南木圭士『冬物語』(文芸春秋、1997年)
『阿弥陀堂だより』がもつ癒し系の読後感を期待して読んだ『ダイヤモンドダスト』が期待に反して「暗くてやりきれないような作品ばかり」ばかりだったので、この短編集にはあまり期待していなかったが、『阿弥陀堂だより』のような癒しの効果をもつような作品が多く含まれていた。どうも作者自身が、『阿弥陀堂だより』の妻のように、先端医療のはらむ非人間性のストレスからうつ病になったことが作品全体の雰囲気を変えてしまったようだ。これ以前の彼の作品はとにかく暗くてやりきれない感じものが多いが、これ以降には、人の死を扱っていても、死が自然なものとして、恐怖の対象とか戦いの対象ではなくて、自然なものとして受けいれるべきものとして描かれているように思う。とくに気に入ったのは「川岸にて」「空の青」「晩秋」「木肌に触れて」などであった。
「川岸にて」の松田幸吉の思い――できれば健康なままで死にたい。本当はなんかの病気が原因で死ぬとしても、そんなことは知らないで老衰が原因であるかのように死にたい――に私は共感した。どうせ死ぬなら楽に死にたい。これまで貧しくとも人の迷惑にならぬようにつつましやかに生きてきたのに、どうして人生の最後の最後にガンだとかなんだとかという大仰な病気に体だけでなく精神まで心まで蝕まれて死ななければならないのか。人生の最後は苦労した人生の終わりにふさわしい、安らかなものでありたい、どうして先端医療かなんか知らないが、抗がん剤かなにかに知らないが、「闘いながら」死ななければならないのか。こう言って「私」の治療を拒否して、楽に死なせてくれると評判の青山医師に紹介状を書くように要求したのは「木肌に触れて」に出てくる末期の胃ガン患者である「まきさん」だった。
私の祖母は人生の最後に卵巣ガンかなにかで苦しみながら死んだ。私の祖母の時代にはまだこのような終末医療というような考え方もなく、苦しみながら死んだ。私がそれを見て納得できないとずっと思ってきたのは、祖母が一度だけ口にした「慎ましやかに生きてきたのにどうして最後にこんなことになるのか」という無念の思いであった。人生ってこんなものなのだろうかという思いがずっと私のなかにあった。「川岸にて」や「木肌に触れて」はこの無念の思いに新しい光をあててくれた。そうだ、祖母の無念は当然のことだったのだと。戦争では長男を戦艦大和の二等水兵として戦死させ、田舎なのに水田がなくてわずかばかりの畑を耕して、無職の夫を助けながら、家を切り盛りしてきた祖母は、良妻賢母の見本のような女だった。年老いては、半身麻痺のでた夫の介護を自宅でしながら、夫の死を見取った。当然、祖母は安らかな死を期待していたのに、そうではなかった。
作者は、回復不可能だと分かっていながら先端医療と称して抗がん剤を投与したり、最新の器具を体中につけて身動きもできなくさせてきたにもかかわらず、彼らに幸せな死を与えることができなかったことで、先端医療というものの欺まん性に耐えられなくなって、自らがうつ病になることで、そういう多くの老人たちの当然の思いに気づき始めたのではないだろうか。そのとき彼の作品は死を暗いものから、恐怖の対象から、人間の誕生から幼年・青年・壮年・老年の行き着く先として、自然なものとして見ることができるようになったのではないだろうか。その結果、彼の作品は大きく変化したのだろう。どこがどうと問われても、今の私には答えることができないが、変化したということだけははっきりと言える。
『阿弥陀堂だより』がもつ癒し系の読後感を期待して読んだ『ダイヤモンドダスト』が期待に反して「暗くてやりきれないような作品ばかり」ばかりだったので、この短編集にはあまり期待していなかったが、『阿弥陀堂だより』のような癒しの効果をもつような作品が多く含まれていた。どうも作者自身が、『阿弥陀堂だより』の妻のように、先端医療のはらむ非人間性のストレスからうつ病になったことが作品全体の雰囲気を変えてしまったようだ。これ以前の彼の作品はとにかく暗くてやりきれない感じものが多いが、これ以降には、人の死を扱っていても、死が自然なものとして、恐怖の対象とか戦いの対象ではなくて、自然なものとして受けいれるべきものとして描かれているように思う。とくに気に入ったのは「川岸にて」「空の青」「晩秋」「木肌に触れて」などであった。
「川岸にて」の松田幸吉の思い――できれば健康なままで死にたい。本当はなんかの病気が原因で死ぬとしても、そんなことは知らないで老衰が原因であるかのように死にたい――に私は共感した。どうせ死ぬなら楽に死にたい。これまで貧しくとも人の迷惑にならぬようにつつましやかに生きてきたのに、どうして人生の最後の最後にガンだとかなんだとかという大仰な病気に体だけでなく精神まで心まで蝕まれて死ななければならないのか。人生の最後は苦労した人生の終わりにふさわしい、安らかなものでありたい、どうして先端医療かなんか知らないが、抗がん剤かなにかに知らないが、「闘いながら」死ななければならないのか。こう言って「私」の治療を拒否して、楽に死なせてくれると評判の青山医師に紹介状を書くように要求したのは「木肌に触れて」に出てくる末期の胃ガン患者である「まきさん」だった。
私の祖母は人生の最後に卵巣ガンかなにかで苦しみながら死んだ。私の祖母の時代にはまだこのような終末医療というような考え方もなく、苦しみながら死んだ。私がそれを見て納得できないとずっと思ってきたのは、祖母が一度だけ口にした「慎ましやかに生きてきたのにどうして最後にこんなことになるのか」という無念の思いであった。人生ってこんなものなのだろうかという思いがずっと私のなかにあった。「川岸にて」や「木肌に触れて」はこの無念の思いに新しい光をあててくれた。そうだ、祖母の無念は当然のことだったのだと。戦争では長男を戦艦大和の二等水兵として戦死させ、田舎なのに水田がなくてわずかばかりの畑を耕して、無職の夫を助けながら、家を切り盛りしてきた祖母は、良妻賢母の見本のような女だった。年老いては、半身麻痺のでた夫の介護を自宅でしながら、夫の死を見取った。当然、祖母は安らかな死を期待していたのに、そうではなかった。
作者は、回復不可能だと分かっていながら先端医療と称して抗がん剤を投与したり、最新の器具を体中につけて身動きもできなくさせてきたにもかかわらず、彼らに幸せな死を与えることができなかったことで、先端医療というものの欺まん性に耐えられなくなって、自らがうつ病になることで、そういう多くの老人たちの当然の思いに気づき始めたのではないだろうか。そのとき彼の作品は死を暗いものから、恐怖の対象から、人間の誕生から幼年・青年・壮年・老年の行き着く先として、自然なものとして見ることができるようになったのではないだろうか。その結果、彼の作品は大きく変化したのだろう。どこがどうと問われても、今の私には答えることができないが、変化したということだけははっきりと言える。