「若松高塔山あじさい祭り」JRウオーキング参加~その7(若戸渡船に乗船)です。
「高塔山あじさい祭り」の、「JRウオーキング」は、出発地点の若松駅に帰着し、
ゴールインです。ウオーキングの担当の方からゴール印を押してもらいました。
さて、せっかく若松まで来たので、急きょ若戸渡船に乗船することにしました。
そして、洞海湾を渡って戸畑駅経由で直方に帰る事にしました。
私は、風景としては、ここ10年くらい仕事関連で、若松区や戸畑区あたりに出掛けて、
若戸大橋や若戸渡船を良く目にし、この風景がお気に入りなのですが、
実は、若戸渡船には幼い頃(小学生くらい)に乗った記憶しかありません。
さて、参考のため、北九州市のHPより、「若戸渡船」に関する記事を引用すると・・・・
**************************************
1.若戸渡船
若松と戸畑の直線距離はわずか400m、、明治43年9月若松・戸畑両町間で
前後部に推進器と舵を備えた船を大阪小野鉄工所に発注し、明治44年4月竣工。
『第一河と丸』と命名し、就航させた。これが日本で渡船に汽船を使用した最初である。
(1)特記
●明治44年から昭和44年までの58年間モクモクと煙をはき、喜びと悲しみを積んで
若戸間を走った情緒豊かな蒸気船も『第六わかと丸』を最後に姿を消すこととなる。
●第十わかと丸 昭和25年8月から昭和53年3月就航 総トン数 73.42トン 定員168名 ..
(2)現在の運航体制は、
①くき丸 平成12年1月就航 総トン数 19トン 定員 110名
②第十七わかと丸 昭和62年3月就航 総トン数 43トン 定員 170名
小型船舶に改良された新生『くき丸』による終日1隻運航に運航体制が変更となり、
『第十七わかと丸』は現在、平日の朝のラッシュ時にのみ運航され
、『くき丸』の待機船として位置づけられる。
2.その他に、貨物渡船(フェリー)が運航されていた。
自動車の発達普及、貨物輸送量の激増は渡船事業の上にも多大な影響を及ぼした。
特に若松市は地形上陸送の便が悪く、北九州各都市との自動車貨物輸送は
折尾町(現在の八幡西区折尾)を迂回するため、大変不便なものであった。
昭和7年3月に最新式ディーゼル機関で前後部に推進器と舵を備えた貨物船
『第八・第九わかと丸』を建造し、貨物船専用桟橋を昭和9年3月に完成させ、
28日より運航を開始した。
●第八わかと丸 昭和7年3月から昭和37年9月就航 総トン数 43.34トン
日本最初のカーフェリー .
→⇒次の写真ご参考(北九州市のHPより)
言うに及ばず、北九州各都市間の貨物輸送上、一大変革をきたし、若戸の名物となり、
視察、見学のために各都市からの訪客は相当な数に上ったと記されている。
●第十一わかと丸 昭和28年から昭和37年9月就航 総トン数 53.35トン ..
またこの貨物船は、
通勤通学の早朝のラッシュ時及び若松恵比寿祭の多客時には客船の代用として活躍し
渡船のドル箱的存在であったが、若戸大橋の完成により、昭和37年9月27日に
廃止となった。
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以上、引用した記事のうち、●印の船舶が、私の幼い頃の記憶の片隅にあります。
これらの渡船のおぼろげな映像が、私によみがえってきます。
そして、日本が元気印の昭和37年若戸大橋の完成以降も、
若戸渡船と若戸大橋が対になって、私にとって親しいものとして、感じられます。
1.若松渡船場
.
2.若松渡船場内;乗船運賃は 100円です。
3.戸畑行きの「くき丸」に乗船
4.若松渡船場を後に出発
5.戸畑渡船場へ向かう「くき丸」
6.若戸大橋下を交差します。若松方面、高塔山を臨みます。
7.戸畑渡船場到着、若松から5分程度です!! 下船します。
8.戸畑渡船場にて、右手奥に乗ってきた「くき丸」と、左手には「第17わかと丸」です。
9.戸畑渡船場です
10.戸畑渡船場での時刻表です。
**「若松高塔山あじさい祭り」JRウオーキング参加~このシリーズ終了です。**
「高塔山あじさい祭り」の、「JRウオーキング」は、出発地点の若松駅に帰着し、
ゴールインです。ウオーキングの担当の方からゴール印を押してもらいました。
さて、せっかく若松まで来たので、急きょ若戸渡船に乗船することにしました。
そして、洞海湾を渡って戸畑駅経由で直方に帰る事にしました。
私は、風景としては、ここ10年くらい仕事関連で、若松区や戸畑区あたりに出掛けて、
若戸大橋や若戸渡船を良く目にし、この風景がお気に入りなのですが、
実は、若戸渡船には幼い頃(小学生くらい)に乗った記憶しかありません。
さて、参考のため、北九州市のHPより、「若戸渡船」に関する記事を引用すると・・・・
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1.若戸渡船
若松と戸畑の直線距離はわずか400m、、明治43年9月若松・戸畑両町間で
前後部に推進器と舵を備えた船を大阪小野鉄工所に発注し、明治44年4月竣工。
『第一河と丸』と命名し、就航させた。これが日本で渡船に汽船を使用した最初である。
(1)特記
●明治44年から昭和44年までの58年間モクモクと煙をはき、喜びと悲しみを積んで
若戸間を走った情緒豊かな蒸気船も『第六わかと丸』を最後に姿を消すこととなる。
●第十わかと丸 昭和25年8月から昭和53年3月就航 総トン数 73.42トン 定員168名 ..
(2)現在の運航体制は、
①くき丸 平成12年1月就航 総トン数 19トン 定員 110名
②第十七わかと丸 昭和62年3月就航 総トン数 43トン 定員 170名
小型船舶に改良された新生『くき丸』による終日1隻運航に運航体制が変更となり、
『第十七わかと丸』は現在、平日の朝のラッシュ時にのみ運航され
、『くき丸』の待機船として位置づけられる。
2.その他に、貨物渡船(フェリー)が運航されていた。
自動車の発達普及、貨物輸送量の激増は渡船事業の上にも多大な影響を及ぼした。
特に若松市は地形上陸送の便が悪く、北九州各都市との自動車貨物輸送は
折尾町(現在の八幡西区折尾)を迂回するため、大変不便なものであった。
昭和7年3月に最新式ディーゼル機関で前後部に推進器と舵を備えた貨物船
『第八・第九わかと丸』を建造し、貨物船専用桟橋を昭和9年3月に完成させ、
28日より運航を開始した。
●第八わかと丸 昭和7年3月から昭和37年9月就航 総トン数 43.34トン
日本最初のカーフェリー .
→⇒次の写真ご参考(北九州市のHPより)
言うに及ばず、北九州各都市間の貨物輸送上、一大変革をきたし、若戸の名物となり、
視察、見学のために各都市からの訪客は相当な数に上ったと記されている。
●第十一わかと丸 昭和28年から昭和37年9月就航 総トン数 53.35トン ..
またこの貨物船は、
通勤通学の早朝のラッシュ時及び若松恵比寿祭の多客時には客船の代用として活躍し
渡船のドル箱的存在であったが、若戸大橋の完成により、昭和37年9月27日に
廃止となった。
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以上、引用した記事のうち、●印の船舶が、私の幼い頃の記憶の片隅にあります。
これらの渡船のおぼろげな映像が、私によみがえってきます。
そして、日本が元気印の昭和37年若戸大橋の完成以降も、
若戸渡船と若戸大橋が対になって、私にとって親しいものとして、感じられます。
1.若松渡船場
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2.若松渡船場内;乗船運賃は 100円です。
3.戸畑行きの「くき丸」に乗船
4.若松渡船場を後に出発
5.戸畑渡船場へ向かう「くき丸」
6.若戸大橋下を交差します。若松方面、高塔山を臨みます。
7.戸畑渡船場到着、若松から5分程度です!! 下船します。
8.戸畑渡船場にて、右手奥に乗ってきた「くき丸」と、左手には「第17わかと丸」です。
9.戸畑渡船場です
10.戸畑渡船場での時刻表です。
**「若松高塔山あじさい祭り」JRウオーキング参加~このシリーズ終了です。**