読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『船に乗れ Ⅰ合奏と協奏』

2009年11月28日 | 作家ハ行
藤谷治『船に乗れ Ⅰ合奏と協奏』(ジャイブ、2008年)

音楽家を目指す高校生が高校の文化祭での発表や演奏会に向けた練習の中で成長していく過程を描いた青春小説ってやつでしょう。

音楽を演奏するという話だけでも、なんか特別な雰囲気、ちょっとこじゃれた雰囲気があるのに、そこへもってきて自分の感情をもてあまし、どう自分を表現したらいいのか分からない高校生の話ということで、まさに青春小説ってやつだ。

篠田節子さんの『カノン』なんかも大学で音楽を専攻する学生たちの絡み合いの話だったが、あれはもう結婚もして子どももいてという中年にさしかかった男女の現在と回想によるものだったし、篠田節子さん特有のサイコ的なところもあったので、また雰囲気が違うけれども、面白かった。

こういうのって生理的に好きなんだろうね。自分でもすこしだけどオーケストラとまではいかない小規模の合奏団でバイオリンを弾いて、自分たちの演奏会や、地域の合唱団の演奏会の伴奏に出たこともあるから、演奏会での緊張感や、練習のときのばらばらなまとまりのない段階から、徐々に出来上がって一応まともな演奏ができるようになったときの充実感、しかし演奏会ではやはり心配していた失敗をやらかして、合奏団と合唱団で最後がばらばらに終わったなんてひどい経験もしているから、主人公の津島サトルの感じていることがびんびん伝わってくる。

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『正座と日本人』

2009年11月26日 | 評論
丁宗鐵『正座と日本人』(講談社、2009年)

漢方医学を専門とする大学の先生であり、みずからクリニックを開いている医者ではあるが、もともと歴史が好きだったこともあり、たくさんの茶道家が膝を痛めてクリニックを訪れることから、正座に関心をもち、一冊の本をまとめたということのようだ。

人間だれしも、現在支配的なことはずっと昔からあったと思い込んでいるが、なんでも始まりがある。正座もそんな昔から日本人の座り方だったわけではない。衣服、住環境、倫理、教育、そういったことがからまって当たり前みたいになっていくものだ。

私が驚いたのは、この本でもすこし触れられているが、朝鮮での座り方である。もちろんチャングムとか『王と私』といった韓国の時代劇を見ていると、女性もアグラをかいたり、片膝を立てたりして座っている。もちろん目上の人の前でも日本で言う正座ではなくて、アグラで座っているのをみて、もちろんチマチョゴリの下に女性もズボンのようなものをはいているから可能なのだろうけど、これが正式の座り方なのだと分かって、不思議な気持ちがしたものだ。

ということは多くの文化は朝鮮から入ってきていることを思うと、昔は当然ながらアグラや片膝たてが普通の据わり方だったのだろうと推測できる。だから、この本でも多くの肖像画に描かれている支配者、思想家、僧侶などがアグラや片膝たてであると指摘されて、まぁそうだろうなと合点がいく。

この人の調査によれば、江戸時代に武士のあいだで他の階級と区別する、あるいは武士の倫理観を強めるために正座が導入されたが、実際に武士の間で当たり前のようになったのは江戸時代の後半、終わり頃で、明治時代になって明治政府が外国とくに東アジアの国との差別化のために庶民にも正座を教育するようになり、明治の終わり頃に畳が一般家庭にも普及するようになって初めてかなり広がり、太平洋戦争の時期に思想教育として正座を強要するようになったことが、そのまま戦後にも残ったということらしい。

とくに正座をよしとする(アグラや片膝たてはしにくい)とためには、服がいまの女性の着物のようにまっすぐ立っているのが精一杯で、足を広げるということは不可能というものの場合にせいぜい正座で座れるということから、着物=正座となり、着物を着用して行う茶道で正座が一般的になったということのようだ。千利休だってアグラでお茶をしていたというから、もっと楽な気持ちでお茶をしたらいいのに。

正座を日本の伝統的な座り方というとすれば、以上のことから、間違っていることになる。せいぜい60年位前から一般的になったに過ぎないのだから。「精神が身体や所作に表れる」という発想はいったいどこからくるのだろうか?たぶん儒教的な発想なのだと思うのだが、すべてはここに端を発している。そこからだらしない座り方や所作や服装をしているものの内面はだらしないということになる。怖ろしいことに、そういう教育を私たちでさえもされてきたから、自然とそんな風に見る癖がついてしまっている。そういう意味では、10年位前から当たり前になってきたダラシナ系のファッションは、そういう日本人に染み付いている戦中教育の名残を払拭するものとして有効かもしれない。

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『満身これ学究』

2009年11月25日 | 評論
吉村克己『満身これ学究』(文芸春秋、2008年)

古筆学の大家小松茂美の研究者としての半生を描いた評伝なのだが、古筆学という学問自体が私にはよく分からない―いわゆる日本の古い文学的作品を扱う国文学とどう違うのかよく分からないという意味で―のだが、小松茂美という人のすごさは、もう感嘆に値するというほかない。

著者一覧をみただけで、もうどうしてこれだけの本が書けるのか、しかもそのほとんどが通説を翻すような研究であるというだけでなく、『平家納経の研究』だとか『日本書蹟大鑑』の一つでさえも、人が一生かかって成し遂げた研究成果と言ってもいいような研究らしい。そういった何人分もの研究者が一生をかけてやっと成し遂げられるような研究がいくつもあるというのだから、もう、どんな日常生活をしているのだろうと首を傾げざるをえないのだが、まさに満身これ学究というのがそれなのだろう。朝起きてから寝るまでひたすら研究のことしか考えていない。しかも睡眠時間は3・4時間というのだから、もう人間を超えている。

とまぁ、こんなふうに、スーパーマンでも見るようなことしか書けないのは、もちろんまったくの門外漢だからだが、そもそも何百年も昔に書いた毛筆を誰が書いたのか特定するということ自体が信じられないような気がする。そのために何万枚と写真に撮った写本を比較研究し、筆跡鑑定の手法も身につけ、また当時の風習、自然、社会制度などあらゆることに通じた上で、本の数行だけの毛筆の写本の切れが誰のもので、いつの時代のものかを推理していくのだから、それはもう大変なことだ。

漢字学を確立した白川静にしても、古筆学を確立したこの小松茂美にしても、けっして裕福な家庭に育ったわけでもなければ、そういう研究をしていく環境にあったわけでもない。まるで神が彼らをそういう方向へ導いたかのように、この道に進んでいる。

しかしどんな環境にあっても、研究というのは膨大なインプットがなければ成り立たない。膨大なインプットがあって、それを整理分類し、そこから新しい意味や分類の方法などを導き出してくるという道筋はどんな研究でも変わらない。そう思って、お手上げ状態の気持ちを、鎮めた。

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『アカペラ』

2009年11月24日 | 作家ヤ行
山本文緒『アカペラ』(新潮社、2008年)

「アカペラ」

母親が突発的に家出してしまっておじいちゃんのトモゾウこと泰造さんと二人で暮らす中学三年生のタマチャンことたまこ。父親は離婚して北京に住んでいる。

でもおじいちゃんは母親にいつもいじめられているので、母親がいないほうがストレスもなくなって元気になる。いつも大きな声で歌を歌っているのが元気な証拠。

たまこは手芸というか裁縫に能力を発揮して、年齢を偽ってアルバイトしている古着屋の店長に認められて卒業したら就職を約束してもらっているが、高校に進学をしないで就職すると進路希望に書いたことから、担任とひともんちゃく。

担任のカニータこと蟹江も高名な大学教授だった父親に同じ進路を要求されそれに応えられなかったことからちょっとひねた性格になっているけれど、たまこのことを真面目に応援するようになる。

突然、年末近くになって母親が帰ってきたため、ついにじいちゃんとたまこが今度は家出することに。ラブホテルを転々としたあと調子が悪くなったじいちゃんを連れて、カニータのアパートに転がり込んだ二人だが、じいちゃんが倒れ入院することに、そのまま植物人間になっていまう?...

「ソリチュード」
従妹の美緒と中学生のときに性的関係をむすんでしまい、それが原因で家出をして20年間東京を転々として暮らしてきた春一は、父親の死をきっかけに実家に帰ることになった。

母親のもとには近所に住む美緒が離婚して、一人娘の一花と出入りしている。よりを戻したいのか戻したくないのか、お互いにお互いの気持ちがつかめないまま、春一は一花の父親のような存在になってしまう。

2ヶ月も経った頃、東京から春一と同棲しているまり江と、春一が飲酒運転でひっかけたためにランナーとしての選手生命を絶たれながらも春一を好きになってしまった朱夏がやってくる。

結局、美緒の気持ちがつかめないまま東京にもどる春一。

「ネロリ」
もうすぐ50歳に手が届く志保子は出版社の社長秘書をしているが、まもなく社長の次男が次期社長になれば、辞めなければならない。

家には高校生のときに母親の長期看病のために就職も諦め、また自身のアレルギー体質のために身体が弱くて働くことができない弟の日出男がいる。年齢ももう40歳を前にする。ココアちゃんと呼ばれる若い彼女がいるのだが、志保子は彼女のことはほとんど念頭にない。

その志保子に会社に出入りしている製紙会社の須賀が求婚してきた。須賀の実家は代々続く老舗旅館で、母親が強圧的で、たぶん母親の愛に飢えているのだろう、それでずっと年上で見た目にもおっとりして優しそうな志保子に一目ぼれをしたということのよう。

志保子はコレといった決定的な決め球もないまま彼の求婚を受け容れたかたちになっていたが、上京してきた母親に破談を迫られたのを気に一気に意欲を失ってしまう。結局は、いつもの二人の生活がまた続く。

とくにコメントすることはなし。けっして面白くないとも思わないし、すごい!と声をあげるほどのものでもない。登場人物は生きているし、文章はすごく上手いと思う。

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『リアーヌの体』

2009年11月21日 | 現代フランス小説
Cypora Petitjean-Cerf, Le Corps de Liane, Editions Stock, 2007.
シポラ・プティジャン=セール『リアーヌの体』(ストック書店、2007年)

前回読んだサミラ・ベリルの自伝のすざまじく荒れた生活とはうって変わって、ほとんどたいした変化もないように見える同じ12才前後の少女とその家庭や友だちといった狭い生活圏での日常を描いた小説なのだが、なんだかクスッと笑える場面が満載で、面白かった。

一応主人公はリアーヌという少女。パリに住んでいて、小説の冒頭では小学校のCM1、つまり日本で言う小学4年生にあたる。ただしフランスの小学校は5年生まで。彼女は授業中に内容がわかっていてもなかなか発言する勇気がなくて、面談の結果、CM1を留年してしまう。フランスの小学校・中学校には成績が悪いと留年の制度がある。五年生になったクラスでロズリンというブロンドの美人の女の子と友達になる。リアーヌの胸はぺちゃんこなのに、この子の胸は大人のように大きかったからだ。(ずっと後になって、そのことをリアーヌがロズリンに言うのだが、ロズリンはそれを聞いてがっかりする。)

リアーヌの親は母親のクリティーヌだけ。父親はまだ赤ちゃんの頃に蒸発した。母子家庭だ。ロズリンも母子家庭だが、最近母親が男を作り、二人の間に赤ちゃんができる。クリスタルという女の子。ロズリンは中学生になってジャン=リュックというサン・ドニに住んでいるボーイフレンドができる。17歳でケーキ屋で修行中の身だが、彼の修行が終わったら、ロズリンも中学三年生に進級しないで学校を辞めて、結婚するつもりだという。フランスの中学は4年制。15歳までが義務教育で、学力的に進級が無理な場合は、その時点で学校を辞める子も多い。

リアーヌのクラスにはアシュラフという真面目な男の子がいる。彼の家は中学の正門のすぐ向かいで、ハッサンというお父さんが食料品店をやっている。お母さんはガニアで、何もしないお母さんだ。お父さんは店の中から、いつも学校の前を見張っている。息子は学校が終わるとまっすぐ家に帰る。どうもお母さんの血をひいたようで、真面目なわりには勉強ができない。真面目に宿題をしているのだが、何を勉強しているのかよく分かっていないのだ。

リアーヌにはユゲットというブルターニュ住んでいるおばあちゃんがいる。毎年夏のバカンスにはカンペールの近くのおばあちゃんの家で過ごす。このユゲットも子どもができたら男に捨てられたくちで、二代続いて子どもができたら男に捨てられた。

リアーヌが中学2年生になった年、突然母のクリティーヌが寝込んでしまう。仕事にも行かない、家事もしない、食事もしないという状態になってしまう。しかたがないのでエヴァという家政婦を雇うことになる。彼女にはアルメルという女の子がいるのだが、この子がまた悪い。エヴァは家政婦と言ってもまともな家政婦ではなく、掃除をさせれば、飾ってある花瓶を割るし、ホコリは残ったままだしで、家政婦を雇ったわりには家は片付かない。

埒が明かないので、ついにブルターニュからユゲットが上京してきて家の世話をすることになる。すこし経つとパリでの生活にもなれてきて、いつもバスに乗って行っているリュクサンブール公園に車で行きたいと思うようになり、自動車学校に通いだす。ちょうどジャン=リュックがもっている白いルノー5を売りたいと思っていたので、免許を取ったら、ユゲットがそれを買うことに。

ロズリンはちょっと蓮っ葉な感じの子なのだが、何もしない母親の代わりに家事をしたり夜鳴きをする妹の世話をしたりする子で、人の気持ちが分かる優しい子なのだ。勉強はできないのだが。

リアーヌの14才の誕生日パーティに呼ばれてすごく喜んでいたが、すこし前に死産したアシュラフの叔母さんのラミアは来なかったほうがいいかも、ロズリンが妹を連れてきていたので、赤ちゃんを見て泣いていたからだと言う。そんな優しい子だ。

1985年6月ロズリンは職業リセに進学し、リアーヌは中学3年生(中学は4年生まである)に進級する。ロズリンの妹(まだ赤ちゃん)は母親が育児放棄をしていたので、ユゲットが面倒を見ていたのだが、ロズリンのママが世話をしたいと言い出し、ユゲットの元を離れることになる。ユゲットはその日から泣き続け、何もしなくなる。代わりにクリスティーヌがおきだして、家事をするようになった。「今からでも子どもを作るのは遅すぎるかしら」と尋ねる。

パリ生活も6ヶ月になるころ、ユゲットはそろそろブルターニュに帰りたくなる。バカンスを機会に、ジャン=リュックから買い受けたルノー5に乗って、ブルターニュに帰る。

この小説を読むと、人生は分からない、なにかあらかじめ決められた方向性や意味があるわけでもなくて、何がどうなるのか分からないものだ、でも(だからではなく)、生きていれば楽しいのじゃないかな、と思わせてくれる。けっして誰一人として幸せではない。リアーヌは毎日吐き気に悩まされ、いつ公衆の面前で吐いてしまうかと怖れているし、ロズリンは何もしない母親の代わりに家政婦みたいなことをしている。

でも人生はこうでなければならないとか、自己実現だとか、そういう肩肘をはらないで生きていけたらいいじゃないと思わせてくれるところがこの小説にはある。なぜか女ばかりの小説だけど、それも意図してのことだろう。

説明文と会話文とが交互にできくるが、どの会話もちょっと可笑しくて面白い。
トローヌの市でジャン=リュックと知り合ったというロズリンが彼の住んでいるサン・ドニまで行くから一緒に行こうと誘われる。リアーヌは母のクリスティーヌに言ってもいいかと確認する。
「ママ、土曜日の3時にボーイフレンドに会いに行くロズリンについて行ってもいい?」「ボーイフレンドですって?どんな?」
「ジャン=リュックよ」とリアーヌは絶望的になってため息をついた。「17歳。ケーキ屋。行ってもいい?」
「ええ」
「いいの?でもジャンティイまでなのよ!」
クリスティーヌは肩をすくめた。
「それで?」
リアーヌは足を引きずりながらリビングを出た。(p.45-46)

もうブルターニュに帰るとユゲットお祖母ちゃんが言い出したころ。その頃、ロズリンは母親が家事と育児を放棄していたので、リアーヌの家に寝泊りしていた。
「お祖母ちゃんが私に何をくれたと思う?」とリアーヌは灯りを消すまえにたずねた。
「プレゼント?」
「ちがう。お金よ。私に200フランくれたの。」
「まぁ!たくさんじゃない!あんたお金持ちね!」とロズリンは叫んで、足をばたばたさせた。
「待ってよ。それで全部じゃないの。こう言ったの。ロズリンと分けなさいねって。」
「うそでしょ?ロズリンと分けなさいってそう言ったの?」
「ええ。うそじゃないわ。これはあなたたち二人のものだから、セフォラに行って欲しいものを買いなさいって。」
「おお、ちくしょう!」
「なによ?」
「なんでもないわ、ちくしょう!」
「なによ、ちくしょうって?」
「ユゲットお祖母ちゃんって私の妹のほうがかわいいはずよ。でもお母さんが妹を取っちゃたし、反対に私を選んでくれても何も難しいことはないのよね。お祖母ちゃんって私を養子にしたいのかしら?」
「できないわ。あなた孤児じゃないもの。」
「ちぇ、そうね。運がないわ」(p.140-141)

作者のシポラ・プティジャン=セールについては1974年生まれということ以外には何も分からない。

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吉野のはずが、下市口

2009年11月20日 | 自転車
吉野のはずが、下市口

自分の身体の調子をたずねながらの自転車乗りなので、なかなか思うに任せない。今日は天気がいいので、以前断念した吉野行きを決行することに。とにかく帰りは輪行なので、気楽のはずが。

まず体力に自信がもてていれば、金剛トンネル→五條経由で下市から吉野というコースになるはずだが、どうも金剛トンネルまで上った時点で息も上っているような不安があり、無難なコースとして紀見峠経由にする。五條までかなり遠回りになるのだが、まぁ紀ノ川沿いのあまり車の来ない道を行くので、まぁ仕方がないだろう。

紀見峠ですでに1時間20分くらい経過。峠を下りたところにあるローソンでおにぎりとスナックバーを買って食べる。1時間36分くらい経過。橋本まで下りきって、橋を渡り、紀ノ川沿いを行く。ここは広々としていて気持ちがいい。途中にグランド脇にはトイレもあるので、トイレ休憩もしていく。なんかアウターだと重いけど、まぁ気にしないでいこう。

168号線まで着いて、左折して五條の町なかに進む。24号線との合流地点まで行かないで、右折して下市に向かう。自分としては近道をしたつもりなのだが、どうなのだろうか。田舎の道をのんびりと行っているつもりなのだが、24号線から来た道と合流して、モンベルのお店があるあたりから、まだ下市まで10kmとある。ええ?まだそんなにあるの?もう11時半だぜ。とても昼には吉野につけない。とだんだんと気持ちが萎えてくる。

橋を渡れば下市口駅、そのまままっすぐ行けば吉野という分岐まできて、すでに12時を過ぎている。そろそろ昼ごはんを食べないと身体がもたないと思い、とりあえず下市口駅のほうへ向かう。ところがその商店街はシャッター街というやつ。食事をするようなところなどない。駅前に行ってみても、なにもなし。ずっと昔、大峰山とか洞川に一泊して稲村ヶ岳にあがったとき、ここまで近鉄で来てバスに乗った記憶があるのだが、こんな寂れた町だったっけ?

もう完全に吉野に行く気持ちは萎えてしまい、駅前のなんでもやでパンを買って食す。あと6分で阿部野橋行き急行が来るということが分かって、急いでバイクを輪行袋に入れる作業をするのだが、だいたい予行練習でも10分はかかっていたのに、無理。急行は出てしまい、つぎは30分後。仕方がない。のんびり待つ。1時56分発の急行に乗る。古市に着いたのはなんと1時間後の2時前。一時間もかかるんだ。急行って言っても、ほとんど各駅に近い。古市からはノンストップで阿部野橋に行くから急行だろうけど。

古市で河内長野行きに乗り換えて一つ目の喜志で下りた。いつものコースを通って無事帰宅した。2時40分だった。やれやれ。

でも、帰りの電車の中で寝れたので、喜志からの帰りは元気一杯。リュックはもたいないで、自転車のボトルケースに輪行袋をくくりつけて行ったのは、その気になったらいつでも輪行できるようにという練習なのだ。その意味では吉野までいけなかったのは残念だが、まぁ当初の目的は達したことだし、こういう輪行だとあまり身体に負担をかけることもないということが分かったので、いいとしよう。

走行時間3時間2分、走行距離64Km。

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『輪姦地獄のなかで』

2009年11月16日 | 現代フランス小説
Samira Bellil, Dans l'enfer des tournantes, Editions Denoel, 2003.
サミラ・ベリル『輪姦地獄のなかで』(ドノエル書店、2003年)

14才のときに集団による暴力、レイプ、輪姦に三度もあい、その精神的後遺症に苦しみ続け、やっと25才でこの本を書くことでそれから自分の解放することができた女性のドキュメントである。

サミラが13才のときに19才のジャイドという不良グループのボスに目をつけられたのは、芸術に関心をもち、地区の女の子とは違って中流っぽい雰囲気を持っていたからであった。しかし実際には、家庭内での抑圧の気晴らしをするかのようにユーロマルシェというスーパーなどに行って万引きをする常習者であった。

彼女はジャイドが好きになり、彼に強要されて彼の好きなところで好きなときにセックスをするようになり、大人たちにとっては「手のつけられない子ども」になっていた。ある日、ジャイドとセックスをした後に彼の子分たちに集団暴行を受け、そこへKがやってきて、さらに激しい暴力をふるい、無理やりあるマンションに連れ込むとポルノビデオを見せられて同じことをするように強要される。信じられないような行為をされたあと、知らぬ若者が二人入れ替わりに入ってきて、レイプされる。

家に帰っても自分が経験したことは口にできず、その夏は家に閉じこもりきりになった。しばらくしてRERに乗っているときに、またKに遭遇し、再びレイプされる。そのときも周りの乗客に助けてくれるように訴えたが、だれも手を差しのべてくれるものがいなかった。

そもそもサミラの生活そのものが二つの世界に分裂していたといっていい。彼女の両親はアルジェリア移民で、サミラがまだ生まれた直後に父親が投獄され、サミラの母は一人で獄中の夫の支援と幼子の養育を両立することが不可能で、ベルギーの子どものいない家庭に預けられていた。彼女はそこで、両親に心から愛され、自主性を尊重した人間関係を築く経験をしてきたのに、5才のときに自分の両親に引き取られて見出したのは、独裁的な父親による暴力と強圧の息苦しい家庭だった。一般にイスラム系の家庭では女性は男性に絶対服従することを掟とされ、いわゆる家庭内暴力は当たり前になっている。

次の年の9月から職業リセに入って通うようになった。芸術家の卵たちは礼儀正しくて、毎日心を入れ替えて通った。11月にソフィアという女性がKにレイプ未遂にあったポリーヌとクラリスという女性を連れてきて警察に一緒に訴えに行こうという。結局、そのためにレイプされたことを家族に知られてしまうことになった。訴えに行くが、警察での対応は、彼女を酷く苦しめることにしかならなかった。帰宅しても両親は何も言わず、理解しようともしない。家のまわりには得体の知れない男たちが徘徊しているし、強迫の電話もかかってくる。

唯一の慰めはリセに通うことで、そこでマチユーという学生と知り合う。ヴェトナムとアルジェリアの混血で、二人は離れなくなって、知り合いの家で同棲するようになる。空き家に入って強盗しては盗んだものをうりさばいて金をつくり、南仏に逃げようと話していたが、彼の父親が探しに来て、引き離されることになる。

家族の中でも孤立し、次の年の1月に父親から出て行けと言われ、母が見つけた施設に入る。6ヶ月そこにいて、その年の夏に父親抜きで母親と妹たちとアルジェリアにバカンスに出かけたが、そこで、夜に外で煙草を吸っているときに、地元の若者たちから集団レイプにあう。現地の警察に訴えたが、取り上げてもらえなかった。苦しみを理解してもらえない苦しみ、苦しみの連鎖が頻繁な心の叫びとなって、発作のような爆発を起こすようになる。母親の睡眠薬を大量に飲んで、死にそうになり、病院に運び込まれる事件も起こす。

1991年2月21日にKに8年の懲役刑の判決がくだる。じつは女弁護士がサミラに証人としての出廷の連絡をしなかったために、一番酷いことをされたサミラの証言がなかったための8年の刑で、もしサミラが証言していたらもっと重い刑になっていたのにと検事から言われ、苦しみが募る。

その後、旅行の企画会社の研修員として芝居、デッサン、外国語を学ぶ活動を行い、研修員としてキプロスに派遣されるが、そこで知り合った同じ研修員が盗んだカードで彼女に高級な服を贈っていたことが発覚し、解雇されてしまう。大麻煙草の吸いすぎで身体も心もぼろぼろになっており、発作も頻繁に起こる。

ダンサーとして生きていこうとしてダンサー養成のための入学コンクールを受けるが、そこで知り合ったダンサーに才能はあるのだから心と身体を治しておいでと言われ、その決意をする。ファニーという精神科医のもとに通うようになって、落ち着きを取り戻すようになる。その頃、自分の経験を本にしてみようという考えがうかぶ。

この時期にはサミラの家庭も変化していた。母親は離婚し、家の中も明るくなっていた。「かつて家を支配していた重苦しい雰囲気は、母が心に隠していた太陽にとってかわった。」母はバカンスで出かけたキプロスで知り合ったパリの弁護士に頼んで、レイプ事件を控訴審にかけるように働きかけ、彼のおかげで、ヴェルサイユ控訴審で勝利を勝ち取る。それをきっかけとして、ついに本を書くことに取り組み、精神科医のファニーが紹介してくれたジョゼの支えのもとに一年という年月をかけて、この本を書き上げることができた。

この出来事はパリの北部での話である。本当にあのあたりは治安が悪いといわれるが、信じられないような事件が本当に起こっていたわけだ。そんなことなどあり得ないような日本でさえも酔っ払って抵抗できなくなった女子学生を輪姦したなんて事件が東京や京都であったわけで、怖ろしい話だと思う。

そしてこの本は、そういう被害を受けた女性が立ち直ることがいかに困難な道であるのかを示している。日本ではそんな話自体が表に出てくることがないから、毎日泣いて暮らしていてもだれもケアする人がいないという現実があるのかもしれない。

とにかく衝撃的な本であった。

インターネットで作者のことを調べていたら、2004年9月6日に33才で癌のために亡くなったという記事にいきついた。そこにある作者の写真を見ると、このフォリオ版の表紙に使われている写真も作者のものらしいということが分かる。作者とは関係のないモデルさんを使ったのかと思ったら、そうではなかったようだ。

せっかく本を書くことでずっと背負ってきた苦しみというリュックを下ろすことができた矢先のことだろう。たしかにこれから新しい人生を歩もうとしていたに違いないが、でも心を解放したあとでよかったと思う。ご冥福をお祈りする。


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書籍電子化の功罪

2009年11月15日 | 日々の雑感
書籍電子化の功罪

昨日の夕刊によるとグーグルが進めている、まだ著作権のある書籍を電子化して公開するというサーヴィスを日本を除外して実施する予定らしい。日本語の本はほとんど日本国内でしか需要がないから、英語の書籍が全世界の人間を読者として想定できるのとは、桁が違うから、こういうサーヴィスをされてしまうと、著作権所有者の利益が大幅に損ねられるという危惧は当然だろう。

ただ書籍の電子化そのものについては、とりわけ著作権がきれた古い書物の電子化については、グーグルだけでなく、国際的な図書館網が強力にタイアップしてその活動を拡大しており、これには大いに賛成だし、私のように、外国のしかも古い文献を必要とするような者にとっては、棚からぼた餅くらいの出来事といっていい。

2000年にはフランスに行った機会を利用してフランス国立図書館で、日本では手に入らない本をじっくり読んだり、必要なところをコピーしたりしてきたのだが、そんなことは年収の少ない私のようなものにとっては、そんなに何度もできることではないし、そもそも2・3週間パリに滞在したところで、読める文献、複写できる文献の数なんてしれている。またあらかじめ、調査する文献などをリストアップしておかないと行き当たりばったりではどうにもならない。

しかし研究の現実はそんな予定通りにいくものではなくて、これまでまったく知らなかった文献がどうしても必要になるというようなことは頻繁に起こることだし、またそういう文献に限って日本のどの図書館も所蔵していなかったりするのだ。欧文雑誌はけっこう広く収集されているようだが、単行本となるともう限られている。

そういうわけで私が現在研究しているような分野のしかもマイナーな資料を手に入れることはほとんど絶望視していたのだが、最近大学の図書館に相互利用で他の大学図書館にある文献の借り出しをお願いしたところ、担当者の方から、それなら著作権が切れているので、ウェブで見ることもダウンロードすることもできますよ、と教えられ、さっそく調べてみると、Internet Archiveというサイトがあって、ここにはアメリカの図書館、カナダの図書館、グーテンベルグ・プロジェクトなどが協力し合って、文献だけでなく、音声や画像のデータも無料で閲覧したりダウンロードしたりできるようになっている。

ここでは、古い文献でもリプリント版として出版されたものは、その出版社がまだ著作権をもっているのでだめだが、それ以外なら、相当にレアなものでもある。私が研究している17世紀18世紀のフランス・オペラのテキストなども、ほとんどあるといっていい。それに研究書なんかでも、2000年に行った時に、どうしても見つからなくて(たぶん私の探し方が悪かったのだと思う)、諦めていた20世紀初頭の文献も次々とダウンロードできた。

本当にこういうことが可能になってくると、資料がないので研究できないといういいわけが通用しなくなるだろう。

残念ながら、フランス国立図書館の電子データで有名なGallicaは関わっていない。逆に言えば、このサイトで見つからなかった文献でもガリカで調べなおしてみれば、あるかもしれない。

ただ、私はガリカで電子化された文献は嫌いだ。電子化というのはたいていがスキャナーにかけたものをPDF化してあることが多いのだが、このスキャナーにかけるという作業が、本をまるまる一冊コピーでもしたことのある人なら分かると思うが、退屈で退屈で、ほんとうにしんどい作業なのだ。その本の重要性を分かっている人間でも、面倒な作業なのに、それをアルバイトで毎日毎日させられる人間のストレスはどんなものだろうと思う。そういうことを反映してか、ガリカのPDF化されたものは、歪んでいたり、斜めになっていたというくらいならいいほうで、読みにくくて判読不可能な箇所がてんこ盛りという状態で、ときどき使い物にならないことがある。グーグルが提供しているものはすごく鮮明なので、なんかこんなところにも国民性が現れているのだろうかと思ったりもするのだけど、まぁこれは偏見でしょうか。

Internet Archiveはこちら

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岩湧の森

2009年11月07日 | 自転車
岩湧の森

これまた久しぶりの岩湧の森だ。出発が9時40分くらいになったので、あまり遠くにも行けない、ということで、ここに。

河内長野から371号線をしばらく南下して、三日市町の交差点で右折して、さらに左折後に南下するというコースがあまり好きではないので、もっと車の少ない道でここまでこれないのだろかと地図で探したが、ない。それで敬遠気味になっていた。

天気も良いので、里山と言われるような村を通り過ぎて、岩湧寺まで来たら、もう足が疲れていて、前回よりも長い間歩いた。リベンジどころではない(そういうつもりもなかったが)。寺直下の直登はほんとうにきつい。

寺のそばに四季彩館というガイドセンターみたいな建物があるので、なんか飲み物とか食べ物はないのかなと思って行ってみたが、なにもなかった。外はデッキになっており、見晴らしがよく、PLの塔などが見える。別荘としてなら最高だなと思う。

ちょっと休憩しただけで、峠に向かう。そのまま同じ道を帰るのもいやなので、滝畑ダム経由で帰ることに。今日は途中の家の犬が放してなかったのでよかった。滝畑ダムを下りて、金剛寺から山すその道を行くコースを走る。こちらはちょっと舗装が悪いので、最短距離を行きたいときだけ通ることにしている。このあたりもいかにも里山の風情でいいところだ。

12時過ぎに無事帰宅した。

走行時間2時間50分、走行距離42Km。

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『ナンバーシックス』

2009年11月06日 | 現代フランス小説
Veronique Olmi, Numero Six, Actes Sud, 2002.
ヴェロニック・オルミ『ナンバーシックス』(アクト・シュッド書店、2002年)

医者の家長(という言い方がまさにまだフランスで活きていた時代の話なので)を中心とした大人数家族の末っ子のファニーの視点から見た父ルイ・デルヴァスや母親、兄弟姉妹の旧弊な世界を描いたもの。

六人兄弟姉妹の末っ子であるファニーは父親が50歳のとき、母親もそろそろ閉経を迎えようかというころに生まれた。長兄から20歳も年が離れているだけでなく、すぐ上の兄からも10才離れている。つまり予期せぬときに生まれてきた末っ子ということになる。日本だと(もちろん人によっても違うだろうが)、とくにそれが女の子だったりすると、溺愛されるパターンが多いが、ファニーはどちらかというとネグレクトされた。それがかえって父にたいするファニーの(一種近親相愛的な、もちろんファニーの側からの一方的なものだが)愛情となって、この物語を書かせることになった。だから、この小説は一人称はファニーだが、つねに二人称は父親に向けられている。

時間系列を完全に無視して、2ページから3ページにわたるひとまとまりの話・エピソードが、断片風に語られるという形式をとっているために、話が分かりにくい。一応、ざっとまとめてみると、父は第一次世界大戦に医療担当者として従軍し、弟のエミールを自分のすぐ近くで死なせてしまったことで悪夢を見るようになる。

戦争中の彼の唯一の慰めは、テノールの綺麗な声を持っていたので、教会でテノールを歌うのが好きで、結婚式や聖体拝領式などに呼ばれて歌うことを喜びとしていた。

昨年2月に100歳の誕生日を祝った。20人の孫と58人のひ孫がいる。

ファニーの兄弟姉妹はクリストフ、パトリス、ジャック、ルイーズ、マリーの5人だが、どういう順番なのかは私には分からなかった。パトリスは実業家で、結婚もしているし家庭ももっている。クリストフは18歳のときに親友のポールの母親エリザベトと相愛の仲になってしまう。エリザベトの夫には愛人がいて、ほとんど家にいなかった。二人はそれぞれに本当の性愛というものを知ってしまう。エリザベトが妊娠したために安ホテルで中絶しようとしたが、失敗し、そこからクリストフが家に電話いてきて、駆けつけた父がすぐに病院に送ったが数時間後に死んだ。その後父はクリストフを家から追い出した。

デスバス家では性の話はタブーで、三人の娘たちを処女のままに結婚させるというのが教育の目的だと考えられていた。だからクリストフによって家庭が「汚された」と両親は思っていたという。

ファニー以外の兄弟姉妹はみんな結婚して独立したが、ファニー一人だけがリウマチを患ったことなどもあって、一人残って、いわば一人っ子になった。自分の立ち位置をナンバーシックスだと気に入っていた。

ファニーが大学生だった頃に起こった68年の5月革命にファニーも運動に立ち上がり、成長したという。

上にも書いたように、エピソードの積み重ねという手法がとられていて、明確な像を結ぶことが難しいが(たぶん伝統的な手法で描いたら、それこそ数巻にもおよぶ大小説になっただろう)、まさにアニー・エルノーの私小説にも匹敵するような、伝統的なフランス人の姿が、ぼんやりとではあるが、浮かび上がってくるようになっている。そういう意味で、ちょっと毛色の変わった私小説風な小説と言っていいだろう。

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