読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「凍りのくじら」

2007年04月02日 | 作家タ行
辻村深月『凍りのくじら』(講談社、2005年)

1980年生まれの、年齢だけでなく、ものの考え方や感覚も若い世代の作家の作品という印象を強く感じた。

大好きな父親の影響で「どらえもん」が大好きで、「どらえもん」から人生を学んだという主人公の理帆子。SFを「少し不思議」と説明する藤子F不二雄にならって、自分の周りにいる人間を「すこし・・・」というレッテル張りをすることで人間関係を維持する理帆子。自分のことは「少し不在」といい、どこにも自分の居場所がない人間とみている理帆子。小学生のときに、35歳の若さで余命いくばくもないことを知った父が自分と母親を「捨てて」家を出て行ったことから、「父親に捨てられた子ども」になってしまったと思い込み、うまく人間関係が作れない理帆子。

作品の前半では、理帆子自身が言っているように、馬鹿な周りの人間たちを見下して、あれこれレッテル張りをする理帆子があまり魅力的に見えなかったが、だんだんと心のうちをさらけ出すようになり、本当は母親も、そして自分を捨てたと思っている父親も、心から大好きなのだということが読むものに分かってくる。

彼女が心を開くきっかけは、言葉が突然なくなってしまった郁也(父の友人で著名な指揮者をしている松永の私生児)の存在を知り、理帆子の父が世話をしたことをしり、今は家政婦の多恵さんと暮らしている郁也と関わるようになってからのことだ。

父親が結婚をしてから、かつての恋人と再会し、二人のあいだにできた郁也は、母親の死後、言葉を失うも、いつかは父親に認められることに思いを秘めて、ピアノを弾きつづける。そしてたぐい稀な力をつける。作品の最後では、成人した郁也が言葉を取り戻し、理帆子と兄弟のような関係になっていることがほのめかされているが、郁也のこうした再生には理帆子とのかかわりが大きかったのであろうことが、作品全体の流れから分かる。

理帆子の母親も夫への思いがなんだか薄れたように最初は描かれていたが、けっしてそうではなかったことを死の直前に描いている。全体的に、この作者はパターンが読めないので、人間の設定をこちらの思い込みで読むと失敗してしまう可能性がある。

それのいい例が、別所あきらだ。私はずっとこの高校生はなんだか存在感が薄いというか、へんな高校生だなと思っていた。ところが最後にはこんな高校生は実在しない、別所あきらは理帆子の父親である芦沢光(あしざわあきら)の化身のようなものだったことが分かる。私は最後にこれが分かったとき、驚いた。というのは、あれ、いま誰のことを書いているのかな、別所のことかな、理帆子の父親のことかな、と思ったところが2回ほどあったからだ。別所がはじめて7月の図書館に登場して、理帆子に写真のモデルになってくれと依頼するところで。そして郁也の家に理帆子が言って、多恵から理帆子の父が郁也の世話をしてくれて感謝しているという話を聞かされるところ。これらの箇所を読んで、二人を勘違いしたと思ったときには、自分の読み方がいい加減だったのかなと思っていたが、じつはそうではなかった、作者がそのように勘違いさせるような仕掛けを仕込んでいたのだ。

だから私は、最後の最後にじつは別所は理帆子の父親の化身だったということが分かったとき、すごい、この作者はこっそりと別所を芦沢光と勘違いさせるような記述を入れて、読者にそれとなく知らせていたのだなと思い、そうさせる筆の力に驚いたのだ。うーん、この若手はただものではないぞ。



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