読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『韓国文学の中心にあるもの』

2022年08月28日 | 韓国文学
斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス、2022年)

このブログに「韓国文学」のカテゴリーを作っているように、私もある程度は韓国文学に関心をもって読んできたと思うのだが、ドラマほど熱烈に気に入るということがないのは、私の読んできたものが、偏っているせいかのだろうか?

ハン・ガン『菜食主義者』(クオン、2011年)
オ・ジョンヒ『夜のゲーム』(段々社、2010年)
キム・グミ『あまりにも真昼の恋愛』(晶文社、2018年)
チョン・スチャン『羞恥』(みすず書房、2018年)
キム・ヘジン『娘について』(亜紀書房、2019年)
韓国フェミニズム小説集『ヒョンナムオッパへ』(白水社、2019年)
チェ・ウニョン『ショウコの微笑』(クオン、2018年)
チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房、2018年)
パク・ミンギュ『亡き王女のためのパヴァーヌ』(2015年)

その他、韓国ドラマの原作になったものというか、シナリオを小説化したものもいくつかあるが、それらは別格だろう。

印象だけで言えば、ほとんどが短編小説ということもあり、作品世界にどんどん引き込まれて読んだというものはほとんどない。だからつまらない作品だと言いたいのではない。

短編小説というのは描かれる世界の断片を切り取って見せるものが多いので、長編小説のように読み進めるうちに背景の全体像が見えてくるということがないままに終わってしまう。そのためでもあると思うのだが、作品の背景をよく知っていなければ、理解できない、味わえないということがあるのだろう。

話題になった『キム・ジヨン』にしても、私の場合は韓国ドラマをよく見ていて、韓国の嫁が結婚相手の親(家)との関係でどんなものかよく知っているから、ある程度は味わえたのかもしれない。

見たことがない映画の評論を読むのも面白くないが、読んだことのない小説の評論を読むのもやはり苦痛でしかない。

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『同士少女よ、敵を撃て』

2022年08月19日 | 作家ア行
逢坂冬馬『同士少女よ、敵を撃て』(早川書房、2021年)


2021年度のアガサ・クリスティー賞を受賞した作品であると同時に、2022年春のプーチン独裁国家ロシアによるウクライナ侵攻で一躍注目されるようになった小説でもある。

第二次世界大戦におけるナチス・ドイツとソ連による熾烈な独ソ戦での少女の狙撃兵の姿を描いている。

この独ソ戦でドイツは900万人、ソ連は2000万人の人命を犠牲にした。もちろん負傷した人々を入れたら、もっとすごい数になるだろう。

まさに人海戦術。あの映画『スターリングラード』を見ても、主人公は武器が足りないので丸腰で仲間と塹壕のほうへ走っていき、先に打たれて倒れた兵士がいるとその兵士から銃を取って、それを使っている。

今のウクライナのように隣国から侵攻されたらどうするのか?建物は破壊され、人々は戦うことによって死ぬ。その結果が、上にも書いたが、900万人とか2000万人というような死者の数字になる。

では戦わないで侵攻を受け入れて、外国の支配者の言いなりになるほうがいいのか?

たぶん第二次世界大戦のフランス政府の戦法はこれだったと思う。フランスは第一次世界大戦で400万人くらいの死者を出しており、その損害は計り知れないほど大きかった。その21年後に起きた第二次世界大戦ではこれ以上フランス人の死者を出したくない、出せばフランスが滅びると考えたのだと思う。

そこで大した戦闘もなくあっさりドイツに白旗を揚げた。その結果、フランスの北半分はナチス・ドイツの占領下に入ったが、戦死者はわずかであった。しかし占領下のフランス政府-通常ヴィシー政権と言われる-は対独協力者として戦後は戦争犯罪人の扱いを受けることになった。

どちらがいいのかなんて誰にも決定できない。ただただ戦争を回避するような外交努力をする方向で生きるしかない。

この小説を貫いているのは、戦争の愚かさ。しかし、どんなに戦争の愚かさを説いても、戦争をしたがる輩がいる。あまり勇ましいことを言う輩を私は信じない。自分は戦地にはいかないし、失うものはないと思っているのだろう。そんな程度の話ではなくて、そういう輩の後ろには軍需産業が手ぐすねを引いていることこそが恐ろしい。

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小学校1年生から落ちこぼれを作る教科書

2022年08月14日 | 日々の雑感
小学校1年生から落ちこぼれを作る教科書


朝日新聞の書評欄に『算数文章題が解けない子どもたち』という本の書評が載っていて、その冒頭に「小学1年で習うという問題を解いてもらおう。正答率は3年生で3割に達せず、5年生でも7割台という「難題」だ」とある。

どれどれ、と思いながら、私も解こうとする。

問題文
「14人の子どもが1列に並んでいて、ことねえさんの前に7人いる。ことねえさんの後ろには何人いるか?」

みなさん、問題文の意味がわかりますか?私はわからなかった。というよりも、1列に並んでいる子どもたちと「ことねえさん」の位置関係を

・・・・・・ ・・・・・・・
  ○

・・・が子どもたちで、○が「ことねえさん」という位置関係だと考えた。「え?ことねえさんの後ろにはだれもいないじゃん!」答えは0人?

小学校の教員をしていたカミさんにこれを見せたところ、「ことねえさん」は子どもたちの列の中にいるという意味だから、答えは8人よ」とおっしゃる。

・・・・・・・○・・・・・・・

ということだ。

え!?「14人の子どもが1列に並んでいて、ことねえさんの前に7人いる」という文章からどうして、「ことねえさん」が子どもたちの列の中にいることになるだ!?

小学1年生で習うというこの文章題の正答率が小3で3割に達しない、5年生でも7割台という意味が分かった。子どもたちの理解力の問題ではなくて、文章題の作り方が悪いからだ。

「14人の子どもが1列に並んでいて、ことえねえさんはその列の中にいます。ことえねえさんの前には7人います。ことえねえさんの後ろには何人いますか?」
これならはっきりと「ことえねえさん」14人の子どもたちの位置関係がわかるから、おそらく正答率は小1でも9割を超えるだろう。

この書評者も、こんな訳の分からない文章題そのものの問題点を追求しないで、「算数文章題が解けない子どもたち」なんてセンセーショナルなことを言う前に、こんな馬鹿な文章題を作る教科書作成者やそれを認定した文部科学省の役人の愚かさを問題にしろよ、と言いたい。

日本の教育をだめにしている元凶はここにある、と言ったら、話が飛躍し過ぎか?そんなことはないだろう。

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『ロラン・バルト』

2022年08月08日 | 人文科学系
石川美子『ロラン・バルト』(中公新書、2015年)



ロラン・バルト生誕100年という節目に出版された評伝である。

ロラン・バルトとといえば、私が大学院生から、研究者として駆け出しのころに、流行った記号論的文体論なんかのトップランナー。私のような世間知らずでも『零度のエクリチュール』だの『S/Z』だの『ラシーヌ論』などを読んだものだ。

これらの多くは忘れてしまったけど、今でも記憶に残っているのは、バカンス中でTシャツに短パンのバルトが明るい部屋で、小さな机に向かって執筆をしている写真で、南仏あたりで休暇中でも執筆をしているんだなと、私もどこか海辺のセカンドハウスにでも滞在して、本でも書けるようになりたいものだと思ったのを思い出す。

この本を読むと、父親の家系の家がスペイン国境近くで、大西洋の海辺の町バイヨンヌにあって、少年時代をそこで過ごし、毎年のようにバカンスを過ごしていたというから、このバイヨンヌか、その後に滞在するようになったユルトでの写真だったのだろう。

一昔まえによく言われた京大式カードのようなものを作った先駆者のようで、そうしたカードをもっていって執筆していたのかもしれないな。まぁ私の場合は京大式カードを作りかけてはみたものの、まったく続かず、その後はパソコンが利用できるようになったので、今ではパソコンがなければ研究にならない。

断片的なことしか知らなかったバルトのことがひと通り理解できるようになっている、よい評伝だと思う。

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