私の直方の風景

私の住んでいる直方の好きな風景を紹介します。

◆「筑豊の近代化遺産講座」参加~第9回◆補足;堀三太郎邸 直方歳時館

2012年01月25日 23時23分51秒 | 郷土の歴史
◆「筑豊の近代化遺産講座」参加~第9回(H23年12月直方市)◆補足

郷土の誇りでもある堀三太郎の事を余りにも知らなくて、やや恥ずかしくなり、
早速、堀三太郎邸(=「直方歳時館」)に行ってみました。
(1)堀三太郎は、「子孫の為に美田を残さなかった鉱業家」として知られています。
また、貝島太助、麻生太吉、伊藤伝右衛門、安川敬一郎と並んで、筑豊の5大炭鉱主と
呼ばれています。

1867年(慶応3年)に新町の醤油屋を営んでいた家に生まれ、当初は
家業の醤油販売に従事している際に、炭坑主との縁があって見込まれたとのことです。

(2)堀三太郎は、太っ腹の性格で、経営能力を開花させ、近代の炭鉱開発に尽力し、
鉱業家として成功し、更に事業家としても手を広げて、巨万の富を手に入れています。
1889年(明治21年)の時、22歳という若さで小炭坑を持ち、鉱業家としてスタートし、
1910年(明治44年)には、海軍の御徳炭鉱経営を手掛けて成功しています。
その後、炭坑経営とともに、多様な鉱山を手掛けて、さらに製塩会社、セメント会社、
銀行、電力会社や旅客輸送業など、十数社に及ぶ事業家としても係わったそうです。

(3)色々とエピソードがあるようですが、大正4年には、後援会から担ぎ出されて、
衆議院選挙にも当選しています。
また、明治40年には、大規模な農園を造り、地域農業の振興に尽力し、その跡地が
現在の直方第3中学校になっている、とのことです。

(3)この「直方歳時館」は、元々 堀三太郎の住宅として、明治31年に建築されたものです。
堀三太郎は、72歳の昭和13年に、拡大した事業の整理を行い、昭和16年には、この豪華な
和風自邸を「子孫に美田を残さず」、ということで、維持費付きで直方市に寄贈した、とのことです。
この邸宅はその後、市の施設として、色々な用途に使用されたのち、平成9年に老朽化にて
解体復元されております。
特に、昭和16年からの30年間は、「中央公民館」として、3000組を超える市民の結婚式が挙げられた
そうです。
そして、現在は「直方歳時館」として、直方の四季折々の生涯学習施設として、活用されています。

堀三太郎自身は、昭和33年に92歳で天寿を終えています。

(4)資料;舌間信夫 「続 直方歴史物語」 直方市発行
「直方歳時館」パンフレット

「直方歳時館」の案内板です。
1


「直方歳時館」を訪問します。
2


「直方歳時館」の説明板です
3


階段を上り、玄関に向います。
4


堀三太郎邸(=「直方歳時館」)の施設平面図です。和室・展示スペース・板の間など、
個人あるいはグループで利用出来ます。
5


6,7




歳時館の玄関付近です

玄関から入った畳の部屋は、「市民ギャラリー」として利用されています。
私が訪問した際には、パッチワークの展示をやっていました。
8


庭園の色々な風景です。枯山水の庭園で、マキ、松、つつじ、モミジ、あじさい、サザンカなど
四季の味わいが楽しめます。庭園から東側を眺めると、近くに新町界隈、遠くに福智山山系が
望まれて、パノラマの風景が見渡せます。
9,10,11,12,13,14,15,



和室です。
16


玄関から福智山を眺めました。
17


1898年(明治31年)に建築された土蔵です。特徴的な「なまこ壁」が特徴です。
18


堀三太郎邸(=「直方歳時館」)の裏手は、JR福北ゆたか線が走っており、
その背後はかって、直方藩の館のあった、御館山です。左手は「直方市体育館」です。
19

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆「筑豊の近代化遺産講座」に参加して~第9回(H23年12月直方市にて)

2012年01月23日 23時59分07秒 | 郷土の歴史
「筑豊の近代化遺産講座」に参加して~第9回(H23年12月直方市にて)

明治の時代から日本の近代化の原動力となった石炭と鉄・・・・・・
その大きな原動力の一つは「筑豊の石炭」であり、「筑豊の誇りと新しい町づくり」との
主旨で月1度開催されている本講座に昨年4月から参加しており、第9回目になります。

さて、今回は、昨年12月に開催された内容を取り上げます。
主催は「直方市石炭記念館」で、直方市中央公民館(直方市津田町)第3学習室にて、
実施されました。

主なテーマは、『直方・鞍手地区における石炭産業の繁栄とそれがもたらした遺産、
とりわけ「石炭鉱業組合」や運輸あるいは鉱山教育などについて研究する』ということです。

講座内容は次の通りです。
1.長弘雄次先生(筑豊近代化遺産研究会 会長);
(1)「筑豊の石炭輸送に活躍した遠賀川水運と筑豊興業鉄道の盛衰」
(2)「直鞍地区を中心とした筑豊の近代化遺産」

2.牛嶋英俊先生;
(1)「旧堀三太郎邸と直方市新町・古町の近代建造物遺産群」

*************************************
◎まず、 長弘先生の
◎「筑豊の石炭輸送に活躍した遠賀川水運と筑豊興業鉄道の盛衰」の講義の模様です。
次のスライドには、明治中期~昭和初期の遠賀川水運で活躍した、底の浅い川船
「川ひらた(=五平田など)」の画像が見えます。
最盛期の明治20~30年代(1887~1897年代)には、8000隻もあったとの事です。
1


次のスライドには、明治24年(1891年)開業の筑豊興業鉄道の第1号の
「アメリカのボールトウイン社製(15t)機関車の写真が映っています。
まず、若松~直方間の24.8kmを走り、次第に水運にとって変わり、石炭輸送の主役となります。  
2


当時の遠賀川を渡る石炭列車と鉄道敷設による水運の「川ひらた船頭」の失業の悲哀の様子は、
ユネスコ世界記憶遺産に登録された「山本作兵衛記録画」~”舟頭と陸蒸気”によく表現されています。
3


なお、明治24年(1891年)開業時の直方駅は、現在の御館橋の下(多賀神社の一の鳥居:
~写真の御館橋の左側)付近にあったようです。
また、直方機関区は、最盛期の昭和33年には、機関車62両、職員約800名で門鉄管理局内で
第2の規模であった、との事です。次の写真は、私も良く知っている昭和40年頃の機関庫の画像です。
(→写真集「直方物語」より)
4


そして、講師の長弘先生と同じ気持ちですが、かって日本の石炭産出量の50%以上を供給し、
日本の近代化に大きな貢献をした筑豊炭田、そしてその真ん中に位置して輸送の中心となった
直方を大いに誇りに持って良い、と思う次第です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
◎次に、牛嶋先生の
◎「旧堀三太郎邸と直方市新町・古町の近代建造物遺産群」講義の模様です。
直方のいわゆる明治~大正ロマンを残す「直方レトロ地区」についての講義です。
画面上の説明図は、大正15年頃の直方中心部であった、殿町地区の略図です。
当時の貝島本社、直方町役場、元直方駅(多賀神社入口)など記されています。
5


(1)堀三太郎のこと
堀三太郎は、1889年(明治22年)に御徳炭鉱経営を手掛け、鉱業家としてスタートし、
その後、炭坑経営とともに、製塩会社、セメント会社、銀行や電力会社など、事業家としても
係わっている。昭和13年には、拡大した事業の整理を行い、昭和16年には、豪華な和風自邸を
維持費付きで直方市に寄贈した、とのことです。この邸宅はその後、市の施設として、色々な用途に
使用されたのち、平成9年に老朽化にて解体復元し、現在は「直方歳時館」として、直方市の
施設として、活用されています。
堀三太郎自身は、昭和33年に92歳で天寿を終えています。

(2)次に、「殿町の病院建築群」の事に関して、
殿町地区が医療の中心であったことの説明がありました。
・江浦耳鼻咽喉科医院(明治34年)、旧讃井小児科医院(大正11年)、
奥野医院(初代は大正2年→昭和16年再建、直方谷尾美術館本館)
また、「殿町の町屋群」についても、構造やデザインの説明がありました。
・石原商店本社(大正15年)、前田園本店殿町店(大正15年)、
6


(3)「古町の近代建築」に関して
・直方谷尾美術館別館(アートスペース谷尾)(大正2年、旧福岡銀行南支店)
旧直方駅(明治43年→⇒H23.10に解体)
7


~~~~~~~~~~~~~ 続く ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◎長崎街道レトロコースまち歩き ◎その7~直方市尾崎口から貴船神社、岩鼻界隈

2012年01月19日 22時57分55秒 | 郷土の歴史

◎長崎街道レトロコースまち歩き ◎その7~直方市尾崎口から貴船神社、岩鼻界隈

1 まず、直方藩があった頃と現在の直方の状況を再度掲載します。


2.3 新町を南下して、尾崎口から長崎街道を小竹方面に向います。
尾崎口の説明板です。



4.5-1 尾崎口から狭い旧長崎街道を通って、福北ゆたか線(筑豊本線)「第2尾崎踏切」
を渡ります。



5-2 福北ゆたか線(筑豊本線)直方駅方向を見ると、御館山と直方市体育館が遠望出来ます。


6 踏切を渡って、振り返ると福智山が見えました。
第2尾崎踏切の付近から、手前の福北ゆたか線(筑豊本線)と、奥側の平成ちくほう鉄道伊田線が、
分岐します。


7.8 貴船神社
階段を登って参詣しました。

 

9 かって、川に突き出た難所の岩山であった岩鼻です。写真は、「第2岩鼻踏切」です。
町年寄りの庄野仁右衛門は、それまで長崎街道の本道が遠賀川の東側対岸を通っていたのを、
町中に移動させることを藩に申し出し、この「岩鼻」の岩山開削などの難工事を行い、
町中引き入れに尽力し、1736年(元文元年)以降も、直方の町が、長崎街道の町として
栄えるようになったのです。
シーボルトも長崎から出発して、この道を1826年(文政9年)に通過し、江戸に向かっております。


10 福北ゆたか線(筑豊本線)の電車が走行しています。
 「第2岩鼻踏切」の右手には、福智山が見えます。


************************************

そして、長崎街道は、小竹・飯塚宿方面へと南下します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◎長崎街道レトロコースまち歩き ◎その6~直方市新町界隈

2012年01月17日 23時39分54秒 | 郷土の歴史
◎長崎街道レトロコースまち歩き ◎その6~直方市新町界隈

1720年(享保5年)、54歳での第4代黒田長清の死により、直方藩は福岡藩に合併され、
約100年にわたる支藩としての歴史を閉じ、家臣も移動しています。
これにより、直方の町が寂れる恐れが生じた。そこで、町の振興策として、町年寄りの庄野仁右衛門は
それまで長崎街道の本道が遠賀川の東側対岸を通っていたのを、町中に移動させることを藩に申し出し
「岩鼻」の岩山開削などの難工事を行い、町中引き入れに尽力しました。
そして、1736年(元文元年)以降も、引き続き直方の町は、長崎街道の町として栄えるのです。

直方藩があった頃と現在の直方の状況を重ね合わせてみました。
こうして見ると、江戸の時代に、あのシーボルトや伊能忠敬、大名行列、将軍献上用の象さんなどが
南から尾崎口~新町~殿町~古町~遠賀川の渡し場へと、直方の町を歩いた光景を思い浮かべて、
タイムスリップすることができます。 (^_^)/~



直方が城下町で会った頃の、町人の居住地区と武家屋敷の境界は、現在の新町2丁目
付近にあり、境界は東西方向の水路(濠)になっていたとのことです。
2

3


次に長崎街道の館をイメージ出来る待合ホームがあり、平成13年に設置された新しい駅である
『平成ちくほう鉄道の「南直方御殿口駅」』に行ってみます。
4

5


「南直方御殿口駅」のホームです。奥は直方駅方面です。左手に御館山の「直方市体育館」が
見えます。
6


新町の長崎街道に沿って歩くと、今でも居住されていて、古い歴史を感じさせる格式のある建築物が
見られます。
まず、「うだつ」のある家~「山本邸」です。明治2年(1869年)建築とのことです。
「うだつ」は、隣家との境にあり、本来は防火壁の役目をするのであるが、「うだつ設置」には財力が
必要であり、このことから転じて「ぱっとしない=うだつが上がらない」になった、ようです。
7

8


次いで、「御会所跡(催事や集会)」の、香原邸です。文久3年(1863年)建築とのことです。
軒先の鬼瓦は、上野焼とのことで、厳粛な格式を保っています。
9-1


上野焼の鬼瓦です。
9-2


香原邸の右手郵便ポストのところに「直方藩 御会所」の白文字が見えます。
10


「旧日若酒造」~銘酒「日若」です。現在は操業していませんが、外観の造りや赤煉瓦がレトロな
雰囲気を醸し出しています。
11


お酒の好きな私は、念の為、この銘柄のお酒がないか、前にある歴史のありそうな酒屋さんを
覗いてみましたが、残念ながら、有りませんでした。
「旧日若酒造」は、酒造りを30年以上前に休業しているようです。(^u^)
12


13


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◎「長崎街道レトロコースまち歩き」続き~◎その5(2);「江戸時代~直方藩のこと」

2012年01月15日 21時59分57秒 | 郷土の歴史

◎「長崎街道レトロコースまち歩き」続き~◎その5(2);「江戸時代~直方藩のこと」
*今迄、気にも留めませんでしたが、直方市を360度見渡せる絶景ポイントが、直方市役所の
8階にあります。
そこで、直方市役所から見た現在の市街地写真と、前回報告の、
「直方惣郭図(そうかくず;江戸時代元禄六年~1693年に書かれたとされる)」に基づく配置図とを、
対比して示します。





ところで、直方藩の第4代藩主黒田長清は、家臣を大事にする有能な政治家であり、
福岡本藩の政治を見たり、長崎勤番を務めたり、超多忙な中で、信心深く神を敬い、
更には風流を解する文人大名でもあり、直方藩での在位(1688年~1720年)の32年間の
足跡には、名君として、色々と特筆する事がありました。
参考資料を調べると、休み暇なく東奔西走したことがうかがえます。

・藩内には、色々な文芸活動がおこり、「有井浮風(ふふう)」「諸九尼(しょきゅうに)」などの俳人が
生まれ育っています。
 (→⇒参照 2011年12月04日   ▲直方の晩秋~初冬の風景 ▲(2)「隋専寺」)

・長清公は、館から遠く離れた福智山の麓にある内が磯ダムそばの現在の「鳥野神社」に参詣され
桜見物や和歌を詠んでいます。また、頓野の近津神社にも、参詣し紅葉を楽しんでいます。
→⇒そこで、早速、「鳥野神社」や「近津神社」に初詣も兼ねて、お参りしてきました。
*直方市役所の8階より、東側にある福智山系に抱かれた「鳥野神社」や「近津神社」の方向です。
3


(1)内が磯ダムから「鳥野神社」へ参拝します。
内が磯ダム(1953(昭和28)年完成)から、福地地区の集落を眺めると、棚田的に豊かな冬の水田が
段々に広がっています。
4


内が磯ダムの奥の谷あいには、福智山ダム(2003(平成15)年完成)が小さく白く見えます。
5


内が磯ダム湖の前の道路から、約150段の参道ですが、石段は苔や丸みの状態から、かなり古い
感じで、いにしえの昔が偲ばれ、直方藩黒田長清公になったつもり?で登りました。
6-1

鳥野神社のご由緒です。
6-2


下から見上げる参道は幅広く、左右に生い茂る木々がまた歴史を感じさせました。
7


拝殿には、時代を感じさせる色褪せた絵馬が飾ってあります。
8


絵馬に添えられた文字を読むと、①左図;文政十三年(1830年)、
           ②右図;嘉永7年(1854年)などがありました。
9-1


本殿の屋根にも装飾が施され、しばし歴史を感じました。ひんやりと鬱蒼とした森の環境の中で、
参道や神社の管理も、きちんとされており、清々しい雰囲気でお参り出来ました。
9-2



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(2)「近津神社」へ、
次に頓野の「近津神社」に参詣しました。
朱色の鮮やかな近津川に架かる太鼓橋を渡り、大きなクスノキが杜を形成する境内に入ります。
10


拝殿です。
11-1


近津神社のご由緒です
11-2


近津神社の絵馬です。真ん中の絵は明治4年と書かれています。
12


・近津神社の境内には、名君の直方藩主黒田長清公の歌碑があります。
「千加津川きしのもみぢばこころあらばまた来む秋の色なわすれそ」
13


「千加津川=近津川  きしのもみぢ・・・・」がいずれかわかりませんが・・・
もしかすると近津川の川ふちにあるこのモミジが、その子孫なのかも知れません(^_^)/~
14


**参考資料;①「直方歴史ものがたり」舌間信夫文 直方市発行(1996年~平成8年)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◎「長崎街道レトロコースまち歩き」続き~◎その5(1);「江戸時代~直方藩のこと」

2012年01月05日 23時15分51秒 | 郷土の歴史

◎「長崎街道レトロコースまち歩き」続き~◎その5(1);「江戸時代~直方藩のこと」

徳川時代の直方には、福岡藩の分家の東蓮寺藩(後に直方藩)が設置されています。
1 長崎街道やお多賀さんに関連して、「江戸時代~直方藩のこと」について、
  眺めてみました。
 なお、参考資料から推定した現在と過去の位置関係を次の図に記入しました。

2



1.初代藩主は、1623年に福岡藩主となった黒田長政の4男の高政(たかまさ)で4万石を
与えられ、東蓮寺藩として、現在の殿町の双(雙)林院辺りに館を構えています。
3 殿町の双(雙)林院です。

4


2.2代目は、之勝(ゆきかつ)です。
3.3代目は、長寛(ながひろ)で、任期途中の1675年に、東蓮寺藩⇒直方藩に改名しています。

4.4代目は、1688年に着任した長清(ながきよ)で、5万石に加増され、3年後の1691年(元禄5年)に
館を、現在の双(雙)林院の辺りから、妙見山(=御館山)へ移しています。
5 直方城址です。背後は多賀公園になっています。(=御館山)

6


この時に、妙見山山上にあった妙見社は、移設され現在の多賀神社となっています。
多賀神社創建の際の一の鳥居は、藩主黒田長清創建となっており、その文字が刻印されています。
(→⇒参照 2012年01月02日 ◎◎謹賀新年;平成24年◎◎~多賀神社等の初詣)
そして、1720年(享保5年)に54歳での長清の死により、直方藩は福岡藩に合併され、
約100年にわたる支藩としての歴史を閉じております。

7 殿町より、御館山(直方城址、多賀公園)を望む。手前は福北ゆたか線の電車です。
左の丘の上は直方市体育館です。
(余談ですが;直方市体育館は、綾瀬はるか主演の「おっぱいバレー」のロケ地にもなっています。
 →⇒参照 2011年06月08日 閑話休題;筑豊電鉄の風景「おっぱいバレー」映画登場に関して)


8 御館山(直方城址、多賀公園)より、殿町、新町北公園辺り(陣屋城下町)を望みます。
真ん中左手のひときわ大きな屋敷は、近代炭抗開発に尽力した、堀三太郎の邸宅で、
現在は「直方歳時館」として利用されています。
遠くに福智山が望まれます。
また、手前のディーゼル車は、平成ちくほう鉄道の「ちくまる号」です。


**参考資料;①「直方歴史ものがたり」舌間信夫文 直方市発行(1996年~平成8年)
         ②直方城址の案内説明板

~~~~続く~~~~~
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★閑話休題~多賀神社参道の袴線橋(転車台転用)のこと★

2012年01月03日 22時56分11秒 | 郷土の歴史
閑話休題~多賀神社参道の袴線橋(転車台転用)のこと

私自身が生まれ育った直方の知識も浅い中、直方再発見くらいの軽い気持ちで
直方市内をウロウロしていますが、多賀神社や長崎街道のあたりを歩いている際に、
石炭記念館/多賀神社への跨線橋に旧国鉄機関区の転車台が使われていることを知りました。
今迄何度も見ていたはずなのに、認識出来ていなかったのは、自分ながら呆れますが、
遅まきながら分かって良かったです。
この転車台がどこの転車台を転用したのか定かではありませんが、私の高校生時代に
通学の際、御館橋からいつも見ていた、機関区の転車台や蒸気機関車を思い起こさせ
大変懐かしくそして嬉しく思い出されます。

1蒸気機関車の機関庫や転車台のある風景~旧国鉄直方駅→⇒今は電車区です。
これは、直方駅新駅舎開業時のお知らせポスターです。私が通勤時に黒崎駅構内にも貼って
ありました。このポスターは、最近取り壊された、旧直方駅構内に掲示されていたものです。
また、開業式典でダイジェスト版チラシが配られました。
ポスターは、私のお気に入りでしたので、以下、切り取って掲載しました。
(→⇒参照 2011-05-03  !! 直方駅舎が変わりました !! その6~4月29日新駅舎開業)
写真の左端が、機関庫や転車台です。


直方文化連盟発行の写真集「直方物語」にも、これらの懐かしい画像が掲載されています。


2 多賀神社第一参道から見た、袴線橋(転車台転用)
平成筑豊鉄道の400型(平筑初期カラー号)ディーゼル車が走ります。
右奥は「直方市石炭記念館」です。


3 「直方市石炭記念館」/「多賀神社」への参道です。跨線橋は、
まさしく転車台が転用されています。
その下を、平成筑豊鉄道のクラッシックなチョコレート色の500型(へいちく浪漫号)
ディーゼル車が走ります。


3-2


4 袴線橋(転車台転用)です。下に見えるのは、「直方市石炭記念館」です。


5 「直方市石炭記念館」です。看板の所に鎮座するSLは、大正14年から昭和51年まで
貝島大之浦炭坑で52年間働き続けたという、SLファンには嬉しい
「コペル32号蒸気機関車」です。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◎◎謹賀新年;平成24年◎◎~多賀神社等の初詣

2012年01月02日 23時20分29秒 | 郷土の歴史
新年明けましておめでとうございます。
例年は、近くの山に登山(大抵は八幡西区の皿倉山~標高622m、に初日の出を期待して登頂)
するのですが、今年の正月は、直方市内のあちらこちらの神社初詣をすることにしました。

元日は、やや時雨れ模様の中、直方の長崎街道沿いにある、
「多賀神社」→⇒「須賀神社」→⇒「貴船神社」の3社にお参りしました。
そして3社詣りのその足で、遠賀川の東側の村にある、「羽高神社」→⇒「藤野神社」にも
お参りしました。

2日には、「近津神社」「阿高神社」「王子神社」の3社詣りをしました。
このうち、「阿高神社」は長崎街道沿いの感田駅(筑豊電鉄)のそばにあります。
まず、「多賀神社~お多賀さん」の初詣の模様です。



本年も宜しくお願い致します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
以下、[多賀神社の初詣]の様子です。

1 長崎街道の一角、多賀神社の一の鳥居から参道を上ります。
*左右、一対の大灯篭は、石工は「直方町 山本源三」で、寄進者は炭坑王の
「貝島家一族9名」の連名になっています。
(ご参照→⇒2011.12.17「長崎街道レトロコースまち歩き」続き~その4)


2-1 また、鳥居の方は、1707年(宝永4年)、江戸時代、福岡藩の支藩である
直方藩四代藩主の黒田長清が寄進したものです。
鳥居の額は青銅製で「多賀大神」と書かれています。


2-2 鳥居の裏側の文字と額の文字~”黒田長清建立”の文字が見えます


3



4 「多賀神社御由緒」です。


5 春秋の大祭の時、初詣の際に出る、今も懐かしい参道の出店です。
私の大好きな「渥美清さん演ずる”寅さん”」が出そうなこういう縁日風の雰囲気が好きです。
春秋の大祭の時には、直方駅から、お多賀さんまで、ずらりと店が並びます。
最近のお祭りでは、少し人出も少なくなり、さびしいようですが・・・・
・・・内輪話;年齢がばれそうですが、「男はつらいよ」は、48作を殆ど見ました。
   本家の葛飾柴又帝釈天や浅草にも、もちろん何度か参上しています。


6 



7 「神門」です。


8 本殿でみんなの健康と幸せをお祈りします。


9 社務所でおみくじを引きます。今年は良いことがありますように・・・・


10 参道を降ります。向こうに見えるのは、直方駅方面です。緑色のアーチは御館橋です。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする