私の直方の風景

私の住んでいる直方の好きな風景を紹介します。

「若松高塔山あじさい祭り」JRウオーキング参加~その7(若戸渡船に乗船)

2011年07月28日 23時16分07秒 | 旅行
「若松高塔山あじさい祭り」JRウオーキング参加~その7(若戸渡船に乗船)です。

「高塔山あじさい祭り」の、「JRウオーキング」は、出発地点の若松駅に帰着し、
ゴールインです。ウオーキングの担当の方からゴール印を押してもらいました。


さて、せっかく若松まで来たので、急きょ若戸渡船に乗船することにしました。
そして、洞海湾を渡って戸畑駅経由で直方に帰る事にしました。
私は、風景としては、ここ10年くらい仕事関連で、若松区や戸畑区あたりに出掛けて、
若戸大橋や若戸渡船を良く目にし、この風景がお気に入りなのですが、
実は、若戸渡船には幼い頃(小学生くらい)に乗った記憶しかありません。

さて、参考のため、北九州市のHPより、「若戸渡船」に関する記事を引用すると・・・・

**************************************
1.若戸渡船
若松と戸畑の直線距離はわずか400m、、明治43年9月若松・戸畑両町間で
前後部に推進器と舵を備えた船を大阪小野鉄工所に発注し、明治44年4月竣工。
『第一河と丸』と命名し、就航させた。これが日本で渡船に汽船を使用した最初である。
(1)特記
●明治44年から昭和44年までの58年間モクモクと煙をはき、喜びと悲しみを積んで
若戸間を走った情緒豊かな蒸気船も『第六わかと丸』を最後に姿を消すこととなる。
●第十わかと丸 昭和25年8月から昭和53年3月就航 総トン数 73.42トン 定員168名 .. 

(2)現在の運航体制は、
①くき丸 平成12年1月就航 総トン数 19トン 定員 110名
②第十七わかと丸 昭和62年3月就航 総トン数 43トン 定員 170名
小型船舶に改良された新生『くき丸』による終日1隻運航に運航体制が変更となり、
『第十七わかと丸』は現在、平日の朝のラッシュ時にのみ運航され
、『くき丸』の待機船として位置づけられる。

2.その他に、貨物渡船(フェリー)が運航されていた。
自動車の発達普及、貨物輸送量の激増は渡船事業の上にも多大な影響を及ぼした。
特に若松市は地形上陸送の便が悪く、北九州各都市との自動車貨物輸送は
折尾町(現在の八幡西区折尾)を迂回するため、大変不便なものであった。
昭和7年3月に最新式ディーゼル機関で前後部に推進器と舵を備えた貨物船
『第八・第九わかと丸』を建造し、貨物船専用桟橋を昭和9年3月に完成させ、
28日より運航を開始した。

●第八わかと丸 昭和7年3月から昭和37年9月就航 総トン数 43.34トン 
日本最初のカーフェリー .
→⇒次の写真ご参考(北九州市のHPより)


言うに及ばず、北九州各都市間の貨物輸送上、一大変革をきたし、若戸の名物となり、
視察、見学のために各都市からの訪客は相当な数に上ったと記されている。
●第十一わかと丸 昭和28年から昭和37年9月就航 総トン数 53.35トン .. 
またこの貨物船は、
通勤通学の早朝のラッシュ時及び若松恵比寿祭の多客時には客船の代用として活躍し
渡船のドル箱的存在であったが、若戸大橋の完成により、昭和37年9月27日に
廃止となった。
*******************************************

以上、引用した記事のうち、●印の船舶が、私の幼い頃の記憶の片隅にあります。
これらの渡船のおぼろげな映像が、私によみがえってきます。
そして、日本が元気印の昭和37年若戸大橋の完成以降も、
若戸渡船と若戸大橋が対になって、私にとって親しいものとして、感じられます。

1.若松渡船場

.
2.若松渡船場内;乗船運賃は 100円です。


3.戸畑行きの「くき丸」に乗船


4.若松渡船場を後に出発


5.戸畑渡船場へ向かう「くき丸」


6.若戸大橋下を交差します。若松方面、高塔山を臨みます。


7.戸畑渡船場到着、若松から5分程度です!! 下船します。


8.戸畑渡船場にて、右手奥に乗ってきた「くき丸」と、左手には「第17わかと丸」です。


9.戸畑渡船場です


10.戸畑渡船場での時刻表です。


**「若松高塔山あじさい祭り」JRウオーキング参加~このシリーズ終了です。**


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「若松高塔山あじさい祭り」JRウオーキング参加~その6

2011年07月24日 23時42分54秒 | 旅行
「若松高塔山あじさい祭り」JRウオーキング参加~その6です。

「高塔山あじさい祭り」の、「JRウオーキング版」のルートに「火野葦平旧居」が
組み込まれており、私もその旧居「河伯洞」を訪問しました。
現在旧居は北九州市指定文化財になっております。

1.JRウオーキングルート図を示します。


旧居「河伯洞」は、若松駅から5分程度の高塔山の麓にあります。
「河伯洞」の名前は、河童の住む家という意味で、火野葦平が河童をこよなく
愛したことから名づけられた、ということです。
高塔山の頂上にある「河童地蔵」を題材にして、小説「石と釘」も書いています。

2.旧居「河伯洞」の玄関口です。


火野葦平は、昭和15年(34歳)~昭和35年(53歳)まで、この「河伯洞」で
大半を過ごした、との事です。そして名作を生み出しています。
なお、火野葦平が全国にその名を知らしめたのは、昭和13年に、「糞尿譚」で
第6回芥川賞を受賞したことにより、一気に有名になっております。

3.4玄関口にある「河伯洞」の案内板です。



5.玄関からの上り口です。


6.7色々な遺品が展示された居間です。




8.良く手入れされた綺麗な庭です。


9.居間です。葦平の好きな河童の工芸作品が並べられています。


10.2階の葦平の作家としての仕事部屋です。ここで数多くの小説が生み出されました。


11.2階の窓から、高塔山を覗いてみました。


12.懐かしい「かまど」がありました。私の小さい頃には、
我が家もこんな感じの「かまど」でした。



[補足]~パンフレットからの招待
13,14火野葦平旧居「河伯洞」内のパンフレットです。コンパクトに分かりやすく、
紹介されているので、引用しました。



15,16同じく、「火野葦平 散歩道マップ」、若松区作成パンフレットです。
同じく引用しました。


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「若松高塔山あじさい祭り」JRウオーキング参加~その5

2011年07月23日 23時57分12秒 | 旅行
「若松高塔山あじさい祭り」JRウオーキング参加~その5です。

いよいよ、「高塔山あじさい祭り」の、「JRウオーキング版」です。
1.JRウオーキングルート図です


2.H23年度の「若松あじさい祭り」のカラフルなパンフレットです。
イベントの花弁が美しくデザインされています。


3.高塔山公園入り口~(この付近は「佐藤公園」です。白山神社が近くです)


4.標高124mの高塔山の中腹にある「高塔山公園」の大きな看板です。
この看板は、高塔山の目印となっており、対岸の戸畑からも見えます。
イラストのカッパくんたちが歓迎してくれます。


5.中腹の看板付近から、若戸大橋方面を覗いてみました。
洞海湾など一望に見えて、私のお気に入りスポットでもあります。


6.いよいよ展望台の入り口です。右手に「高塔山公園」の入り口表示がみえます。


7.

8.頂上広場でのイベントです。あいにくの雨の中、生徒たちがコーラスを歌っています。


9.展望台の傍らにある「河童地蔵さん」です。


10.展望台から、洞海湾奥を眺めました。皿倉山とその南(右手)の権現山が、仲良く並んで聳えています。


11.あじさい越しに、若戸大橋を眺めてみました。


12.おなじみの「河童地蔵さん」です。


13.右手後方は、高塔山山頂の駐車場です。


14.高塔山展望台のパノラマ説明版の一部です。



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「若松高塔山あじさい祭り」JRウオーキング参加~その4

2011年07月22日 23時35分28秒 | 旅行
「若松高塔山あじさい祭り」JRウオーキング参加~その4です。


若松駅前の若松市民会館にある「火野葦平史料館」には、
葦平の生涯の写真、日記、従軍手帳、河童絵・創作ノート原稿など、沢山の資料が
収蔵されていましたが、また、次回時間を取って、ゆっくり訪問したい、と思い、
「火野葦平史料館」を後にして、「若松レトロ地区=若松南海岸通り」に向いました。

1.「旧ごんぞう小屋」
北九州では、沖の本船で石炭荷役をする仲士のことを「ごんぞう」 と呼びました。
かって 明治時代、石炭積出基地として繁栄した若松港には、「ごんぞう」 が
活躍する エネルギッシュな姿がありました。「旧ごんぞう小屋」は、かつて当地に
あった彼らの詰め所です。記録によりますと、若松港の仲仕数は、明治40年代には
750人とのことです。
火野葦平小説の映画「花と龍」の中でも、貯炭場の石炭をハシケに積おろしたり、
ハシケ船から本船に積み込む荒くれ男ぶりで、「ごんぞう」が活躍しています。
ごんぞう小屋は、1904(明治37)年~1965(昭和40)年の間、ごんぞう達の詰所として
使われた、とのことです。
平成8年に復元されたこの建物は休憩所になっていて、かっての若松の
石炭輸送の歴史などが書かれた写真や資料がパネル展示 されています。










2.若戸大橋
私のとって、お気に入りの橋で、仕事で車に乗って、この橋を渡りながら、
北九州工業地帯や周辺の自然を眺めるときには、なにかしら、いつも気宇壮大な
気持ちにしてくれます。
日本にとって、若戸大橋は、まさしく戦後の復興そしてその後の発展のシンボル的
存在です。その後の関門橋・本四架橋など日本の長大橋の先がけとなった貴重な
存在の若戸大橋です。「若戸大橋」の建設工事は、昭和33年4月に着工され、
昭和37年9月に開通しました。
全長2.068m(吊り橋部680m)中央径間367m桁下42m、塔の高さ80mで洞海湾をまたぎ、
建設当時は、「東洋一の夢の吊橋」といわれました。あざやかな深紅の美しい
大吊り橋です。 しかし、交通量の増加により交通渋滞が著しくなったため、
当初の歩道を廃止し、車道を2車線から4車線に広げました。
(工事期間:昭和59年5月~平成2年3月)これによって、
交通混雑の緩和が図られましたが、歩道がないのは残念ではあります。







洞海湾を隔てて、皿倉山には厚い雲が覆っています。



3.石炭会館
「石炭会館」は、1905(明治38)年建設、とのことで、石炭積み出し港、若松の歴史を
象徴する木造二階建ての建物です。
外装は、モルタル塗りで、左右対称の造りとなっており、一対の円柱が印象的です。


さて、この「石炭会館」の中の1階左手に、有名な「三日月屋 若松店」があります!
こちらのクロワッサンは、その名の通り、牛乳と卵を使われていなくて、
天然塩と最高級の無塩バター、最高級ブレンド小麦を使うという、こだわりの厳選素材
使用しているそうです。
店内には本当にクロワッサンだけが置いてあって、ひとつひとつ包装してあります
種類も、プレーン、紅茶、ゴマ、きなこ、よもぎ、チーズ、シナモン、メープルシロップ、
チョコ、あずき…などなど各種あります。
品切れして、整理券を買って、しばらく時間待ちの後、改めて購入ということも
良くあるほどの人気店です。
クロワッサンで有名な三日月屋で、もうひとつおススメ品です。
入口に大きなソフトクリームのモデルがありますが、これは濃厚なやや甘み味で美味しく
量も多いです。





4.旧古河鉱業若松ビル
旧古河鉱業若松ビルは1919(大正8)年に完成したレンガ造り二階建ての美しい洋風
建築です。交差点に合わせた鋭角で形成されており、その先端には三階部分まで伸びた
縦の円筒形塔が美しく、レトロで堂々とした品格が感じられます。
現在は貸しホールや貸会議室として市民に開放されており、
私がウオーキングで中に入って覗いた時もバザーが開かれていました。
ビル前の海岸では、元若者(現おじさんおばさん)グループの、ハワイアンバンドと
踊りが楽しく披露されており、陽気でレトロな雰囲気が良くマッチしていました。





5.上野海運ビル(旧三菱合資若松支店ビル)
三菱合資若松支店として、1913(大正2)年に建設されたドイツ煉瓦の建物で、
現在は上野海運ビルとなっています。内部は特に印象的な吹き抜けレトロ調で、
松たか子出演の映画「怪人二十面相伝」やNHKドラマ「海峡」、その他ドラマの
撮影にも何回か使われています。
上野海運ビルの3階には、眺めのいいカフェ「Asa Cafe」があります。


6.わかちく史料館
若松の石炭積出港開発のため、1890(明治23)年に設立された若松築港会社
(現・若築建設㈱)の史料館で、平成9年3月に開館しています。
洞海湾の港湾土木の技術や、明治・大正・昭和に跨る若松の歴史の貴重な
資料を写真パネル・ビデオ映像や模型で再現しています。
*「わかちく史料館」入口付近から見た若戸大橋です。


 

7.若松恵比須神社
神社の起源は、神功皇后が洞海湾に入られたとき、と伝えられています。
漁の神・海運の神、後に商売繁盛の福の神を祀り、江戸時代は筑豊、博多方面にかけ
恵比寿講が盛んで、団体客の参詣で賑わった、とのことです。
若松の「おえべっさん」として親しまれ毎年4月2日~4日(春季大祭)と
12月2日~4日(例大祭)の恵比須祭には県内外からの参拝者が多数訪れます。
私の勤務先には、若松出身の同僚や友人がいますが、それぞれにやはり幼い頃からの
色々な楽しい思い出があるようです。「若松恵比須神社」の外観や、お祭りの日の
混雑する姿を想像すると、私の直方の「お多賀さん(多賀神社)」と、懐かしい思いが
完全にダブってしまいます。
更に、近くには、「明治町銀天街」「大正町商店街・えびす市場」と直方と全く同じ
名前の商店街があり、ますます同化した気持ちになりました。





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「若松高塔山あじさい祭り」JRウオーキング参加~その3

2011年07月20日 22時46分29秒 | 旅行
「若松高塔山あじさい祭り」JRウオーキング参加~その3です。

折尾駅から本城駅、二島駅、奥洞海駅、藤ノ木駅・・・を通過し、川のように狭い洞海湾を
右手にそして、皿倉山を見ながら、終点若松駅に到着です。

1.若松駅周辺地図です。


2.若松駅構内、あじさい祭りの乗客が降ります。右手に「JRウオーキング」旗がはためいています。


3.若松駅構内改札口の状況です。奥の方に「JRウオーキング」の文字が見えます。


4.若松駅構内、鉢植えのあじさいがずらりと並べられ、歓迎してくれます。


5.若松駅構内、乗降のホームです。現在は、純粋な旅客駅で、
日平均乗車人員は1,300人程度とのことです。


6.「JRウオーキング」の案内掲示板です。このあと若松駅前でJRの係の方へ受付を済ませ、
ルート図を入手します。また、出発にあたり、ウオーキング体操の指導もあり、希望者は任意参加して
本当に、至れり付くせりで安心出来ます。



7-1 7-2 ルート図、案内図です。




8.いよいよ、「JRウオーキング」出発です。
若松駅正面と背後は、目指す高塔山です。「若松駅」の看板の真上が高塔山展望台になります。



9.若松駅舎横のあじさいの植え込みと、駅構内が見えます。背後は高塔山です。
こういうシーンを見ますと、これからの気持ちが高揚します。


***********************************
さて、特筆すべきは、今は往時の面影はないものの、かつて若松駅は筑豊の石炭輸送の
一大拠点でもあったことです。
若松駅は、筑豊興業鉄道により1891年(明治24年)に、当初から石炭の積み出しを
主な目的として開設された、ということです。
駅周辺で、これら石炭拠点の往時の姿の一端を眺めてみました。

1.火野葦平資料館内の川ひらたについて
若松市民会館の中に常設され、火野葦平ゆかりの品々が紹介されています。
復元した書斎のほか、原稿、書簡、日記、従軍手帳など遺品が多数展示
されています。
館内には、川ひらた船も展示してあります。川ひらた船(五平太船)は明治時代に筑豊の
石炭輸送の動脈として、多い年には 年間10数万隻が洞海湾・若松港を目指して堀川を
行き来した、ということです。



2.3 かって石炭輸送で大活躍したセム1石炭車が若松駅のそばに展示されています。
石炭車(せきたんしゃ)とは、石炭輸送(運炭)のための専用貨車で、積み下ろしホッパー型に
なっています。




4.5.6 久岐の浜広場の蒸気機関車「クンロク」
同じく、石炭輸送の花型であった、SL9600型蒸気機関車が、旧若松機関区跡地に
展示されています。地球を70周分も走行した、との事です。





7.「若松駅操車場跡地」の碑文です。





8.9 「若松駅操車場跡地」の説明文です。
若松駅と若松港の設備は並行して拡張が行われ、石炭桟橋から石炭を積み出した。
構内は広大で多数の石炭車が常時出入りしていた。
最盛期の1940年(昭和15年)には年間830万トンの積み出しを行い、
一時第二次世界大戦のために衰えるが戦後も再び同じくらいの貨物取り扱いをして、
ほぼ常時日本で一番貨物取り扱いの多い駅であった。
昭和29年には、東西延長約3km(現在の久岐の浜ニュータウン~藤ノ木近くまで)までもあった。
しかし昭和30年代後半から始まったエネルギー革命の進展により、石炭の取り扱いは急速に
減少していき、1982年(昭和57年)11月には貨物輸送が廃止されるに至った。
翌1983年(昭和58年)4月から構内の整理が開始され、旧駅舎が取り壊されて立て直され、
現在に至っている。
→⇒「若松駅操車場跡地」は、現在の「久岐の浜ニュータウン」となっており、往時の姿は
今では残っていません。
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「若松高塔山あじさい祭り」JRウオーキング参加~その2

2011年07月16日 23時01分43秒 | 旅行


既に炎暑の7月に突入しましたが、ちょっと前の梅雨の6月の風景記事です。

「若松高塔山あじさい祭り」JRウオーキング参加~その2です。

JRウオーキング参加、「直方~折尾」折尾駅に到着しました。
ここで乗換です。

1.折尾駅周辺の地図です。折尾駅は、鹿児島本線と筑豊本線(福北ゆたか線)が
立体交差しています。



2.直方駅から折尾駅まで、乗車してきた電車(直方行き)とこれから乗る若松線の
ディーゼル気動車(若松行き)が仲良く並んでいます。



3.4.5.折尾駅構内、折尾東口の改札口です。古い折尾駅の顔です。(^-^)
トンネル型通路に「あじさい祭り」の旗とあじさいが展示されています。







6.レトロな駅舎です。「折尾駅東口」になります。
明治28年(1895)には、現在地に九州鉄道(鹿児島本線)と筑豊興業鉄道(筑豊本線)の
2社共同の折尾駅が完成して、日本最初の立体交差駅となりました
大正05年(1916)には駅舎の大改修により、現在の二階建洋風木造駅舎が完成して
北九州市の西の玄関口となっています 。
画像は、夜間の姿です。



7.折尾東口から堀川沿いに立ち並ぶ夜の風景、飲み屋街です。
今でも結構華やかですが、石炭華やかなりしころは、もっとにぎやかだったことが想像されます。
映画「信さん・炭坑町のセレナーデ」(昭和40年代設定)の舞台にも登場する
ノスタルジックな堀川沿いの歓楽街です。



8.ここまでくると忘れてはならないのが、「北九州の角打ち文化」として紹介された
「高橋酒店」があります。もちろん私も訪問し、「角打ち」文化を味わいました。



9.ジュリーこと、沢田研二の若かりし頃のポスターがありました。懐かしいですね!!




10.レトロなそして重厚な看板です。



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◎魁皇頑張れ!土俵生活23年、最多勝1046勝樹立!!◎

2011年07月15日 23時50分58秒 | ふるさとの人

魁皇頑張れ!土俵生活23年、最多勝樹立!!

八百長問題に大揺れの国技の再開場所、期待されてきた
「大相撲名古屋場所」での大関魁皇の新記録樹立が
目前のところ、初日から既に3連敗、4日目に悲願の白星そして、
最多勝タイの1045勝を達成し、
さらに7月14日の5日目にも白星、遂に最多勝の1046勝を達成しました。



地元直方では、直方市役所内にある、星取表に白星が、最多勝タイの1つ
そして新記録の2つ、と書き加えられました。

1.おめでとう!最多勝タイの1045勝


河川敷の勝利の花火は、いつもは2発であるが、この日は5発、どん!どん!・・・と
響き渡った。

2.「魁皇後援会」ののぼりが、直方市役所~直方商工会議所の傍で、はためいています。


そして、本当におめでとう!!最多勝、新記録1046勝
3.直方の英雄、そして郷土の誇り、魁皇が苦労の末に
積み重ねた貴重な新記録を遂に樹立した!! 
子供たちは、「みつかけ」で乾杯! 大人たちは「ビールに枝豆のつまみ」で乾杯!



4.河川敷の勝利の花火は、特別に10発夏空に大きくこだまし、
花火の紫煙が深緑の福智山系をバックに流れた。
(直方駅構内から花火の上がる遠賀川河川敷そして福智山方面を見ました)



5.「魁皇後援会」ののぼりも、福智山系をバックに誇らしげにはためいています。



6.そして、H12年の小結時代の大きな優勝の額が、「のおがた夏祭り」を
大いに盛り上げようとしています。ポスターの真ん中白い滝は、名物「ナイアガラ」です。



日本の皆に頑張る勇気を与える郷土の星「魁皇頑張れ!」「頑張れ魁皇!!」
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「若松高塔山のあじさい祭り」JRウオーキング参加~その1

2011年07月10日 23時10分41秒 | 旅行

既に炎暑の7月に突入しましたが、ちょっと前の梅雨の6月の風景記事です。

「若松高塔山あじさい祭り」JRウオーキング参加~その1です。


梅雨の季節から真夏の入り口にかけて、あじさいが良く似合います。
昨年参加した「若松のあじさい祭り」の鉢植えの挿し木も小さな花を
咲かせてくれました。(上図の右上)
同じく、我が家の旧居の紫陽花の30本ほどの挿し木も9割は順調に大きくなり、
同じように頑張って、花を咲かせてくれました。(上図の左上)
そして、また季節がめぐり、今年も「若松のあじさい祭り」に行って来ました。

今回は、JRウオーキングに参加する形にしました。
昨年は、車で若戸大橋の下の駐車場から出発しましたが、今回は新直方駅から
JRに乗り、まず「筑豊本線(福北ゆたか線)直方~折尾」折尾駅乗換で
「筑豊本線(若松線)折尾~若松」で若松駅到着です。

解体工事中の直方駅舎を横目に直方駅出発です。


1.新駅舎の2階通路から、旧駅舎の改札口方面を見ました。
右手は、明治町商店街、その左手にサンリブのマークが見えます。
真ん中に駅前ロータリーの歯車(太陽)が小さく見えます。
サンリブ~左手のクレーンは、筑豊病院の基礎工事中です。


2.旧駅舎の改札口方面工事中です。


3.右端に明治町商店街の入り口です。アーケードの三角の屋根が小さく見えます。

いよいよ列車に乗ります。車窓から


4.真ん中の通路は、直方駅の表玄関から山部方面にわたる跨線橋(人の通路)です。
右手の建物は、直方市立図書館やユメニティのおがたです。
交差する線路の数から、昔の筑豊炭田の主要駅で、機関庫もあった「直方駅」の
面影が偲ばれます。線路の奥の丘はお多賀さん(多賀神社)です。


5.車窓から見た「新入駅」です。右手背後に梅雨空の福智山が雲をかぶっています。


次は、筑前垣生~中間の間の遠賀川鉄橋です。


6.筑前垣生~中間間の遠賀川鉄橋です。
背後には、中間市の広い河川敷、中間市街地、さらに背後に福智の山並みが見えます。


7.遠賀川下流側から鉄橋及び背後の福智山系を眺めました。
橋脚を良く見ると3つに分かれています。左右のコンクリート橋脚(上下線使用中)
を挟んで、真ん中に煉瓦製のアーチ状橋脚(線路撤去)が見えます。


8.「筑前垣生駅」側から「中間駅」側を見ました。煉瓦製のアーチ状橋脚(線路撤去)が
見えます。奥の山は皿倉山です。


9.真ん中に煉瓦製のアーチ状橋脚(線路撤去)が良く見えます。
この橋脚は、1891年(明治24年)に数々の困難を乗り越えて完成し、筑豊炭田の
それまでの川船「かわひらた」輸送から、鉄道による石炭大量輸送を実現し、
近代化を支えてきました。


10.背後は福智の山並みです。
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