読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『フランス文芸批評史(上)』

2016年05月29日 | 人文科学系
杉捷夫『フランス文芸批評史(上)』(筑摩書房、1977年)

2月にこれについて書いたが(こちら)、その時は、買いましたよという報告であって、読みましたよという報告ではなかった。読み終えましたよという報告が、やっとできる。もちろん2月からずっと読んでいたわけではなくて、四月くらいになってから、通勤電車の中で少しずつ読んでいた。

それにしても、すごい読書量、すごいフランス語力、すごい要約力、すべてが備わっていないと、これだけの本は書けないだろう、と私のようなものでも分かるくらいに、簡潔にして、また肝心な所はしっかりと書かれている。

私としては新旧論争の全体像を理解したと思っていたのだが、それについてもしっかり書かれており、およそのイメージを捉えることができたと思う。あくまでも文芸批評史なので、流れを大事にしており、前後の関連がよく分かる。もちろん細かい所は、それぞれの読者がそれぞれの関心に応じて、細部を詰めていけばいい。

さらに、18世紀初頭の感覚派の流れもよく分かった。その中で、テラソンがデカルト合理主義のゴリゴリ理論派だったことも分かったことは一つの成果だ。同じ読むにしても、まったく予備知識なしに読むのもいいが、ある程度大きな流れの中でどんな位置を占めている著者なのか、思想なのかを知っておくことも大事だろう。

本当に感心しながら、読み終えた。

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『巨大戦艦大和』

2016年05月22日 | 評論
NHK取材班『巨大戦艦大和』(NHK出版、2013年)

日本が第二次世界大戦で誇った巨大戦艦の大和にちょっとした思い入れがあるのは、私の叔父、つまり私の父の兄が大和の二等水兵(いや三等水兵だったかも)として乗船していて、ここでも描かれている1945年4月に鹿児島沖で沈没した時に戦死しているからだ。

もちろん私が生まれる前の話しで、この叔父は写真で見ただけで、一度も会ったこともないし、家族からこの人の話しをきちんと聞いたことも一度もない。ただ、私の祖母が近所のお年寄りと昔話になったときに、お互いの息子たちの戦死の話しにでもなったときに、涙を流しながら話しているのを見たことがあるだけだった。

たぶん大和の遺族会のようなものにも入っていたようで、大和の写真があったと記憶している。

私としてはこの叔父がどんなところにいて、どんなふうに戦死したのかを知りたいと思ってこの本を読み始めたのだが、当たり前と言えば当たり前なのだが、三等水兵の生活は分からないし、どんな死に方をしたのかも詳細は分からないにしても、きっと大和が沈没するのに巻き込まれたのだろうと思う。

それにしても、戦時中の物不足とか言いながら、クーラーが艦内にあって、涼しかったとか、寝台があったとか(普通はハンモック)、一人ひとりにロッカーがあったとか、信じられないような設備になっていたという。戦艦としての設備については主に主砲のための射撃盤が弾道計算のために20近いパラメータを入力して素早く決められるようになっていたという話しくらいしか書かれていないが、時代からすれば、最新鋭と言っていいものだったのではないだろうか。

しかし、そうした装備、設備の素晴らしさは、平和時にこそ享受できるものであって、戦闘となれば、それはもう筆舌に尽くしがたいという言葉とおりのことが回想されている。砲弾や爆弾を前にして人間の肉体のなんと脆いものか。回想している本人たちも思い出したくもない現実の姿だったろう。

戦争の真実はそこにあることを見つめるべきだ。


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米子行き

2016年05月15日 | 日々の雑感
米子行き

初夏恒例の米子行き。今回は盛り沢山の内容だった。

まず二日目(土曜日)の午前中は、予め調べてあったZOOJAというジャズ喫茶に行ってみた。ネットでたまたま見つけたのだが、おふくろの住んでいる団地のわりと近く、というか、よく買い物に行くユニサンというスーパーのすぐとなりにある。

場所がわかりにくいと書いてあったが、すぐ分かった。日差しの強い日だったが、店内は木漏れ日が揺れて、ジャズピアノ(たぶんハービー・ハンコックの『Maiden Voyage』かなんか)が流れていた。

私一人しか客がいないので、立派な音響機器でどんな風に聞こえるのか聞いてみたくて、私が家でよく聞くウェス・モンゴメリーの『フル・ハウス』とかアート・ペッパーの『スマーク・アップ』を聞かせてもらった。どうもピアノが好きなオーナーがそれに合わせたシステムを組んでいるようで、なんかこういう曲を聞くと品のない音にしか聞こえない。やっぱ家で聞くのも悪くない。

ピアノならと思って、ビル・エヴァンスのI will say good byをリクエストしたのだが、もっていないということで残念だった。お客さんがCDを持ってきてくれるので、それでデータベース化しているという話だったから、今度は私のCDを持って行って、聞かせてもらおう。

寡黙なオーナーだったが、話しかければ、丁寧に対応してくれる人だった。これから米子行きの楽しみが増えた。こちらを参考に

午後からは、おふくろの座椅子を買いに行くという約束だったので、昼食には戻って、2時のお迎えをまつ。弟の奥さんが車で迎えに来てくれた。米子のニトリに行く。膝を痛めているので、座ったり立ったりがしやすい椅子ということであれこれ探した結果、いいのが見つかったので即買った。もちろん取り寄せだが、弟が取りに行ってくれるというので、頼んできた。

その後、車で出かけることはめったにできないし、時間もあるので、大根島にボタンを見に行った。大根島はかつて溶岩が吹き出て固まってできた島で、山がない。夜見ヶ浜半島から橋を渡るのだが、この橋が最近有名になったあのベタ踏み橋。詳しくはこちら

大根島の由志園は庭園も整備されており、そこにボタンが咲き乱れているということで、時期的にもボタンの季節なので一度行ってみたかったところだ。詳しくはこちら

時期的にはボタンの終わり頃で、咲き乱れるというのは終わっていた。日本庭園を一回りして、茶房一望で、朝鮮人参の抹茶風味に羊羹付きを頂いた。

夜は夜で久しぶりに弟の家族と食事をした。本当に盛り沢山の米子行きで、少々疲れ気味。


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『オペラでわかるヨーロッパ史』

2016年05月12日 | 評論
加藤浩子『オペラでわかるヨーロッパ史』(平凡社新書、2015年)

この本で取り上げられているオペラといえば、私が知っているのは、イタリアでは『カヴァレリア・ルスティカーナ』『リゴレット』『トスカ』、フランス革命がもたらしたものでは『椿姫』くらいで、イギリス王室に関するものとスペイン、ロシア、スウェーデン関係もほとんど知らない。

だから、この本のいい悪いは論評する資格はない。少なくとも知っているオペラについて言えば、例えばつい最近見たばかりの『椿姫』の政治的背景をまったく知らないで私は見たのだが、だいたい話の流れから、カヴァラドッシがどんな考えの持ち主で、スカルピアがどんな男かなんとなく分かる。もちろんここに書かれた歴史的背景を知っていればそれにこしたことはないだろうが、それを知っていたからといって、『椿姫』がもっと味わえるのかと言えば、そうは思えない。

同じことは『ラ・ボエーム』でも同じだ。主人公ミミがどんな境遇か、お針子というのが、どんなことを夢見て、どんな生活をしていたのか、そして貧しい男との純愛がどんなにつまらないものか、この本ではよく分かる。しかしだからといって、あのオペラが面白くなるわけではない。たしかに私が見た上演は、字幕がめちゃくちゃだったこともあって、私の不満を増幅してくれたが、それだけではなく、設定自体がもうつまらないとしか言いようがない。

私は何でもかんでもオペラにこんな感想をもつわけではない。モーツァルトのオペラは、ほとんどどれもまったく予備知識なしで見たが、あっという間に時間がすぎる、そんな風に作品世界に入ることができる。どこにモーツァルトとヴェルディやプッチーニとの違いがあるのだろうか。確かにモーツァルトだって、アリアでの主題の繰り返しが鬱陶しいと思うことが多々あるが、それはそれだけのことで、だからと言って作品全体の評価には影響しない。

なんだが、ワルガキが喧嘩売っているみたいになってしまった。(アマゾンでは「オペラ・声楽」のカテゴリーで第一位になっているようだ。やばい、やばい。

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『拉致と決断』

2016年05月11日 | 評論
蓮池薫『拉致と決断』(新潮社、2012年)

言わずと知れた拉致被害者で帰国を果たした蓮池薫の北朝鮮での生活などを書いた本である。私としてはどんな風に拉致されたのかという事実あたりから知りたかったのだが、なぜかしら、この点についてはまったく触れられていない。

ほとんどが北朝鮮での生活の話であるのはいいのだが、自分自身の細かな生活については書いてあるような・ないような、そんな感じである。とくに最初の数章は事実関係というよりも、著者自身の思い、疑念、希望、期待、意志、落胆などのような精神的なことばかりが書かれている。突然、別世界に拉致されて、だんだんと二度とここから生きて祖国に帰ることはできないという現実が分かってきたときの、精神状態を思えば、どうしてもそういう記述が中心になるだろう。

だがだんだんと細かなことも書かれるようになる。私として面白かったのは、「生きて、落ち合おう」という章で、ここでは多くの北朝鮮の人から「第二の朝鮮戦争」のシナリオを聞かされたという話で、韓国軍が三十八度線を突破してきたら、阻止してすぐに反撃に出て、速戦即決で、あっという間に全土を制圧して彼岸の祖国統一を実現するというものらしい。このシナリオどおりに行かなかった場合には、人民全員がゲリラとなって山などに潜伏し徹底抗戦するということにもなっているらしい。確かに現在の半島は、停戦中である。

そしてそのような状況になったら自分たちはどうしたらいいのか、一緒に山に逃げるのか、それともやって来た韓国軍なり米軍に「自分は拉致被害者だ」と英語で言えるようにしておこうと練習してみたという話など、心配性で怖がりだと自己弁護しているが、たぶん私だって同じ状況になったら、そうするだろうなと共感した。

思想教育のために年寄りになってもチュチェ思想の講義をラジオなどで受講するようになっていたらしいが、それも80年代の食料状況が良かった時期までのことで、90年代以降はそういうものもなくなったらしい。

北朝鮮の庶民の生活を知りたい人たちにはけっこうな情報が詰まっているのかもしれないが、拉致のことを知りたいと思っている人には、ちょっと物足りない内容である。

奥さんのことについても、子どもたちのことについても、招待所というところでどんな生活をしていたのか、などあまり詳しく書かれていない。とうぜん他の拉致被害者のことはまったく書かれていない。たぶん日本には北朝鮮の関係者が山ほどいるわけで、そのあたりのことをあまり詳しく書くと、いろいろ問題が起きるということもあるのかもしれない。

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久々のプラレール

2016年05月08日 | 日々の雑感

久々のプラレール

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

連休最後に、といっても母親が仕事のために、孫のはーちゃんが来た。この子は大の車好きで、うちにくると、必ずプラレールをして遊ぶ。もちろんまだ自分一人ではレールを組み立てることができないので、私が作る。最近、ミニカーがあるのも見つかったので、それも使っている。

今回は二階建てがいいというので、二階部分に上がるのも、二階から下りるのもできるようにしてみた。なかなかおもしろい。

もともとは息子が使っていたものだが、息子が大きくなってもう20年以上もしまってあったのだが、孫たちのために出してみたらまだ十分に使えた。ただはーちゃんお気に入りのトーマスだけは動かなかった。たぶんモーターが壊れているのだろうと思っていた。

昨日ははーちゃんの相手も疲れたので、踏切のバーが折れていたのを直した。アイスのバーが軽くていい。これを少し削って細めにして、端を円状に繰り抜いて、ボンドで貼り付けた。そのまえに黒色のマーカーで彩色しておいた。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はーちゃんえらく気に入って、ミニカーで踏切を渡って遊んでいる。そこで、トーマスの修理に挑戦と思い、やってみた。全部分解してモーターを取り出して、電池に繋いでみると、動く。モーターの故障ではなかった。

もう一度組み立てなおしてみると、なんと動くではないか。どこがどう悪かったのか分からないけど、結果オーライということで。はーちゃんもえらく喜んでくれて、おじいちゃんとしても嬉しいよ。

はーちゃん、あまりの嬉しさに、持って帰ってしまった。


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