私の直方の風景

私の住んでいる直方の好きな風景を紹介します。

●軍師官兵衛~中津城に行ってきました◎

2014年12月31日 21時33分37秒 | 郷土の歴史
軍師官兵衛~中津城

●官兵衛ゆかりの中津市の中津城に行ってみました。
中津城の沿革は、黒田家~細川家~小笠原家~奥平家、と移り変わります。

①官兵衛は、豊前六郡の12万3000石の領主として天正16年(1588)に
 中津川河口を利用して、正月から中津城の築城を始めました。
②関ヶ原合戦の慶長5年(1600)ののち、黒田氏は、筑前52万石に封じられ、
 福岡へ移ります。従って、中津城での居城は12年間という期間です。
③その跡には、細川忠利が入城します。
 その後、慶長9年(1604)に、忠利は小倉城に移り、父忠興が中津に隠居します。
 忠興は、中津城の増改築を行い、元和6年(1620)今日の中津城の基礎をつくります。
④寛永9年(1632)に小笠原長次が中津6万石の城主として入城します。
⑤そして、享保2年(1717)に奥平昌成が、中津10万石の領主として入国します。
 以後、中津藩主の居城として存続します。
⑥明治2年(1869)奥平昌邁が廃城とします。
⑦昭和39年に、奥平昌信が天守と二重櫓の再建を行い、現在の姿となります。
 奥平家歴史資料館として、中津藩奥平家の甲冑や古文書などの資料が
 主に展示されています。

1.中津城周辺のマップです。城下町の町割の面影を残しています。


2.中津城のマップです。


3.中津城です。左側が二重櫓、右側が天守です。


  同じく中津城です。堀に写った中津城がお気に入りです。


4.今度は、東側駐車場に回ってみました。中津城をバックに官兵衛の像が新鮮です。
 「中津で天下の夢を見た 黒田官兵衛孝高 ゆかりの地中津市」の旗も
 はためいています。


5.黒田二十四騎の札もあります。
 我が直方「鷹取山城主母里太兵衛」を真ん中に入れて撮りました(^_^)/~


6.本丸東側の石垣です。石垣にy字状に目地が通る場所があります。
 右側が黒田時代の石垣で、四角く加工された石が使用されています。
 左側が細川時代の石垣で、丸みを帯びた自然石が使用されています。


7、8.石垣の説明文です。




9.天守閣から、二重櫓のある西側を見下ろしました。
 右手には、中津城で謀殺された宇都宮鎮房を祭る城井神社、
 従臣を祭る扇城神社や、奥平神社、中津神社などがあります。
 二重櫓に隣接して、「黒田官兵衛資料館」が平成26年に開館しています。


11.本丸の右手は、二重櫓とその手前の平成26年1月に開館した
 「黒田官兵衛資料館」です。 左手は、中津大神宮です。


12、13、14.中津12年間の大きな出来事としては、
 ①「頻発した一揆~特に宇都宮鎮房との対立」
 ②「天下取りの夢?~九州制覇に向けて出陣~」などがあります。
 このうち、②の「石垣原、大友軍との戦い」についての「黒田官兵衛資料館」の
 掲示資料を引用します。






石垣原の合戦の模様が、描かれています。右手は、実相寺山からの黒田軍です。
左手は、大友軍です。


→⇒こちらもどうぞ! 
●軍師官兵衛~別府石垣原の古戦場◎

●中津の城下町も歩いてみました。
1、2.「中津市歴史民俗資料館」です。
 民族資料の他に、中津城出土遺物も展示されています。
 「中津市歴史民俗資料館」は、慶應義塾で、福沢諭吉に次いで尊敬を集めた
 小幡篤次郎の生誕地にあり、遺言により、以前は図書館として利用されてきた、
 との事です。




3.南部小学校です。左手に中津城大手門跡の石垣が残っています。
 南部小学校の以前の中津市学校時代には、福沢諭吉、小幡篤次郎、
 慶應義塾との歴史的なつながりがあり、由緒ある学校、とのことです。 


4、5.南部小学校の校門「生田門」です。元々は、奥平家中津藩の家老、
 生田家の門、とのことです。




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●軍師官兵衛~「馬ケ岳城」から中津城へ◎

2014年12月30日 23時10分00秒 | 郷土の歴史
軍師官兵衛~「馬ケ岳城」から中津城へ

直方から行橋を経て、官兵衛の中津城(中津市)に向う途中、
黒田官兵衛が九州で最初の居城とした山城の「馬ケ岳城」を遠望しました。
「馬ケ岳城」は、豊前地区の「行橋市」と「みやこ町」の境界に位置する
標高216mの山城です。
この山城は、三原経基が942年に築城したとされ、戦国時代の
終わりまで、戦略上の重要拠点でした。
天下統一を目指した豊臣秀吉が島津勢力を抑えて九州を平定するために、
天正14年(1586年)に黒田官兵衛を先発隊として、九州に
派遣します。官兵衛は、小倉城、香春岳城などを攻略し、知略を
用いて、仲間勢力を拡大します。
そして、最初の居城を「馬ケ岳城」としております。

1.「馬ケ岳城」跡;勝山~豊津の中間地点より
 頂上が平坦に見える右手(西側)の山が、本丸です。
 左手の山が二の丸です。


2.麓の「大谷」交差点にある看板の登山マップです。


3.同じく、登山口の標識です。


4.同じく「行橋市刊行協会」の説明板です。


5.秀吉は、天正15年(1587年)に、大軍を率いて九州上陸を果たします。
 そして、この「馬ケ岳城」に二泊しております。
●「豊臣秀吉の九州平定経路」;行橋市資料より引用
 官兵衛は、東側ルートの秀長軍に加わっています。


6.かくして九州平定後、官兵衛は、秀吉より豊前国を与えられています。
●「黒田氏の所領(豊前6郡)」;.行橋市資料より引用


 そして、天正16年(1588年)には、統治しやすい場所を考慮して、
 中津に中津城を築き始め、 山城の「馬ケ岳城」より、移動します。
●黒田氏の支配に対して、地元領主たちの一揆が起き、特に
 鎌倉時代からの有力領主であった、築城の城井谷に勢力を持つ
 「宇都宮鎮房」との対立・不信感は大きいものがあります。
 そして、一旦和議が成立したものの秀吉からの命令もあり、
 苦渋の決断ということで、最終的に長政により、
 「宇都宮鎮房」は中津城で謀殺され、一族も滅亡します。
 この辺のことは、NHK大河ドラマ軍師官兵衛の
 第37話「城井谷(きいだに)の悲劇」および
 第38話「追い込まれる軍師」で、「宇都宮鎮房」との関係が描かれていました。
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●軍師官兵衛~別府石垣原の古戦場◎

2014年12月28日 23時21分45秒 | 郷土の歴史
軍師官兵衛~別府石垣原の古戦場

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」も12月21日50回目で「完」となりました。
このドラマに関しては、官兵衛を支えた重臣の一人の母里太兵衛が、
私の地元直方の鷹取山城主でもあったことから、色々と思い入れが
ありました。そこで、黒田官兵衛や母里太兵衛達のゆかりの地を
数か所訪ねましたので、その一部をピックアップします。

今回は、ドラマの49回「如水最後の勝負」の舞台でもある、別府市
石垣原の古戦場跡付近を取り上げます。

別府「石垣原の戦い」は、1600年「関ヶ原の天下分け目の戦い」のタイミングに
合わせて、官兵衛が、徳川家康の西軍に属しつつ、天下取りを胸に秘めて、
まず九州平定に乗り出し、中津→⇒国東→⇒別府→⇒水俣・・・と進軍します。
別府「石垣原の戦い」では、石田光成側の西軍に属した大友義統との激突となり、
戦略上の極めて重要な位置づけになります。
1.今回も、別府市在住の友人の歴史愛好家のYKR58さんから頂戴した略図で、
 これを片手に古戦場跡を歩いてみました。YKR58さん、有難うございました。
 右手側が、黒田如水の陣営です。左手が大友義統の陣営です。


2.同じ視点からの地図が、南立石公園古戦場跡に掲示されていましたので、
 併せてアップします。


3.黒田軍の本陣となった実相寺山(169m)です。山上に建つパコダが目印です。


4.実相寺山から見た、石垣原合戦の配置図です。(山頂にある案内版です)


5.同じ視点から見た、山上からの写真です。正面の高い山が鶴見岳(1375m)です。
 その右手に山焼きが美しい扇山です。


6、7 石垣原合戦の案内版です。




8.石垣原古戦場の真ん中を流れ、別府湾に注ぐ境川です。


9.今は市民の憩いの場所である南立石公園古戦場跡です。
 背景には、鶴見岳(1375m)です。


10.真ん中に境川が流れ、古戦場橋が架かります。
 右手の森は、南立石公園古戦場跡です。真ん中の遠景は高崎山です。


11.石垣原古戦場跡の碑です。


12.両軍の激戦地、七つ石稲荷のある広場です。この付近で、
 黒田方からも称えられた大友方の忠義な猛将「吉弘統幸(嘉兵衛)」が、
 最後の力を振り絞って戦います。
 そして、かって官兵衛に招かれて黒田家の客となった際に、世話にもなっていた
 旧知の井上九郎右衛門(黒崎城主)と、お互いに本意ではない戦いをして、
 統幸は、井上九郎衛門に討ち取られます。
 この統幸の死により、一気に形勢が変わり大友義統軍の敗北に繋がります。


13.ドラマの49回「如水最後の勝負」より引用
 →⇒石垣原の戦いでの、大友軍の猛将吉弘統幸(左)と
 黒田軍の井上九郎衛門(右)との一騎打ちの場面です。


こちらもどうぞ~直方鷹取山城主の母里太兵衛
●直方の秋色散歩;(4)「鷹取山麓永満寺(えいまんじ)地区」

●直方の秋色散歩;(3)内が磯ダム~福智山ダム付近

●直方の秋色散歩;(2)内が磯地区

◎JR博多駅前の「母里太兵衛の像」◎

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◎直方2中の魁皇像のこと

2014年12月20日 14時48分36秒 | 日記
直方2中の魁皇像のこと

12月14日の衆議院議員選挙の際に、投票所になっている直方2中に
久しぶりに出掛けました。
直方2中は、私も学んだ懐かしい想い出の詰った中学校ですが、
元大関魁皇関(浅香山親方)の母校でもあります。
先日、12月3日の報道で、
「小型魁皇像が直方二中に・・・制作者ら出席し除幕式」という
記事があったので、選挙に出掛けた際に、2中の玄関を覗いてみました。

この像は、大きさ1mのブロンズ像で、JR直方駅前の魁皇銅像作者、
片山氏から、銅像建立委員会経由で、同校に贈られた、とのことです。
休日なので、玄関には入れませんでしたが、駅前の銅像より一回り
小さなブロンズ像をガラス越しに拝む事が出来ました。
1.西尾地区にある直方2中の入口です。右手に福智山が見えます。


2.校舎のある高台に到着、右手に福智山です。そして西尾地区の
 住宅地が見降ろせます。


3.左手に投票所のある体育館です。何十年も前からある懐かしい
 掲示板もあります。まだ現役なのが素晴らしい!


4.この日の掲示内容がチョークで書かれています。
 「2学期のまとめをしよう ! 」です。


5.投票を済ませて、2中の職員室のある入口に向います。


6.数々の表彰カップや表彰状が並ぶ入口の右手に、お目当ての
 元大関魁皇像や額が見えました! 


7.魁皇のブロンズ像のアップです。


直方駅前の魁皇像はこちらです。  (^u^)
◎直方駅前「元大関魁皇銅像」の除幕10月26日
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◎「別府あかがね御殿」、白蓮さんの事

2014年12月12日 23時41分36秒 | 日記
「別府あかがね御殿」白蓮さんの事

「花子とアン」も終わりましたが、伊藤伝右衛門・白蓮ゆかりの地そして、
宮崎龍介と出会いの場である、別府市青山の流川通りにあった
「赤銅(あかがね)御殿」跡に行ってきました。
なお、「白蓮」の、別府での生活や出来事は、次の図書や資料に詳しく記載されています。
①「柳原白蓮  (西日本人物誌)」井上洋子 西日本新聞社 2011年発行
②「白蓮」娘が語る母子 長女宮崎 蕗苳監修 宮嶋玲子聞き書き
  旧伊藤伝右衛門邸の保存を願う会 2007年発行
③研究報告「白蓮と伊藤伝右衛門 : 新別府小手川家の仏壇」矢島嗣久 
 別府史談会 2002年発行~別府史談 No.16 (2002. 12) ,p.89- 98

伊藤伝右衛門は、白蓮を迎え、1916年(大正5年)に、別府市山の手(青山町)に
敷地3458坪の「あかがね御殿」と称された豪奢な別邸を造営しています。
「あかがね御殿」は、白蓮と多くの人との出会いのサロンとなります。
そして、ここが1920年(大正9年)に、編集の打合せで訪れた宮崎龍介との偶然の
出会いの場所になります。その時、白蓮34歳、龍介27歳です。

この別邸は、1954年(昭和29年)~1979年(昭和54年)まで、実業家の首藤克人に
よって、「別府赤銅御殿ホテル」として運営された後、取り壊され、現在は住宅団地になっています。
次の図は、あかがね御殿の位置関係です。
別府市在住の友人の歴史愛好家のYKR58さんから頂戴した略図で、これを片手に
歩いてみました。YKR58さん、有難うございました。


1.別府の「伊藤別荘~赤銅御殿」の豪奢な画像です。(飯塚伊藤邸の写真より)


2、3、4 
1954年(昭和29年)、「別府赤銅御殿ホテル」が、営業を始めた際に建立された
白蓮の歌碑です。この除幕式の際には、白蓮・龍介夫妻が招かれた、ということです。
現在は、住宅街となった小公園の一角にあり、背景の高崎山や別府の風景を
見ながら、「あかがね御殿」の往時が偲ばれました。

背後の左手に高崎山です。




*この短歌は、1919年(大正8年)刊の短歌歌集「幻の華」巻頭に納められた
 白蓮の代表作です。
 「わたつみの沖に火もゆる火の国に我あり誰そ思われ人は」

上述の図書①②には、白蓮事件以後の事にも丁寧に触れられており、
長女宮崎 蕗苳さんの、別府や飯塚訪問など、広い心による
新たな交流もあり、感銘させられます。

5、6 また、すぐ近くには、昭和4年に建築された木造2階建ての聴潮閣
(=佐藤渓美術館)があります。丁度、紅葉した庭が綺麗でした。
聴潮閣は、2013年1月より佐藤溪美術館となり、放浪の詩人画家
佐藤渓(1918~1960)のコレクションが展示されています。




こちらもどうぞ

*筑豊の石炭王「伊藤伝右衛門邸」に行って来ました*

☆花子とアンと伊藤伝右衛門邸☆その1

☆花子とアンと伊藤伝右衛門邸☆その2

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◎晩秋から初冬へ~日の出大橋付近◎

2014年12月09日 23時13分27秒 | 日記
晩秋から初冬へ~日の出大橋付近
12月に入り、いよいよ本格的な寒さになって来ました。
いつも通いながら眺めている遠賀川、日の出大橋からの
風景も、晩秋から初冬の景色に変化していきます。
●長崎街道の遠賀川渡しのイチョウの黄葉と、落ち葉のじゅうたんです。
1.日の出大橋からの眺めです。


2.近くから眺めました。右手は、日の出大橋西です。


●日の出大橋から見た遠賀川河原の枯れすすきの模様です。
3.手前にシラサギが遊んでいます。


4.アップで撮りました。


5.枯れすすきのはるか南に、英彦山の山並みが珍しく
 くっきりと眺められました。


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