のろや

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徽宗忌

2008-04-21 | 忌日
本日は
徽宗さんの命日でございます。
徽宗さんは中国・北宋の事実上最後の皇帝でございます。

「彼の人生最大の悲劇は、統治者の家に生まれてしまったことだ」
こんな言葉の似合う統治者は世界史上にゴマンといらっしゃいましょうが、徽宗さんはその最たるものであろうかと存じます。
北宋の第六代皇帝神宗の第三子であった彼は、非常に才能のある画家であり書家でございました。そのまま「芸術の才ある皇族」として生涯を送ることができたらよかったのでございますが、兄・哲宗の早逝と皇太后の思惑によって思いがけなく皇帝の座に即いてしまったのでございます。
これが彼にとっても、宋という国にとっても、大きな悲劇でございました。

芸術文化の黄金時代とも称される宋において最高権力者になってしまった芸術家は、もともとあんまり興味のなかった政治をお気に入りの側近にまかせきって、美術品や奇石の蒐集に莫大な国費と民の労力を費やし、文化政策を押し進める一方で悪法によって民を搾取し、改革によって一時は立て直るかに見えた国力を再びがっ つりと疲弊させました。
堪忍袋の緒を切らした民衆が各地で起こす暴動や反乱(『水滸伝』の元ネタ)をすぐに鎮圧できるはずもなく、ただでさえ国力が弱まっている所へ場当たり的で無節操な外交・軍事政策によって同盟国の怒りを買い、北方民族の新興国、金に攻め込まれます。

徽宗さんは退位することで政治を顧みなかったことのツケを支払ったつもりだったかもしれませんが、ことはこれで終わりではございませんでした。金軍による首都開封の再びの包囲を経て、皇帝自身が家族や官僚ともども北方の地へ連行されるという中国史上前代未聞の事態にまで至ってしまうのでございます。

ここにおいて軍人趙匡胤がクーデターによって建国した宋(北宋)は終焉を迎えました。
徽宗さんはといえば、873年前の今日、極寒の地五国城(現在の黒竜江省)において失意のうちに亡くなりました。享年54歳。
史実かどうか確証はございませんけれども、のろをして運命の残酷さを思わせずにはおかないのは、晩年の徽宗さんが失明していたということでございます。
北へと向かう途上で皇太后を亡くし、失意のあまり両目の視力を失ったのだとか。



こんな絵を描く人が。美術品の蒐集で国を傾けた人が。見るということを何よりも愛した人が、その目を失うとは。

彼のせいで塗炭の苦しみを嘗めた民衆からしてみれば、このくらいの報いは当然と言えるかもしれません。
しかしワタクシはこの人の絵を見るにつけ、鋭く美しい書を見るにつけ、彼が「芸術にかまけた」ことを責める気にはなれないんでございます。

そう、ただ皇帝の座に即いてしまったことだけが、彼の、そして国家の、不運だったのでございますよ。




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