読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

天才的作曲家と画家

2024年07月17日 | 日々の雑感
ともに印象派と言われる作曲家ドビュッシーと画家ルノワールとモネ。
この人たちは多くの優れた作品を残しているのだが、私がとりわけ好きなのが、ともに光のきらめき、光線のゆらめき、光と影の移ろいを描いた作品だ。

ドビュッシーは「アラベスク第1番」
CANACANAさんというピアニストのユーチューブ。下のルノワールとモネの絵を見ながら聞いてみてほしい。

ルノワールとモネは「ラ・グルヌイエール」(二人して出かけたセーヌ河畔の水泳場を描いたもの)
モネ


ルノワール


ドビュッシーは決してルノワールとモネのこの絵に触発されて「アラベスク」を作曲したわけではない。むしろ「アラベスク」というのはイスラム風装飾のことなので、まったく違うのだが、私にはルノワールとモネが描いた水面のゆらゆらする様子を音楽にしたように聞こえる。

三人の作品は、これだけあれば、他の作品はなくてもいいというくらいに、素晴らしいの一言しか出てこないような作品だ。

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大阪万博ってなに?

2024年06月24日 | 日々の雑感
大阪万博って、いったいなんのためにやるのか?
1.「リング」ってただの渡り廊下にすぎない。とくに目新しい技術で作られているわけでもない。ただの渡り廊下にすぎない「リング」に大量の木材と重機と人材を投入している。能登地震の被災地は半年過ぎてもいまだに倒壊した家々がそのままになっている。道路などのインフラの整備ができないだけではなくて、木材も重機も人材も足りないからだろう。ただの渡り廊下のために大量の木材・重機・人材を投入しているために、復興のほうに回ってこない。この「リング」、万博が終わったら、壊すだけだという。再利用もできないらしい。何のための万博やねん!

2.もともと関係者以外立入禁止の島が夢洲だ。そこには産業廃棄物をはじめ、ダイオキシン、PCB、水銀その他の危険な物質を廃棄するところだ。そしてメタンガスが大量に発生している。その数値は労働者を働かせてはいけいな水準。メタンガスなんて、ガスだから、こっちおいでと誘導しようとしても、好き勝手なところから湧き出る。その結果が、このあいだの爆発事故。メタンガスが発生する場所には、駐車場、トイレ、レストランが予定されている。火気厳禁のレストラン!何のための万博やねん!

3.万博会場へのアクセスは、現在工事中の地下鉄一本、夢舞大橋の一本だけ。おそらく一番怖いのは何かの事故が起きて多数のけが人が出るというようなケースだろう。地下鉄では救急車は通れないので、夢舞大橋しかない。そこはシャトルバスが数珠繫ぎになっているだろうし、そこへ救急車が何台も通れるのだろうか?海上交通を使うという手もあるかもしれないが、船が停泊できる場所は限られており、都合よくその近くで事故が起きるとはかぎらない。なんのための万博やねん!

万博の真実を知りたかったら、こちらのユーチューブをご覧になるといい。


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マイナンバー保険証の張本人はこいつです

2024年06月20日 | 日々の雑感
河野太郎が聞く耳を持たない猪突猛進で進めようとしているが、6%から全然増えないマイナンバー保険証。増えるのは、トラブルばかり。今年の秋には、完全移行というが、この調子でいけば、完全移行どころの話ではない。

しかしもう紙の保険証は発行されないから、しぶしぶマイナンバー保険証に登録する人、何も知らないで放置して、紙の保険証が使えなくなる人、資格証明書を発行してもらって急場をしのぐ人ということになる。

本当にどうなるんだろう。医療はまったなしなので、保険証が使えなくて、医療が受けられなくなる人が続出することになる。

私が本当に恐れるのは、国民の大半がしぶしぶマイナンバー保険証に登録したとしよう、すると毎朝ものすごい数のカードが医療現場で使用されることになるが、大元のコンピュータシステムは大丈夫なのだろうかということ。よく銀行ATMがパンクして送金、引き出し、入金ができなくなることがある。それで商売に打撃を受けるケースもあるだろうが、多くはしばらくは様子見をしておけば、そのうち回復する。

だが医療現場ではそんなことは許されない。今日は手術日だ、今日薬をもらわなければ飲む薬がない、今日診察を受けなければ重症化する…。コンピュータシステムが不調でマイナンバー保険証が使えないから、しばらく様子見はできない。かといって紙の保険証はもうない。小さなクリニックなら、名前を言えば、カルテを見つけることができるかもしれないが、医療費計算はどうする?大病院なんか悲惨なことになるのは目に見えている。

河野太郎が意地を張っているように見える裏にいるのは、経団連会長がマイナンバー保険証を言い出したから、彼らはこの映像にあるように、皆保険制度をやめさせて、民間保険に支配させるというアメリカ型の医療制度にしようとしているのだ。
下のURLをコピーしてご覧いただきたい。

https://x.com/RobbyNaish77/status/1802554033716228356


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『パチンコ』

2024年06月03日 | 日々の雑感
ミン・ジン・リー『パチンコ』(文藝春秋、2020年)


最近は、7日から10日くらいの間隔で、母親の介護に米子まで出かけている。母親の家では3日から6日くらい滞在して、また自宅に帰るという生活である。その行き帰りや母親の家では、なかなか本を読む気力がないのだが、これは一気に読んでしまった。

チェジュ島の近くの影島で生まれたパク・ソンジャとその両親の暮らし、そしてパク・ハンスの子どもを身篭ったソンジャを連れて、大阪の猪飼野に移り住んだパク・イサクの朝鮮人町での貧困の暮らしの描写は、一家を支えるオンマの腕にかかっていることをリアルに描き出す濃密さを持っている。

影島での生活は、まだ畑があって、野菜を作りができるし、下宿している漁師たちが持ち帰る魚を使って美味しい汁物を作ることができるのだろうからまだマシとしても、大阪の猪飼野での生活は、それこそ都市生活ゆえに現金がないと生活していけないわけで、自分たちの食べるものにも困るような状況の中で、現金を捻出して、材料を買い、キムチや飴を作って、駅周辺で売って、日銭を稼ぐという暮らしの描写も、作者の後書きを読むと、相当に在日の暮らしや環境や日本人の差別などを膨大に調べた上で書いたというのが納得できるほど、リアルである。

それに比べるとソンジャの子どもたち(パク・ノアやモーザス)の世代や孫(ソロモン)の世代は見た目には全く違うように思える。もう食べるものにこと欠くことはなくて、場合によっては、ノアやソロモンのように高学歴さえ手にすることができる時代になった。母親世代の描写にあった、あの濃密さは消えて、スカスカな世界を見ているような、そんな平板さが描写を支配している。しかし在日朝鮮人の苦悩は形を変えて彼らを苦しめ続ける。

そして医者、弁護士、会計士、大学教員などのように、在日であっても、日本人と肩を並べて仕事をすることができるような職業に就くことができる人たちはごく一握りだが、彼らの世界でさえも、差別が消えてなくなるわけではなくて、一般の多くの在日と同じように、ノアやソロモンと同じ苦悩を背負って暮らしている。

結局、私がこの小説に感じた描写の濃密さ・のっぺらさは、時代の違いなのだとおもう。おそらく貧困層の日本人が戦前・戦後を生き抜いた小説だとしても、同じ構造を見せたのではないだろうか。だからと言って、この小説に意味がないということではない。とりわけこの小説の舞台となった日本という国の、朝鮮(韓国)への差別意識の問題は、本当に、この小説が描き出したように、永遠に変わらないのだろうかと思わせる根深さを持っている。

訳者があとがきで、「異国に移住した一世と二世が異なる部分で苦労するのは、実はどの国の移民にも共通している」と書いているが、アメリカでのそれは、特に在日朝鮮人について、まったく違うようにおもう。なぜなら戦前の日本の統治者たちが作り出した(多分に一般民衆もそれに迎合した)中国人・朝鮮人への差別意識は、いまだに根強く、日本人の無意識層に刻み込まれているからだ。

朝鮮支配を正当化するために、国家の維新を遂行することができなかった「劣った」朝鮮民族のために、日本民族が統治してやらなければならない、といったような論理で、韓国併合を実行した。そのために日本人に「劣った」朝鮮人というというイデオロギーが延々と刷り込まれていったのだろう。

それはつい最近まで日本の文化は中国と朝鮮の文化の影響を受けて発展してきたにもかかわらず、まったくそんなことに触れることさえはばかられるように(さすがに中国4000年の文化からの影響を否定することはできないが)、一切触れられることがない。日本語という言語の発展にしても、古くから朝鮮語の影響を受けてきたし、古墳や仏教寺院にしても朝鮮から持ち込まれた文化であることは明らかなのに、そういう影響関係を調べようともしないで、「古事記」や「日本書紀」を訳のわからない解釈をするばかりで、一向に研究が進まないのは、本当に馬鹿げているとしか思われない。

あまり話の間口を広げても意味がないので、この辺でやめておこう。この小説は、こういう問題についてはオープンな、アメリカという国で、アメリカに在住するコリアン系の人によってこそ描きえたのだと思う。ただ、自然な描写、まるで日本に住んでいる在日が書いているように自然な描写が可能だったのは、翻訳者の技量によると言わざるを得ない。





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45年来の知り合いと再会する

2024年04月12日 | 日々の雑感
45年来の知り合いと再会する

大学入試のために大阪に来たさいに、高校のクラブの先輩の下宿に泊めてもらった縁で、その大学に入学したときに、そこが空いていたので、すぐに下宿先を決めた。その先輩がやっていた縁で、ある社会系のクラブに入った。その時に知り合った友人は吹田市役所に採用されて、もう何年も前に定年退職している。

最近になってやっと連絡をとるようになったので、一度会いたいと思っていたのだが、コロナも下火になってきたことから、昨日待ち合わせして大学で会った。

お互いジジイではあるが、このK君のほうが年上(入学に浪人しているし、卒業時も一年留年している)ですでに70歳ということだが、まぁ髪の毛は真っ白で地肌が見えているが、趣味で畑をしているそうで、しっかりした体をしている。

大学の近くに住んでいるのに、卒業してから一度もキャンパス内に入ったことがないそうで、私は一年前までそこで非常勤講師をしていたので、ざっと案内して回る。キャンパスの半分以上が、新しい建物になっているからだ。

早め目の時間に学内にあるレストランに入って、昼食を取る。入ったときにはあまり客もいなかったが、12時過ぎるとすごい混みようだった。日替わりランチをいただきながら、あれこれ話をする。
けっこう話を振ってくるのが上手で、学生時代のことや、共通の知り合いのことや、最近読んだ本のことなどをあれこれ喋りまくった。

1時前にレストランを出て、一駅離れたところに自転車を置いてきたというので、そこまでまた喋りながら歩いて行った。そこは私が大学に入った頃に住んでいた地区で、そこも完全に様変わりしているが、懐かしい。

我ながらよく喋ったなと思うくらいによく喋った。楽しい半日であった。今度は共通の知り合いも含めて再会したいものだ。



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大学図書館の思い出

2024年03月31日 | 日々の雑感
大学図書館の思い出



私は高校生の頃から読書(とくに日本文学)が好きだったが、もっぱら商店街にある本屋で文庫本を買って読むタイプで、図書館にはまったく行かなかった。というか、図書館で本を借りるという発想がなかった。だから高校3年間で高校の図書館に入ったのは一回か二回しかない。それも本を調べるとか本を借りるためではなくて、三年間ずっと同じクラスだったI君と、理由は覚えていないが、図書館で待ち合わせしたからだ。

そんなこんなで、図書館というものにまったく縁がなかった私だが、大学に入るとそうもいかなくなった。現在のK大図書館は、関西でも最大規模の蔵書を誇る図書館を有しているが、私が入学したころは、戦後すぐに建設されたものがそのままであった。ワンフロアが狭いので、そのぶん何階もあって、書庫に入って(と言っても、それは大学院生になってからの話しだが)、複数階を上がったり下りたりすることがよくあった。図書館員たちは大変だったろう。

閲覧室(自習室)によく出入りするようになったのは、二年生になってからだ。一年生の期末テストは散々だった。もともと英語をやりたくなくてフランス語を履修したのだが、英語の授業はつまらないなりになんとか単位は取れた。問題はフランス語であった。英語は二年でおしまいだが、フランス語は四年間使うことになる。こんな調子では、四年間持つまいと反省した私は、二年生になってから真面目に勉強するようになった。

一年生の夏休みは二ヶ月のうちの一ヶ月を阪急デパートでアルバイトしたが、二年生になると、そんなことはしていられないほどの成績だったので、田舎暮らしの祖父母の家に籠って、あらゆる誘惑を排除してフランス語の勉強をした。

とにかく動詞の活用がまったく分からないので、直説法現在形、複合過去形、半過去形、単純過去形、単純未来形、条件法現在形、接続法現在形などを必死で丸暗記していった。夏休みでは完全に終わらなかったので、後期に入ってからもその続きをやることにしたが、当時は大学の近くの、三畳一間の下宿屋(5000円の家賃)に住んでいたので、机もなかったこともあり、大学の図書館で勉強するようになったのだ。

恐る恐る入り込んだ閲覧室(自習室)は、昔の大学図書館のイメージそのままであった。昼間にも行ったはずだが、思い出すのは、煌々と灯る明かりの下で、勉強している学生たちの姿だ。相変わらず本を借りるということはあまりなかった。もっぱら勉強をしに行っていた。

本を借りるようになったのは、大学院生になって、結構な量の本を読まなければならなくなってからだ。その頃には、自分で研究書を買うだけでは不十分なので、図書館にある蔵書を借りる。そしてそれを院生に与えられた無料カードで全部コピーして、これまた大学院に備えられていた製本機を使って、簡易製本する。するとなんだか読んだような気になるものだった。

しかし本当の意味で大学図書館を縦横無尽に使うようになったのは、非常勤講師になって、自分の専門の研究を真面目にやるようになってからだろう。大学院生時代にやっていた研究主題とはまったく違う分野の研究をするようになったこともあって、大学図書館が非常に便利だった。古いものでも全集が揃っているし、関連分野の文献も豊富にある。さらにこの大学図書館に所蔵されていない文献は他大学の図書館から取り寄せたり、紀要などなら、論文コピーを送ってもらえるサービスもある。

現在は、非常勤講師を辞めたので、校友カードで本を借りることができるだけで、書庫にも入れないし、文献複写のサービスもしてもらえない。まったく不便なので、図書館長に手紙を書いて訴えたのだが、けんもほろろに拒否された。もっぱら市立図書館を利用することが多い。




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『チャップリンとアヴァンギャルド』

2024年03月18日 | 評論
大野裕之『チャップリンとアヴァンギャルド』(青土社、2024年)


チャップリンの映画は、初期のものは別として、有名なものは、ほとんど観ている。だから、この本のアヴァンギャルドという言葉を見たときに、あまりピンとくるものがなかった。

私にとってアヴァンギャルドといえば、フランスの第一次世界大戦後におきた文芸運動であるシュールレアリスムが思い浮かぶ。アンドレ・ブルトンとかルイ・アラゴン、そして絵画ならダリあたり。

ところが、この本によれば、彼らから高い評価を得ていたという。さらに同じ時期に舞踏の分野でおきたニジンスキーなどの新しいダンスの潮流にも高く評価されていたというから、まさにチャップリンの演技や映画手法はアヴァンギャルドだったのだという。

この本では、私たちが今では当たり前と思って観ている演技や演出などが、まさにチャップリンの創作によるものであったらしい。マイケル・ジャクソンのムーンウォークなんかも、チャップリンが最初にやったらしい(そのままではないけどね)。

チャップリンってすごいわ。





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『明治の御世の「坊っちゃん」』

2024年03月15日 | 評論
古山和男『明治の御世の「坊っちゃん」』(春秋社、2017年)


代表的な作品としては『猫』に続く第2作にあたる『坊っちゃん』も漱石の小説では一・ニを争う人気の小説である。

主人公「坊っちゃん」とは明治天皇のことであり、父であり「毒殺」された前天皇の孝明天皇の亡霊を「清」、兵士の血で染まっている「赤シャツ」は山県有朋、「野だ」は、日本を中国などのように、幕府と薩長による内乱を起こさせて、最終的には植民地化しようと考えていたし、薩長と手を組んで軍備増強させて巨富を手にしたイギリス、「山嵐」は孝明天皇を守ろうとしながらも、薩長によって朝敵にされて滅ぼされた会津藩主の松平容保、「うらなり」は「乃木希典」、「マドンナ」は「迷う女」つまり日露戦争で赤シャツに使い捨てにされて成仏できないでいる日本人兵士たちに、擬した能楽として読み解くという、斬新な研究である。

夏目漱石が、日露戦争に反対し、国民を戦争に煽り立てる新聞報道に批判的であり、反体制的で反権力的な個人主義を標榜したというような話はよく耳にするし、そうした研究もたくさんある。しかしここまでストレートに権力批判をした小説を書いたという分析は、驚きと言わざるを得ない。

しかし、この本を読めば、『坊っちゃん』『猫』『三四郎』などの作品が、「百年かけても斃さなければならない敵』に対する「権力の目をかすめて我理を貫く」巧妙な風刺であり、舌鋒鋭い果敢な体制批判であることが了解される。

『坊っちゃん』を書いた直後の漱石が「僕は世の中を一大修羅場と心得ている。其内に立って花々しく打死をするか敵を降参させるかどっちかにして見たいと思っている。敵というのは僕の主張、僕の趣味から見て世の為にならんものを云うのである」という決意のもとにこれらの作品を書いていたというのだ。

『坊っちゃん』人気が出て、あちこちで評判になった頃に、この小説の登場人物たちのモデルとなっていると思われた当時の「松山中学」の校長だかが、抗議の文章を新聞に載せたという話を聞いたことがあるが、漱石はどう思っていたのだろうか。普通の読者なら、どうしたって「松山中学」の教員たちをモデルにしているとしか読めなかったらだろう。能楽や江戸戯作の心得のある人たちにしか漱石の真意が伝わらなかったとすれば、作者としてはそれも痛し痒しというところだろう。

こうした読みは、とくに現代においては、能楽の知識、言葉を符牒として読み直す言語感覚などが必要で、誰にでもできるものではない。「全編を解説つきの対訳にように通して書ければ流れが解りやすいかもしれないが、それはまたの機会としたい」とあるので、そのような対訳本を出すことも念頭にあるのかもしれないので、それを待つことにしよう。

夏目漱石が明治天皇・睦仁を「坊っちゃん」にしてこんな小説を書いた動機の一つに、天皇をまさに「錦の御旗」にして、天皇の意思などお構いなしに、国民を戦争に動員して、多数の兵士を湯水のように死なせ、国民に暴力を振るう権力者たちへの反抗であったということだ。

この本を読んで初めて知ったのだが、薩長の思い通りにならない孝明天皇は毒殺された可能性があり、明治天皇も日清戦争や日露戦争を望んでいたわけではないにもかかわらず、権力者たちが決めたことに従わざるをえなかったという。安倍晋三たちが「美しい国」などと耳触りのいい言葉で作ろうと計っている国のかたちも、このような戦前の日本、つまり天皇を利用して、国民の自由や幸福を奪い去って、権力者の思うがままに動かして戦争に動員できる(戦前と違うのはアメリカの戦争に動員できるということだ)日本なのだということが、見えてくる。

この本は、現代とは遠く離れた明治の小説を解き明かしているように見えて、じつは現代の権力者の意図も解き明かしてくれるという稀有な評論だと言える。




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『秘密諜報員ベートーヴェン』

2024年03月12日 | 評論
古山和男『秘密諜報員ベートーヴェン』(新潮新書、2010年)


政治の世界とは無縁と思われている音楽家(作曲家)が、当代の政治に深く関わっていたという話は、最近になってぽつぽつと研究が進み始めた分野である。

その嚆矢となったのは、ヘンデルが、後にイギリス王ジョージ1世となるハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒの諜報部員として、先にイギリスにわたり、イギリスの政治情勢を報告していたということを詳細に研究した山田由美子の『原初バブルと《メサイア》伝説』(世界思想社、2009年)である。これについては、こちらに書いている。

ジョージ1世の理想を支えるべくイギリスの敵対人物たちの社会に入り込んでスパイまがいのことをしていただけでなく、ジョージ1世を文化的に支援すべく音楽を創りだしたというヘンデル像は、はっきり言ってすごい驚きである。なんらかの理想を抱いていて、それを実現すべく、音楽家として関与するということは、あって当然のことだろう。

それと同じように、封建制を打破し、自由で民主的な社会の実現しようという大きな理想を抱いていたのがベートーヴェンであったらしい。彼はナポレオンのヨーロッパでの改革に期待を抱いていた。それが1812年のナポレオンによるロシア遠征の失敗によって、旧体制の復活というなかで、晩年をすごすことになったという。

この本では、<不滅の恋人>への三通の手紙と言われている有名な手紙の解読を軸にして、1812年のベートーヴェンの動きをヨーロッパの政治情勢と関わり合わせて、解き明かすという内容になっている。

最初はたんなるとんでも本だと思っていたのだが、読んでみると、中身のしっかりした素晴らしい本だった。



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『火口に立つ。』

2024年02月15日 | 日々の雑感
松本薫『火口に立つ。』(小説「生田長江」を出版する会、2024年)

鳥取県西部で活躍する小説家の松本薫さんの最新作である。今回は鳥取県の根雨の出身の生田長江が題材になっている。生田長江は1882年生まれで1936年に亡くなっている。

翻訳家としてはニーチェを本格的に日本に紹介したということになっているし、文芸評論家でもあり、とくに当時活発になってきていた女性思想家や文筆家たちを支援して、女性思想雑誌の『青鞜』の創刊にも一役買ったらしい。

この小説は、同じく根雨(根雨の北にある貝原という村)の出身である南原律という女性を創作して、彼女の視点から生田長江や彼の家族やその周辺の人々や明治から大正へ、そして昭和へと変わっていく東京を描き出している。

生田長江の思想や妻の藤尾、娘のまり子との日々、一時期書生をしていた生田春月や佐藤春夫の言動、度々生田長江の家に相談に来ていた平塚らいてうをはじめとする女性作家・思想家・活動家たちの姿があまりに生き生きと描かれているので、たいへんな筆力だと感心するほかない。まるで彼ら・彼女らが目の前で生きているかのようだ。

もちろん著者が造形した南原律や、「リバティ食堂」を共同経営するようになったイチも、たんなる狂言回しではなくて、一人の人間として生きているというくらいに描かれている。

それに著者は鳥取県の出身だが学生時代から教員時代も含めて10年くらい東京やその近くに住んだことがあるようだが、地理感がいいのか、この時代の東京も鮮やかに描かれている。

そして何よりも、生田長江が生きた時代の雰囲気が手に取るように見えてくるくらいわかりやすく描かれている。それはたんに事件を列挙するだけのことではなくて、生田長江が変化する様子を時代の動きにからませて描き出しているからだろうし、それをある時には批判する律の考えをとおして描き出しているからでもあるのだろう。

鳥取県の地元小説というだけで終わらせたくない秀逸な作品だ。








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2023年読書のベスト5

2023年12月30日 | 日々の雑感
2023年読書のベスト5

今年の読書は28作品。悲惨な数字にならずにすんだが、実質が伴わない。だんだん読書への興味が薄れている。何を読んでも面白くない。こんな状態は初めてのことだ。若い頃は、本屋へ行くのが楽しかった。なんか宝物でも見つかるのではないかというドキドキ感があったのに、もう本屋へ行くこともない。なんでもアマゾンで買えるから?なんでも図書館で借りれるから?私自身の内面の問題であることははっきりしているのだが…。

1.佐伯一麦『還れぬ家』(2013年、新潮社)
たぶん実際の作者の経験を小説にしたものだと思いながら読んだ。老いて認知症になり周囲に攻撃的になる父親の姿を描いたこの小説を読むのは、私自身の老いた親の姿を見るようで、辛いものがあるが、それでも読みきらなければならないと言い聞かせて、最後まで読んだ。

2.ワイルド『サロメ』平野啓一郎訳(光文社古典新訳文庫、2012年)
『サロメ』そのものも興味深いなと思うが、それ以上に訳・解説の平野啓一郎の文章が興味深い。彼の解釈がよくわかるだけに、世間一般の解釈はいったい何なのと首を傾げざるをえない。それほど斬新だった。

3.竹倉史人『土偶を読む』(晶文社、2021年)
ついに第43回サントリー学芸賞までもらってしまうとは。『土偶を読むを読む』まで出て、専門家たちからあれこれ書かれているけど、それでこそ研究は社会的になるのだから、いいことだ。くだらない権威主義に風穴を開けることになったのではないか。

4.ラモー『和声論』(翻訳・伊藤友計、音楽之友社、2018年)
この訳者は今年はボエティウスの『音楽教程』も翻訳出版して、勢いづいている。この調子で、次々とバロック期のフランス音楽関係の翻訳を出すんじゃないだろうか、とみんなが期待している。

5.水林章『日本語に生まれること、フランス語を生きること』(春秋社、2023年)
水林章『壊れた魂』(みすず書房、2021年)
この二作品はセットになっているから、どちらを先にということではないが、両方を読むとより理解が深まる。現在の日本の「良識」を代表する著作。

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犯罪者集団による政治は無効

2023年12月12日 | 日々の雑感
犯罪者集団による政治は無効

パーティーをやって、その資金を裏金としてネコババしながら、収支報告書に記載していなかった額が数億円という記事が出ている。

まずこの裏金騒動の発端となった政治資金収支報告書の嘘を暴いた神戸学院大学の上脇博之さんに敬意を表しておきたい。実はこの人、いまから40年以上も昔のことだが、関西の某大学の大学院入試のときに見かけた人で、私は文学で、上脇さんは法学だから、入試の教室は全く違うのだが、独特の風貌で目立っていたので、割と人の顔を覚えるのが得意な私は、ずっと覚えていた。(って、どうでもいいことなのだが。)

それはさておき、裏金づくりは贋金づくりと同じで、闇金を作る違法行為である。新聞・週刊誌には安倍派、安倍派と、あたかも安倍派だけが裏金づくりをやっているかのような論調になっているが、自民党全体がそういうことになっているのは、これから明らかになっていくだろう。

なんてったって、贋金つくりと同じで、こんなうまい話しはないからだ。もう一つ闇金には内閣機密費というのがあるが、これは内閣のトップでなければ使えない。だれでもできるわけではないが、パーティーの裏金は誰にでもできる。

産経新聞に「自民・主要派閥のパーティー収入総額と推計される還流分の総額」という記事があって、それによれば、安倍派で数億円(数十人)、麻生派で3億円(26から41人)、茂木派で1億3000万円(14から20人)、岸田派で1億6000万円(15から26人)、二階派で3億7000万円(23から29人)と、自民党のほとんどの議員が関わっている。

もちろんこの中には岸田首相も含まれるだろう。そういう犯罪者集団がやろうとしている、やっている政治―健康保険証のマイナカード化強制、軍事費のための増税、インボイス制度の強制などなど―はすべて無効である。いますぐこれらの事業は凍結して、この裏金づくり問題をすべて明るみに出さなければならない。その後に、総選挙を行うべきだ。

18日追記
質問を繰り返す記者に対して「頭悪いね」と愚弄した、キックバック(元)大臣がテレビで映し出されていたが「そうなんです、私、頭悪いので、こんな私にもわかるように説明してください」と食い下がる記者魂がこの記者たちにないのが、残念でしょうがない。

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『日本語に生まれること、フランス語を生きること』

2023年11月26日 | 日々の雑感
水林章『日本語に生まれること、フランス語を生きること』(春秋社、2023年)


(上の画像をクリックすると、アマゾンのサイトに行けます)

日本人をがんじがらめにしている支配・被支配の構造を鮮やかに提示してくれた、興味深い本である。

本来は独立した機関であるべき日本銀行の総裁を従属させて、トヨタのために日本札をじゃぶじゃぶ市場に溢れさせる、あるべき教育の姿を描き出している教育基本法を改悪して、戦前のような教育に道をひらく、憲法改悪法案を作って、基本的人権を葬り去り、天皇制復活を目論む、国会で何十回となく嘘発言を繰り返す、その他多くの悪事を繰り返しながらも、選挙になると安倍を支持して多数を取らせてきた(小選挙区制という選挙制度にも問題があるが)「多数の」日本国民の行動を理解できないと嘆く冒頭からの論調には、多々賛同できるところがあるが、それと対局にあるものとして提示されている、フランス人の読書会のような集まりの分析を読むと、ちょっと違うのではないかと首を傾げざるをえない。

もちろん著者が、現状のフランスのあり様を肯定しているのではない、そうではなくて、あるべき共和制の姿からに照らしたうえでのことだとは、承知している。結局、日本にはフランス革命のようなものがなかったと、現在の日本人を作ったものが遡ればさかのぼるほどどこまででも遡ることができるという水林彪への参照は、絶望的な思いに陥らせることになる。そんな昔から日本人が作られているのなら、変えようがないではないか、と。

日本語という言語が支配・被支配の構造に深くがんじがらめにされているという指摘には、さすがに唸った。たしかに日本語を発する・書くたびに、そうした支配・被支配を意識しながら発話する、その繰り返しが日本人を従属者として馴致させているのだ。

本当なら外国語を学ぶことによって、逆照射のようにして日本語のそうした構造が見えてくるようにならなければならない。現実の外国語教育はそのようにはなっていない。一部の人だけがそういうことを理解していても意味がないだろう。


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国立国会図書館関西館へ

2023年11月24日 | 日々の雑感
そんなに古い本ではないのだが、大学での仕事を辞めたので、大学図書館の相互利用を使用することができず、公立図書館がまったく所蔵しておらず、国立国会図書館の東京館しか所蔵していないために、関西館に送ってもらって、館内で閲覧するというしだいになったため、はるばる国立国会図書館関西館まで行ってきた。まぁ東京館まで行くことを考えれば、はるかに近いのだけど。(左の写真は国立国会図書館のサイトから借りた)

なんせ大阪府の南のほうに住んでいるので、地下鉄の中央線まで行って、中央線の終点である、学研奈良登美ヶ丘駅まで行く。昼前だったので、駅前のイオンで昼ごはん。美味しいぼた餅を食べて、英気を養う。

バスに乗って(このバス路線は知り合いの家に行くときに使ったコースで、以前乗ったことがあるので、だいたい感じがわかっていた)国立国会図書館関西館前で降りると、館外の敷地も広くてどこから入っていいのかわからない。とにかく初めてのことばかりなので、すべて係員さんたちに教えてもらう。係員さんたちがみんな親切だったので、救われました。

よくよく読んでみると、ほとんど私の目的のためには使い物にならない。がっかり。しかしせっかくやってきたので、手ぶらで帰るわけにもいかないと思い。めぼしい箇所をコピーしてもらった。

私のような目的で来ている人たちばかりかとおもったら、どうもそうではなさそうで、ただ近くの公立図書館みたく、新聞を読みに来ているとかといった人もたくさんいるのかな?そう見えた人たちはたんに私みたくコピーができるのを待っていただけかもしれない。

館内もとにかく広い。歩いている人がほとんどいないので、誰もいないのかと思ったら、結構な人が隠れるようにして閲覧テーブルに向かって本を読んでいたり、端末を見ている。

一度だけ行ったことがあるパリ国立図書館の新館を思い出した。なんか似たような雰囲気だった。私が頻繁に行ったのは、旧館の近くのルヴォワ通り4番地にある音楽専門部(って言うのかな?)だったので、こじんまりして、いい雰囲気のところだったけど、もう20年くらい前のことだから、今は変わっているだろう。

まぁそんなこんなで、2時間ほど滞在して、帰ってきた。まぁ暖かかったので、行き来は楽だった。



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米子行き

2023年11月23日 | 日々の雑感
米子行き

ひと月でまた米子行き。今回は、すごく暖かだったので、火曜日には近所の散歩に行った。昼前に米子市立美術館へ。所蔵展をやっていて、とくに興味深かったのは、版画だった。名のしれたところでは、棟方志功、草間彌生なんかもあったし、他の画家たちの版画にも素敵な作品がたくさんあった。私も版画をやってみようかと思ったくらだ。

その後、少し遅い昼食に美術館の近くにあるそば屋に。写真のような門構えで、最初はやめようかと思ったのだが、思い切って入ってみたら、満席に近いお客さん。常連さんが多いいようで、賑わっていた。ざるそばはそれこそ歯ごたえのあるそばで、じっくり噛んで味わった。

水曜日は米子は21度まで上がるというので、大山に紅葉を見に行こうと思いたち、弟の車に乗せてもらって、おふくろと三人で出かけた。

大山寺に一時間ほどで着く。11時くらいだったけど暖かい。でも日陰にはこの前積もった雪があるし、山頂は真っ白だ。大山寺周辺の紅葉はあらかた散っていたが、道路周辺はまだまだきれいな紅葉がみれた。

おふくろの足が悪いので、あるき回ることはしないで、車でぐるっと中の原のほうに回って写真を取る。その後、また桝水高原経由で、上田正治写真美術館のほうへ降りる。

植田正治写真美術館は開館しているので、たくさんの人が見に来ていた。その前からからもきれいな大山が見える。

八郷の里で昼ごはんの予定だったが、お休み。不定期に休むと書いてあったが、まさか、まさか。
しかたがないので、岸本のほうへ降りて、道路脇にあったそば屋でそばを食べて、米子駅で降ろしてもらい、帰ってきた。

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