読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『原発大国フランスからの警告』

2017年01月30日 | 評論
山口昌子『原発大国フランスからの警告』(ワニブックス・PLUS新書、2012年)

フランスは58基の原発を有する世界第二の原発大国である。しかも全電力のなかで原発依存度は75%で、世界一の原発を有するアメリカよりも高い。

その理由の第一は自立/独立にある。つまり東西冷戦の最前線に置かれたフランスにとって、政治的軍事的に米ソと対等の発言力をもつ自立した国家となるためには核兵器を持つ以外に方法がなかった。

そして平地が多いにもかかわらず、取り立てて石油資源をもたないフランスが電力という国民生活・産業活動とにかくあらゆる人間活動に必須のエネルギーを外国に依存しないで確保するには原発以外になかった(少なくとも当時は)。

したがってフランスでは原子力は軍用も民用も同一の根を持っている。それで一度決めてしまえば大統領選挙などでもほとんど問題にならなかったという。

その後もチェルノブイリ事故やアメリカのスリーマイル事故があっても、多くの国民が支持し続けた、あるいは問題にしてこなかったのは、上のような事情の他に、日本と決定的に違うのが、地震がほとんどないという地学的事情もある。自然災害の面で問題があるとすれば、平地が多いので洪水が多いということくらいだ。

さらに上記のチェルノブイリ事故などを教訓からフランスには政府から独立した原発の監視機関である原子力安全院ASNとフランス放射線防護原子力安全研究所IRSNがあって、原発事故はゼロにはできないということを前提にした現実主義的で徹底した監視システムができていることも、多くの国民を安心させているようだ。

こういうシステムの話だけを聞いているとフランスと日本の彼我の違いを痛感するのだが、それでも原発事故は多数起きている、というか、原発という存在は放射能事故なしには存在し得ない機械だということをゼロレベルの事故が毎日2件程度起きているという事実が示している。

放射能という脅威が目に見えないこと、僅かな放射能でも人体に甚大な影響を与えること、使用済核燃料は簡単に処分できないこと、一旦漏れた放射能は気の遠くなるような年数を経なければなくならないこと、こういったマイナス面を考えたら、決して原発を廃棄することによって生じる経済的、雇用的、財政的障害を理由に原発廃棄に二の足を踏むことは、後世に禍根を残すことであり、決して許されないことが理解できるはずだが、日本もフランスもそんな方向には進んでいない。

原発大国フランスからの「警告」が、フランスの原子力安全院のようなリアルに現実を見ている現実主義的対策がまったくない日本のそれを言うのであれば、当たっているが、原発そのものへの警告ではない点で、フランスからの批判が意味のあるものとはなりえていないのは、フランスでは原発そのものへの反省がほとんど国民の声になっていないからだと考える。


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『ジイド、進化論、複雑系』

2017年01月30日 | 人文科学系
津川廣行『ジイド、進化論、複雑系』(駿河台出版社、2016年)

正直言ってジイドの作品は、名前こそほとんど知っているとはいえ、読んだことがない。キリスト教の聖書の一節をタイトルにした作品が多いいが、キリスト教にはあまり詳しくないので、学生時代からそれほど関心をもったことがない。

しかしこの研究書は、そうした面の、つまりモラル的な面から見るのではなくて、複雑系という面からジイドの日記と作品を読み直すという、まったく新しい読解を提示している点で、非常に興味深いものである。

複雑系というのは、カオス理論とかバタフライ効果という言葉で言ったほうが分かりやすいと思うが、Aという要素は必然的にBという結果を生じるという古典的な物理学を前提にしながらも、Aという要素を段階的に変化させたときにB’という結果になる地点があるということや、また現実の現象においては、最終的に生じたCという結果はAだけでなく、n個の要素が複雑に複合して生じさせているものだという自然界の現実の認識の仕方と言えば分かるだろうか。

たぶん最先端の複雑系の学問は、海水温度が1度上昇したら地球の様相がどう変わるかをシミュレーションする学問だと思う。

もちろんこれは現在の最先端の研究であるが、ジイドが生きていた19世紀後半から20世紀の初めに複雑系(もちろんこんな用語はないが)の学問と言えば、進化論であったという。ジイドは進化論に並々ならぬ関心をもっていたし、ダーウィンの進化論が、起源を等閑視して、途中からの進化論であったことに不満をもっていて、起源がどうなっていたのか、つまり創世記と進化論の関係を自らが作り出そうともしていたらしい。

複雑系ということを素人考えすれば、複雑系はこの世界は無数の可能性があったと結論することになると思われるが、実際の複雑系学問が到達したのと同じように、最終的にジイドは、この世界は、多様な姿をもつ可能性があったことを否定して、現在の姿にしかなりえなかったという境地に達したという。

この著者の面白いところは、序文やあとがきに書いているように、もともと出身が理学部で物理学を勉強していたが、大学を卒業したあと、フランス文学を勉強し直した人のようで、それゆえに、複雑系などを理解する素地があったことが幸いしたようだ。

だから、複雑系からジイドを読み直すというようなことは、フランスの研究者もふくめて、誰もやってこなかったし、物理学の素養をもっていたこの人をして初めて可能になった研究であると言える。つまり余人をもってしては不可能な研究を見つけたという意味で、じつに幸運な人だと思う。

文章も読みやすく、また章が数多くあるが、一つの章が比較的短いので、これもまた読みやすくてよかった。


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南河内サイクルライン・ハイキング(その三)

2017年01月26日 | 日々の雑感
南河内サイクルライン・ハイキング(その三)

雲ひとつないよい天気。もちろん空気は冷たいけれど、たぶんこれだけ天気が良ければ、気温も上がってくるだろう、ということで、久しぶりに上さんとハイキングに出かけた。

前回、石川と大和川の合流地点まで歩いたので、今度は大和川沿いを10数キロ歩くことにした。ここはエスケープルートがないので、とにかく頑張って、JR阪和線の浅香まで歩かないといけない。

出発は遅かった。9時過ぎに家を出て、三国ヶ丘駅でJRに乗り換える。家の最寄り駅から各停に乗ったのだが、そこで久しぶりに知り合いに遭遇。私と大学院が一緒だった。今は某大学の教員をしている人。金剛に住んでいるので、近いといえば近いのだが、私は急行を使用するし、この人は各停だから、めったに一緒になることがない。

この三月で定年退職だという。普通は、別の大学に再就職する人が多いのだが、どこも決まっていないので、完全リタイアになりそうだと話していた。最近、本を出版したから、送ってくれるということなので、いただいたら、お礼がてらお茶でもしようかな。

この人とは三国ヶ丘駅で分かれて、私たちは快速に乗って、天王寺駅に行き、そこで大和路快速に乗り換えて、柏原駅まで。そこから川沿いに大和川まで出て、いよいよ大和川沿いのハイキングの始まり。10時30分。

道は単純。とにかく大和川沿いを歩くだけ。と思いきや、大阪市立川辺小学校の向こうの橋で反対側に渡って、さらに進むのだが、渡った先で、道を一つ間違えて、500mくらい行った先で、行き止まりになっていた。うそ~。泣く泣く引き返してきた。1kmくらいのロスだ。

そこまですでに2時間位歩いていたので、先は見えないし、大きなロスをしたこともあって、疲れがピークに。上さんが、頑張ろうと言ってくれて、気を取り直して、また歩きだす。

近鉄線が大和川をまたいでいるところを過ぎて、もう一つ橋をくぐると、やっとJR線の鉄橋を電車が走っているのが見えてきた。すでに2時前。浅香駅に着いたのは2時15分くらい。三国ヶ丘駅で食事をして、帰ってきた。たぶん14kmから15kmあたりは歩いていると思う。膝まで痛くなってきた。だが、よく歩いたよ。励ましてくれた上さんに感謝。


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米子行き延期

2017年01月24日 | 日々の雑感
米子行き延期

久しぶりに米子行きを予定していたのだが、思わぬ大雪のために延期することにした。米子道では、60台の車が立ち往生していて、湯原から米子のあいだは通行止めになっているし、伯備線も特急やくもが運休したり、60分から90分の遅れという。

米子市内でも40cm程度の積雪になっているようで、車もない(というか雪道は慣れていないと怖くて運転できない)し、役に立たないだけだろう。

私が子供の頃は、年末というかクリスマスの前あたりにこれくらいの雪が積もって、その後も溶けては積もるを繰り返して、完全に溶けてなくなるのは三月中頃になってからだった。だから正月休みなどは、もうソリ滑りをして楽しんでいた。雪がなかったら、ただ寒いだけだが、雪があると、スキーもできるし、ソリ滑りもできる。雪合戦をしたり、カマクラを作ってみたり。することはいくらでもある。むかしは寒さがなんともなかった。

しかし私も還暦を迎えるようになって、寒さに弱くなって、寒さも雪も嫌いになった。温かいのがいい。そうは言いながら、今日も、台風並みの強烈な北風が吹くなかを、1時間ほど歩いてきた。

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『多崎つくるはいかにして決断したのか』

2017年01月16日 | 評論
甲田純生『多崎つくるはいかにして決断したのか』(晃洋書房、2014年)

先日読んだばかりの村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の解説本を見つけたので、読んでみた。

村上春樹のこの小説がハイデガーの『存在と時間』をなぞるような内容になっていることを解説した本である。というか、日常生活のルーティンに流されていては見えてこない人生の真実は死を前にした時に見えてくる、しかし死を前にした時に見えても遅い、だから、死を前にしたかのようにルーティンを辞めて自分を見つめ直せというメッセージを持った解説書である。

この本を読みながら、いろんなことを考えるきっかけになった。

一つには、ルーティンワークってそれほどいけないものなのだろうかということ。多崎つくるが五人組から縁を切られて死にそうな思いをしたのに似た経験がある人なら分かるだろうが、そういう経験をした時には自分の人生を思い直すことなどできないほどの絶望感に陥っている。そこからとにかく脱出しなければならない。

脱出を可能にするのがルーティンワークだ。とにかく絶望の淵を見ないようにして、目の前のことだけに意識を集中して、目の前のすべきことを一つ一つやっていく、そうすることで、日常生活が戻ってくる。それから心身ともに落ち着いてきたら、もう一度見直すことができる。

突然絶望の淵に落とされそうになって、その絶望を感じながら、同時にそれを見つめることができるほど強靭な精神力を持った人はいない。

第二に、自分の人生を見つめ直すということは、誰でも日々行っていることではないだろうか。そうであればこそ、誰それのあの時のあの言葉はそういう意味だったのかと、ふと思い当たることがあったり、その時はこうすればよかったと悔やんでみたり、ということが起こる。そういうことは何も絶望の淵に突きつけられるような経験をしなくてもやっていることだ。

第三に、この評者は「沙羅はつくるを選び、つくるは沙羅との結婚を選んだ。だから、ハッピーエンドだ」と結論しているが、私は最後にはつくるが自死するのではないかとハラハラしながら読んでいた。そもそも今現在付き合っている女性が他の男と付き合っていて、その男の前で自分の前よりも嬉しそうにしているを見て、それでも一生をともにしたいと思うような書き方をするほうがおかしい。

つくるはわけもわからないうちに灰田が自分の前から消え、四人の友人たちに巡礼することで自分が切り捨てられた理由が分かったとはいえ本当の自分を取り戻してない。そこへもってきて、フィンランドから帰国して沙羅に電話したのに出てくれない、例の男と会っているのかもしれないと思って、沙羅が電話してきても自分もでない、そういう精神状態にあるつくるを読みながら、なにかしら希望を感じることは無理だ。

これはすでに書いたが、いろんなレベルの読み方が可能だ。この評者のようにハイデガーをリンクさせながら読むことも可能だ。私のようにハイデガーなど読んだこともないしキルケゴールなどよく分からないという人間が読む読み方も可能だ。だが、私のように言葉の意味に密着して読んでもそれなりに面白い作品でなければ、優れた作品とは言えない。


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『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

2017年01月14日 | 作家マ行
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋、2013年)

図書館の返却棚に見つけたので借りてきた。

名古屋での運命共同体のような5人(アカ、アオ、シロ、クロ、つくる)の幸福な高校時代を過ごした後、一人だけ東京の大学に進学して、この共同体から離脱したつくるを突然破門通告を告げられ、生死の境をさまよう経験をした後、なんとか立ち直り、穏やかな暮らしに戻り、大学を卒業した後、念願の鉄道会社に就職して、駅舎関係の仕事をして、また恋人らしき女性もできた36才のつくるの現在と過去の出来事を交錯させながら描いた小説。

「色彩を持たない」というのがどういう意味なのか分からなかったが、友人たちが名字に上のように色の漢字がついているのに対して、つくるだけはそれがない、というのが、もともとの意味合いだが、だんだんと精神的な意味、つまり感情の喜怒哀楽の動きがほとんどないという意味で色彩感が感じられないということだ。

そしてそれを裏書きするかのような村上春樹の文体そのものが色彩をもたない。男が喋っているのか女が話しているのかわからないような会話の文体。

突然、共同体からの破門を言い渡されたつくるがその苦しみから逃れるために、そういうふうな生き方をせざるを得なかったからだ。とにかく感情を押し殺して、毎日をルーティン・ワークのように過ごすことで生きながらえる。

しかし36才になって知り合った沙羅が現在の4人のことを調べてくれて、トラウマになっているこの精神的しこりを解決しなければ自分とはこれ以上付き合えないと言われ、4人を訪問することになる。それがつくるにとっての「巡礼」という意味だ。そしてずっと事あるごとにつくるが聴いているリストの『巡礼の年』というピアノ曲がモチーフとして重なっている。

メタファーにメタファーで書いている人なので、この色彩を持たないが何のメタファーなのか、時おり出て来る6本指というが何のメタファーなのか、私にはさっぱり思い当たらないが、私のようにメタファーをまったく理解できないで読むレベルも、あるいは完璧に読み取って読むレベルもありだと思う。



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『スティグマータ』

2017年01月09日 | 作家カ行
近藤史恵『スティグマータ』(新潮社、2016年)

『サクリファイス』で日本のプロのロードレーサーとしてチームスポーツとしてのロードレースに苦悩する白石誓を描いたあと、『エデン』で花のフランスのツール・ド・フランスに出場してチームワークに悩む白石誓を描いた。

この最新作品では、やはりツール・ド・フランスもイタリアのジロもスペインでのツールも経験した白石誓が熟練の選手として走る姿をちょっとサスペンス仕立てで描いている。
ツール7連勝したこともあるランス・アームストロングみたいに栄光の絶頂で、ドーピング検査にひっかかりすべての記録を剥奪されたドミトリー・メネンコ(ロシア出身でアメリカ人という、意味深な設定になっている)が2年間の空白(追放されていたため)の後に、再びツール・ド・フランスに戻ってきた。

そのチームには日本人で白石の友人でもある伊庭も入っている。そしてその伊庭の紹介でメネンコに会うと、白石のチームメートであるアントニオ・アルギが自分に恨みを持っているようだから行動に気をつけてほしいと言われ、トラブルを未然に防ぐためと思い了解する。

白石のチームにはニコラ・ラフォンという総合優勝を狙うエースがいる。白石は彼のアシスト役だ。いよいよツールが始まる。ベルギーのアントワープから第一日が始まるが、そこからフランスに入るコースの石畳もなんとか無事に通過し、いよいよアルプスの山岳コースになると、調子のよくて一旦はマイヨ・ジョーヌを着ていたメネンコは徐々に順位を落としていく。

スプリントタイプの伊庭はスプリントコースで2位に入って、別のチームと契約を済ませ、ツールをリタイアする。

気をつけてほしいと言われていたアルギが落車して入院することになり、彼もリタイアするが、その病室にメネンコが花を送ってきたことから、アルギが激怒し、行方不明になる。

ツールも終盤になって、ピレネーの山岳コースで、白石はニコラを先導して、自分が初めてコース優勝できそうになりながらも、エースを優先させて、2位に入る。その夜、散々探した白石は、危うくアルギがメネンコをナイフで刺すという場面に遭遇し、彼を取り押さえようとして逆に刺されてしまう。

こうしてツールの最終日はニコラが凱旋門にトップとして入るのをテレビで観戦していたというところで終わる。

華やかなツールの舞台裏の泥臭い人間関係、ロードレーサーたちの人間的な苦悩を赤裸々に描いた小説ということになるのだろう。面白いかというと、どうでしょう。でもツールの新しい側面を描いたという意味で、斬新な作品と言える。

『サクリファイス』の感想はこちら

『エデン』の感想はこちら



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『花の忠臣蔵』

2017年01月06日 | 評論
野口武彦『花の忠臣蔵』(講談社、2015年)

年末に『古舘トーキングヒストリー~忠臣蔵、吉良邸討ち入り完全実況~』というのがテレビ朝日で放送された。ドラマ仕立てで大石内蔵助を始めとした四十七士と吉良上野介が登場する現場に古舘伊知郎が居合わせて実況中継風に解説をするという番組で、非常に興味深かった。

とくに歌舞伎によって通説となっているようなことが最新の歴史研究によって修正されて、新しい見方が提示されていたことが特徴だった。

たとえば、雪が深々と降る夜というのが通説だが、実際には満月が出ており、前日まで降っていた雪が月明かりを照らして明るく、四十七士にとっては都合がよかったという。というか、彼らは満月の夜をねらったのだ。

またこの夜は、この吉良邸に吉良上野介が泊まる特別の日だったという。通常、上野介は別の屋敷で生活していたが、江戸城でのお勤めの後で、この屋敷に寝ることになっていた。四十七士はこの夜を狙ったという。

テレビドラマなどを見ると、吉良邸に入ってからは吉良上野介の家臣たちが次々襲ってきて一大乱闘の様子が描かれるが、実際には吉良邸のぐるりを囲んでいる長屋に寝ていた警護の武士たちが出てこないようにするために、釘を引き戸に打ち付けて開けられないようにした上で、外から弓を射て、威嚇を行い、彼らの戦意を喪失させたために、警護の武士はほとんど戦闘に加わらなかったという。

古舘伊知郎が某報道番組のメインキャスターを降りて、久しぶりの実況中継風の活躍だったが、彼が生き生きとしていたのが目を引いた。

この本は、上のような新しい視点を散りばめた本で、忠臣蔵好きだけではなくて、江戸時代の、とくに元禄時代がどんな時代であったかに関心のある人には興味深いものだと思う。元禄時代を貨幣経済が浸透した時代、開花の頂点である現代とはひと続きの時代の始まりと明言しているところがすごい。

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