◎初詣~近津神社
次は近津神社です。
1.近津川に架かる鮮やかな朱色の太鼓橋を渡ります。
2.鳥居の下を通り、階段を上ります。
3.2番目の鳥居をくぐって本殿に向います。
4.社殿の前にある御由緒です。
5.本殿でお参りします。
6.本殿の黒田家ゆかりの文化財として、絵馬「黒田二十五騎図」があります。
なお、「黒田二十五騎図」は、福岡藩初代藩主黒田長政とともに、
有力家臣24名を配した画題で、藩内各地に50点以上残されている、とのことです。
ほとんどは縦長構図ですが、近津神社の絵馬は、横長の画面で描かれていて、
珍しい、との事です。なお、左端の一番上に直方鷹取山城主、ご存知母里太兵衛です。
7.なお、直方は、江戸時代の約100年間(1623~1720年)に福岡藩の支藩が
あり、東蓮寺藩(殿町;4万石)、直方藩(御館山;5万石)と称していました。
”軍師官兵衛”~福岡藩の黒田如水以来の系譜を次に示します
(→⇒「直方」歴史紀行より抜粋しました)
8.同じく近津神社の境内には、直方藩第4代藩主黒田長清公の歌碑があります。
「千加津川きしのもみぢばこころあらばまた来む秋の色なわすれそ」
黒田長清公(1688~1720)は、文人としても政治家としても有能で、家臣を大切にし、
善政を行い、福岡本藩の政治を幅広くバックアップしたり、和歌などの風流の心得もあり、
名君の誉れが高かったとの事です。
上記の句からも、秋には、近津神社に参詣し、紅葉を楽しんだことが伺えます。
黒田長清公が育てた直方の風土が、後の有井浮風や諸九尼などの俳人が育つ
土壌となります。
なお、歌碑のはるか向こうには、福智山と並んで、母里太兵衛が城主を勤めた
鷹取山が見えます。
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◎こちらもどうぞ:
「みんなで選ぶ筑豊市民遺産 筑豊の誇り」
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次は近津神社です。
1.近津川に架かる鮮やかな朱色の太鼓橋を渡ります。
2.鳥居の下を通り、階段を上ります。
3.2番目の鳥居をくぐって本殿に向います。
4.社殿の前にある御由緒です。
5.本殿でお参りします。
6.本殿の黒田家ゆかりの文化財として、絵馬「黒田二十五騎図」があります。
なお、「黒田二十五騎図」は、福岡藩初代藩主黒田長政とともに、
有力家臣24名を配した画題で、藩内各地に50点以上残されている、とのことです。
ほとんどは縦長構図ですが、近津神社の絵馬は、横長の画面で描かれていて、
珍しい、との事です。なお、左端の一番上に直方鷹取山城主、ご存知母里太兵衛です。
7.なお、直方は、江戸時代の約100年間(1623~1720年)に福岡藩の支藩が
あり、東蓮寺藩(殿町;4万石)、直方藩(御館山;5万石)と称していました。
”軍師官兵衛”~福岡藩の黒田如水以来の系譜を次に示します
(→⇒「直方」歴史紀行より抜粋しました)
8.同じく近津神社の境内には、直方藩第4代藩主黒田長清公の歌碑があります。
「千加津川きしのもみぢばこころあらばまた来む秋の色なわすれそ」
黒田長清公(1688~1720)は、文人としても政治家としても有能で、家臣を大切にし、
善政を行い、福岡本藩の政治を幅広くバックアップしたり、和歌などの風流の心得もあり、
名君の誉れが高かったとの事です。
上記の句からも、秋には、近津神社に参詣し、紅葉を楽しんだことが伺えます。
黒田長清公が育てた直方の風土が、後の有井浮風や諸九尼などの俳人が育つ
土壌となります。
なお、歌碑のはるか向こうには、福智山と並んで、母里太兵衛が城主を勤めた
鷹取山が見えます。
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