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『セロトニン』

2020年09月20日 | 現代フランス小説
ミシェル・ウェルベック『セロトニン』(河出書房新社、2019年)

40歳代のフランス人男性の絶望的な人生を描いた小説。『戦闘領域の拡大』、『素粒子』、『服従』などセンセーショナルだけど、絶望的なフランス人男性の人生を描いてきたウェルベックの行き着いた先がこの小説なのだろう。

その絶望感がもう救いようがない。それは社会問題としてもこの小説では描かれており、それがフランスの農業というか、農家の絶望感として投影されている。

フランスはEUでも有数の農業大国である。農業人は1960年の22%から2000年の3%に減少しているが、その分、一戸あたりの農地は17hから42hと増えている。この42hというのは平均値であり、実際には100h以上の農地がふえており、それは農業が個人経営から会社経営に転換していることを示している。

だから、この小説の主人公の友人のようなノルマンディー地方の元貴族のような農家でも、個人経営に固執するかぎりは、外国からの安い牛乳などの農産物の輸入のために太刀打ちできなくなって、いくらEUやフランスからの補償があっても、売れないものは捨てざるをえなくなる。

主人公がいたような農業省は会社経営への転換を勧めているのだろうが、それができない農家(やはり土地を持つことへの執着は大きい)は、抗議行動をおこなうことが多い。フランスでは公道をトラクターなどで占拠して、牛乳を流すだとか、その他の農産物をばらまくような示威行動をする。今回は、絶望のあまり主人公の友達のエムリックは銃で自殺してしまう。

唯一の生きる希望であった元彼女のカミーユとの再会も、彼女に息子がいて、その子どもを銃殺してしまおうと狙うが、それもできずに、希望も消え去ってしまう。

訳者解説は女性評論家による「この作家が飽きることなく描き出す、告知された死とは、世界は自分の快楽、(…)の周りを回っていると何世紀も前から思い込んでいる、支配的な地位にある白人男性の死である。『セロトニン』の主人公のフロラン=クロードは、その最後のアバターであり、彼にとって賭けはもう終わってしまったのだ」という論評を紹介して、「行き場のない絶望が、このテーマの集大成とも言える本書で示されてしまった今、ウェルベックは今後どのような小説を書くのでしょうか」と、もうこの作家は終わりだ宣告したげである。

とくに女性読者であれば、男根中心主義的な小説を書いてきたウェルベックをこのように突き放してしまうのもうなずける。もう、いいかんげんにしてほしい、と。

私はすでに2013年に邦訳が出た『地図と領土』で、

「ウエルベックは人間の未来を描いてしまうことで、自らの「可能性」を閉じてしまったような気がする。こんなものを書いた後で次にいったいどんな作品が書けるのだろうか?」という言葉で締めくくった。
その「可能性」は、作家ウェルベックを作品内で殺してしまうことによって完全に閉じられた。私はウェルベックはもう小説は書かないだろうと思う。」

と、感想を書いたのだが、それから後も『服従』を書き、今回の新作である。よほど作家であることに執着している男のようだから、訳者の予想とは違って、また何か書くだろうけど、碌なものにはならないことだけは断言してもいい。

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