読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『地図と領土』

2014年06月16日 | 現代フランス小説
ミシェル・ウェルベック『地図と領土』(筑摩書房、2013年)

なんだかウェルベックもずいぶんと丸くなったなと思う。『戦線を拡大せよ』や『素粒子』や『プラットフォーム』の、あのタブーをタブーとも思わない、シニカルな態度はこの小説ではほとんど姿を消してしまったように見える。

ジェド・マルタンというアーティストが、機械の写真、ミシュランの地図の写真、人物の肖像画によって、成功していく様を、描き出したこの小説には、これまでの彼の作品にあったような反社会的な視線が欠落しているように見える。

唯一注意を惹くのは、言うまでもなく、小説家ミシェル・ウェルベックが描かれている点だろう。アイスランドで精神的にまいっている状態が描き出されたあと、彼が少年時代を過ごしたフランスの田舎で犬と一緒に元気を取り戻して再生したかのように見えたウェルベックが、猟奇的な仕方で殺される。ジェドが彼のために書いたウェルベックの肖像画がないことから、それを狙った殺人ということが示唆される。

フランスで気に入っていた作家の一人だったのだが、もう興味を惹きつけるものがなくなった。

彼の前作は、2005年にフランスで出版された『ある島の可能性』だが、この邦訳を読んで、その感想をこのブログに書いた。その感想を私は「ウエルベックは人間の未来を描いてしまうことで、自らの「可能性」を閉じてしまったような気がする。こんなものを書いた後で次にいったいどんな作品が書けるのだろうか?」という言葉で締めくくった。

その「可能性」は、作家ウェルベックを作品内で殺してしまうことによって完全に閉じられた。翻訳者の野崎歓は「この作品によってウェルベックはなにかふっきれたのではないかと思わせる、すがすがしいまでの力が全編にみなぎっている」と馬鹿みたいにはしゃいでいるが、彼の考えとは正反対に、私はウェルベックはもう小説は書かないだろうと思う。

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『女たちの韓流』

2014年06月09日 | 評論
山下英愛『女たちの韓流』(岩波新書、2013年)

韓国ドラマをよく見ているので、この辺りで、韓国ドラマをまとめている本を読んでみるのもいいかなと思い読んでみた。

タイトル通り、女性を中心にして韓国ドラマをまとめようという本である。

ペ・ヨンジュンの初期作品である『初恋』あたりは見たことがあるので、内容を思い出しながら読めたが、取り上げられているドラマが、どういうわけか、私の見たことがあるドラマと完全に外れてしまったので、最初はどうしようかと思ったが、最後まで頑張って読んでみると、結局よく似たドラマが多いことが分かった。

韓国では、儒教の影響で、女性は非常に低い社会的地位を余儀なくされてきたし、それが戸主制という形で法制化されていたようだ。だから、婚前交渉はだめ、親から反対された結婚は不幸になる、結婚しても嫁は舅や姑の言いなりにならなければならない、ましてや未婚の母はもちろんのこと、夫に死別されても再婚なんてことは考えられない、などなど、儒教的な規範があまりない日本から見ても、えげつないほど女性が虐げられている。

そこへもってきて子どもの親権は基本的に父親がもち、不倫の子どもでも父親が勝手に認知して引き取るなんてこともできたらしいし、さらに強烈な格差社会なので、そういった未婚の母から生まれた子どもなんかは社会の最低辺に置かれ、惨めな思いをしなければならないことから、それを隠すとか、養育を放棄して拾われるとか、ドラマのネタになりそうなことがあれこれ起きる温床となっている。

それがやっと2005年だかに戸主制が改正されて、女性の社会的地位も上がったが、だからといってすぐに人間の心情まで変化するわけではないので、いまだに多くの韓国ドラマでは、シングルママの奮闘、主人公の出生の秘密が明かされる、子どもの出生を偽装するためにあれこれ策謀する、格差のある登場人物の間でえげつない愛憎関係が描かれるなどなど、日本のドラマでは決して見ることができないような人間関係が描かれることになる。

それに日本のドラマとちがって、一時間で完結するように作られていないので、1時間もので50回とか80回とか、短くても20回というような長尺で描かれることから、登場人物の心情が実に丁寧に描き出され、したがって彼らの心の移り変わりようにリアリティが与えられる。この点は日本のドラマ製作者たちも見習うべきだろう。

今見ているのは、『いとしのソヨン』なのだが、これがじつに面白い。父親が博打やありえない商売話に借金を作り、そのために娘のソヨンはアルバイトをしたり、時には学校を中退したりしてお金を作り、父親の借金返済を助け、双子の弟のサンウの医大入学資金を作ったりした。そしてやっと法学部に入り司法試験を目指して勉強しているところへ、母親が病気で亡くなり、とうとう父親に愛想をつかす。

そんなときにウィナーズという有名な衣料メーカーの末っ子のソンジェの家庭教師のバイトに入ることになり、そこで成果を挙げて、父親に認められると同時に、長男のウジェにみそめられ、求婚される。最初は固辞していたが、ついに心動かされて求婚を受け入れるが、父親は死んだ、弟がいるが外国にいると嘘を付いてしまう。ウジェの家族からは、みなし子なのに苦労して勉強してきた女として評価される。

三年後、ジョギングをしていたウジェを交通事故から救ったことで、ウジェはソヨンの父親のサムジェと近づきになる。ウジェはついに彼がソヨンの父親であることを知ってしまう。

また弟のサンウはウジェの妹のミギョンと付き合い結婚間近までいくが、サンウはミギョンがソヨンが結婚した相手の家庭の子だということに気づいて、結婚を取りやめることがきっかけになってミギョンもソヨンの嘘を知ってしまう。こんな風にソヨンの周辺の人間が彼女の嘘を知り、ついにウジェの両親も知ることになって、ソヨンは、嘘をついて結婚した理由も語らずに、家を出て、離婚してしまう。

とまぁ、私が見ているサンテレビの放送では、こんなところまで進んでいるのだが、ソヨンとウジェが離婚しかけていることを知ったソヨンの父親が、なぜソヨンが父親は死んでいないという嘘をついたのかを分からせるために、ウジェに、自分がいかに極悪非道の父親で、ソヨンがどれほど苦労をして勉学を続けてきたのかを語って聞かせる場面では、私たち夫婦とも涙が出そうになった。

どうして本音を言わないで出て行くのだと詰め寄るウジェに、未練も見せないで(もちろんなぜ嘘を言ったのかという真実を語ろうとしたら、自分の父親を悪く言わなければならないから、そんなことはしたくないからだ)、出ていこうとするソヨンには、惚れますね!なんてカッコいいんだろう!主人公にこれほど感情移入できるドラマはなかった。

早く先にすすんでほしいけど、終わってほしくない、そんなドラマだね。



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『続・ウィーン愛憎』

2014年06月06日 | 評論
中島義道『続・ウィーン愛憎』(中公新書、2004年)

図書館に行ったらあったので即借りて、一気に読んだ。前作の続きだし、今度は前回と違って、著者自身がウィーンへの愛情に満ちた状態で書いていることがよく分かるような、内容なので、軽く読めた。

前作は、1984年に日本に帰って5年後に書いたわけだから1980年代の初めのことが書かれているのだが、今回はそれから10年後1994年から数年間のことが書かれている。その10数年の間に、ウィーンはまったく変わってしまったという。

かつて著者が苦しんだアジア人蔑視というか外国人にたいするヨーロッパ中心主義的態度はなくなり(表向きは)、著者自身が、今回は国立大学の教授という社会的身分をまとっての、休暇としての渡欧であり、精神的にゆったりした心持ちであることも影響して、ウィーンの町は著者を快く歓迎してくれているように描かれている。

そういうわけで、今回の続編の主題は、ウィーンそのものではなくて、著者の家族の問題が大きな比重を占めている。だが、その話には、私は興味がない。私が関心を引かれたのは、ヨーロッパ中心主義が消え去って、日本文化が広くアカデミックな世界で受け入れられていたという話である。

大学には日本学の授業には学生がワンサカ押し寄せ、日本から来た著者の日本の大学での実態や社会の様子を食い入るように聞く学生たちがたくさんいるという。著者はそこに反転したヨーロッパ中心主義を嗅ぎ分けて、博士課程の授業でそれを徹底的に追求するのだが、だんだんと煙たがられるようになる。私もこれを読みながら、いつまでこんなブームのようなものが続くのだろう、きっとそのうち飽きられて、見向きもされなくなるんだろうなと、少々心配になってくる。

それにしても驚くべき学生のマナーの悪さという箇所には驚いた。なんせ遅刻してきて、授業をしている教師の目の前に座り、そこでパンを二つも三つもムシャムシャと食べて、食べ終えたら、出て行ってしまうというのだから、開いた口がふさがらないとはこのことだろう。ただ公正を期するために、私語をするものはいないと書いているから、ウィーンの学生のモラルは、授業を妨げないかぎり何をしてもいいということになっているのだろう。

前作を読みながら、今でも変わらないのだろうかとずっと思いながら読んでいたので、その後ウィーンも変わったことを知って、それはそれでホッとしたけど、今後どうなるか分からない不気味さも持っているな、と思いながら読んだ。



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『ウィーン愛憎』

2014年06月01日 | 評論
中島義道『ウィーン愛憎』(中公新書、1990年)

今やドイツ哲学研究者として知らぬ者のいないくらいの人だが、これを書いたのはウィーン留学から帰朝して5年目くらいだから、まだそんなに有名ではなかった頃だろう。図書館の返却コーナーで見つけた。「愛憎」というところに惹かれて手にしたが、じつに面白かった。

要するに、ヨーロッパ人の(と敷衍してもいいのだろうか、とりあえず)ウィーン人の、日本人にたいする侮蔑的対応に憤り、またそれに迎合するヨーロッパ通と言われるような日本人の対応に憤るという、「ウィーン愛憎」ではなくて「憎々」とでも言ってもいいような内容。著者自身が経験したことがほとんどなので、読んでいて、じつに迫力がある。

とくに、ウィーン人が対人関係において示す攻撃性というか、徹底的自己中の対応の仕方は目を見張るものがある。以前、小林善彦先生の「日本館だより」に書いてあったような、相手にNONを言われてからがスタートで、そこから相手に自分の主張を納得させるためにあれやこれや自分の都合から考えや予定などなどを提示する学生たちのことを読んで感心したと書いたが、そんな生易しいものではない。

ここにあるのは、論理の問題でもなければ、思いやりの問題でもなければ、とにかく自分の言い分を相手にぶつけるだけのもの。したがって依頼する側が最初から不利な立場にある。そして可笑しなところは、突然依頼される側の人物がAからBに変わったとたんに、対応の仕方が変わってしまうことだ。Aは決まりだから、規則でこうなっているからと断固として受け入れなかったのが、Bは受け入れる。なんとも言えない世界。

もちろん国費留学生とか駐在社員という場合には、そんな不愉快な対応には適当にスルーして快適に暮らすことができるようになっている。問題なのは、ウィーンという場所柄、クラシック音楽を勉強しようとか、この著者のようにドイツ哲学や文学を勉強しようとして私費で留学している学生たちは、たいへんな苦労をしなければならないということのようだ。

著者はこれはウィーンだけではなくてパリなどもそうだと書いている。考えてみると私の知っている人たちはみんな国費留学生だった。どうりで彼らは快適に過ごしていたんだなと、これを読みながら思い返した。

今でもこんなんなのだろうか?これから10年後にまたウィーンを訪れたときのことを書いた「続・ウィーン愛憎」というのも出ているみたい。

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