のろや

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ウォルシンガム話5

2011-04-11 | 忌日
いつもいつも何でこんなに投票率が低いのか。

それはさておき

4/10の続きでございます。

そもそもからの投げやり気分も祟ってか、対エリザベスで鍛えられた辛辣トークを若造ジェームズ6世に対しても炸裂させて、すっかり先方の機嫌を損ねたウォルシンガム、1ヶ月後に徒労感と共に帰国の途につきます。
幸いなことにこのスコットランド行を最後に、彼が外交官として引っぱり出されることはなくなります。これは体力的に長旅ができなくなったせいでもありましょうが、それ以上に、1580年代のウォルシンガムは他の仕事でたいへん忙しかったからでしょう。即ち、陰謀の阻止と対スペイン戦に備えた情報収集です。
このあたりからサー・フランシス、いよいよスパイマスターとしての本領を発揮し始めます。

スコットランドでごたごたが起きている頃、ロンドンには駐英フランス大使のカステルノーという人物がおりました。1581年,ウォルシンガムはカステルノーが密かにスコットランドのレノックス伯(前回の記事参照)にイングランド側の情報を流していたことを突き止めます。しかし獲物を発見した時点ですぐに飛びかかってしまわないのが、ウォルシンガムの怖い所。カステルノーには二重三重の紐をくくりつけた上で自由に泳がせ続けるのです。

まずカステルノーへの情報提供者であったダグラスという男を寝返らせて、以降は二重スパイとして活用。さらにカステルノーの下で働いていた秘書官やヘンリ・ファゴットといういささか謎めいた人物をスパイ網に引き入れ、カステルノーとフランス本国との通信書類などを入手します。何より重要なのはカステルノーが、メアリ・スチュアートと仏王室との通信を司っていたことでした。カステルノーを網にかけることによって、ウォルシンガムは彼がエリザベスの敵として最も危険視する人物、メアリ・スチュアートの動静を間近に探ることが可能になったのです。

ちなみにこのヘンリ・ファゴットという人物、近年の研究で、当時イギリスに滞在していた哲学者ジョルダーノ・ブルーノ(←汎神論と地動説を唱えて火あぶりにされた人)と同一人物であることが有力視されているようです。ほんまかいな?!

閑話休題。
大陸ではエリザベスを暗殺してメアリを英国王に据えようとする陰謀が着々と進んでおりました。

1583年春、ウォルシンガムはフランス大使付きのヘンリ・ファゴットから、なぜかいつも夜中にしかやって来ない奇妙な客についての報告を受け取ります。客の一人はフランシス・スロックモートンという旧教徒の青年でした。ウォルシンガム、スロックモートンのもとにスパイを放って監視を始めます。
メアリ・スチュアートと駐英スペイン大使メンドーサとの連絡役をつとめていたスロックモートンは同年11月4日、ウォルシンガムのエージェントによって捕えられます。

家宅捜索の結果、メアリがイングランド王座につくべきだと説いた論文や、エリザベスを誹謗する内容の小冊子、さらには外国の軍隊が上陸可能な英港湾の詳細な情報など、女王に対する陰謀を示す書類が多数発見されました。ロンドン塔の取調べ室で証拠を突きつけられたスロックモートン、それは以前うちに出入りしていた男が置いてったもので、自分は直接関係ないとしらを切ります。全て打ち明ければ恩赦が得られるよと持ちかけられても頑として口を割りませんでした。

スロックモートンは主席判事や外交官を輩出している名家の息子でしたが、それ以上の証言を拒んだこの青年を、ウォルシンガムは容赦なく拷問台にかけます。

ここで言う拷問台というのはこれ↓のこと。



張付台とも言いますね。上下のウインチを回転させて、じりじり身体を引き延ばすわけです。イングランドには15世紀の半ばに導入されました。
その他にどんなものがあったのかしらと『西洋拷問刑罰史』(大場正史著 1992 雄山閣)をひも解いてみますと、ばっちりありました、ウォルシンガムの名前が。

あまり一般的ではなかったが、囚人の両脚に羊皮製の長靴下をはかせる責め方も行われた。この靴下が湿っている場合は,楽に足をつっこむことができたが、火を近づけると、かなり縮んで、耐えがたい苦痛を与えた。

p.159

こちらはじわじわ締め付け系ですね。これが1583年、ウォルシンガムによって、メアリ・スチュアートやメンドーサと通じていたイエズス会士のウィリアム・ホルトに対して適用されたということですが、ホルトについてのwikipediaの記事によれば拷問は脅しとして持ち出されただけで、実際には行われなかったのだとか。
まあスロックモートンの方は脅しだけでなくがっつり拷問されましたけどね。

さて、拘留中、トランプに「友を裏切るくらいなら千回死んだ方がましだ」というメッセージを暗号で書いてメンドーサに届けたスロックモートン、拷問の第1ラウンドは持ちこたえたものの、第2ラウンドでたまらず口を割り、洗いざらい喋ってしまいます。陰謀の概要はおおむねリドルフィ事件と同じで、外国の軍隊がイングランドに攻め入り、エリザベスを王座から引きずり下ろしてメアリを後釜に据え、カトリックの栄光を取り戻すというもの。また今回はメアリの母方の親戚であるフランスの貴族ギーズ公が自ら軍隊を率いてイングランド南岸に上陸する手はずとなっておりました。

事件の発覚を受けて翌年メンドーサは国外に追放され、スロックモートンは処刑。セシルやウォルシンガムとしてはここで何とかメアリ・スチュアートを始末したい所だったのですが、今回もエリザベスは首を縦にふりません。ウォルシンガム、がっかり。

ここにもう一人、この事件に深く関わっており、しかも何の処罰も受けなかった人物がおります。
例の通信だだ洩れフランス大使、カステルノーさんです。ウォルシンガムとしては、最大のターゲットであるメアリがぴんぴんしているかぎり、メアリ周辺の貴重な情報源であるカステルノーを手放すわけにはいきませんでした。

さらにこの年の夏には、以前からウォルシンガムがその不信な動きに目をつけていたウィリアム・クライトンというイエズス会士がネーデルラント沿岸で捕捉され、ウォルシンガムのもとに送られて来ます。ふっふっふ。いらっしゃいませロンドン塔。
クライトンが持っていた書類と尋問から明らかになったのは、スペインによるイングランド侵略計画、そしてその計画へのメアリ・スチュアートの関わりでした。

「メアリ何とかしましょう」
外交政策では対立してもこの点では意見が一致していたセシルとウォルシンガム、ここに至ってBond of Associationというものを練り上げます。「連合盟約」ですとか「一致団結の誓約」などと訳されるこのBond、署名した者は「女王に対する陰謀を企てた者、また暗殺を試みた者は何者であろうと(←ここ重要)王位の継承を認められず、訴追され、処刑される」ことに合意するというものでした。
メアリの名前を出さないよう注意深く書き上げられたこの盟約書は、メアリ自身の署名も取りつけた上でウォルシンガムによって厳重に保管されました。もちろん、来る時が来たらサッと取り出して、メアリに対しては「あーた、ここに署名してますよね?」と言い、エリザベスに対しても「こういう盟約がありますから。メアリ自身もここにしっかり署名してますから」と釘を刺すためです。

メアリ・スチュアートの命運を決するその時は、間近に迫っておりました。


次回に続きます。
まだ続くのかって。
はい。多分あと3回ぐらい。
 

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2 コメント

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Unknown (Lusopeso)
2011-04-12 18:21:33
とりあえず一言だけ

続き待ってます。
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Unknown (のろ)
2011-04-12 21:41:59
ありがとうございます。
乞うご期待 とか言って。
調べれば調べるほど面白い人なので、予定よりもえらく長い記事になってしまいました。あと3回では終らないかもしれません。
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