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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

映画『Dr.コトー診療所』

2023年04月30日 | 映画
映画『Dr.コトー診療所』

前のブログでも書いたが、倉吉で映画『Dr.コトー診療所』を観てきた。2月くらいに日本映画チャンネルかなんかでドラマ版のシーズン1を、3月にはシーズン2を放送したので、コトー診療所にハマってしまった。

ドラマ版では、離島での医療、新任医師への島民の不信感の融解、突発的な大事故で多数のけが人、島の子供たちの成長、老人の看取り医療、などのいろんな話題や問題が数回ずつかけて提示・展開していくので、登場人物たちの心の機微の変化なども丹念に描ける。

だからこそ以前の医師の無責任な対応のために妻を亡くして医師へ不信感を抱いている漁師の原剛利の心が少しずつ動いているのも実にリアルに描き出せた。

またなぜ五島先生が島に来たのかも島民たちが理解していくのと同じテンポで見る側にもわかっていくという作りが自然とできていた。

やはりそれは10回、つまり10数時間をかけたからこそ描き出せたのであって、それを2時間という映画の尺に合わせると、無理が生じるのは仕方ない。

しかもこの映画版は、五島先生が急性白血病にかかるという大問題のほかにも、医者になって研修医をしていると思っていた健裕(たけひろ)がじつは成績不振のために奨学金を打ち切られたことから医大をやめていたとか、いろんな問題がてんこ盛り。

漫画の原作者が若手の人と映画版の話をしているユーチューブを見たが、その中で言っていたのは、もともとは五島先生は白血病で死んでしまうということだったが、それを見た原作者がそれはまずいだろうと言ったので、白血病は治ったが、目が見えなくなったという結末にしたとのことだが、これだって、あまりのテンポの速さに取ってつけたような感じが否めない。

ということで、今日からまたドラマ版のシーズン1が日本映画チャンネルで放送されるので、それを録画して観ることにする。楽しみだな。

上に書いた原作者と若手のユーチューブ(数回分あるが、その第2回から原作者が出てくる)


不愉快な『神々のたそがれ』

2022年09月18日 | 映画
不愉快な『神々のたそがれ』(バイロイト音楽祭2022)

9月11日にNHKで今年の8月にバイロイト音楽祭で上演されたワグナーの『神々のたそがれ』が放送されたので、録画しておいたものをやっと昨日見ることができた。

じつはこのブログでも書いてきたのだが、びわ湖ホールで4年がかりで『ニュールンベルグの指輪』が上演され、それを第三作まで見た。

『ラインの黄金』
『ワルキューレ』
『ジークフリート』

シリーズ最後の『神々のたそがれ』はコロナで無観客上演をネットで見るというものになった。それ以前に、私は自分の都合で予約もしていなかったので、半分諦めていて、このネット上演も「もうええわ」と見なかった。

しかし、今回テレビで見ることができるので、せっかくなら見ておこうと思い、時間が取れる土曜日を使って4時間半くらいもかかるのを全部我慢してみた。

びわ湖ホールの演出はミヒャエル・ハンペでオーソドックスだが、シルクスクリーンを使用して、超自然現象(ライン川の水の精霊たちが水中を泳ぐ、女戦士たちが馬に乗って空を駆ける、など)を上手に演出していて、ワグナーの意図を忠実に描きだそうとするもので、非常に好感が持てた。

ところがバイロイト音楽祭2022は、ヴァレンティン・シュヴァルツという人の演出で、最近良く見かけるタイプ。つまり服装や舞台美術を現代に持ってきて、神話を現代の家庭の話にするというものだ。

このような演出があることは知っていたが、見たことはなかった。見るまでは、言葉が神話的な語彙や超自然現象的な言葉を使うのに、日常生活を見せる世界と違和感があるのではないかくらいにしか考えていなかったが、たいへんな勘違いだった。

それどこではない、ひどく反社会的な演出だということがわかった。まず神話的主題といっても、同じように神話を題材にしたフランスのバロックオペラによくあるものだが、ある意味で、男女の色恋いや恋愛の駆け引きが宮廷内や神々の権力争いとして描かれるという場合が多い。つまりそこだけ取り出してみれば、早い話が、男女の痴話喧嘩である。

このような現代世界に移植した演出は、神話的側面を削ぎ落として、本当に単なる痴話喧嘩にしてしまう。この『神々のたそがれ』もまったく同じ。ブリュンヒルデやジークフリートの神話的力はまったく消し飛んで、ただの結婚生活に飽きた中年男のジークフリートが嫁探しをしているグンターに自分の嫁を策略によって譲り渡すという話に単純化されてしまっている。

そしてこの大作オペラの主題の一つである「指輪」は二人のあいだの子供(10歳くらいの少女を使っていた)ということにして、その子を小突き回したり、引っ張り回したりと、この少女の親が見たら腹を立てると思うような演出をさせていて、不愉快この上ない。

たいていは痴話喧嘩を思わせる歌詞、でもときどきそれとまったく相容れない神話的歌詞、そこにまったく場違いない音楽の連続、音楽をそぐわない舞台美術、もう、すべてがバラバラの演出に、やれやれという思いで見終わった。いったいこれのどこがブラヴォーなんだか。

『赤ひげ2』

2019年12月18日 | 映画
NHK時代劇『赤ひげ2』

金曜日の夜(私は日曜日の夜の再放送を見ている)にNHK時代劇の枠があって、いまは『赤ひげ』のシーズン2をやっている。これがめっぽう面白い。(NHKさんへ、左の写真借りました。)

もちろん赤ひげは山本周五郎原作で、黒澤監督の映画が有名だが、船越英一郎演じるこちらの赤ひげも負けていない。船越英一郎が、偏屈だが、底辺の民や病人を慈しむ姿を見事に演じているから、そこで働く医師たちや患者たちの姿もくっきりと見えてくる。

長崎留学もして、御典医にさえなれそうな(父親はそういう身分である)保本は、シーズン1では赤ひげに反発して反発して、今にも養生所を飛び出しそうだったが、シーズン2では結婚もしたし、落ち着いている。それ以上に、赤ひげのいい片腕として働いている。一応、この人の目線で、物語は進行しているようだ。

保本よりも前から働いている医師の津川がまた変なやつでおもしろい。前田公輝という、他の番組ではあまり見かけない役者だが、皮肉っぽいものの言い方をするところとか、的確な演技が味を添えている。この役者もなかなかいい。

3人目の医師は田山という若者で、シーズン2から登場したので、新入りということになっている。前々回は自分がなんでもかんでも責任をひっかぶるという話の主人公になったが、まだまだ登場人物としての役柄もこなれていない。脚本家のせいだね。

養生所で賄いや洗濯をして働いている二人の女性(お常とお雪)もシーズン1から出ているが、味があっていい。お常なんか、顔が素晴らしい。

そしてシーズン2から登場したのが、もと娼婦で、客に足を刺されて、運び込まれ、そのまま治ってからも、賄いや洗濯仕事をするようになったおよねである。佐津川愛美という、この人もほかで見たことがない役者だ。どういう経歴の役者かしらないけど、この人の演技が実によい。とくに顔の表情の作り方が絶品だ。とくにいいなと思ったのは、足の怪我が治って、養生所で働くようになったが、娼婦として働いていたので、家事ができない。料理も最初は見様見真似でやったので、野菜の切り方がが不揃いだったり、味噌汁の味付けが悪かったり。それを保本にしてきされて、ぶんむくれた時の表情が、よかった。

このまま養生所に居付くのか、それともシーズン2だけで終わるのか知らないが、これからも登場してほしい役者さんだ。

今週でシーズン2は終わるが、シーズン3を楽しみにしている。このNHK時代劇の枠は、雲霧仁左衛門、立花登青春手控え、子連れ信兵衛とか面白いものが多い。期待してるよ。

『国家が破産する日』

2019年11月09日 | 映画
韓国映画『国家が破産する日』(監督チェ・グクヒ、2018年)

シネマート心斎橋で韓国映画『国家が破産する日』を見てきた。1997年に実際に韓国で起きた国家破産に近い通貨危機を描いた映画。

1997年に韓国は国民一人ひとりあたりの総生産が1万ドルに達し、OECDに加盟するなど見た目には急速な経済発展を遂げていたように見えるが、その実、日本がその直前に経験したようなバブル経済の状態にあり、実体はあちこちで倒産や賃金未払いや手形の不渡りが出ていた。またアメリカを中心とした大手ファンドは韓国の企業から投資を引き上げる行動に出ていた。

そうした実態を見て通貨危機を予測していた韓国銀行の通貨政策チーム長ハン・シヒョンが経済政策のトップに何度もそれを報告するが、大企業にまで広がってにっちもさっちも行かなくなるまで放置されてしまう。

いざバブルが弾けてしまうと、自前の手段で通貨危機を乗り越えることを考えるのではなくて、IMFの介入を求めて、韓国経済の構造そのものを大企業とアメリカ資本の都合のいいものに変える方向に舵取りをする。その結果、130万人という失業者、上位100社のうちの半数以上の企業の倒産という状態になる。銀行はすべて営業停止させられる。IMFの後ろにはアメリカが隠れていた。

なんだか近未来の日本を見ているような感じがしたのは私だけだろうか。

シネマート心斎橋では韓国映画を中心に上演しているが、予告編を見ていたら、今後も面白そうな映画が目白押し。最近はとんと映画を見に行かなくなったが、行ってみようかな。


『パリの家族たち』

2019年06月26日 | 映画
マリー=カスティーユ・マンシオン=シャール『パリの家族たち』(シネ・リーブル梅田)

女性大統領、ジャーナリスト、舞台女優、花屋、ベビーシッター、大学教授、小児科医・・・パリで働く女性たちとその家族の「幸せ探し」と、フランス流の人生観を描く・・・と、この映画のオフィシャルサイトのトップには書いてあるが、私の感想はちょっと違う。

フランス社会では、子どもに対して全的な愛情を注ぎ、子どもの人格形成を左右するのは母親だという絶対的なイメージがあって、すべての母親がそのイメージに苦しめられてきたが、もうそんなイメージに振り回されないで、自分は自分なりの母親を生きればいいじゃないの、ということを訴えている映画だと思う。

日本にも母親はこうあるべきというイメージがあるように、フランスのような自由な社会にもやはり固定的なイメージがあるということを初めて知った。この映画の前半はそうしたイメージに苦しめられている女性たちを描いている。

子どもが欲しくて出産したのに、夜泣きがやまないでノイローゼになって、この子を殺してしまいそうと訴えてくる母親、逆に認知症になりかけて三人娘のうちのだれが世話するの、私はいやよ、お母さんは何もしてくれなかったと言う娘たち(といってももうおばさんだが)。

かなりの時間、登場人物たちの人間関係がよく分からなかったし、たくさんの個別の親子が出てくるので、パリジェンヌたちのいろんな姿を見るという意味では面白かったが、一つの映画作品としてはどうなんでしょう。

それにしても新梅田シティとかというところ(スカイタワーのあるところと言ったほうが分かりやすいか)へのアクセスってどうにかならないのかね。炎天下をずっと歩かされる身になってほしい。もう20年位前からずっと同じ。だからシネ・リーブル行くの嫌なんだよね。


予告編はこちら



『12ヶ月の未来図』

2019年05月15日 | 映画
『12ヶ月の未来図』(フランス映画、テアトル梅田)

パリのアンリ4世高校といえば、サルトルやシモーヌ・ヴェイユも勉強した歴史あるリセで、現在の大統領であるマクロンも進学のためにここに転校してきたという学校である。フランスは高校卒業時にバカロレアという国家試験を受けて、これに合格すれば国立大学に入れる。優秀な学生はさらに準備級というところに通ってグランゼコールを目指す。この準備級というのはどこのリセにもあるわけではなくて、それなりのリセでなければ設置していない。

このアンリ4世高で国語の教師をしているフランソワ・フーコーがレポートを返却する場面から始まる。その学生をバカにしたような態度、のっけから私にはフランスの教師が生徒に対する態度に違和感を覚える。

このフランソワが、父親の出版記念パーティーにおける雑談の中で、ベテラン教師がパリ郊外の底辺校で教えるべきだと持論を述べたことから国民教育省の官房長とのランチミーティングに呼ばれ、そこでその持論を褒められ、改革のためにぜひあなたが教えに行ってほしいと頼まれ、郊外の底辺校に一年間出向することになる。

初日、フランソワの運転する車から見える街の様子が、パリ市内の賑やかな洒落た雰囲気から、荒んだ、怪しげな街に変貌する様子が分かる。彼が駐車した車の前にあるのは暴動で燃やされた車。そして大騒ぎしている生徒たち。

映画の核心は、教師と生徒の関係が一つ。フランスでは教師は絶対的な権威を示し、生徒は教師に敬意をもって接しなければならないという不文律があるようで、教師が生徒に対する対応の仕方は、私のようなものから見ると、恐ろしい。しかしまぁそこはお国柄だとしておこう。

第二の核として底辺校の貧困の問題があるはずなのだが、この映画では取り上げられない。

フランソワはなんとかして生徒たちに本を読む面白さを身に着けさせたいと思う。できなかった経験が最初から自分はできないと思わせるということを、アナグラムの授業で理解させ、さらに生徒受けする表現で出来事を話して、そういう話しなら読んでみたいと言わせた後に、それが『レ・ミゼラブル』という小説なんだと教える。

そしてこの小説からディクテーションの試験を出すのだが、セドゥという生徒側の主人公とも言える生徒が良い点を取る。それに気を良くしたセドゥは、フランソワに心を開くようになる。

遠足でヴェルサイユ宮殿に行った日に、セドゥは好きなマヤと、ルイ16世のベッドの下に隠れて、誰もいなくなった後に、ベッドに上がって二人でツーショットをとる。それが監視カメラで分かり、大問題になる。二人は会議にかけられ、セドゥは退学処分になる。

しかしそれに納得がいかないフランソワは、この会議の不備を指摘して、撤回させる。そしてセドゥが戻ってきて、学年末に。フランソワがまたアンリ4世高に帰るという日にセドゥが「先生がいなくなったら寂しい」という。

こういう内容で、レビューは高得点が多い。だが、私には理解できないことばかりで、どこがそんなにいいのだろうかと疑問に思う。

第一に、ディクテーションでセドゥが良い点を取るのだが、実は彼はカンニングをしており、それをフランソワも知っているのだ。なぜそのことを問題にしないのだろうか。良い点を取らせて、セドゥがやる気になるように仕向けるというのだろうか。それは邪道だろう。セドゥが好きなマヤにどうやって良い点を取ったのか教えてと言われ、どうやら何かを教えたらしく、次にはマヤは満点をとる。この箇所は映画では描かれていない。この部分こそ、描くべきところではないだろうか。

第二に、セドゥがフランソワに心を開くようになって、マヤの気を引くにはどうしたらいいかと問われ、フランソワは目立つことをすることだと教え、その一例として詩を書くことと話す。それを聞いたセドゥはマヤに詩を書いて渡すが、マヤからはバカにしたような態度で突き返される。つまりフランソワのアドバイスは失敗だったわけだ。なのにセドゥはそれでフランソワへの態度を変えるわけでもない。どうして?

第三に、会議でセドゥはいったん退学処分を告げられる。次の日セドゥは学校に来ない。フランソワが家に行ってみると、同じように退学処分にあった年上のごろつきたちと連れ立って(というか仲間に引き釣りこまれて)逃げ去る。

ところが数日後にセドゥは学校に戻ってくる。なぜ?どういう心境の変化?そこのところこそ映画で描いてほしいところなのに、映画ではまったく描かれない。

第四に、底辺校の生徒たちが勉強しない理由の一つに、勉強することに意義が見いだせないということがある。その点をフランソワはどう説得するのだろうかというのが私の関心の一つであった。フランソワは、勉強すれば未来が開けると言う。嘘だろう。パリ郊外の若者たちが荒れ狂うのは、未来がないからだ。ただでさえ若者の失業率25%、移民の子供の失業率35%という状況で、勉強したからといって、どんな未来が彼らに見いだせるのだろうか?

この映画をフランス版『学校』(山田洋次監督、1993年)だと書いていたレビュがあったが、全然違うと思う。そもそも日本とフランスでは全然社会状況が違う。少なくとも、山田洋次監督の『学校』が作られた頃の日本とは。

高得点を与えられるような映画なんだろうか。


『ファーストマン』

2019年02月15日 | 映画
映画『ファーストマン』

『ファーストマン』を難波で観てきた。子どもの頃から、将来は天文学者かロケット開発者を夢見ていたこともあり、『アポロ13号』という映画が出来たと聞いた時には、すぐに見に行っただけでなく、3回くらい映画館で見たし、その後もテレビで放送があると、その度に見てきた。本当にあれは名作だと思う。

今回はアポロ13号の事故の七ヶ月前の初めての月面着陸の話である。見に行かないわけがない。しかし今回の作品は期待はずれだった。

第一に、アポロ11号の打ち上げから月面着陸までの過程が最後の10分程度しか描かれていない。つまり初めての月面着陸は付け足しで、それに至るニール・アームストロンの精神的肉体的苦闘がメインになっている。娘カレンの死(小児がんだったみたい)をずっと引きずっているように描かれている。またアポロ1号の乗組員の火災事故死では、向かいの家に住んでいる昔からの友人が犠牲になったことも大きな心痛を与えた。、

第二に、肉体的精神的苦闘の描き方が、それが真実なのかどうかは知らないが、アームストロングの視点からのものになっており、つまり暗い。とにかく陰気の一言。シンバルロックを回避するための訓練とか数Gに耐える訓練とか、ロケット発射して大気圏を出るまでのものすごい振動などをそのまま映像にしようとしているので、画面がグルグル回るし、振動がものすごいしで、見る方は耐えられない。

第三に、しかも演劇で言うところのカタストロフィーがない。最後の10分の月面着陸でそれまでの苦闘が償われるような描き方になっているかというと、ぜんぜんそんなことがない。

第四に、悪いけど、主演のライアン・ゴズリングの顔があまり好きになれない。

だから、『アポロ13号』とは違って、この映画は何度も見る気になれない。



『恋するパッケージ・ツアー』

2018年11月27日 | 映画
『恋するパッケージ・ツアー』(韓国ドラマ)

少し前までLaLaTVで『恋するパッケージ・ツアー』というのをやっていた。上さんも私もとても気に入って、終わった時には、いいドラマだったね、と言い合ったくらいである。

ソウルの仁川国際空港でツアーの待ち合わせ時間にやってきた団体さん。そのなかで最もけたたましいおばさん連中がパスポートを持ってくるのを忘れていたために、7人だけのツアーになって出発する。初老の夫婦、結婚前のカップル、不倫カップル?。そんな中に一人だけの参加者がいる。

彼がパリのシャルル・ドゴール空港に到着するやいなや問題を起こした。マルとい名前がよくある名前なのかどうか聞かれて、よくある名前だけど、あまりない、とかいい加減なことを答えたので、怪しまれた。1時間位遅れてしまう。そしてこの若者がトラブルメーカーに。

彼らを迎えたのがこのドラマの主人公のソソ。フランスで彼氏と結婚式を挙げたのに、捨てられてしまい、そのまま勉強をするためにパリに居着き、生活費のためにツアーガイドをしている。

ツアーのコースは、パリで一泊してから、モンサンミッシェルで3泊、そしてサン・マロで1泊、パリに戻ってきて1泊するというもの。

三組のカップルのいわくもだんだんと明らかにされるが、メインは、マルとソソの恋愛である。ソソはモンサンミッシェルのミカエル像の下で出会った男性が運命の人だと思いこんでおり、そのとおりソソとその下で一緒になる。ソソはもしかしたら彼が運命の人と思うのだが、ことは簡単に進まない。

何度も喧嘩したり、仲直りを繰り返して、最後に本当に運命の人だったら、いつかきっと再会するはずだと思うソソは、それをマルに話して、分かれる。

このドラマは、韓国ドラマ特有の愛憎がないし、それぞれのカップルが抱えている問題をしっかり描いているし、すごく好感の持てるドラマだった。恥は旅のかきすてと言うが、みんないろんな失敗をやらかすので、面白い。

傑作なのが、交際7年目で、そろそろ結婚かという彼氏と来ているOLのソラン(ハン・シウン)が買い物をするときに、店員に必ず「ユー・シンクー・ディス・オア・ディス?」という変な英語の発音だ。英語自体も変だが、クーにアクセントを付ける発音が傑作。

ソソを演じたイ・ヨニは不思議な魅力を持った女優さんだ。皮肉っぽい(人をバカにしたような)表情をすることが多いのだが、なんかいい。マルを演じたチョン・ヨンファは間抜けな若者を演じて上出来だし、不倫疑惑カップルだったが、実は親子だったという娘役のパク・ユナも大人びた雰囲気がよかったし、初老夫婦の奥さん役のイ・ジヒョンという役者さんも、この歳で初めてのドラマ出演みたいだが、一見ブサイクに見えて、可愛らしい人だ。

もう一度見たいな。主題歌や挿入歌も良かった。2曲目のUn realと3曲目のLike a Destinyと6曲目のImagineなどが絶妙の出来。

Compilation Ost Soundtrack of The Package (2017)

『バッド・ジーニアス 危険な天才たち

2018年10月16日 | 映画
『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』(タイ映画)



シネ・リーブル梅田で上演しているのを観てきた。タイ映画なんて初めて。一言も耳にしたことがある言葉が出てこないが、だんだんと慣れてくるもの。内容は、頭がよくて、成績優秀で、タイ社会の中層の女子高校生リンが、自分の頭脳を売って(つまりカンニングをさせて)お金を儲けるという話で、ハラハラ・ドキドキで観れる。

最初は仲良しになった金持ちの女の子だけに正解を教えたのだが、それが成功すると彼女の彼氏(これも金持ちのバカ息子)も加わってきて、クラスの、学年の、中流から上流の(要するに金持ちの)子どもたちを巻き込んだ一大プロジェクトになる。

リンと肩を並べる頭脳明晰な男子のバンクを巻き込んで、今度はバカ息子とバカ娘をアメリカの大学に留学させるために必要なSTIC(世界統一試験)に合格させるためのプロジェクトに発展していく。しかし結末はあまりにも惨めな・・・。

主人公リン(モデル出身だという)、同じく貧しい家庭の子で自分の学力で留学を目指しているバンク、金持ちの息子のパット、彼の彼女でリンの友達でもあるグレース、みんなほとんど日本人と変わらない顔つきの俳優さんたち。日本の高校生と同じような白いブラウスに濃紺のスカートという制服(男子だけは暑いからか半ズボン)、同じような授業風景、でも言葉だけはまったく分からない。不思議な感じがする。

詳しい内容の紹介はこちらのブログがわかりやすい。またこちらはリンをやっている女優さんを中心にしていて興味深い。

『恋のスケッチ―応答せよ1988―』

2018年08月18日 | 映画
韓国ドラマ『恋のスケッチ―応答せよ1988―』



これまで見た韓国ドラマのなかでも私のお気に入りのトップ5に入るドラマだ。

ときはソウルオリンピックが行われようとしている1988年初夏のソウルの下町の5人の幼なじみの高校生たちの家族。

長女ボラ(ソウル大学生)、次女ドクソン(高校生)、長男ノウル(高校生)がいるソン家。

長男ジョンボン(浪人生)と次男ジョンファン(高校生)がいるキム家。これらの家族のなかで一番裕福で、その屋敷の半地下を上のソン家が借りている。

長男ソヌ(高校生)、長女チンジュ(4才くらい)がいるソン家。ソヌの父は数年前に亡くなった。母が一人で子どもたちを育てている。

長男(ほとんど出てこない)、次男ドンリョン(高校生)がいるリュ家。ドンリョンの父はこのドラマの男子高校生たちが通う双門高校の教師をしている。母は保険会社の重役をしていて、ほとんど家にいない(?)。

長男テク(韓国トップの棋士)がいるチェ家。父は時計屋をしているが、ほとんど客はいない。

下町なので、この5人の家族はほとんど一つの家族のようにしている。とくに子どもたちは、ちょうど食事時にやってきたら、一緒にご飯を食べるし、つねにおかずや貰い物なんどをおすそ分けしあっている。

ドクソンの母、ジョンファンの母、ソヌの母の三人は仲良しで、気候が良ければ、路地で一緒に豆もやしの下ごしらえをしたり、ビールを飲んだり、焼き芋を食べたりして雑談している。

冒頭でドクソンがソウルオリンピックのどっかの国のチームの看板をもって入場行進する担当に選ばれたというエピソードがあってから、ソウル大学生のボラが学生運動に参加して警察から追われるとか留置場に入れられるという、ちょっと社会的な出来事以外には、大した出来事は起きない。

5人の高校生たちの人間関係、学校での生活(なぜかほとんど自習時間ばかりが描かれている)、だんだんと芽生えてくる恋心(ソヌとボラ、ドンソクとテク、ドンソクとジョンファン、ジョンボンとドンソクの級友のマギー)、受験勉強の日々、などが普通に描かれているだけだが、彼らの不器用さがちょっと強調されていて、面白い。

もう後数回で終わるが、24才になった彼らは、ドンソクはCAに、ソヌは医学部の学生に(司法修習生となったボラと再び付き合うようになった)、ジョンファンは空軍に配属され、ドンリョンは飲食店を経営し、テクは相変わらず韓国トップの棋士として活躍している。

韓国ドラマ固有の愛憎ドロドロはいっさいなく、庶民の暮らしがいきいきと描かれている。日本のドラマのように、すぐに泣かせよう泣かせようとするところも、いっさいない。作りもの感がない稀有なドラマだ。