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40年ぶりの「喪中欠礼」

2019年11月13日 | 娘達・家族

今年は、年賀状を出しません。

7月にかみさんの母親が亡くなったため。92歳でした。

年賀状の代わりに、「喪中欠礼」のはがきの準備。

 

毎年 友人・知人・親戚から届く「喪中案内」を見るたびに思っていたこと。

同じような文面でなく、少し工夫をすればいいのに と。

しかし 自分が作る側になり、考えが変わりました。

 

亡くなった肉親のことを考えると、決まりきった案内文が一番いいと思うように。

文章やレイアウトにこだわる気分ではありません。

亡くなった人を偲ぶことが最優先であり、見栄や個性を排除すべきだと・・。

 

     

 

 思えば「喪中欠礼」の案内を出すのは、およそ40年ぶり。

父親が58歳で、交通事故で亡くなって以来です。

あっけない最後で、しばらくはその死が受け入れられませんでした。

母親と、様々な手続きをしたはずなのに、今は思い出せません。

 

物静かで、大きな声を出したことのない父親。

進学も就職も「お前の好きなように」とすべて許してくれた父。

近くの会社から帰宅しても、農作業や山仕事に精出していました。

 

両親は、あちこちに私の嫁探しに歩き、帰省時 たくさんの見合いをしていた記憶が。

結局 父親に孫の顔を見せられなかったことを今は後悔しています。

広島で、プロ野球観戦をし、映画を一緒に見た数少ない「思い出」。

 

     

 

父親のいないことを最も悔やんだのは、妹の結婚式。

父親の作ったくれた着物を着る妹を見たとき、涙が止まりませんでした。

 

父親が可愛がっていた妹。その妹の晴れ姿を、父親に一目見せてやりたかったから。

二人住まいの母娘の別れでもありました。

今このことを書くだけで、胸が詰まります。ずいぶん昔のことなのに。

 

父親の最後の仕事は、田舎の「議員」。

周囲の強い勧めで、やむなく立候補、そして当選。

しかし 十分な議員活動をする間もなく亡くなりました。

 

地元のためにと、議員になった父親の想いを少しでも実践したいものです。

 

画像   作成した喪中欠礼はがき

     庭に咲く菊

     長女の結婚式    父親の涙腺は緩い


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