読書な日々

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夏目漱石『明暗』

2009年12月10日 | 作家ナ行
夏目漱石『明暗』

久しぶりに漱石の『明暗』を読んだ。だいたい見当がつくとおもうが、すこし前に痔ろうということがわかったので、冒頭に痔ろうの手術の描写をおいている、明治の大小説家の絶筆に気持ちがいったということだ。まさか自分が痔ろうになるなんて思っていなかった(大学院生の頃に級友が痔だというので、いつも机に向かってお尻を圧迫している自分もなりやすいのだろうかと心配していたが、そんなこともなかったので、自分は痔にはならないと決め込んでいたのだと思う)ので、どんなことを書いているのか興味がわいてきたというところだろう。

よく読んでみると、冒頭の痔ろうの手術というか検査の描写がこの小説のモチーフになっていることが分かる。つまり「途中に瘢痕の隆起があったので、つい其処が行き留りだとばかり思って、ああ言ったんですが、今日疎通を好くする為に、そいつをがりがり掻き落して見ると、まだ奥があるんです」というこの痔ろうの説明は、まさにこの小説が示そうとしている人生観を表している。一見するとこれだけのものかと思っていたものに、まだその続きがある、その裏がある、そしていつまでたっても真実というようなものには行き当たらないというのがそれである。それは、箱根の温泉宿でのうねうねして、どこをどう行ったのか分からない廊下の描写としても示される。そして、なんかの拍子に突然真実に行き当たったりもする。それが思わぬところで清子に出会うことで示される。

私はこのうねうねした廊下の描写から、松浦寿輝の『半島』を思い出した。あの小説でも道行がうねうねとして、いったいどこに続いているのか分からないが、突然、見知ったところに出てきたりして、まさに人生とはかくなるものを示しているとブログに書いたが、あんがい、漱石を意識して書いたのか、漱石と似たような考えに行き着いたのか、私には分からないが。

漱石『明暗』のもう一つの特徴は、緻密なその心理分析にある。まるで彼の初期の『文学論』を地で行くような、登場人物の性格描写、そして津田とお延、津田と吉川夫人、お延とお秀、小林と津田といったそれぞれ特徴をもった性格が相対峙したときの関係を、まるでバルザックの小説のごとく、物語の進行をいったん止めて、分析説明してから、激突させるという、じつに面白い作品になっている。ただ吉川夫人以外の人物はすべて、なかなか本心を言わないし、小林のように、本心を言うか言わないかということを自分の金銭的利害と結びつけているような人物もいるので―というかすべての人物がじつは小林と同じように本心を言うか言わないかということに自分の利害を結び付けているには違いない―、じつに話がじれったい。読みながらいらいらする。

まぁそれはいいとして、よく小林というのは津田やお延を中心とした吉川や岡本といった「上流階級」(?)の世界にたいする下流の世界として、また彼らに敵愾心をもち、社会主義ともつながっているのではないかと思わせる登場人物として説明されることが多いし、場合によってはそこから漱石が社会主義に関心を持っていたのではないかといわれることもある。たしかに『明暗』が書かれた時代というのは大正デモクラシーの時代であるとはいえ、自分が探偵につけられている、社会主義者と思われていると自分から言うような人物が登場するからと言って、漱石と社会主義を結びつけるのは短絡にすぎるだろう。

漱石の作品にはこの小説の藤井に相当するような高等遊民的な人物が常に存在するし、彼のそばには書生として弟子として、完全ではないにしてもこの高等遊民から影響を受けて、社会に批判的な態度を示す若者が登場するのが常である。ただその若者がどう描かれるかは、たしかに時代の変化によって違ってくる。まさに大正デモクラシーの時代であるからこそ、『三四郎』のときのように、才能があるのにそれにふさわしい地位を得られないでいる「先生」のプロモーション役をかってでて、失敗するというような人物から、社会主義者として追われているのかもしれないと自慢する人物に変化しても、それはたんに時代の流れというものだろう。

しかしこの小林がこれ以前の同様の人物と違うのは、彼が自分の本心を駆け引きの道具として使うというやり方が、たしかに小林の場合は露骨であるというだけで、他の登場人物すべての流儀になっているという点である。お延、お秀、津田、みんな本心を駆け引きの道具に使って、けっして本心を言おうとしない。もちろん自分の利害のためにほかならない。

もう一つこの小説の特徴は、女が一人の存在として確立して捉えられているということだ。それは『三四郎』だとか『虞美人草』などと比較してみれば、一目瞭然だろう。お延やお秀が、まさに津田と対等の人間として心理分析の対象になっている。『三四郎』のみねこや『行人』の一郎の妻や、『こころ』の先生の奥さんたちは、まったくなにを考えているのか分からないものとして描かれているのとは対照的に、一人の人間として自律した存在として描かれている。この点は、前作の『こころ』から見ると、たった一作でたいへんな飛躍である。いったい何が漱石の中にこれほどの変化を起こさせたのか、私には分からないが、この意味でもこの小説が絶筆になったのは、本当に残念だ。

この小説が絶筆になった大正5年というのは1916年でまさに第一次世界大戦の渦中である。この戦争はそれまでの戦争と違って、戦闘機、戦車、連射銃など殺傷能力が格段と強まったなかでの戦争で、その死傷者の数は想像を絶するものになったことでも知られる。日本はたいした参戦もしなかったが、世界の情勢に敏感な漱石はそのあたりのことをわかっていたのだろうと思う。人間が世界的な規模でどうしようもない状況に陥りつつあるのを目の当たりにして、上記のような、人間の真実というものは容易につかめるものではないというような人生観に達していたのではないだろうかと考えるのだ。

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