読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『チェンジング・ブルー』

2009年01月31日 | 自然科学系
大河内直彦『チェンジング・ブルー』(岩波書店、2008年)

チェンジング・ブルーなんてタイトルを見ても何のことか分からないと思うが、サブタイトルに気候変動の謎に迫るとあり、最近かまびすしい地球温暖化をめぐる最先端研究から見た地球規模の気候変動の過去を解明し、将来の気候変動を知るための本であることが分る。といってもけっして一般大衆向けの啓蒙書というほど読みやすいものではなくて、まぁ大学でこれからこの方面の研究を専門に勉強してみようかという学生レベルの知識を持った人を対象に書かれていると思ったほうがいい。けっこう専門用語なんかも出てきて、読みやすいものではなかった。

私が地球規模での気候変動に関心があるのは、いうまでもない、昨今の二酸化炭素排出による地球温暖化というキャンペーン(まるで私たちが生きるために必要としている呼吸さえ地球温暖化を後押ししているような脅迫的言説の繰り返しに少々腹を据えかねている)に疑問を持っているからである。本当に二酸化炭素の排出が地球を温暖化させ、地球を破滅に導こうとしているのか、本当に疑問であるからだ。

地球の気候変動が現在把握できる限度である60万年前から現在にいたるあいだで、定期的に寒暖を繰り返していることが認められている。その原因もいくつかあって、地球の公転が楕円形であるために必ずしも太陽と地球の距離が一定ではなく10万年くらいの周期で変動していることや、地球の自転軸の傾きが木星のような巨大な惑星の影響などからぐらついておりその傾きが一定でないことなどが、長期的な気候変動に影響していることははっきりしている。そういった大きな規模の変動やその他酸素同位体比などの調査から、現在の地球は40年前の地球とよく似た状態、つまり間氷期の頂点、いいかえれば地球温暖期の頂点にあることが分る。すでに1万年にわたって温暖な時期がすぎており、あちこちで起きている氷床の崩壊や氷河の貧弱化というような現象はそうした長期にわたる温暖化の結果であって、二酸化炭素が増えた結果などではないことは容易に想像できるはずだ。

したがって、これから百年の単位で寒冷化していくことが予想されるのだ。しかし一直線に寒冷化するわけではなく、日本の季節と同じで三寒四温のごとく、何度もゆり戻しをしながら、寒冷化して行く。

それにしてもこの本を読むと、地球の気候変動に深層水が大きな影響を持っているとか寒冷期には二酸化炭素が減るとかいろいろなことが分ってきているにもかかわらず、「なんでそうなるの!」ということがまるで分っていないのだ。グリーンランド沖に深層水ができるところがあるらしいのだが、それはメキシコ湾で水分が蒸発して塩分濃度が濃くなった海水がこのあたりで深く沈むからで、ところが氷床が解けて真水が大量に流れ込むと塩分濃度が薄くなって深層水ができなくなる、その結果、深層水の流れが止まると、北緯の高いところの大気に熱が供給されなくなり、今度は寒冷化することになるというのだ。だが、なぜそんなことが起きるほどの氷床の溶解が起きるのか、ここのところはまったく説明してくれない。しかし普通に考えたら、氷床が解けるなんて事態はよほどの温暖化が長期にわたって起きたということからしか説明できないのではと思う。つまり温暖化して氷河が解けて海水の塩分濃度を薄くする→深層水の動きがとまる→寒冷化する→氷河が形成されるというサイクルが見えてくるだろう。もしそうなら昨今北極の氷山が溶けていることや高山の氷河が細っていることを指して世も末のようなことを言っているが、1万年続いた間氷期がこれで終わろうとしていることを示しているだけのことではないか。

なんかこの本、たしかに面白いところもたくさんあるのだが、現在あれこれ言われている温暖化問題にどのようなスタンスで書いているのかまったく不明で、八方美人的な書き物になっていることに少々腹立ちを感じる。よくまぁ岩波書店がこんな本を出したものだとあきれる。

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紀見峠目前逃亡?

2009年01月30日 | 自転車
紀見峠目前逃亡?

南海高野線は大阪側では大阪市、堺市、河内長野市からこの紀見峠を通って、和歌山県の橋本市へ延びている。電車が通るくらいだから、他の峠に比べると低いほうなのだろう。子どもたちが小さかった頃には、橋本市にある杉村公園(けっこう高い吊り橋がある)とか九度山まで下りて、魚釣りをしたりしによく行ったものである。そういうわけで、わりと気楽に紀見峠に行ってみようかと思って出かけた。

紀見峠に通じる国道は371号線で、これはあの交通量の多い310号線が河内長野からそのまま名称を変えるだけのこと(だと思う)。そのまま行くのはイヤなので、ちょっと遠回りになるが、例のごとく迂回してまず観心寺に行った。ここでトイレ休憩。私のようにトイレの近い人間は、トイレがどこにあるということをきちんと把握して走らないといけないのがつらい。

観心寺を少し行ったところからグリーンロードという広域林道に入った。この道が千早口までの道で、子どもと千早口のフィールドアスレチックに行っていた頃にはなかったから、新しい道なのだろう。ほとんど車も来ないきれいな道をすいすい行く。そして371号線に合流。(写真は千早口の合流地点)

ここからがたいへん。371号線というのは普通の国道なのに、大型トラックがばんばん走っている。対向車線も同じなので、私が走っていると追い越せないらしく、対向車がいなくなったとたんエンジンをふかして追い越していく。怖い。排気ガスがすごい。川向こうになんか道みたいなのが見えるのだが、自転車で走れる道なのか、どこまで続いているのか分らないので、とにかく我慢して走る。

天見を過ぎて、島の谷なんてちょっとしゃれた名前の村も過ぎて、だいぶ行ったあたりでひと休憩と思って、自転車から降りたら、もう交通量の多さに気力が萎えてしまった。地図を持ってこなかったので、あとどれくらいで紀見峠に到着するか分らなかったこともあり、またの機会にしようと岐路に着く。

帰りも怖い思いをしながら371号線を走り、ほうほうの態で帰ってきた。帰ってきてから地図をみると、紀見峠の直前まで来ていたことが分る。紀見峠はそんな急な坂はないからそのしんどさはないが、もう交通量がすごいので、あまり走る気にならないな。地図を見ていると、やはり道が狭いわりに交通量が多いせいか、あたらしく道を作っているようで、千早口に見えたのはその新しい371号線だったようだ。まぁそれができて、車がそちらを走るようになったら、少しは気持ちよく走れるようになるかも。

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『悪童日記』

2009年01月29日 | 現代フランス小説
アゴタ・クリストフ『悪童日記』(早川書房、1991年)

『悪童日記』などというような、馬鹿みたいなタイトルに勘違いをしないようにしよう。日本の小説には絶対ありえないけど、なぜかしら翻訳小説によくある、馬鹿みたいなタイトル、ちょっとこじゃれたローティーンの、生意気で、お茶目な、そしてちょっとスリリングな小説を期待してこれを読んだ人を、不愉快にさせるような小説ですよ。本当にいつも思うけど、日本の出版社のせいなのか、翻訳者のせいなのか知らないが、こういう小説に「悪童日記」なんてタイトルをつける奴の気が知れない。

第二次大戦のハンガリー。王国から人民を解放すると称して占領して傀儡政権をつくったナチスドイツによる占領という状況だけでも、日本統治下の朝鮮のように、外国人に支配されているのに喜んでいるふりをしなければならない社会が大人にとってさえ矛盾に満ちたものであろうに、ましてや子どもにとっては理解しがたい状況にちがいない。そして戦争はそれまで隠されていた矛盾をさらけ出す。なりふり構わず生きることに必死にさせられることで、平時には見えないものが見えてくる。、善悪の区別はつかなくなるし、勝者も敗者も区別がつかなくなる。貧者は生きるために自らを卑しくすることまでせざるをないか、それをしたくなければ死ぬしかない。ましてや新たに解放と称して侵略してきたソ連さえもが侵略者の本性を見せるようになると永遠にこんな状況が続くのかと絶望的になるだろう。

語り手である双子の視点からしか描かれていない(体裁としては双子が書いた手記)から、双子のことは何歳であるとも、外見がどうということもいっさい書かれていない。すべて双子が見たり聞いたり体験したことだけを書き留めたという形式をとっているので、翻訳としてもそういう子どもらしい文章ということになるのだろうが、しかしそこは早熟で理詰めでものを考える双子という性格からして、見たり聞いたりしたことをそのまま記述する「子どもらしい」手法が、最初は違和感なしに読めるが、徐々に現れてくるシリアスな内容ゆえに、ときに強烈な印象を与える。

兎口の少女が獣姦するとか、司祭の世話をする娘が双子に裸をさらすとか、おばあちゃんの家にいる将校がマゾっけがあるとか、ユダヤ人がナチスに連れ去られる事態を、説明を加えないでたんたんとあったことを、あたかも何を意味するのか理解できないけれども記述するという方法は、説明がないだけに、いっそう強烈な印象を与える。

書いているのがたぶん10歳くらいの少年だということが、世の中の仕組みや裏側を理解しないがための面白さを作っていると同時に、やっていることが空恐ろしくも思われる。しかし子どもだから面白いというのは、ちょっと違う。この双子のことは「事実のみを書くこと」というこの手記の既定方針からくるものではなくて、作者の意図する方針からくるのだろうと思う。そのためにわざと双子の子どもが書いた手記という体裁をとっているのだろう。そういう意味では、たぶんアゴタ・クリストフが現実に経験したことがもとになっているにせよ、よく考えられ練られたつくりになっていると思う。しかし上にも書いたように双子の手記という体裁をとっているとはいえ、この双子の名前も特徴もいっさい記さないというのは、自分たちの力と千恵だけで生きていかなければならない子どもの視点によってこそ、いっそうよく矛盾だらけの社会を映し出せるという確信があったからだろう。この点でも成功した小説だと思う。

訳者の堀茂樹によるとアゴタ・クリストフは1986年に完成したこの作品をまったく紹介もなしに直接出版社に送ったらしく、ガリマールなどが冷たい返事をしたのに対して、スイユだけが無修正で出版したとのことである。原題が Le Grand Cahier ということから、タイトルもまったく内容を伝えるものでないために、口コミで知られ、じょじょに売れるようになったらしい。ほんとうに興味深い。

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『オリンポスの果実』

2009年01月28日 | 作家タ行
田中英光『オリンポスの果実』(新潮文庫、1951年)

田中英光なんていってもほとんど知る人などいない、忘れられた作家だろう。1913年東京生まれで、早稲田大学在学中に1932年のロサンゼルス・オリンピックにボート(エイト)選手として出場したが、予選で敗退した。大学を卒業して横浜ゴムに就職し、日本統治時代に京城と呼ばれていた現在のソウルに派遣され、そこで朝鮮人文学者との交友が生まれる。1940年、ロサンゼルス・オリンピックに出場したときの経験をモチーフにして書いた『オリンポスの果実』を文学界に発表し第7回池谷信三郎賞を受賞する。終戦前に静岡に引き上げ、終戦後太宰治の自殺に衝撃を受けて薬物中毒になり、49年に太宰の墓前で、睡眠薬服用の上、手首を切り自殺した。太宰に師事し彼と同じように同棲をしたり薬物中毒になったりして「無頼派」と呼ばれる。

40年に『オリンポスの果実』で新人作家として認められてから49年に自殺する10年弱のあいだしか作家生活がないわけだが、一応11巻を数える全集が出ているので、けっこうな量を書いていることになるが、『オリンポスの果実』でしか知られていない、というか、このしょうせつだってほとんど知られていないに等しいだろう。私が知っているのは、高校生のときに同じくボートをやっていたので、部員の一人がこんな小説があると教えてくれたからだった。この前の朝日新聞の日曜版に電子化された小説を読むためのソフトの紹介があり、そのなかに電子化された小説の一つとしてこの小説のタイトルを見て、急に懐かしくなって、図書館で借りてきたのだ。

ボートの練習とか試合の場面というのはほとんどない。全編、選手団で日本を出帆してハワイに寄航したあとロスに着き、そこでの歓迎会や自由時間に観光して、日本にもどってくるという経験のなかで、選手団の一人でハイジャンプの選手であった熊本秋子を好きになって、彼女とのやりとりやら同僚選手からのさまざまな冷やかしなどのなかで感じたことが、まるで高校生か大学生の日記のごとくに綴られている。本人は同僚選手たちから体ばかり大きくて(当時の日本人としては大柄な180センチくらいあったようだ)技術のともなわないと馬鹿にされていると思っていたようだが、その純真な性格からきっとみんなから親しみを感じ愛されていたのにちがいない。新潮文庫版の解説を書いている河上徹太郎は当時の「文学界」の編集長で彼がこの小説の掲載を決めたようだが、その解説を読んでもどうしようもないぼんぼんだけど憎めない奴みたいな愛情が感じられる。

高校生だった私たちにも、自分たちが夢中になっているボートという、一般にはマイナーで、オリンピックのテレビ番組にも出てくることがないスポーツが舞台になっているだけでなく、それこそ当時の高校生が体験するような淡い恋心のようなものが描かれている小説として、まるで自分たちの心情が小説になっているというような気持ちになったのだろう。私だって他のクラスに好きな子がいても、とても声をかけることなんかできず、遠くから見ているだけみたいなものだったので、主人公の気持ちに共感できたのだろう。この年になってみると、大学生にもなってまるで高校生の馬鹿騒ぎだなと醒めたところがあるのは当然だろう。

テレビでボートの試合が放送されることはまずないので、オリンピックのボートレースなどを見たことはないが、なぜか私には外国人のボート選手がシングルススカルを片方の肩に担ぎ、もう片方の手に恋人(あるいは妻)をつれて練習場を歩いているというイメージがあり、どうしてかなと思っていたら、まったくそれと同じ情景がこの小説に描かれていることが分った。なるほどこの小説を読んだことで、そんなイメージが出来上がっていたんだなと納得。やっぱわずかなページ数の描写でもボートに関わる部分は強烈に残っていたんだね。

田中英光を紹介しているサイト(作家などの回想文が掲載されている)

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水越峠

2009年01月27日 | 自転車
水越峠

うちのマンションのベランダは東向きで、正面に二上山、その右に大和葛城山、さらに右に金剛山が見える(生駒山も見えていたのだが、工事中のマンションが川向こうにできつつあり、見えなくなった)。その大和葛城山と金剛山のあいだにあるのが水越峠だ。真夏になると二上山よりも北側(つまりうちからは左側)から太陽が昇ってくるが、冬至ともなるとこの水越峠から日の出ということになる。

以前、金剛山とか大和葛城山とか二上山とか、ようするに家から見える大阪と奈良・和歌山の県境にある山々に登ったり、二上山から大和葛城山へ、さらに金剛山へ行くというような、いわゆるダイヤモンドトレイルと呼ばれるコースを歩くことに情熱を燃やしていた頃があり、その頃には水越峠は大和葛城山から降りてきて、湧き水があるので、ひと休憩する場所だった。逆に金剛山から降りてきて大和葛城山に上がろうという場合には、ここから大和葛城山への斜面がけっこうきついので、気持ちを落ち着ける場所でもあった。

一度だけ、金剛バス(これがまたうす緑色の地味なバスで、いったいどこで収支の帳尻を合わせているんだろうと心配になるようなローカルな場所ばかり走っているバス)で富田林から水越峠まで乗ったことがある。そのときに、まさか自転車でここまで来ることになろうとは思いもしなかったが、今日はその水越峠までやってきてしまった。毎日のようにベランダから見えているものだから、気になってしょうがなかったのだ。この天気なら路面が凍結しているなんてことはないだろうと予想していたが、もう雪もなかった。

帰りにこの道から分岐して大和葛城山の大阪側のふもとを南北に走っている広域農道をはしって石川に出てみようかなと思っていたのだが(というのもこれも家のベランダからよく見える、といっても道が見えるわけではないが)、とてもそんな気力は残っていなかった。またの機会としよう。今度はこの広域農道(グリーンロードとか言うらしい)を河内長野のほうから太子町のほうまで走って石川に出るのも面白いかもしれない。

やれやれこれでまた一つ峠を越えた。家からみえるところでいけば、残るは竹内峠(二上山の南側)だな。

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『フィンランド豊かさのメソッド』

2009年01月26日 | 人文科学系
堀内都喜子『フィンランド豊かさのメソッド』(集英社新書、2008年)

社会福祉のフィンランドということで、また教育先進国のフィンランドということで、近年脚光を浴びている。日本という国にあれやこれや不満を抱いている者としては、教育とか福祉とかで先端を行っている国がどんな風になっているのか知りたいと思う。できれば日本もそれを倣って社会福祉や教育の充実した国になってもらいたいと思う。だが、フィンランドだって一筋縄で世界に誇る先進国になったわけではないこと、また片や1億2千万人の国、片や500万人の国で物事が同じように行くわけはないだろうくらいのことは分かる。

まずこの500万人という人口と1億2千万人という人口の違いは、いい意味でも悪い意味でも大きい。これは最近内田樹さんがブログで書いていて感心したことの一つでもあるのだけど、日本は国民が1億2千万人いるわけで、人口が1億人を超えてからこのの国民だけを相手にしているだけで十分飯が食っていけるようになったと宮崎駿がインタビューで言っているのを例に挙げて、日本人だけを相手にしたマーケティングを考えて食っていけるのだからどうしてそれ=内向きが悪いんだろうと主張していることだ。そう世界戦略だとか世界標準なんてことを考えなくても、日本人に受けるということだけを考えていれば、商売として成り立つのなら、それでいいじゃないかということだ。日本にはそれだけの成熟した市場があるのだということを意味している。ところがフィンランドは500万人しかいないわけで、これだけの人を相手に商売を考えていても個人企業や個人職人ならいざしらず、大企業としてはやっていけない。だから世界標準ということを考えて、英語をはじめとした外国語教育に力を入れて、全世界を相手にできるようにならないといけないし、世界を相手にして企業活動をするためにどんな問題が起きても自分で解決していける能力を身につけておく必要がある。それがOECDの学習到達度調査で教育熱の高い国や欧米先進国を抑えて学力世界一という結果を生むことにもなっているのだろう。

規模の小ささは国民的コンセンサスを作るという場合にも有利に働くことは言うまでもない。たぶんそれは人口に逆比例ではなく、逆累進比例みたいな風にして、人口が増えれば増えるほどコンセンサスが作りにくくなると思う。

1990年代にフィンランドもバブル崩壊の時代があったらしいが、それを乗り越えて現在のような世界から注目する社会を作り出してきたということだ。そういう時代に、こういう方法で危機を乗り越えていこうというようなメッセージを政治家が出し、それに国民が賛否の態度を示すというのが議会制民主主義の手法だが、日本の場合は政治家の出すメッセージに裏切られることがほとんどである。だが、フィンランド人は伝えたいメッセージをはっきりとぼかすことなく言う国民らしく、そういった国民性も大きく影響をしているように思う。教育は無料とか高福祉という伝統がたぶん昔からあったはずで、それが新しい国づくりをする上でも土台として役立ったにちがいない。

この本を読んでうらやましく思ったことは、社会全体の透明性が高いということだ。もちろん税金の使い方が透明であることは言うまでもないが、こういう努力をしたら自分の生活にこんなふうに帰ってくるという道筋がはっきり見えていることが、人々の努力を促すことになっている。日本ではたいていの資格は取得してもほとんど就職や転職に意味がない。ある種の特殊な免許や資格は特別だが、そういったものを取得するための費用は完全に自分持ちだ。ところがフィンランドでは資格の取得が転職や就職にはっきりとした価値をもつことになる。だから、いったん社会に出てからでも、子育てが終わったとか、リストラされたとか、そのほかいろんな理由から再度学校に入りなおしたり、通信教育で働きながら学んだりすることで、新しいキャリアを作ることができるし、新しい人生をやり直すことができるらしい。

中学や高校でどこに入ったかでその後の人生が決まってしまうような日本はなんて貧しい国だろうと思う。人生にやり直しがきくということは、国民に精神的な余裕を与えるし、心豊かな人生を楽しむ余裕を与える。それは犯罪さえも抑えることになるのではないかと思う。

内田樹さんが言うように、日本人だけを相手にしているだけで生活していけるのだから、世界標準なんて言葉に振り回されないように、1億2千万人という規模の教育レベルの高い国という利点をもっと活かすような国づくりをしてもらいたいものだと思う。

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久しぶりの石川ポタ

2009年01月25日 | 自転車
久しぶりの石川ポタ

またまた久しぶりになってしまったロードバイク。この冬一番の寒さだったり、大雨が降ったりと、とても自転車に乗るような天候ではなかったが、今日はいい天気。寒いことは寒いが、晴天なので、少しはましだろうと思い、出かけた。相変わらず、峠は雪があるようなので避けてひたすら平地を行くだけということになると、どうしても石川河川敷ということになってしまう。

今日は久しぶりだがあいだはずっとジョギングをしていたので、気力も十分で下りは飛ばした。30Km/hくらいであっというまに大和川まで。橋のたもとでしばらく休憩をしたあと、そのまま引き返してきた。

帰ってくるとちょうど大阪国際女子マラソンをやっていた。最終的には渋井が「復活V」だって。2位は赤羽、3位は原裕美子だった。渋井は高橋尚子全盛の頃は高橋に、最近は野口みずきに敵愾心をもっていて、自分のほうが実力は上だみたいな根拠のない自尊心をもっているが、そのじつあまり実力はない。だいたいいつも優勝候補といわれながら、後半失速すると「私は気温が高いのはだめ」と天候を言い訳にしているが、それなら今回のように最初から大阪国際女子マラソンに出場すればよかったのだ。この大会はいつも寒い。11月の東京国際とか3月の名古屋国際は温かいのは当たり前だろう。まぁ今回は前半スローペースで渋井も自重して飛び出さなかったから勝てた。だけどなかなかそうはいかないのが選手の心理のようで、前半我慢しておさえて後半飛び出すという試合展開がどうしてできないのか私は分らないが、我慢してこれができればある程度の力をもった選手ならだれでも優勝できるのだ。そのためにはけっして練習のし過ぎにならないこと。野口も原裕美子も、たぶん高橋尚子もみんな練習のし過ぎだ。大会に出るまえに体を壊してはどうにもならない。

夕方には朝青龍までが「復活V」だって。今場所は相撲人気がもどってきたみたいで大入りが増えたらしい。良くも悪くも朝青龍の出場が相撲人気を支えているということだろうか。お昼のワイドショーではだいたいに朝青龍バッシングの傾向の放送がされているが、これからはまた変わるのでしょうかね。でも、すでに土俵を割っている相手を突き落としたり、頭をはたいたり、ダメ押し以上に突き飛ばしたりするのを見ると、嫌悪感を感じるのは私だけなんでしょうかね。私は相撲は見る気がしなくなったのは朝青龍のそういう態度を見たくないからなんだけど。これでまた朝青龍の好き勝手が「復活」?

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『パリ20区の素顔』

2009年01月24日 | 人文科学系
浅野素女『パリ20区の素顔』(集英社新書、2000年)

フランス人と結婚してながくパリに住んでいる著者が書いたこのパリについての本は、普通のパリ案内ではなく、この著者にとっての「私のパリ」である。そしてパリはだれにでも「私のパリ」があると思わせる街だというようなことを書いているが、まさにそのとおりだ。パリに住んだことがない私でさえも、「私のパリ」があると思っている。そんなパリを書いてみよう。

この著者もこの本の中で書いているが、キオスクなんかで Plan de Paris という手帳くらいの大きさの地図帖というか本のようなものを売っているが、これは住所が分っているとどんなにややこしい場所でもすぐに見つけることができるすぐれものの本で、私も初めてパリに行ったときにすぐにこれを買った。ところが現物を見たこともなく、またフランと円の換算の感覚もなかった頃なので、キオスクでいきなり50フランだといわれて、そんなものかと思って買ったが、よく考えてみると6~7000円に相当することが分って、これは旅行者だと思ってふっかけやがったなと後で後悔したことを覚えている。その地図帳を見ながら書いてみよう。

1区は、セーヌ川右岸のルーヴル美術館チュイルリー公園、リヴォリ通り、サントノレ街、ヴァンドーム広場、オペラ通りの下半分、レアールというたぶん一番狭い区になる。このあたりは本当に何度も行き来したところだ。チュイルリー公園は観覧車やメリーゴーラウンドがある公園で、娘がまだ学生の頃に、人と会う約束があったので、この公園で娘を待たせていたら、その数時間のあいだに3人くらいの男がナンパしてきたというからフランスの男はずいぶんのコマメだと感心した。レアールというのは、かつての卸市場だったところで、再開発のために、ダイヤモンドカットといって、斜めに地面を掘り下げて地下のどのフロアーも外光がたくさん入るようにしてできたショッピングセンターである。この地下にあるフォーロム・レアール駅はRERのA線B線メトロが2本くらい交差するところで、その混雑ぶりはものすごいせいか、機関銃を携帯した警察官が常時パトロールするような怖ろしげな駅でもある。私はできるだけこの駅を使わないようにしていた。ほんと、なにが起きるかわからないようなところ。

2区は、1区の北にあたる。オペラ通り、オペラ座、オスマン大通りの南側、旧国立図書館などがある。これも狭い区だ。ここも1区と同じくよく行き来した区の一つ。ひと夏をパリで過ごしたときに、旧国立図書館のそばにある音楽関係の分館に通っていたので、昼休憩にパサージュ・ショワズールで昼ごはんをたべたりした。このパサージュはこの本でも紹介されているが、庶民的なパサージュで、9月4日街に面した出口近くには日本語の使えるインターネットカフェがあるので、そこをよく利用して日本とメールのやり取りをしていた。たぶんまだやっていると思う。その隣には古本屋があって、本をみているだけでもけっこう楽しい。中華の店やすしレストランやピザのテイクアウトもできる店もあったりして、昼食や休憩に便利だった。そしてこのあたりは日本食レストランや京子食品なんていう日本の食材を売っている店もある。この界隈には日本人が多いのだろうか?私がよく行ったのは金太郎ラーメンだ。ここの店主は日本人で米もジャポニカ米を使っているし、ラーメンが主体だが、うどん、カツどんなどなんでもあるレストランで重宝した。

5区は、カルチエ・ラタンのある区で有名。このあたりにも日本レストラン、韓国レストランその他がたくさんある。5区の南端になるRERのポール・ロワイヤル駅のすぐ前にあるHotel Belle Vueというホテルに泊まったことがある。駅前の割りに二つ星で安かったし、ホテルからすぐ前に、この本でも紹介されているクロズリー・デ・リラというカフェ・レストランがみえた。この区にはほんとうにたくさんの大学やエコールがある。

6区は、5区の西側で、サンジェルマン・デ・プレとリュクサンブール公園がある。サンジェルマン・デ・プレ教会はパリの教会の中で最も古いほうで、しょっちゅうミニコンサートをやっている。有名な文学カフェなんかもあるところなので、いつもにぎわっているが、予約もいらないでコンサートが聴ける。この本では作家ソレルスのことが書かれているが、たしかに古本屋などもたくさんあるところで、本屋めぐりをするのも楽しい。

8区は、シャンゼリゼ、オスマン大通り、モンソー公園、サンラザール駅がある。娘や息子の買い物につきあわされて何度シャンゼリゼを行ったりきたりしたことだろう。ジョルジュ五世通りやルーズベルト通りやサントノレ通りにはルイ・ヴィトンとかシャネルとかといった高級服飾店が軒を並べている。

9区には、北駅、東駅がある。初めてフランスに来たときに到着したのが北駅だった。なぜかしらないが、ロンドンに着いた私はフェリーを使ってダンケルクに着き、そこから電車で北駅までやってきた。知り合いに電話しても留守で、しかたなく予め調べていたHotel d'Europeに投宿した。その頃はあまり商売っ気のない人がやっていたらしく、古ぼけたホテルだったが、今ではオーナーが変わったらしく、内装もきれいになって、インターネットにもサイトをもっている。それ以来このホテルには泊まったことがないが、北駅のイメージがあまりにも悪すぎたから。昔のターミナル駅よろしくなんとも言えず猥雑な雰囲気だった。コインロッカーはほとんど壊れているし、なんか怪しげな人がうろうろしているし。それに比べると東駅は違う国の駅みたいに雰囲気がいい。こじんまりしていて、こぎれいで。この本でも紹介しているように、かつてはここから西部戦線に兵士が出兵していき、ユダヤ人がアウシュビッツに向けて送還されていったという血塗られた歴史があるにしても、それを感じさせないような穏やかな雰囲気を持った駅だ。

あれやこれや書いても書き足りない。でもまぁどこまで行っても自己満足に終わる作業に過ぎないだろうけど。

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『なぜ、江戸の庶民は時間に正確だったのか?』

2009年01月23日 | 人文科学系
山田順子『なぜ、江戸の庶民は時間に正確だったのか?』(実業之友社、2008年)

最近遠ざかっていた江戸物です。時代考証家という肩書きがついているが、別に日本史を大学で勉強したわけでもないようだが、高校生の頃から時代考証を生業にしようと思っていたという人らしいから、そういった関係でテレビの仕事にも関わるようになったのだろうと思う。

よく読んでいた石川英輔さんのように、一般の江戸認識を翻してやるというような意気込みで書かれたわけではなく、ちょっと雑学読み物風に書いてある。

江戸の長屋は上下水道完備とか人糞が肥料として売られていたので江戸の街は人口の割にはきれいだったという話など、すでに知っているものから、ねずみ小僧は千両箱を重たくてとても担げなかったはずだとか、江戸時代の主婦はほとんどお惣菜や簡単に料理できるものを売りにきたところから買っていて自分でそれほど手の込んだ料理はしなかったとか、浄瑠璃や常磐津がはやっていて常磐津のお師匠さんがたくさんいたとか、お辞儀のパターンが武士の場合は何通りもあってそれがきちんとできないと命に関わるほどだったという話とか、着物の上から人を切り殺すのはちょっと難しいというような、あまり知らなかった話が、ちょっと物足りないくらいに広く浅くの雑学が披露されている。

上にも書いたけど、けっして従来の江戸社会観をひっくり返して真実に近いそれを提示しようというような考えがあって書かれているわけではないので、ほんとうに物足りないといえば物足りない。やはりそういう意味では、いろいろ批判はされているようだけど、ほんの100年くらい前のことなのに、明治維新という近代化によって破壊されてしまった近世の江戸社会の真の姿を取り戻そうとする石川英輔さんの労作は貴重なものだと思う。

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『赤朽葉家の伝説』

2009年01月21日 | 作家サ行
桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』(東京創元社、2006年)

昨年、直木賞を受賞した桜庭一樹の長編小説で、舞台が彼女の出身である鳥取県西部に置かれ、その山の民とかたたらといった神話を題材にした、しかし時代は現代に置かれている、不思議な小説。

とりあえず、彼女と同じ鳥取県西部の出身なので、鳥取県西部と明記されている以外の適当に当て字で作られた地名などをあれこれ推測しながら読むという楽しみがあった。

たとえば、紅緑村というのはどう考えても米子のことのようだが、確信はない。その他、碑野川というのは鳥取県西部を流れている日野川のことだろうし、錦港というのはたぶん、境港のことでなかったら、米子市内にある錦公園を使ったものだろう。そしてこの小説の重要な神話的舞台となっている溶鉱炉をもつ赤朽葉製鉄とはたぶん米子の隣町である安来にある日立製鉄のことだろうか。

ただ地理的な距離感はまったく現実を無視して書かれているようなので、赤朽葉家のお屋敷がある山の中腹とそこにいたる「だんだん」になった職員住宅の街というのはいったいどこなのか分らない。そのようなものはないだろうし、ここで「だんだん」が繰り返し使われるのは、今NHKの朝の連続ドラマのタイトルにもなっているこの地方の方言である「ありがとう」の意味の言葉「だんだん」を強調したいためではないかと思う。そして毛毬の時代に廃れていき、瞳子の時代にはまたところどころ復活してきたアーケード街も私が高校生の頃によく自転車で通ったところだし、穂積蝶子が通ったという県内有数の進学校はたぶん米子東高校だろう。桜庭もここの卒業生だ。

なんといってもこの小説は主人公の万葉でもっているようなものだろう。山出しの娘で、ある日一人置いていかれてしまい、近所の多田夫妻に育てられ、これまた不思議なタツに認められて赤朽葉本家に嫁入りする。

山出しなんてものが本当にいたのかどうか、私も知らないが、たしかに私が小さかった1950年代後半はまだ山陰の山奥のようなところなら、山出しなんて呼ばれて不思議でない人々が住んでいた。たとえば私の村にも裏山に上がる道をしばらく上がると二つの道が交差するところに炭焼き小屋のようなものがあってそこに人が住んでいたらしい。私は夏になると蝉や甲虫を取りに上がったり冬になると橇すべりしに上がったが、だれか住んでいるのを見たようなぼんやりした記憶がある。しかし家の両親や祖父母との会話のなかにそこの人が出てくるようなことはなかった。きっと戦時中か終戦後の物不足の時代に疎開してきた人が世捨て人のようになって暮らしていたに違いない。そういう人がいても不思議でないような時代だったのだ。

そして毛毬が大暴れした80年代。私は80年代の風俗が嫌いなので、とくに感慨もないが、この小説にはそのあたりのことが概念的にもまた毛毬の活躍という具象的にも描かれている。きっと作者の桜庭一樹には思いいれのある時代だったのかもしれない。中学生の跳ねた連中が表に表に出て大暴れした時代。

それに比べるとこの小説でもきちんと描かれているように、その後の時代は悪が内向し、表向きと内向きがまったく想像も付かないほど乖離する時代で、表社会はのっぺらぼうになったように見かけはきれいだが、心の中はばば色って感じだろう。

そういう時代の移り変わりを赤朽葉タツ、万葉、毛毬、瞳子という女系でもって描き出した桜庭一樹の筆力はなかなかのものだと思う。それにしても不思議な小説だ。

そしてこの作品のもう一人重要な人物がたたらの伝統をひいた赤朽葉製鉄の溶鉱炉を命よりも大事に思い、時代の波にもまれて溶鉱炉の火が消されたあと、そのなかで自殺した片目の穂積豊寿だ。彼は万葉をひそかに愛し見守ってきた人でもある。無骨だが心優しい男で、典型的な職人魂をもった古いタイプの人間ということになるのだろう。私の親戚にも安来の日立製鉄で定年を迎えた叔父がいて、しゃべるのは下手で働くことしか能がないけど、製鉄の仕事に誇りをもっていたという人がいる。昨年秋に大山に行ったときに久しぶりに会ったのだが、そのとき少し製鉄の話も聞かせてもらった。ただ鉄を溶かして形にするとかというような簡単なことではない。まぁあたりまえか。この叔父さんもたたらの町の出身で、きっとこの小説のように彼が日立製鉄に就職した頃は花形の仕事だったのだろう。

たたらについてはこちらを参照のこと。横田町のたたらについてのサイト

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