。
そして88年の夏、スペイン無敵艦隊の敗退によって、エリザベス即位以来最大の危機は辛くも乗り越えられたのでした。

この年の秋口から、もともと芳しくなかったウォルシンガムの健康は急速に衰えていきます。
1589年にはほぼ半年に渡る休養を余儀なくされます。しかし持ち前の勤勉さがそうさせたのか、あるいは腹心デイヴィソンを失ったことによって、国務長官および諜報局長としての彼の後任者が不在になったことを案じてか、ひとたび職場復帰してからは死の直前まで、病身を押して登庁を続けました。

1590年4月6日、サー・フランシス・ウォルシンガムはSeething Laneの自宅で息を引き取りました。享年58歳。
遺言に従って、葬儀は特別なセレモニーなしでひっそりと執り行われました。「私の負債の大きさと、厳しい状況に残される妻や娘のことを思えば」立派な葬儀などできないということを、死の4ヶ月前に書き遺していたのでした。
隠し戸棚から見つかった遺言書の執行人には彼の「Most kind and loving wife」アーシュラ夫人が指定されており、彼女は遺言どうりに諸々の遺産を分配しました。
アーシュラ夫人はその後の12年間をバーン・エルムス(メアリ問題などなどで疲れきったウォルシンガムがしばらく引っ込んでいた所)で過ごしたのち1602年に亡くなり、夫の側に埋葬されました。

ひとり娘のフランセスは父親の死後(あるいは死の直前、いずれにしてもエリザベスには内密に)、エセックス伯ロバート・デヴァルーと再婚します。そう、あのエリザベス最後の寵臣で、のちに反逆罪で若くして打ち首に処されるエセックスです。「フランシス・ウォルシンガムの娘に生まれて18歳で夫のフィリップ・シドニーに死に別れたあとエセックス伯と再婚」って、なかなかものすごい人生です。1601年にエセックスがロンドン塔で処刑されたのちはアイルランドの貴族と再婚し、余生をアイルランドで過ごしました。

そもそもエリザベスは寵臣シドニーとフランセスが婚約した時、事前に相談がなかったことに腹を立て、2人の結婚に許可を与えませんでした。フランシス父さんは激務のかたわら2ヶ月かけて女王を説得しなけらばならなかったのです。
同様に、エセックス伯とフランセスの結婚を知った時もエリザベスは激しく憤り、フランセスがエセックス伯と同居せずに母親と一緒に暮らすということを取り決めたのち、ようやく怒りを収めたのでした。女王にしてみれば、お気に入りの男を二人もウォルシンガムの娘に取られたという格好になるわけですから、まあ腹も立ったことでしょう。「この父にして...」とお思いになったかどうかは分かりませんが。

女王の財布の紐の固さをよく知っていた国務長官は必要な資金を用立てする際、しばしば「許可を得る前にとりあえず国庫から金を引き出す作戦」を採っておりました。そうした「とりあえず引き出し金」はウォルシンガムのつけとして勘定されておりましたので、積もり積もって女王に対しての借金は4万2000ポンドにまで膨れ上がっておりました。でも、全ては女王陛下とイングランドのセキュリティのための出資だったのですよ。
その膨大な負債は遺族に引き継がれることとなったのですが、幸いなことに、エリザベスの跡を継いだジェームズ1世の代になって帳消しとなりました。ちなみにこのジェームズ1世というのはもとスコットランド国王ジェームズ6世のこと。嫌々スコットランドに出かけて行ったウォルシンガムから「政治をするには若すぎる」と正面切って言われた人です。ウォルシンガムが生きてたら、借金帳消しにしてもらえなかったかもしれませんな笑。

ウォルシンガムの残した膨大な書類や通信は、蔵書や私的な文書ともども政府によって押収されました。保管に際して私的文書が全て破棄されたため(バカヤロー)、手紙の中に垣間見える私的なやりとりの他に、この諜報局長のプライベートな側面を明らかにするものはほとんど残されていません。

ロンドンに潜入していたスペインのスパイは、ウォルシンガムの死の2日後「国務長官の死去に、人々は哀悼を捧げています」と本国に報告します。天敵の訃報を受け取ったスペイン王は、報告書の余白に思わず「やったあ!我が国にとってはいいニュースだなあ」なんてことを書き入れたのでした。
Who's Who in Tudor England 1990 Shepheard-Walwyn から一文をお借りしましょう。

That would have satisfied Walsingham as his epitaph.
このフェリペの言葉が墓碑銘に刻まれたら、ウォルシンガムはさぞ喜んだことだろう。


サー・フランシスの遺体は、セント・ポール大聖堂はの娘婿フィリップ・シドニーと同じ墓所に埋葬されております。大聖堂は1666年のロンドン大火で焼け落ち、シドニーとウォルシンガムの墓碑も破壊されました。18世紀に設置され、現在も大聖堂の壁面を飾る記念碑にはシドニーの姿のみが刻まれております。

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(追記)
ロンドン大火での被災以前、ウォルシンガムの墓所には以下の碑文を記した木製のプレートが設置されていました。

Shall Honor, fame and Titles of Renown
 かくあるべきかは、栄誉と、名声と、世に聞こえし称号を持てる御人が
In Clods of Clay be thus enclosed still?
 土くれの下、かくもひそやかに閉ざされてありしとは?
Rather will I, though wiser Wits may frown,
 むしろ私は、拙くはあれど
For to enlarge his Fame extend my Skill.
 かの人の名声をいや増さんがため、微力をば尽くさん。
Right gentle reader, be it known to thee,
 尊敬すべき読者諸氏よ、いざ知らしめん、
A famous knight doth here interred lye,
 ここに眠るは高名なる勲爵士、
Noble by birth, renown'd for policy
 生まれながらに高貴にして、その深慮によりあまねく知られし御人
Confounding Foes, which wrought our Jeopardy.
 我らに仇なす敵を退け、
In foreign Countries their interests he knew
 諸国の意向をとくと知る
Such was his Zeal to do his country good,
 その献身は、なべて祖国のため。
When dangers would by Enemies ensue,
 敵のわざにて我らに危機の迫りし時も、
As well as they themselves he understood.
 その手管を熟知すること、さながら敵自らに同じ。
Launch forth ye Muses into Streams of Praise,
 詩神たちよ、讃えたまえ
Sing and sound forth praiseworthy harmony;
 妙なる旋律を歌い奏でたまえ
In England Death cut off his dismal days,
 イングランドの地において、死がかの人の苦しみの日々を終らしめたのだ
Not Wronged by Death but by false Treachery:
 死の影によらず、忌むべき反逆によりて苦しめられしその日々を。
Grudge not at this imperfect Epitaph
 言葉足らずなこの碑文、あえて堪忍するなかれ
Herein I have expressed my simple skill,
 私は自らの拙いわざを行ったまでのこと
As the first fruits proceeding from a Graft
 あたかも接ぎ木に実った最初の果実のごとく
Make them a better whosoever will.
 お望みならばこれを取り、より良き一篇をなしたまえ。

各行の頭の文字を並べると SIR FRANCIS WALSINGHAM となります。脚韻もきれいに踏まれておりますね。
碑文の作者は「E.W」とだけ伝えられておりますが、これはサー・フランシスの孫娘(つまりフィリップ・シドニーの娘)で、長じては詩作をよくしたエリザベス・ウォルシンガムであろうと推測されております。言われてみると最後から二行目の「接ぎ木に実った最初の果実」という言い回しは、作者がサー・フランシスの初孫であることを暗示しているようです。
ちなみにおじいちゃんが亡くなった時、孫娘のエリザベスは5歳でした。その後彼女は1599年、14歳で結婚し、ジェームズ1世統治下の1614年、29歳ではかなく世を去ります。

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ここ数年、イギリスでなぜかウォルシンガム関係の本が立て続けに出版されておりますので、あるいはこれから再評価がなされて、ウォルシンガムの墓碑も復活するかもしれません。
とはいえ、華やかなシドニーに正面の席を譲って、記念碑もなく、名前すら記されずにひっそりと眠っている方が、らしいといえば実に彼らしいような気もするのです。



あと1回続きます。
...たぶん、1回。



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