軍師官兵衛~「馬ケ岳城」から中津城へ
直方から行橋を経て、官兵衛の中津城(中津市)に向う途中、
黒田官兵衛が九州で最初の居城とした山城の「馬ケ岳城」を遠望しました。
「馬ケ岳城」は、豊前地区の「行橋市」と「みやこ町」の境界に位置する
標高216mの山城です。
この山城は、三原経基が942年に築城したとされ、戦国時代の
終わりまで、戦略上の重要拠点でした。
天下統一を目指した豊臣秀吉が島津勢力を抑えて九州を平定するために、
天正14年(1586年)に黒田官兵衛を先発隊として、九州に
派遣します。官兵衛は、小倉城、香春岳城などを攻略し、知略を
用いて、仲間勢力を拡大します。
そして、最初の居城を「馬ケ岳城」としております。
1.「馬ケ岳城」跡;勝山~豊津の中間地点より
頂上が平坦に見える右手(西側)の山が、本丸です。
左手の山が二の丸です。
2.麓の「大谷」交差点にある看板の登山マップです。
3.同じく、登山口の標識です。
4.同じく「行橋市刊行協会」の説明板です。
5.秀吉は、天正15年(1587年)に、大軍を率いて九州上陸を果たします。
そして、この「馬ケ岳城」に二泊しております。
●「豊臣秀吉の九州平定経路」;行橋市資料より引用
官兵衛は、東側ルートの秀長軍に加わっています。
6.かくして九州平定後、官兵衛は、秀吉より豊前国を与えられています。
●「黒田氏の所領(豊前6郡)」;.行橋市資料より引用
そして、天正16年(1588年)には、統治しやすい場所を考慮して、
中津に中津城を築き始め、 山城の「馬ケ岳城」より、移動します。
●黒田氏の支配に対して、地元領主たちの一揆が起き、特に
鎌倉時代からの有力領主であった、築城の城井谷に勢力を持つ
「宇都宮鎮房」との対立・不信感は大きいものがあります。
そして、一旦和議が成立したものの秀吉からの命令もあり、
苦渋の決断ということで、最終的に長政により、
「宇都宮鎮房」は中津城で謀殺され、一族も滅亡します。
この辺のことは、NHK大河ドラマ軍師官兵衛の
第37話「城井谷(きいだに)の悲劇」および
第38話「追い込まれる軍師」で、「宇都宮鎮房」との関係が描かれていました。
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◎こちらもどうぞ:
「みんなで選ぶ筑豊市民遺産 筑豊の誇り」
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直方から行橋を経て、官兵衛の中津城(中津市)に向う途中、
黒田官兵衛が九州で最初の居城とした山城の「馬ケ岳城」を遠望しました。
「馬ケ岳城」は、豊前地区の「行橋市」と「みやこ町」の境界に位置する
標高216mの山城です。
この山城は、三原経基が942年に築城したとされ、戦国時代の
終わりまで、戦略上の重要拠点でした。
天下統一を目指した豊臣秀吉が島津勢力を抑えて九州を平定するために、
天正14年(1586年)に黒田官兵衛を先発隊として、九州に
派遣します。官兵衛は、小倉城、香春岳城などを攻略し、知略を
用いて、仲間勢力を拡大します。
そして、最初の居城を「馬ケ岳城」としております。
1.「馬ケ岳城」跡;勝山~豊津の中間地点より
頂上が平坦に見える右手(西側)の山が、本丸です。
左手の山が二の丸です。
2.麓の「大谷」交差点にある看板の登山マップです。
3.同じく、登山口の標識です。
4.同じく「行橋市刊行協会」の説明板です。
5.秀吉は、天正15年(1587年)に、大軍を率いて九州上陸を果たします。
そして、この「馬ケ岳城」に二泊しております。
●「豊臣秀吉の九州平定経路」;行橋市資料より引用
官兵衛は、東側ルートの秀長軍に加わっています。
6.かくして九州平定後、官兵衛は、秀吉より豊前国を与えられています。
●「黒田氏の所領(豊前6郡)」;.行橋市資料より引用
そして、天正16年(1588年)には、統治しやすい場所を考慮して、
中津に中津城を築き始め、 山城の「馬ケ岳城」より、移動します。
●黒田氏の支配に対して、地元領主たちの一揆が起き、特に
鎌倉時代からの有力領主であった、築城の城井谷に勢力を持つ
「宇都宮鎮房」との対立・不信感は大きいものがあります。
そして、一旦和議が成立したものの秀吉からの命令もあり、
苦渋の決断ということで、最終的に長政により、
「宇都宮鎮房」は中津城で謀殺され、一族も滅亡します。
この辺のことは、NHK大河ドラマ軍師官兵衛の
第37話「城井谷(きいだに)の悲劇」および
第38話「追い込まれる軍師」で、「宇都宮鎮房」との関係が描かれていました。
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