読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

道後温泉

2008年03月31日 | 日々の雑感
道後温泉

上さんと道後温泉に旅行した。最終日は移動だけで何もしない日だったので当初はもったいないなと思っていたのだが、雨が降って、観光の予定を入れていてもきっと情けないことになっていただろうから、ある意味ラッキーだったのかもしれない。

道後温泉といえば何といっても夏目漱石、正岡子規ということになるのだが、まず何よりも道後温泉本館である。これは「坊ちゃん」の中にも最近できたばかりという説明があるように相当古い建物らしい。

旅館ではないから泊まることはできないし、旅館の入浴サービスとも違うから食事はできないから、温泉を楽しむだけのところだが、坊ちゃんも毎日湯に入りにきていたように、なかなか風情のあるところでじつにいい。はっきり言って道後温泉はこれでもっているようなものである。

浴室は一階にあり、入浴だけの神の湯階下コース、二階席でお茶とせんべいをいただきながら一休みできる神の湯二階席コース、霊の湯という小ぶりの浴室に入って二階席でゆっくりくつろげる霊の湯二階席、個室で坊ちゃん団子をいただける霊の湯三階個室席とある。私は入浴だけのコースに二回入った。「坊ちゃん」を読んでいると坊ちゃんは毎日下宿から路面電車に乗ってやってきて、今で言う霊の湯三階個室席という一番高いコースに入っていたようだ。坊ちゃんの間という漱石関係の資料が展示されている三階の部屋を見学するときにこの個室ものぞき見たが、係りの人がお茶を持ってきてくれたりして、なかなかいい雰囲気だ。道後温泉に泊まるのでなかったら、ちょっと奮発してここでくつろぐのもいいかも。

上さんが出てくるのを待っているあいだに過去の映画・テレビドラマの坊ちゃんの出演者の写真とかそのほかの新聞記事などを読んでいると、どうも「千と千尋の神隠し」の湯屋はここがモデルになっているらしい。そういえば、なんという様式なのか知らないが、凝った造りの正面ファサードや天辺にある振鷺閣とつづく外観はそっくりだ。

泊まったホテルは完全洋風のホテルで食事もフレンチのコースだったので、余計に本館の古い感じが気に入った。道後温泉というところは個々の旅館やホテルが所狭しと立っているのはいいとしても、車がどんどん入ってくる構造になっているので、危なくてのんびり歩いていることができない。排気ガスはくさいし、この点をなんとか街づくりとして考えてほしいものだ。そんなに広い区画ではないのだから、マイカーは締め出して、ホテルの送迎用のマイクロバスだけが進入できるようにするなどして、もっと宿泊者や訪問者がゆっくり散策できる町にしたほうがいいと思う。

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「バレエの歴史」

2008年03月27日 | 人文科学系
佐々木涼子『バレエの歴史』(学習研究社、2008年)

フランス文学の研究者のようで、フランス絶対王政期の宮廷でバレエが誕生してから今日までの、主としてフランスにおけるバレエの歴史を概観したものになっている。日本語タイトルは「バレエの歴史」だが、よく見るとフランス語で Histoire du Ballet Francaisと書いてある。副題に「フランス・バレエ史」とあるから、フランスが中心だよと断ってはいるのだろうけれど、ぱっと見るとヨーロッパ全体のバレエを扱っているのかなと勘違いしてしまうかも。

私が興味を引いたのはとくに17世紀と18世紀のフランスのバレエ(宮廷バレエとパリ・オペラ座のバレエ)で、バレエが国王の威信を見せつけたり、自分の目指しているものを誇示するための手段だったりというように、政治の道具の一つだったというような話が実に面白い。芸術と政治は無関係と思っている筋には気に入らないかもしれないが、芸術をその時代の社会の動き(そこには政治・経済・イデオロギー)なんかと関わらせて論じるというのは、それがうまくいったときには、なんか知らないけれど、知的興味をかきたてられる面白さがある。

たとえばこの本にも「フランス語の擁護と顕揚」なんかで有名な詩人のバイイという人が詩と音楽のアカデミーを作るのだが、そこで詩と音楽を融合させ、それに舞踏を結びつけて、ギリシャ時代の演劇を復興しようとするのだが、それが地方の貴族が群雄割拠して国王の力が弱かったが徐々に国王も力をつけてきて絶対王政の方向に歩みだした時代だったので、そのばらばらの芸術分野を統合しようとする思想そのものが、国王による国家統一の思想から受け入れられたのではないかという説明が出てくる。これなんかは演劇の分野における遠近法の確立が神の視点の確立となり国王による絶対的支配を思想的に準備したり補強するものであったというような思想史的解説とよく似ている。

こういうのが面白いと私は思う。もちろん一つの作品の中にそうした芸術分野の流れ以外の要素をもちこむのは余程の読み込みや当時の社会状況についての詳しい研究が必要になってくるので簡単にできるものではない。一歩間違えばパブロフの犬的なこんな社会だったからこんな作品ができたみたいな、紋切り型のものしか書けない。

最近はこうした古い時代のステップの研究も相当進んでいるし、発音の仕方も微妙に違っていたことが分かってきている。しかも上演が夜に行われるというのが普通で、ということは蝋燭の火で照明としていたのだということを考えると、どんな雰囲気で上演されていたのか想像もつかないが、そのあたりの雰囲気をつかむのに格好なDVDがある。それはモリエールの「町人貴族」という作品を Le Poeme hamoniqueという演劇集団が上演したもので、これはコメディ=バレエだからバレエも出てくるし、コメディーでもあるので当時の演劇でのフランス語の雰囲気も味わえる秀逸な作品だ。

また日本でもフランスで勉強してきてバロックダンスを研究している人がいる。浜中康子という人で、ビデオも出している。これなんかを見ると、優雅なバロックダンスが味わえる。

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「単一民族神話の起源」

2008年03月25日 | 人文科学系
小熊英二『単一民族神話の起源』(新曜社、1995年)

ついこのあいだ出版されたばかりだという気がしていたのに、もう13年もまえになる。月日がたつのは早い、って、最近はこんな感想ばかりだな。

だれしも思い込みというものはあるもので、それがこういう研究の穴場になるのだから、あながち思い込みはだめだとばかり言い切れないのかもしれない。一般人だけでなく、専門家の思い込みも打破して新しい姿を突きつけてやるのが、研究の醍醐味かもしれない。
日本は万世一系の天皇の統治する単一民族だ、どうだ、偉いだろう!みたいな主張が右翼あたりから聞こえてきそうな気がするという思い込みって誰しももっているのではないだろうか。もちろん単一民族云々というのは常に万世一系の皇室ということと結びついているという思い込みがあるので、そんなことを言い出したのはきっと戦前の、しかも国民を戦争に総動員していく過程において思想的に国民を洗脳するためだったのではないかという思い込みがあったのだが、これが見事に思い込みに過ぎないとこの著作によって突きつけられることになる。

ところが実際には戦前には人類学、歴史学、古事記・日本書紀研究、医学などのどの分野の研究者もこぞって混合民族説を主張しており、これが通説だったのだ。ただ研究者によってその混合のありかたにはいくつかの違いがあったことはあった。たとえば最初にアイヌが列島に住んでいたが、南方や朝鮮半島からツングース系やモンゴル系やマレー人種などが入ってきて追い出したとか、アイヌだけではなく、熊襲やギリヤクやその他いろんな原住民がいたが、そこに朝鮮半島から農耕文化を持った民族が入ってきてそれが天孫降臨神話となったのだというような、はっきりと天皇一族を朝鮮民族の祖先とは明示しないまでも、それをうかがわせるような主張さえけっこうあったのだ。

もちろん農耕文化しかもっていなかった先住民のいる列島に朝鮮半島から騎馬民族が侵略してきてそれが天皇の先祖となったという話もすでに戦前に出されていた。私なんかはつい最近の新しい学説なのかなと思い込んでいたが、どうもそうではないようだ。だから、DNAとか炭素同位体なんかを使ったつい最近の研究による日本民族の起源についての研究は別として、ほとんどの学説が戦前の、とくに明治時代から大正時代にはでそろっていたということになる。

とりわけ昭和時代の海外侵略の時期には、単一民族説は不調で、もともとインドから中国朝鮮までを包含する混合民族で、それを天皇が力によってではなく、家族の長が子どもたちを育てるように一族として保護指導してきたのが日本民族だという主張によって、したがって朝鮮・台湾・中国はては東南アジアからインドまでを包含する八紘一宇の大東亜国家設立は民族的に言ってなんら無理のないことであるという侵略肯定論の根拠とされていたのだったから、万世一系の天皇の赤子としての単一なる日本民族なんてのが侵略のイデオロギーだったのではないかというのは、思い込みに過ぎないのだね。

逆に戦後になって侵略のイデオロギーが不要になってきたときにはじめて単一民族説が力を伸ばしてきたというのだから、思い込みだけでものごとを見ていると、とんだ失敗をしかねないということだ。

でももう一度言いますが、思い込みがはびこっているからこそ、研究というものが成り立つってことでしょうね。

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「星条旗の聞こえない部屋」

2008年03月22日 | 作家ラ行
リービ英雄『星条旗の聞こえない部屋』(講談社、1992年)

この小説の時代は1968年あたり。つまり現実に私が生きた時代から言えば、大学に入るために大阪に出てくる数年前の時代。主人公のベン・アイザックという、日本のメリカ領事館に勤める父親を持つアメリカ人の視点から書かれているが、ベンに向ける日本人たちのまなざしや態度はまるで黒船がやってきて日本の体制をひっくり返してしまった直後のような雰囲気である。

ベンが日本語を話しかけようとするのに日本人のほうが聞く耳をもたず、ベンの普通の日本語を訳の分からない外国語のように理解しようとしてくれないために、ベンの言葉は吃音者の話す第一音のように、滑らかに日本人の耳に入っていかないというエピソードがその時代の雰囲気をよく表している。

そんな時代に私は高校時代をすごしていたのだろうか、こんな時代のすぐ後の時代に私は大学生活を大阪で過ごしていたのだろうか?と不思議に思う。自分の体験でいえば、もちろんその頃はパソコンもなければ携帯もなかったが、今の時代とさほど変わっているようには思えない。高度経済成長を終えて、多少の混乱はあったにしても(たとえばオイルショックとか浅間山荘事件とか)、確実に戦後から新しい日本が見えてきた時代だったように思っていたが、この小説が描き出す同時代はまるで明治時代のように古びている。

それともほんの数年で日本は劇的に変わったとでも言うのだろうか?たしかにベンが「しんじゅく」で働き出した時代の数年後には大阪で万博が行われ、日本国内の人間の交通が新しい時代を迎えた。新幹線は岡山まで伸び、特急網が張り巡らされ、高速道路もあちこちで伸延し、車をもっているなんていうのは当たり前のようになっていた。大学進学率は驚異的に伸びて、その需要に大学そのものがついていけずに、マスプロ授業などと言われるほどの混乱振りだった。それが学生たちの不満を増長させ、あちこちでヘルメット学生たちがあばれたりした。学生たちもアルバイトをして小金をためて旅行したり、好きなものを買ったり、独り立ちして一人住まいをするものをあった。

それに比べると、世界に開かれた未来の日本のために一生懸命外国語すなわち英語をものにしようとしているこの小説の学生たちは、まだ戦後世代なのだろうかと思ってしまう。ほんの数年の違いなのに。ということは1970年というのがやはり時代の分岐点だったのだろうか?それとも西洋人のなかではユダヤ人として特別な目で見られ、日本にいてはガイジンとして特別な目で見られるという二重に屈折したこの作者の特殊な視点が見せる特別な日本の姿なのだろうか、といぶかしく思ってしまう。

タイトルも意味深だ。「星条旗」は普通は視覚的なものだから「見えない」ものだが、「聞こえない」という動詞を使うことで、聴覚的に換喩している。そしてこの「部屋」とはどこだろうか。領事館にあるベンの部屋のことか、それとも彼が家出をして入り込んだ安藤の「部屋」だろうか。

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「トリップ」

2008年03月20日 | 作家カ行
角田光代『トリップ』(光文社、2004年)

久しぶりの角田光代だ。「小説宝石」に連載された短編集ということだが、前の短編の中にちょっとだけ出てきた登場人物が次の短編の主人公になっているというタイプの連鎖をもった短編集ってことだけど、そのれんさそのものはたいした意味がないから、連作集ってほどでもないみたい。

第一作の「空の底」は、うぁー角田節だーと、久々の角田世界に懐かしい思いが湧いてくる。でもそれはこの短編だけで、それ以外は、もちろんそのけだるい、未来のない、どうしようもなく現実にいらだっているようで本当はその現実にしがみついているしかいられないような、そういう世界を描いているという点では共通しているのだが、なんだかこれまで私が読んできた角田世界とはちょっと違うような覚めた感じがする。

その独特の嗅覚で何気なく見逃してしまうような人間の姿に鋭い現実認識を切り取ってくるようなところが角田作品にはあったように思うのだが。ただそれは正面からそれを認識することはできない現代社会のもっとも歪んだところに生きるある登場人物にとってそういう生き方しかできないんだというものとして提示することで、鋭い現実認識になっていたような思うのだが。

そして複雑化した現代における幸せの一つの形を提示するという手法のまったく独特なところで角田の個性を見せるものであったと思うのだが。

「東京ゲストハウス」しかり、「地上八階の海」しかり、だったのだが。そうした角田の嗅覚がちょっと鈍くなったのだろうか。この短編集ではただただ退屈な人間たちが描かれているに過ぎない。あの鋭い現実認識はどこにいったのだろうか。

角田さん、最近ちょっと浮かれすぎてやしませんか?

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「ゴサインタン」

2008年03月19日 | 作家サ行
篠田節子『ゴサインタン』(双葉社、1996年)

1997年にこの小説で第10回山本周五郎賞を受賞したらしい。そして自作の「女たちのジハード」で直木賞受賞ということだから、ある意味油の乗っていた時期の作品のようだ。私はこのブログを始めた頃に、日本の現代小説といえば、まぁ篠田節子と高村薫くらいしか知らなかった。

その頃は「カノン」とか「ハルモニア」だとかのことを書いていたが、今にして思えば、その時期の作品から、超常現象的な出来事が作品の主題になっていた。といっても略歴を見ると、これらの作品もこの作品とほぼ同じような時期に書かれているから、それは不思議でもない。

まだ「カノン」とか「ハルモニア」あたりは個人の特異な能力というように見ることも可能な現象だったから、まだいいとしても、この作品では山崩れを予言するとか、土砂の中に埋まった人を言い当てるとか、病気を治癒するとかというような、ありえねーといいたくなるような出来事が起きるものとして描かれている。それに主人公の輝和を彼女の逃げ帰ったネパールまで行かせるような執着力がどこから生じているのか、淑子とのかかわりの希薄さがずっと描かれていることを考えると、ちょっと疑問に思っても仕方ないだろう。

カルバナ・タミという女性がネパールのある宗教の習慣から少女の頃に巫女というか神の使いとして寺院で扱われていたというのは分かる。そして生理が始まると放り出され、カトマンズで工員として働いているところを日本につれてこられて、輝和と見合いをさせられるという出来事もありえそうな話だ。だが、彼女が神がかりになって普通ではしゃべれない日本語をとうとうを口走ったり、病人を治したり、ということになるといったい作者は何を書きたいのかと頭をひねってしまう。

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「贋作/曽根崎油地獄」

2008年03月16日 | 舞台芸術
『贋作/曽根崎油地獄』(大阪新劇団協議会プロデュース、2008年)

大阪にあるたくさんの新劇団が「大阪新劇フェスティバル35周年」の記念公演として上演した。近松門左衛門の「曽根崎心中」と「女殺し油地獄」を一つの芝居にまとめたようなつくりで、物語は同時進行するが、それぞれの主人公の徳兵衛と与兵衛は天王寺屋という遊郭の客で、ちょっとした顔なじみ程度の知り合いという設定になっている。だから舞台は遊郭の天王寺屋と、「女殺し油地獄」の舞台である河内屋ないしは豊島屋に設定される。一度だけ野崎参りの途中の茶店も使われているが、ここでは「曽根崎心中」の徳兵衛とお初、「油地獄」の与兵衛とお吉とが遭遇する唯一の場面になっている。

私の場合、原作がどうなっているのか細かいところを知らないので、どの程度原作から改編してあるのか分からないが、脚本そのものはよく出来ていると思った。もちろん原作が現在まで語り継がれるような作品だからということもあるだろうが、なんの予備知識もなくても、十分楽しめるいい作品になっていた。

役者さんたちもけっこううまい。徳兵衛をやった若い人(平山さん)も与兵衛の倉内さんもほとんど出ずっぱりだったが、せりふもこなれて、江戸時代の大阪町人の雰囲気がよく出ていた。さすがに大阪の役者さんだけあって、言葉に無理がない。

江戸時代の芝居については議論されることはないが、フランスの演劇理論ではうんざりするほど議論の対象となる三一致の法則もここでは、原作者の近松が意図していたのかどうかは別として、ぴったりはまっている。物語は与兵衛の借金取りがしつこく繰り返していたように一両日中にということで、ほぼ24時間以内におさまっている。たしかに場面は遊郭の天王寺屋、野崎参りの途中の茶店、油問屋の河内屋、天王寺屋、油問屋の豊島屋、曽根崎の森というように何度か変わるが、違和感はない。

江戸時代、武士は武家諸法度によって自由を奪われ、まさに「武士は食わねど高楊枝」そのままに自他共に威厳を正していなければならなかった。たった一泊でも外泊をするような場合には届出が必要だったほどで、こうした厳しい規制のもとにおかれ、必要以上に現金収入を持つことがないような状態に置かれた武士が政治をつかさどることで、江戸時代は長続きした。他方、身分制の最下層に置かれた商人・町人は、身分的に最下層であったが、そうした規制からはまったく自由で、どこに旅行しようが、毎日何をして暮らそうが、だれと恋愛しようが自由な身分であった。だからこそ物語がうまれる土壌があった。とても武士の間に物語りは生まれようがなかっただろう。

ただ自由気ままな町人にも町人の間でのルールというものがあっただろうし、そうした外から押し付けられたものではないにしても、なんらかの規制があったからこそ物語が生まれる。なんでも自由というところには葛藤や苦しみは生じないから、物語が生まれることはない。それが一般に義理とか人情とかということになるのだろうが、この作品では、そこを現代風にアレンジしてあって、義理とか人情の板ばさみは省略して、九平次にだまされて大事なお金をとられてしまい、印偽造の極悪人にされてしまう。与兵衛のほうは、豊島屋のお吉との恋愛感情をかなり簡略に済ませて、借金でにっちもさっちもいかなかくなっての殺人強盗というように、これも簡略化されている。

私にはこうした簡略化がけっして雑には見えなかったので、そうとう脚本家や演出家の力量があるからだろうと思う。ただいけなかったのは、解説のナレーションが入っていたことだ。ああいうことはしないほうがいい。ナレーションで言うくらいなら、芝居に語らせろよと思うし、それくらいのことは見る側には伝わっていたのではないだろうか。

徳兵衛とお初は心中しそこなう。徳兵衛がお初を刺し殺せず、踏ん切りのつかない男に腹を立てたお初が逆に徳兵衛を殺してしまうということになっている。そしてそれを見ていた与兵衛と心中してしまう。2時間半くらいの芝居だったが、たのしい時を過ごした。

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「みなさん、さようなら」

2008年03月15日 | 作家カ行
久保寺健彦『みなさん、さようなら』(幻冬舎、2007年)

小学校の卒業式に父兄の代理と偽って式場に侵入した中学二年生にナイフで同級生が殺されるのを目にした渡会悟は、彼が住む20棟くらいある団地から出ようとするとパニックを起こすようになり、一生この団地から出ないで生きていくことを決心する。そしてまず団地の外にある中学には不登校を決め、毎日筋トレとコミュニティーセンターにある図書室で読書をしたりしながら毎日を過ごすことになる。団地内にあるケーキ屋に弟子入りし、そこで働きながらケーキつくりを覚えて、社会人としても独り立ちしつつあったころ、一人で悟を育ててくれた母親が亡くなり、それを期に団地から出ようとすると起こるパニックも直って、新しい人生を踏み出すまでを描いている。

この小説のもう一つの時系列は、20棟くらいあるこの団地にいる悟の同級生107人がこの団地を出て行く過程でもあり、そして最後の一人が悟だったというオチがついている。

どこかの現存する団地がモデルになっているのかどうか知らないが、いわゆる低所得者用の市営住宅とか県営住宅(東京なら都営住宅)なんかがこの小説が描くように数十年もすると住んでいた人たちが入れ替わってしまい、空き室も目立ち、一種のゴーストタウンのようになってしまうというのは、しかしながら現実だろう。

私の母親も山陰地方のとある中都市の市営団地に住んでいるが、団地の内部は似たようなものだと思う。バス、トイレ、6畳和室が三つ、ダイニングキッチンという間取りだから、3DKってことかな。ここはおよそ築34年くらいになるが、生活するにはなんの問題もない。夫婦二人と子どもが一人くらいなら、十分だろう。ここは年収制限とかはないから、ほぼ空き室はないようだ。もともと私が子どもの頃に生活した場所ではなく、私が大学生になってから親だけが引っ越してきたところなので、私にはまったく親近感がない場所なのだが、もう20年近くすんでいるから、一年に一回は行っているので、なじんできていることは確か。

小説に話を戻すと、この小説を読んでいい感じが残らないのはなぜだろうかと考えてみた。最初は主人公の悟の危うさからきているのだろかと思ったが、彼はどちらかといえば、パニック障害を受け入れて、そこから自分の人生を作っていこうと一生懸命に努力しているわけで、パニック障害を理解しない者からみれば変な子と見えるかもしれない。

ただ彼が団地にすむ同級生をパトロールしてチェックしているというのは、ある意味不気味にはちがいない。彼の意図がどうであれ、今で言うならストーカー的な行為に違いない。そしてそれと同一線上でブラジル人親子へのかかわりもあるように思えるのだ。しかしこういうことに注目するとこの小説の面白みは半減してしまうかもしれない。

この小説はやはり団地小説(何気なく書いたのだが、ちょっとイヤラシイ伴次的意味が生じてくるような、こないような)として読むのが正統的な読み方ではないだろうか?(って意味がよく分からんな)


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神戸市立博物館ウォッチング

2008年03月13日 | 日々の雑感
神戸市立博物館ウォッチング

神戸に用事があって行ったついでに神戸市立博物館で古地図を見てきた。この図書館にはあの有名なフランシスコザビエルの絵(高校の歴史教科書なんかに載っているやつ)をはじめとして、古い日本の地図がたくさんあって、一度見てみたいものだと思っていたのだが、二三日前にここのサイトを見ていたら、うまい具合に30日まで日本の古地図の特別展をやっていることがわかった。ザビエルの肖像画とか古地図をたくさん収蔵しているといっても常設展示しているわけではないので、いつでも見れるというわけではない。こういう特別展をやっているときしか見れないのだ。(右の写真は、神戸市立博物館企画展案内サイトから借用しました)神戸市立博物館へはここをクリック

私はいまだに阪神間の町の位置関係がよく分かっていない。西宮と三宮の違いがよく分かっていなかったし、芦屋とか岡本とかになるといったい三宮より手前なのか向こうなのか?まぁそれはいいとして、JR三宮駅から海側に商店街のようなところを歩いて約10分でつく。建物はちょっと古い感じの建物。入場料が200円なのには驚いた。なかはがらがら。市立博物館ってどこでもこんなものなんでしょうか?

同時に南蛮美術企画展もやっていて、信長の絵とか関白秀吉の肖像画などが展示されていたが、それらをちょっと見て、すぐに古地図のほうへ。あるある。だいたいが江戸時代の、なんというのか団子を積み重ねたような日本地図がほとんどだ。北海道はないし、海岸線もそうとうにアバウトな感じで書かれた地図ばかり。しかしこの100年後には伊能忠敬がすばらしい地図を完成させるわけで、日本の科学知識の潜在力がどんなものだったかが伺われる。

言葉遊びで国の名前を記した地図もある。たとえば的の絵に矢の絵が描いてあって、やまと(大和)と読ませるなんて趣向だ。また日本で作成された世界地図というのもある。もちろんこれは元になる地図があって、それを銅版画にしたもので、地図の知識よりも銅版画の技術の高さが江戸時代でも相当なものだったよということを示すためのものだ。銅版画は司馬江漢と思われているかもしれないが、すでに相当の力量をもっていたようだ。

お土産に1712年に作成された日本地図を300円で買ってきたが、これをながめているだけで面白い。それにしても、伊能忠敬みたいに測量をしたわけでもないのに、どうしてここまでの海岸線が描けるのだろうと不思議に思う。もちろん伊豆半島や三浦半島がやたらとでかすぎるとか、山陰の夜見ヶ浜半島が描かれていないとか、いろいろあるが、大隈半島なんかはかなり正確に描かれている。世界地図になればもっとそうだ。あんなの絶対に測量をしたわけではない。なのになぜあんなに正確な海岸線が描けるのか、不思議だ。人間の能力ってすごいなと思う。

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「中村屋のボース」

2008年03月12日 | 評論
中島岳志『中村屋のボース』(白水社、2005年)

かなり前のことだが朝日新聞に書評が載っていたのではっきりと覚えていて、図書館の返却棚でこれを見つけてすぐに借りた。図書館の返却棚というのは意外と掘り出し物(っていうのはちょっと変だが)がある。誰かが読んだということはそれなりに読まれているってことで、返却棚を見ていると、面白そうな本が並んでいることが多いのだ。

さて、この本はインド独立のために生涯をかけたボースの生涯を伝記風にまとめたもの。東京に縁がないし、食べ物に凝るたちでもない私には、中村屋というのがそれほどの老舗であり、その中でも中村屋のインドカリーが特別のものだということはまったく知らないので、「中村屋の」というタイトルを見てもなんのことだか分からなかった。ただ、明治時代後期から大正時代の日本がアジアの民族解放のために闘っていた闘士たちの亡命先となったり留学先となったりして、重要な交流の場になっていたという事実は、戦前の日本を暗いイメージでしかもっていない私なんかには本当に意外な感じがする。でも実際にはこの本でも触れられているように孫文が亡命していたなんて事実もあるのだ。

しかしそれはおそらくこのボースにとってもそうであったように、その時期の欧米列強に対抗するアジア主義の盟主のように見えていた限りにおいてであったのだろう。現実の日本は欧米列強に追いつき、その戦列に伍するためにこそアジア主義を主張することはあっても、追いついてその戦列に伍してからは、欧米列強と同様に、アジアを自分の植民地としてしか見ようとしなかった。そこにボースの悲劇があるといっても過言ではない。

ボースがやってきた時代にはまだ日本のそうした侵略的な本質が現れていない時代だったのであり、彼が日本に帰化し、亡くなる終戦直前までの間に、日本はその侵略主義的本質をいかんなく発揮した。

だが、この本を読むと、ボース自身も、インド独立のためにイギリスと対決してくれるのなら、ソ連を賞賛し、ナチスドイツとも手をつなぐような、なんでもありのところがあったようだ。

民族の自立と尊厳を主張することが、必ずしも自由と民主主義を主張することとに一直線につながるとは限らない。それがアジアの独立運動のあと、つまり第二次世界大戦後のアジア諸国での独立後のありようが見せる複雑な現実である。民族独立の運動家が民主主義者とは限らないのだ。民主主義の課題はさらにそのあとにやってくる。それが外国からの干渉を生み、問題を複雑にする。それが政治の難しさということなのだろうか?

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