読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『壁とともに生きる わたしと「安部公房」』

2022年10月02日 | 作家ヤ行
ヤマザキマリ『壁とともに生きる わたしと「安部公房」』(NHK出版新書、2022年)

最近テレビに出まくっている(本業よりも手軽に収入が増えるので重宝しているんだろう)あのヤマザキマリが大の安部公房ファンだというのをどこかで読んで、どんなことを書いているのか読んでみた。

イタリアでの極貧生活の体験中にイタリア人から勧められて読んだ『砂の女』に度肝を抜かれて、日本にいる母親に片っ端から安部公房の本を送ってもらい、のめり込むようにして読んだという体験談がじつに興味深かった。

ヤマザキマリが体験した極貧生活、極限状態を安部公房自身が終戦直後の満州から帰国した北海道や東京、そして結婚生活が共通していることが大きいのだろう。もちろんそうした状況のなかで安部公房が小説を書いていたということは後から知ったことなのだから、小説世界に共鳴したことが一番大きいことは言うまでもない。

前にも書いたが、うちのかみさんが学生時代に安部公房を読んでいたようで、今でも本棚に安部公房全集がある。うちのかみさんはどんな精神状態のなかで安部公房に惹かれただろう。

私はまったく読んだことがない。ただ、知識としては多少は知っており、だからこそヤマザキマリと安部公房という関係に興味をいだいた。

実体験としてもこんな極限状態を経験したことがないし、物事を突き詰めて考えるという習慣もないので、学生時代に安部公房に触れたとしてもたぶん興味を惹かれなかったかもしれない。私が卒論で取り上げたカミュの『異邦人』なんかも通じるところがあるのかもしれないが、あれはフランス語でも読みやすそうだったから選んだようなものなので、なんとも言えない。

しかしヤマザキマリのこの本を読んで感じたのは、民主主義の行き詰まりがあちこちで見られる現代社会のいろんな問題をすでに安部公房が提起していたということだ。

安部公房読んでみようか。

この本のアマゾンのサイトへはこちらをクリック


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『悪人』

2020年09月01日 | 作家ヤ行
吉田修一『悪人』(朝日新聞社、2007年)

最後まで読み通して、タイトルになっている「悪人」っていったい誰のことだろうと不思議に思った。

石橋佳歌を殺した清水祐一はとても悪人とは言えない。自分を抑えることができない短絡的な人間だろうが、自分から自首して出ようとするし、佳歌を峠に置き去りにした増尾圭吾もチャラ男のボンボンだろうが「悪人」なのかと言えば、それほどでもない。

では誰が「悪人」なのか?と思い巡らしても、誰もいない。では、作者は何を考えて「悪人」なんてタイトルにしたのだろうか?

祐一は光代とデートを重ねて恋人同士のようになってから、初めて自分が佳歌を殺したことを告げ、自首して出ると言う。その時に口にしたのが、もっと早く光代と出会えればこんなことにならなかったのに、という言葉だ。

つまり心が通じ会える光代のような女性と出会っていれば、佳歌に執着することもなかっただろうし、佳歌と公園横で待ち合わせて、たまたまそこにやってきた増尾のほうに佳歌が行くこともなかっただろうし、増尾の車を追って、峠まで来ることもなかっただろう。

増尾にしても、たまたま公園横で立ちションをしなければ、佳歌に見つかることもなかっただろうし、彼女が車に乗り込んできて、増尾を苛立たせ、峠で彼女を蹴り出すこともなかっただろう。結局、彼らは「悪人」というよりも「運が悪い人」と言ったほうがいい。

まさか、自首すると言っている祐一から離れたくないと言って、「連れ回した」光代のこと? 彼女の最後の行動は、一見すると、純愛による行動のように思えて、実は・・・一番「悪い」?

なんかこんなつまらない感想しか書けないのは、深読みが足りないのかも。

『悪人 新装版 (朝日文庫)』はこちら


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『身体の文学史』

2017年07月05日 | 作家ヤ行
養老孟司『身体の文学史』(新潮社、1997年)

ここで著者が言っていることは、人間の意識は自然の反映だということであり、なにか特別なことを言っているようには思えない。

反映というのは、あらゆる自然現象の土台にあるものである。例えば太陽光線によって石が温まり、夕日には石は赤みを帯びる、水は光線を反射したり屈折したりして事物を映し出し、葉っぱは光合成をして花を咲かせる。

将棋コンピューター・ホザンナについて、そのプログラム開発者が興味深いことを言っていた。もともと過去の譜例を教え込むだけのものだったが、少し前から自分で過去の譜例を学んでいくようなプログラムを組み込んだところ、自らどんどん学んで、いろんな攻め方を覚えるようになり、今ではプログラム開発者でさえ、このホザンナがどこまで強くなるのか分からないことに不安を感じると言う。石や水面や草花、さらに本能から出ることがない動植物、つまり意識を持たない自然と人間の意識の、反映論的違いを、この将棋コンピューターの初期と現在の違いに見ることができる。

人間の反映は自然にたいして反作用を及ぼすようになり、あたかも人間の意識が物を生み出しているように見えることになる。そのもとにあるのは、人間の意識というヴァーチャルリアリティーだ。この著者は、それを「脳化」ということばで表しているに過ぎない。
こうした現象の最たるものが「言語」だと思う。これはソシュールの構造言語学を勉強した者なら比較的分かりやい事柄である。言葉という本来はこうした反映から生じたはずのものがいったん体系化するとあたかも言葉が物を作り出すかのように機能する。

またこの著者がしばしば言うのは、意識と人間の身体が別々だということだ。これも簡単な話だ。上のように反映にはいろんなレベルがある。大雑把に分けても意識と生身の体は相当に違うレベルの反映の仕方をする。意識は自らが最初から存在したかのように振る舞うようになるが、人間の身体は太陽光線を受ければ石が温まるレベルの、反映論的に単純なレベルから、漢方で言うようないろんな要素が絡み合って、身体の変調が生じるというようなかなり複雑なレベルもある。

こうした反映の様々なレベルを一人の人間の意識がバランスよく保てれば、文学など生まれてこないのかもしれない。そうした病的なバランスの崩れを養老孟司は深沢七郎やきだ・みのるやそして三島由紀夫を題材に論じたのが本書だと言える。

私とこの著者の違いは、こうした原理論をもってさらに文明論とか文学論とか歴史論とかに敷衍することができるか・できないかにある。ソシュールの構造言語学の原理からさらに複雑な構造主義的…へと敷衍していった多くの思想家と凡人の私の違いも同じことだろう。


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『夏の庭』

2010年02月23日 | 作家ヤ行
湯本香樹実『夏の庭』(1993年、新潮文庫)

どうも児童文学という扱いらしくて、道理で通常の棚を見ても、なかったはずだ。よく調べたら児童文学のコーナーにあった。それで文庫本にした。1993年に日本児童文学作家協会新人賞などを受賞しているし、外国語にも翻訳されて、外国の賞も受賞している。そしておまけに相米慎二監督で映画にもなっている。道理で、あちこちの読書日記のブログに出てくると思った。

といってもこれは読んだ後になってインターネットで調べてから分かったこと。そういう先入観なしに読んでよかった。児童文学というような枠でくくるから、こんなませたガキがいるんか、こんなに死のことを考えるガキがいるんかと思ってしまうが、死について子どもの視線から考えた小説と思えば、素直によくできた小説だと思える。

ちょっとアメリカ映画の『スタンド・バイ・ミー』のパクリじゃないのという気もするが、どうなんでしょうか?人間の死ということが大人になるための大きなステップになっているという意味でも、子どもたちの配役(木山がゴードン、河辺がセオドア、山下がバーン、クリスにあたる人物はない)も似通っている。まぁ、それはいいとして。

子どもだって死について考えるだろう。私だってそうだった。私の場合は子どもの頃に身近な人が死ぬということはなかったので、そういうことからではなくて、祖母の長男が太平洋戦争で戦艦大和の水兵として戦死したことから、よくその話を聞かされた、というか近所の老人とその話をしているのをまた聞きした。そうして出来上がった私の死のイメージは、特別なものではないが、ただ死に対する恐怖だけは普通にあって、私はいつももし戦争になったら山の中に逃げようというものだった。とにかく戦争で死にたくない。

この小説の子どもたちは山下の祖母がなくなって葬式に出たことがきっかけになって、一人住まいの老人が死ぬところを見たいと思うようになり、老人を「監視」するようになり、それから老人との交流が始まる。そして思いがけない頃に現実にこの老人の死に遭遇することになる。

もちろん児童文学という視点から見れば、子どもたちが老人とどんな風にしてかかわりを持つようになるのかというやり取りが面白いのだろうが、私のように死というものがかなり現実味を帯びてくるようになると、死を前にした老人の気持ちというほうに意識がいってしまうのは仕方のないことだろう。

同じように、他人の世話になると言っても、赤ちゃんと老人とではなぜ違うのか? 赤ちゃんはこれからの人生がある、どんどん周りのものを吸収して成長していくから世話のし甲斐がある。でも老人はあとは死を待つだけの毎日で、世話のし甲斐がない、と私は思う。この論理に可笑しいところがあるとすれば、老人はあと死を待つだけの毎日と規定しているところだろう。もしそうではないのなら、たぶん世話のし甲斐がちがうだろう。だが、現実に身動きができなくなって死を待っているだけの状態になった老人の世話が面白かろうはずがない。ビジネスライクに考える他ないだろう。だからみんな「ポックリ逝きたい」と口にするのだ。そういうジレンマを抜け出すものの見方はないのだろうか?

この小説はもちろんそんなことを念頭において書いたものではないのだろうが、私が注目したのは、死んでいるような毎日を送っていた老人が子どもたちとの交流の中で、元気を取り戻し、おなじ北海道の出身の近所の種屋のおばあちゃんと何時間も話が進んだというところだ。そう、人間は、やっぱり人間と関わることでしか生きられないのだ。別に老人の世話をするとかしないとかという次元ではなくて、人と人とのかかわりという次元で生きていくことによって老人は「老人」でなくなると思う。

これから老人大国になる(って、もうなっている)日本は、このあたりのことを真剣に考えていく必要がある。それで内田樹のブログを見ていたら、またまた面白いことを書いていらっしゃる。たいしたものだ(昨日に続き、感心の毎日)。

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『聖域の殺人カルテ』

2010年02月21日 | 作家ヤ行
由良三郎『聖域の殺人カルテ』(集英社文庫、1996年)

図書館で由良三郎という名前を見つけて、懐かしくなった。20年位前にまだ若かった頃、地域の小さな合奏団でバイオリンを弾いていて(なんて書くと格好よく聞こえるが、合奏団の足を引っ張っていたことは確実)、もちろん音楽関係の本にも興味があった頃で、音楽関係の本と聞けばあれこれ読んでいたし、サスペンスに音楽が絡んでいるなんてことになれば、間違いなく読んでいた。

そのなかでもこの由良三郎という人は『運命交響曲殺人事件』(これはサントリーミステリー大賞を受賞したと思う)や『殺人協奏曲ホ短調』なんかがある。サスペンスとかミステリーなんてのは一回読んで種明かしが分かったら、二度と読む気がしないものだが、この人のミステリーは何度でも読んでいた。

今回の小説はタイトルを見たら分かるように、音楽を題材にしたものではなくて、この人の専門である(細菌学の教授であった)医学関係のものだが、やはり面白かった。たぶん人間の描き方が上手いのだと思う。ミステリー作家のなかには、まぁ松本清張なんかは別としても、トリックの作りのほうに意識が集中していて、登場人物の描き方が粗雑な場合が多いが、たぶん由良三郎は人間の描き方が上手いのだろうと思う。

それは決して純文学的というような意味ではない。ロラン・バルトの『物語の構造分析』なんて一世を風靡した本を持ち出すまでもなく、小説では登場人物の行動はなんでもありである。あらゆる可能性の中からある行動を選ばせるのだが、どんな行動を選ばせてもそれは恣意的である。それを恣意的に思わせないように、必然的にそういう行動をしたと思わせることができれば、読者はストレスなしに読むし、よくできた小説だなと思う。登場人物の行動を必然的と思わせるには、登場人物の性格とか価値観とか好悪とか生活環境とか、そして彼を取り巻く人間関係などから判断するわけで、それらがそれとなく書き込んであって、彼ならこういう行動をするだろうなと思わせるような風に行動すれば、読者にはなんの違和感もない。

なにもバルザックの小説のように物語の最初にそういう主人公のすべてについて記述してから始めよという意味ではない。たとえばこの小説の場合、主人公で語り手の高瀬が予防研のいざこざに首を突っ込んでいってのっぴきならないことになるのだが、まさに語りそのものが彼が伊沢と笹巻の確執問題に首を突っ込んでいくのを「拒んでいない」語りなのだ。

いくら昭和30年代の話で、書かれたのがそれから30年近くもたった昭和60年前後だとしても、それにしても、医学博士の学位が金で売買されていたなんてことをこんなに赤裸々に書いてもいいのかと心配するし、現実にそうだったのだとしたら、なんて世界なんだと思う。しかし昭和28年に学位制度が変わって云々と恰も事実であるかのように説明してあるから、たぶんこの時代は現実にこういうことがあったのだろうな。信じられないけど。

このミステリーはミステリーそのものよりも開業医がこの博士の学位を欲しがって、予防研の研究者に金を払って論文を書いてもらい、彼の知り合いの大学教授とつるんで学位をとらせるということにまつわる話がメインになっているので、最後の最後に、伊沢という研究者が死んでその殺人トリックをめぐる話はほとんどつけたしのようになっている。

図書館には『運命交響曲殺人事件』もあるようなので、また読んでみたいものだ。

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『アカペラ』

2009年11月24日 | 作家ヤ行
山本文緒『アカペラ』(新潮社、2008年)

「アカペラ」

母親が突発的に家出してしまっておじいちゃんのトモゾウこと泰造さんと二人で暮らす中学三年生のタマチャンことたまこ。父親は離婚して北京に住んでいる。

でもおじいちゃんは母親にいつもいじめられているので、母親がいないほうがストレスもなくなって元気になる。いつも大きな声で歌を歌っているのが元気な証拠。

たまこは手芸というか裁縫に能力を発揮して、年齢を偽ってアルバイトしている古着屋の店長に認められて卒業したら就職を約束してもらっているが、高校に進学をしないで就職すると進路希望に書いたことから、担任とひともんちゃく。

担任のカニータこと蟹江も高名な大学教授だった父親に同じ進路を要求されそれに応えられなかったことからちょっとひねた性格になっているけれど、たまこのことを真面目に応援するようになる。

突然、年末近くになって母親が帰ってきたため、ついにじいちゃんとたまこが今度は家出することに。ラブホテルを転々としたあと調子が悪くなったじいちゃんを連れて、カニータのアパートに転がり込んだ二人だが、じいちゃんが倒れ入院することに、そのまま植物人間になっていまう?...

「ソリチュード」
従妹の美緒と中学生のときに性的関係をむすんでしまい、それが原因で家出をして20年間東京を転々として暮らしてきた春一は、父親の死をきっかけに実家に帰ることになった。

母親のもとには近所に住む美緒が離婚して、一人娘の一花と出入りしている。よりを戻したいのか戻したくないのか、お互いにお互いの気持ちがつかめないまま、春一は一花の父親のような存在になってしまう。

2ヶ月も経った頃、東京から春一と同棲しているまり江と、春一が飲酒運転でひっかけたためにランナーとしての選手生命を絶たれながらも春一を好きになってしまった朱夏がやってくる。

結局、美緒の気持ちがつかめないまま東京にもどる春一。

「ネロリ」
もうすぐ50歳に手が届く志保子は出版社の社長秘書をしているが、まもなく社長の次男が次期社長になれば、辞めなければならない。

家には高校生のときに母親の長期看病のために就職も諦め、また自身のアレルギー体質のために身体が弱くて働くことができない弟の日出男がいる。年齢ももう40歳を前にする。ココアちゃんと呼ばれる若い彼女がいるのだが、志保子は彼女のことはほとんど念頭にない。

その志保子に会社に出入りしている製紙会社の須賀が求婚してきた。須賀の実家は代々続く老舗旅館で、母親が強圧的で、たぶん母親の愛に飢えているのだろう、それでずっと年上で見た目にもおっとりして優しそうな志保子に一目ぼれをしたということのよう。

志保子はコレといった決定的な決め球もないまま彼の求婚を受け容れたかたちになっていたが、上京してきた母親に破談を迫られたのを気に一気に意欲を失ってしまう。結局は、いつもの二人の生活がまた続く。

とくにコメントすることはなし。けっして面白くないとも思わないし、すごい!と声をあげるほどのものでもない。登場人物は生きているし、文章はすごく上手いと思う。

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「人のセックスを笑うな」

2008年09月15日 | 作家ヤ行
山崎ナオコーラ『人のセックスを笑うな』(河出書房新社、2004年)

小説のタイトルと内容がこれだけ違う作品もめったにないのではないか。このタイトルから、好きな男性にたいする対し方が下手で、理想とはかけ離れた無様なセックスをやってしまうが、それはそれで一生懸命な姿がほほえましいというような20代の女性が、自分の恋愛を多少とも面白おかしく書き綴った小説なんかいなーと勝手に想像していたのだが、まるで違った。

だいたい主人公も男だし、相手は39歳の美術系の専門学校の教師で52歳の亭主がいるというような、主人公からすれば中年のおばさんということになるし、たしかに主人公は自分のセックスが下手だと少々卑下しているが、別にこの不倫相手の女性から下手だと馬鹿にされているわけではないし、逆に付き合い始めた年の年末には相手の家にまで行ってそこでセックスして年明けを迎えているわけで、たしかに二人は分かれることになるのだが、けっして彼のセックスが下手だから愛想をつかされたわけでもない。だからこのタイトルはいったい何?と思っても仕方ないだろう。

ただ小説としては、出来が悪いわけではない。主人公の磯貝くんも青春の悩み真っ只中で悪い男ではないし、不倫相手のユリは少々不思議な女性だが、悪くない。39歳にもなってまだ自分というものが分っていないのかもしれない(って、50歳を超えてんのにいまだに自分が分っていない人も、私みたいにいるけど)。でも悪い人ではない。なんかわけの分らない理由で、教師を辞めて、磯貝くんとの付き合いもやめることになるわけだが、彼女が何を考えているのかはだれにも分らない。

そしてユリのダンナの猪熊さんはよくできた人だ。二人が居間で寝ているのをみて、きっととっさにこの若い男が妻とどういう関係にあるのか理解しただろうし、その上で三人分の料理を作って愛想よく振舞ってくれ、いい心持で磯貝くんを送り出してくれるのだから。ユリだってそういう猪熊さんをけっして軽蔑したりはしていない。セックスはうまくいっていないのかもしれないが、人間としては尊敬しているのではないか。

一度だけ行ったことのあるたまプラザのことも思い出しながら、この小説を読んだ。このタイトルさえどうにかしてくれたら、もっとほめたんだけどな。

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「アムリタ」

2008年01月10日 | 作家ヤ行
吉本ばなな『アムリタ』(福武書店、1994年)

この小説の最後あたりで、主人公の朔美の恋人である作家の竜一郎がこれから書こうとしている小説のタイトルが「アムリタ」だといって、「神様が飲む水」という意味だと説明している。人生というのは水をごくごく飲むようなものだということなのだろうか。

これは吉本ばななが30歳のときの作品だが、主人公の朔美は21歳という設定になっているので、本当にこんな若さでこんな人生哲学を語るなんて、とずっと読みながら、その身体と精神のアンバランスを感じていた。普通ならこれほどのアンバランスは頭でっかちというかたちで破綻するのだが、そう見せないところがこの作家のすごいところのなのだろう。

このアンバランスは、たいていの彼女の小説では主人公だけなのだが、今回は6歳という設定の弟の由男がそうだ。まだ6歳なのに言っていることはまるで、20数歳の大人だ。朔美とまったく対等と言っていい。

そのアンバランスを破綻をさせないように救っているのが、その文章というか文体というか、すかすかの文字列だと言えないだろうか。人生を語るといえば、昔のイメージなら、難しい漢字がいっぱい並んでいて、本を開くと文字が紙の上にびっしりという感じだが、吉本ばななの場合は、すかすかで読むのが速い速い。しかし書かれていることは、じつに深遠なのだから、若い女性にうけるわけだ。

この小説の出来事は、これも小説の最後のあたりで、朔美が竜一郎の部屋で彼の帰りを待ちながら書いたメモの通りである。
妹の死(半年前)
頭を打って手術
記憶が混乱
弟がオカルト小僧になる
竜一郎といい仲に
高知へ
サイパンへ
バイト先閉店
新しいバイト
記憶戻る
弟、児童院へ
純子さん逃亡
きしめん、メスマ氏と友達に

私がこの小説から読み取ったのは、人生を逃げてはいけないよ、嬉しいこと悲しいこと辛いこと、すべてを「水をごくごく飲むように」受け入れて、喜び悲しみ泣く、これが人生の真の幸福感というものだよということ。

30歳にしてこんな小説をこんな文体で書けるというのもすごいことだと思うし、コズミ君やさせ子なんかを造形する想像力もすごいと感心してしまう。

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「ハネムーン」

2007年07月18日 | 作家ヤ行
吉本ばなな『ハネムーン』(中央公論社、1997年)

吉本ばななの描く主人公の身体イメージはじつにアンバランスだ。この「ハネムーン」でも主人公の「まなか」は高校生で、文体から感じられる心の状態はほんわかとした、世間知らずの、でも人間関係には繊細な、20歳代の女性というイメージなのに、小学生の頃に初めてセックスを経験し、どういう経緯かは別として、高校生なのにもう結婚してしまうのだ。まるで性欲も何もないような、霞を食べて生きているような人間に描かれているのに、もうセックスなしには生きられないみたいな女でもあるというような人物になっている。

吉本ばなな自選集の第2巻のあとがきを読むと、吉本ばななからみる若い女性の悩みの一番は恋愛問題でそのほとんどにとって恋愛とは性欲のことらしい。要は、それが事実かどうかではなくて、吉本ばなながそう思っているということだ。

私は女性にも強烈な性欲があることは否定しないし、とくに女性には性欲はないみたいな古いイデオロギーに、あるいは逆に女の性欲は際限がなく、男はそれをうまくコントロールしなければならない式のこれまた古いイデオロギーにも与しないが、それにしても若い女性の悩みのほとんどが男性との人間関係ではなく性欲だというのも、どうかなと首を傾げざるをえない。

ただそれにしては、吉本ばななの描く女性はほとんどそういうことに頓着していないように見える。男女の関係を描くにしても、そういう女性の悩みを示すような描写は出てこないどころか、それをほのめかす描写さえもない。だから、霞を食って生きているようなイメージしかもてないのに、とつぜん初セックスが小学生のときに済ませて...なんてことがさらっと書かれていたりすると、えっ!と絶句してしまう。

吉本ばななの主人公の女性はどこまでも相手を受け入れる、受け入れようとするやさしい女性であることが多いが、時折見せる棘のような、「もううんざりだ」という態度表明が、これまたえっ!と絶句させることがある。どちらが本当の主人公なんだろうと考えると訳が分からなくなるから、要注意だ。

いったいこういう女性のどこがいいのか知らないが、ヨーロッパでは結構人気があるらしい。このタイプの女性は欧米にはいないのだろう。それが珍しいのかもしれない。フランス語にもたくさん訳されている。

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「N・P」

2007年06月05日 | 作家ヤ行
吉本ばなな『N・P』(角川書店、1990年)

高瀬皿男という冴えない作家がアメリカで97編の短編小説を収録した「N・P」という短編小説集を出版し、未公開の98話目を翻訳していた、「私」(加納風美)の恋人だった戸田庄司が自殺したという話に端を発し、高瀬皿男の二卵性双生児の乙彦と咲、そして彼の娘でありながら彼と性的な関係にあったうえに、いまは兄弟の乙彦と同棲している萃とか、翻訳家をしている風美の母親とかが登場する。ひと夏のなかで移ろっていく風美の心象風景を描いているといっていいのだが、事件らしい事件はなく、まぁ萃とであったことくらいだろうか。

どうも吉本ばななの登場人物は、まだ初期の作品しか読んでいないので、その時期の作品についての感想なのだが、存在が希薄だ。男も女も若いのも中年も、肉体を持っていないような、心だけが浮遊しているような、そんな人物たちばかりだ。

風美なんか高校生のときから庄司と肉体関係にあり、庄司が自殺した時期には同棲をしていたのだが、なんかそんな雰囲気はみじんも感じられない。乙彦だっていわば姉にあたる萃と恋愛して肉体関係にあるのに、そんなことを思わせる雰囲気はまるっきりない。

もちろん悩んだり苦しんだりするわけだけど。風美は恋人の庄司が突然自殺したあと、かなり長期に言葉が出なくなってしまった経験を持つし、乙彦も突然に萃が出て行ってしまってからふらふらになっていたのだ。私が言いたいのはそういうことではなくて、人間関係におけるどろどろしたもの、それは人間が持つ肉体と精神の齟齬・ずれ・肉体の暴走なんてものからくるようなどろどろしたものがまるっきりないということなのだ。まるで精神だけで存在しているような、そんな感じがするのだ。

私が吉本ばななの登場人物たちの対極にあるものといてイメージしているのは、たとえば奥田英朗の「最悪」とか桐野夏生の「OUT」とかだが、まぁこういう存在感の透明な感じが吉本ばななの特徴と思えば、それはそれでいいのかも。

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