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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『空蝉が鳴いている』

2022年11月22日 | 舞台芸術
山脇立嗣『空蝉が鳴いている』(劇団大阪、第89回本公演)

「今日は京都五山の送り火。銀行ATMの機械の前に高齢の老婆がヨタヨタとやってきた。操作に逡巡しつつ画面に触れてしまい「ATMで還付金は受け取れません」の機械音に驚く。

そしてやってきた銀行員にあれこれ尋問され、家族はいないのに、孫の子のためにお金を送りたいとウソを繰り返し、家族構成のことなどをよく知った支店長からあれこれ問いただされる。

結局、刑事がやってきて、舞台は警察署に移り、そこでも最初のうちはウソを繰り返していたが、ついに本当のことを吐露する。

このお婆さんが若き頃、空襲に遭って息子を亡くした。それが思い出され、母親からのネグレクトのために給食費を学校に持っていくことができない小学生が見ず知らずの家(お婆さん)に電話してきた、それを自分の子のように思ったお婆さんが教えられた銀行口座に1万2千円ほどのお金を振り込もうとしていたのだった。

この芝居は、最初はコメディー風の作りにして笑いを誘って作品世界に引き込み、だんだんとシリアスな世界に導くという王道を行っている。

前半のコメディー風の世界を名取由美子が、すっとぼけ婆さんの雰囲気をうまく出して作り上げた。後半のシリアスな世界はあゆみという人が一人芝居で奮闘していた。この二人に拍手を送りたい。

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『麦とクシャミ』

2019年10月19日 | 舞台芸術
劇団大阪第85回本公演『麦とクシャミ』(作:山田百次、演出:小原延之)

今年も劇団大阪の秋公演を見てきた。今年は『麦とクシャミ』という変わったタイトルの芝居だ。

昭和新山が初めて噴火したとき、つまり1943年から1946年までの有珠山の麓の村の人々の様子を描いた芝居である。

昭和新山のことは、私も小学校のときに国語の教科書に出ていたので知っている。それを詳細に記録した郵便局長がいたということは、教科書では、その人の記録をもとにできていたはずなのに、知らなかった。

おりしも第二次大戦の終盤。郵便局に出入りする村の人たちは、食べる米を供出させられ、満足に白い米を食べることもできない。原田の奥さんが大日本婦人会の炊き出し作業のときに握り飯を一つちょろまかしたと鳥谷の奥さんが不動寺の奥さんにチクる。鷹揚な不動寺の奥さんは取り合わないが、別の日に三つも握り飯をちょろまかして二人の奥さんに分け与えて、二人を驚かす。岩村さんの爺さんは人の土地の野草を勝手に取ると言って陰口を言われる。戦争と火山噴火のダブルパンチで村民はみんな困窮しているのだ。

郵便局で働いている柏は、配達助手をする原田さんの奥さんに、自分が炭鉱から逃げてきたと打ち明け、黙っていてくれと頼んでいたのに、原田さんの奥さんは不動寺の奥さんに言ってしまう。しかし不動寺の奥さんもじつは女郎だったのだと打ち明け、ここにいるものはみんな辛い過去を持っているんだと、慰めるように言う。

満州で耳を負傷し、耳が聞こえなくなったために本土に送還され、この地の連隊にいる山本は郵便局に来て、有珠山の噴火のことを村民が家族に手紙で知らせることがないように、局長に命令する。噴火口の近くに行く局長に同行した山本は満州で負傷したときのことを思い出し、激高する。(溶岩弾で死ぬという設定?)

戦争が終わり、原田さんの夫は帰還するが、島谷さんの夫は千島にいたためどうなったのか分からない。

最後は、戦争も終わり、噴火も一段落して、みんなが郵便局長さんが持ってきてくれた三ツ矢サイダーを飲んでほっと一息つくところで終わる。

何が描きたいのだろうと思う。それが本当のサイダーの味を知っている不動寺の奥さんが、サイダーを飲みながら言う「なんか違う」という言葉を聴きながら、私も思ったことだ。

火山噴火のような自然災害は、そこに生きる人々に戦争と同じような災害を与え、同じようにつらい思いをさせる。しかししかし戦争は自分たち人間が起こした悲惨な出来事として、自然災害とは違う。この芝居はこの二つをあたかも同じ次元のものであるかのように扱うという点で、「なんか違う」と私は感じたのだろうか。

演出はきめ細かくなされていて、役者たちのやり取りの微妙な間が的確に表現されていたし、場面転換に時間をかけないように、舞台の上に椅子や机を釣り上げるという奇抜な演出もなされており、ストレスなく見ることができた。

タイトルの『麦とクシャミ』ってなんだろう。『麦と兵隊』のもじり?クシャミって?麦って?

『頭痛肩こり樋口一葉』

2019年05月04日 | 舞台芸術

井上ひさし作『頭痛肩こり樋口一葉』(劇団大阪シニア演劇大学「豊麗線」第6回公演)

小説家を描くと言っても、絵描きさんが絵を描いている姿とは違って、小説家が文箱に向かってものを書いている姿は、はっきり言って絵にならない。だからこの芝居では、小説家を取り巻く家族や友人知人や恋人を登場させて、小説家の頭の中がどんなふうに動いているかを切り取って見せる。

会場でいただいたパンフレットを見ると、幸福な少女時代を過ごした後、14才で中島歌子の歌塾に入門し、18才で菊坂町の借家に転居とあるから、この芝居はこの時期から始まる。

この頃には中島歌子の歌塾を辞めて、好きになった小説家の影響もあって小説を書き始める。

御家人をしていたという母親の外面のよさのせいもあり借金に借金を重ねる家計を支えるためにも次々と小説を書き続ける姿が、舞台に示される。

そこにかつて旗本のお姫様だったが夫の殿様商売のために没落したおばさんや判事と結婚した八重や幽霊の花蛍などが出てきて、樋口一家とからんでいく。

たまたま今日の朝日新聞の「古典百名山」のコーナーで平田オリザが森鴎外の『椿姫』のことを書いている。先月は樋口一葉の『たけくらべ』だったようで、読者からの質問に答える形で、一葉のことを次のように書いている。

鴎外の『椿姫』は、明治初期のエリートたちが「自由」を得たはずなのに、西洋の合理主義と古い体制に挟まれて、家や国家にがんじがらめにされているという自己を発見して苦悩する姿を描いているが、一葉はこのエリートたちの近代的自我の苦悩がじつは庶民にもあったのだということを発見した、というのである。

井上ひさしがはたしてこの芝居でそうした苦悩を描き出そうとしていたのかどうか、私には心許ない。だが、和歌では自分の世界観が表現できないからと言って、和歌という表現形式に見切りをつけたことを明言させている。「内助の功、内助の功」って言うけど、女には内助の功しか生きる道がないの?と詰め寄るところは、明治初期の女性の生きにくさを示しているのだろう。

また幽霊の花蛍が自分を不幸のどん底に落とした張本人を探して500人もの相手を芋づる式にたどって行った結果、世の中というものにたどり着くという話は、庶民も世間というものにがんじがらめにされているという庶民の近代的自我の苦悩の本質を、このエピソードの形で提示しようとしていたのではないかと思わせる。

こうやって見るとただただ面白おかしい芝居というだけではない、奥深さをこの芝居は持っているということが感じられた。

シニアの演者たちということで、ずいぶん芝居の登場人物の設定年齢と離れていて、ときどきセリフも詰まったり、変に空白ができたりして、見ている方もハラハラ・ドキドキだったが、「抱腹絶倒痛快コメディ」ということで、楽しめた。

夏子(樋口一葉)役の人が主人公だけに一番シャキッとしていたが、邦子役の人も若々しい雰囲気が出ていたし、八重役の名取由美子は、女郎になって、稲葉の奥さんから夫を奪ったと譴責されると、開き直って啖呵を切ったところなど、なかなか粋だった。花蛍の役の人も天然ボケっぽい演技が面白かった。豊麗線の皆さんに拍手喝采!


『ジークフリート』

2019年03月04日 | 舞台芸術
ワグナー『ジークフリート』(「ニーベルングの指輪」第2日、びわ湖ホール)

びわ湖ホールにワグナーの「ニーベルングの指輪」第2日『ジークフリート』を見に行った。今年で3年目になる。演出はミヒャエル・ハンペ、美術・衣装はヘニング・フォン・ギールケ、指揮は沼尻竜典のシリーズである。

神々の長ヴォータンの計略で英雄ジークムントは指輪奪還を計るが、非業の死を迎えた。戦乙女ワルキューレの一人ブリュンヒルデが、ジークムントの形見を宿していた妻ジークリンデを助けて、森の奥深くへ逃れさせた。彼女は森の中で瀕死の状態でいるところを、鍛冶屋の小人ミーメ(アルベリヒの弟)に助けられる。ジークリンデは男子を生んで息を引き取った。

ミーメがその赤子ジークフリートを立派な若者に育てた。ここからが今回の『ジークフリート』の内容になる。ジークフリートは父親の形見である宝剣を自ら鋳溶かして鍛え直す。それをもって、黄金の指輪と隠れ頭巾を守っている大蛇ファフナーのもとに行き、大蛇の胸に宝剣を突き刺して殺し、指輪と隠れ頭巾を取り上げる。そこに住む小鳥の教えと道案内によって、燃える岩山の頂上に眠るブリュンヒルデを眠りから目覚めさせ、妻とする。

ジークフリートは一癖も二癖もあるというような人物ではなく、まさにこの作品の大前提である「怖れを知らない」若者であり、英雄である。そんな人物が面白かろうはずがなく、最初から最後まで出ずっぱりでたいへんな役ではあるが、面白みのない登場人物である。

他方、鍛冶屋の小人ミーメと大蛇を見張っているアルベリヒはどちらもなんとかして指輪を奪回して、世界制覇を目指している、見るからに強悪そうな人物であり、時にはへつらい、時には威張り散らすという、人間の本性を体現したような役どころである。それをミーメ役の高橋淳とアルベリヒ役の大山大輔がじつに見事に演じていた。とくにアルベリヒ役の大山大輔は、序夜『ラインの黄金』でせっかくライン川から黄金を奪って魔の指輪を作ったのに、ヴォータンに奪われてしまった悔しさもあり、二度とヴォータンにはだまされないぞという悔しさ、憎しみ、いろんな情念が混ざりあった人物を素晴らしく演じていた。

幕の間に30分の休憩があって、終演まで5時間10分という長丁場が今年は体にこたえて、とにかく疲れた。とくに第三幕でジークフリートがブリュンヒルデを眠りから目覚めさせて以降のやりとりが退屈で退屈で仕方ない。延々と30分も何をやっているのかねー、早く終わらないかなと思いながら見ていた。最後には見ているのがしんどくなってきたほど。すっ飛ばしてほしい。

終演後、カミさんと二人疲れ果てて、近くのロイホに夕食にでかけた。来年は最後の『神々の黄昏』なんだが、どうしようかな~。ここまできたら最後まで見ないと悔しいしなー。

昨年の『ワルキューレ』の感想は、こちら

一昨年の『ラインの黄金』の感想は、こちら



『バロック・オペラ その時代と作品』

2018年10月31日 | 舞台芸術
山田治生・他『バロック・オペラ その時代と作品』(新国立劇場運営財団情報センター、2014年)

イタリア、フランス、ドイツ、イギリスの代表的なバロック・オペラを紹介したもので、作曲家の紹介とともにどんな時代であったかも、かいつまんで書いてあるスグレモノ。

たとえば、イタリアでは、モンテヴェルディ、カヴァッリ、スカルラッティ、ヴィヴァルディ、そしてナポリ派のポルポラ、レーオ、ヴィンチ、ペルゴレージなどの作品が紹介されてある。

フランスでは、リュリ、シャルパンティエ、ラモーは当然として、おまけにルソーの『村の占い師』まであるとは驚き。

ドイツはテレマンとグルック、イギリスはパーセル、『乞食オペラ』、そしてヘンデル。

コラムとしてカストラート、メタスタージオ、インテルメッツォ、バロック・オペラの現代的な演出について、なども書かれており、その内容はかなりのもの。


「バロック・オペラ鑑賞の手引き」と書いてあるが、まさにそのとおりの優れた手引きと言える。

これまでこういう本がなかったのが不思議なくらい。ただもとは700円なのだが、もう手に入らないようで、古本では2万円を超える値段がついている。

私はわざわざ大阪府立図書館から相互利用で堺市立図書館に取り寄せてもらって読んだ。

『チェネレントラ』

2018年05月13日 | 舞台芸術
ロッシーニ『チェネレントラ』(第56回大阪国際フェスティバル2018)

1817年に初演されたロッシーニの『チェネレントラ』をフェスティバル・ホールで観てきた。

フェスティバル・ホールは建て替えられてきれいになっており、昔の面影はない。ホールに上がっていくセンターの階段にレッドカーペットが敷き詰められて、豪華な雰囲気を醸し出している。

日本で上演されるイタリア・オペラといえばヴェルディやプッチーニばかりなので、当時たいへんな人気を誇り、またスタンダールも『ロッシーニ伝』を書いているほどの作曲家なので、一度観たいと思っていた。

『チェネレントラ』は要するにシンデレラの話である。つまり喜劇仕立てのオペラである。喜劇仕立ての場合、真面目な役は、モーツァルトでもそうだが、その真面目ぶりが、一見するとメインの主張のように見えるけれども、実は小馬鹿にされていることが多い。

このオペラでも、真面目なことを言う-つまり真実の愛と誠実さが私の信条だと言うアンジェリーナや、真面目一方の王子ドン・ラミーロには何の面白味もない。したがって、この役に「世界的・・・」とか「世界で活躍している・・・」を持ってくるということ自体が、この作品を読み違えていることになる。

このオペラで言えば、脇園彩というメゾソプラノが歌う歌にはそれほど魅力はないし、王子役をやるテノールってなんでこうも馬鹿みたいに聞こえるのだろうという、喜劇の王道を行っている。

それよりも面白いのはナント言っても王子の従者で、最初は王子のふりをしてドン・マニフィコ家に嫁探しと称して入り込む役は、あちこちに面白味もあるし、歌にも聞かせどころがある。

そしてもう一人はアンジェリーナの姉役のクロリンダの光岡暁恵である。アンジェリーナをいじめる役で、思いっきり意地悪をしていた。歌唱力も抜群。

歌唱にはもともと見るところがあまりない役だが、同じようにアンジェリーナをいじめる役で父親のドン・マニフィコも滑稽実が上手く出た演技が上手であった。

しかしずっと同じあの舞台美術はどういう意味があるのか最後まで分からなかった。最初はネズミたち(この役の人たちは一生懸命演じていて好感が持てた…拍手!)がでてきたので、ネズミの世界に合わせてあるのかと思った。これでいけば、あれはネズミの世界の物語というファンタジーを示唆しているということか。

しかし中央に置かれた本の中から出たり入ったりするのはどういう意味があるのか?名前からするとイタリア人の演出のようだが理解不可能。


『ワルキューレ』

2018年03月04日 | 舞台芸術
ワグナー『ワルキューレ』(びわ湖ホール)

昨年に引き続き今年も、びわ湖ホールプロデュースオペラの『ニーベルングの指輪』を観に行った。今年は『ワルキューレ』だった。

あのフランシス・コッポラの『地獄の黙示録』で有名になったワルキューレの騎行のことしか知らなかったうえに、5時間という長丁場の上演に、最後まで耐えられるだろうかと少々ビビっていたのだが、そんな心配も吹き飛ばすような素晴らしいオペラだった。

最高神ヴォータン(いわばゼウス)がラインの黄金でできた指輪を取り戻すために、人間の女に産ませた双子ジークムントとジークリンデが、ついに出会い、結ばれて、ジークフリートを身ごもるというところまでの話だ。

これに、ヴォータンの妻であるフリッカ(ギリシャ神話でいえばヘラ)が嫉妬して、ヴォータンの企みをやめさせるために、妻の神として立場を尊重するのか、それを無視して神の地位を失墜させるのかと言われて、やむなく、ジークムントを裏切り、彼を支援するようにと指示していたワルキューレの長で、ヴォータンの長女でもあるブリュンヒルデにこれまでと矛盾した命令を出すが、彼女が従わなかったために、永遠の眠りという罰を与えるという話が絡みついている。

三幕構成になっており、第一幕は双子として生まれたジークムントとジークリンデが再会を果たし、結ばれる。第二幕はヴォータンが妻フリッカから双子のことを咎められ、計画を断念し、ワルキューレのブリュンヒルデにジークムントを殺すように命じるが、ジークムントこそ真の英雄だと知った彼女は彼に加担するも、ヴォータンが介入して、ジークムントは死んでしまう。ブリュンヒルデがジークリンデを連れて逃げるところまで。第三幕は、ブリュンヒルデが深い森にジークリンデを逃がすも、父の命に反した罰として、ヴォータンの手で永遠の眠りに落とされる。

無駄のない作り。もちろんオペラは感情表現を歌で行うので、そのために相当の時間が割かれている。物語の展開そのものは、30分もあればすんでしまうが、それぞれの行為に伴う感情をしっかり描き出すのに、それ以上の時間が必要になる。普通はそれが退屈なのだが、音楽がそれを忘れさせる。実質4時間もあるけれど、時間のたつのが速く感じられた。

音楽がまたすごい。重低音が中心のあの音楽は、生で聴くにかぎる。もちろん金のある人はあれだけのものが自宅で聞けるような環境を作れるのだろうが、ワグナーは音楽だけではなくて、視覚的なものも重要なので、舞台を見るが一番いいと思う。

それに演出も素晴らしかった。第一幕の吹雪のなかの家、新しいテクニックを用いて、観ている私たち自身が猛吹雪の中にいるかのような感じ。第三幕のワルキューレの戦乙女たちが空飛ぶ馬に乗って集まってくるのも違和感なく見れた。

それと私が観た土曜日の公演はジークムントとヴォータンとブリュンヒルデが外国人の歌手で声量もすごいし、演技もうまい。とくにブリュンヒルデの女性はすごく体格がよくて、やはり戦乙女というくらいならあれくらいでなくっちゃという感じ。もちろんジークリンデを歌ったのは日本人歌手だったが、この人もうまかったことは書いておく。

私の知り合いにもワグネリアンがいるが、ワグナーに惚れ込む理由が分かったような気がする。

来年の『ジークフリート」が楽しみになってきた。

『偽の女庭師』

2017年11月05日 | 舞台芸術
モーツァルト『偽の女庭師』(大阪音楽大学、第53回オペラ公演)

大阪音大のザ・カレッジ・オペラハウスでモーツァルトの『偽の女庭師』を見てきた。あまり上演される機会がない、モーツァルトの若書きのオペラである。18才か19才の作品だという。

第一幕に1時間20分、第二幕と三幕で同じ時間というへんな配分になっている。ベルフィオーレ伯爵はかつて侯爵の令嬢ヴィオランテと相思相愛だったが、嫉妬から殺したと思い込み、逃亡する。ヴィオランテは従僕のロベルトとともに、女庭師サンドリーナとして伯爵を探して回っている。いまは市長のドン・アンキーゼのもとで働いている。彼がサンドリーナに惚れてしまう。市長の小間使いのセルペッタはあわよくば市長の妻になりたいと思っているが、庭師のナルド(じつはロベルト)から慕われている。市長の姪の貴婦人アルミンダは騎士ラミーロと恋人同士だったが、いまは別れており、伯爵と結婚の予定である。

この込み入った人間関係が第一幕でのやり取りを通して示されるのだが、私は予備知識がまったくなかったので、第一幕の最後あたりにやってやっと分かった。はっきり言って人間関係が複雑すぎるだろう。脚本の問題だ。

第一幕では上の恋愛感情がすべて否定される形で幕を閉じる。第二幕はただただ混乱の幕だ。ただただ大騒ぎをしているだけのように見る。唯一筋の展開に関わるものとしては、姪のアルミンダと結婚させようとしていた伯爵がじつは殺人容疑があることが市長に連絡される。市長から問いただされて窮地にある伯爵を救ったのは、サンドリーナで、彼女が自分が本当はヴィオランテで、生きているからその殺人容疑はウソだと言う。これでサンドリーナがじつはヴィオランテだということが分かってしまう。

森のなかに置き去りにされたサンドリーナ、彼女を探しに来た一同は誰が誰か分からないという状況になり、最後にはサンドリーナと伯爵が狂ったようになる。たぶんこのシチュエーションは後々に『フィガロ』で使われることになるのだろう。だが、このオペラの中ではこのシチュエーションにどんな意味があるのかまったく分からない。これも脚本の問題だろう。

森での狂気と眠り、そして覚醒がきっかけとなってサンドリーナは伯爵を許し、二人は結婚する決心をする。市長の邸宅にもどってそのことを告げると、恋愛関係が上手くまとまり、フィナーレとなる。

モーツァルトの音楽は興味深いのに、一にも二にも脚本の出来に問題がある作品なのだという印象を受けた。



『ばらの騎士』

2017年10月29日 | 舞台芸術
リヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』(愛知県芸術劇場)

名古屋までシュトラウスの『ばらの騎士』を見に行った。行きは近鉄特急を使った。2時間(新幹線の倍の時間)かかるが、料金は半額と思っていたからだ。だが、ずっと誰かが口笛を吹いているような機械音がするし、二時間は辛かった。名古屋に着いただけで、もう疲れていた。

とりあえず、昼ごはんを食べて、会場に。折しも会場近くのオープンスペースではハローウィンの仮装した人たちがたくさんいて、楽しくはあった。着いたのは開演10分前でちょうどいい時間。座席も前から二列目。いつものかぶりつき状態で見れた。それに私の右側の座席が3つも空いているので、座席を移って、両側に誰もいない状態で、楽に見れたのがよかった。

さて、序曲は、『ツァラトゥストラはかく語りき』を聞いているような、いかにもシュトラウスという音楽。ところが第一幕がなんと退屈な。第一幕は登場人物の紹介をして人間関係を示す幕のようで、つまらない。元帥夫人と彼女の情夫である17才のオクタヴィアン、そこに田舎から元帥夫人の親戚の貴族オックス男爵がやってくる。ウィーンの金持ちブルジョワのファーニナルの娘ゾフィーと結婚をするためだ。ところが女装をして小間使いに変装していたオクタヴィアンに惚れてしまう、というような話。昼食の後ということもあり、半分以上寝ていた。

ところが第二幕になるとがぜん面白くなってきた。18世紀のウィーンでは婚約のために「ばらの騎士」がバラの花を届けるという風習があるという(実際はウソだが)。そのばらの騎士がオクタヴィアンで、彼と会ったゾフィーは彼に一目惚れ。オクタヴィアンもゾフィーに一目惚れしてしまう。そこへオックス男爵がやってきて、無礼千万を働いたので、ゾフィーは彼と結婚したくないと言い出す。それを見かねたオクタヴィアンがバラの花を男爵のお尻に突き刺して大怪我をさせる。激怒する男爵。しかしそこに小間使いから逢引の手紙がきて大喜び。

第三幕は逢引のための居酒屋の一室。演出はかなりシュールになっており、男爵が小間使いをいざベッドの押し倒そうした瞬間に男爵の偽の妻が息子たちと現れ、「パパ、パパ」と叫ぶ。そこへ警部が来て、重婚の罪になると尋問する。ここまでは上手く行ったのだが、予定外に元帥夫人やゾフィー、ファーニナル氏までやってきて大騒ぎ。最後は元帥夫人が手を引いて、オクタヴィアンとゾフィーは愛を誓う、という結末。

舞台は18世紀のマリア・テレジア時代のウィーンということになっている(因みに、元帥夫人はマリー・テレーズという名前になっている)が、演出ではシュトラウスと同時代の20世紀初めのようだ。なぜなら映写機や写真が使われているからだ。それはそれで面白いのだが、なぜシュトラウスが18世紀のウィーンに設定したのかがわからなくなる。

歌手では、ゾフィー役の幸田浩子がよかった。黙っているときはおばさんに見えるのだが、歌い出すと表情が生き生きとしているせいか、本当に10代の初な娘のように見える。歌うときのほうが若く見える歌手というのも珍しい。

それといかさま師の兄妹というヴァルツアッキという変な役があるのだが、これを演じていた升島唯博がじつによかった。髪型や髭の付け方などいかにもいかさま師という雰囲気がよく出ている。

このオペラはオクタヴィアンという17才の若い貴族の女装したら娘のように可愛く見えるというところがミソなので、いかにもタカラヅカの十八番になりそうな話である。タカラヅカでやったら面白そう。

幕間の休憩が25分もあって、終演したのは6時15分(四時間以上の長丁場)。帰りは新幹線を使った。料金も近鉄より1000円高いくらいだし、時間は50分で新大阪まで着く。最初から新幹線にしておけばよかった。帰りの新幹線の中で味噌カツ弁当を食べた。これで満足。

でも、もうオペラなんか見に行かない。退屈でしんどいだけで、何も面白いところがない。とかいいながら、11月3日にはモーツァルト、来年の3月にはワグナーのチケットを買ってあるから、見に行くけどね。


『ホフマン物語』

2017年06月12日 | 舞台芸術
オッフェンバック『ホフマン物語』(河内長野マイタウンオペラvol.15)

河内長野のマイタウンオペラを鑑賞するようになってかなりの年月がたつが、初めてのフランス語オペラだと思う。以前、感想を書く用紙に、フランス語オペラもやってほしいと書いたのが反映されたのだろうか。(そんなことはないだろうけど)

しかもオペレッタの申し子ともいうべきオッフェンバックの唯一の正統オペラである。第一幕と第五幕は枠組みみたいなもので、主人公の詩人ホフマンが人生の三人の恋物語を語ると言って酒場の人々を引き込み、最後にじつは三人の恋人はひとりの女性、ステッラのことだったという話しで終わる。

第二幕、第三幕、第四幕はその三人の恋人が一人ずつ取り上げられる。いわばこれが本編みたいなものだ。第二幕は、自動人形のオランピア。オランピアを演じた古瀬まきをが、パンフレットによれば、伊豆のミュージアムまで自動人形を見に行って、その動きを研究したと書いているほど、じつに上手に演技していたし、声もかなりの点まで行っていた。

さらにこれは書いておきたいが、このオランピアと連動しているような機械人形を演じていた久保尚子も、まったく歌がなかったけれども、じつに愛らしい機械人形を演じていた。注目される役ではなかったが、心を込めて演じていたので、大拍手。

第三幕は、母譲りの美声をもつアントニアの話しだが、悪魔のようなミラクル博士という医者の薬にかかって死んだ母親の美声がアントニアに乗り移り、彼女もまた歌を歌いながら死んでしまう、という話だが、いったい何から着想を受けたのだろうか。

第四幕は、ヴェネチアの高級娼婦ジュリエッタの話で、ホフマンの影を手に入れようとしてホフマンを誘惑するが、ホフマンがシュレーミルという、同じように影を奪われた男と決闘になって、殺してしまう。ついに友人のニクラウスとともに逃げ去るのだが、これもいったい何を言おうとしているのかよく分からない話だ。

私はオペラを見る前にできるだけ、パンフレットを見ないようにしている。オペラそのもを鑑賞することで話を理解したいし、歌手たちにも先入観を持ちたくないからだ。それで面白かったのが、一昨年のヨハン・シュトラウスⅡ『こうもり』だった。あれは日本語上演だったから言葉の問題はなかった。

いつもはイタリア語のオペラが多い。イタリア語は分からないから、なんともコメントできない。みなさんよく歌っているのだから、正確に発音されているのだろう。で、今年はフランス語だ。冒頭から、何を歌っているのかよく分からない。あれ、でもホフマンだけはよく分かる。この人だけ違うぞ、と思い、2幕と3幕の間の休憩時間にパンフレットを見たら、この人はヨーロッパに長く住んでいて、ホフマン役は十八番と言ってもいいような役のようだ。道理で…と納得。

そこで思ったのは、ただフランス語を正確に発音して歌っているというだけでは、オペラの場合には聞き取れないのではないか。それプラス、自分でもよく分からないけど、オペラ固有の発声法のようなものが身についていないと、聞き取れるような歌にならないのではないかと思った。

これは、岡村喬生さんが、毎年の夏にイタリアで行われるプッチーニ音楽祭に、日本人の歌手を出演させるべく、日本でオーディションを行って、優れた日本人歌手を連れて行ったが、たったひとりスズキ役の女性だけが、出演させてもらえたが、何度も何度も現地で練習を重ね、やっと一日だけの出演だったという結果をNHKでやっていた。こちら。これが教えてくれるのも、上のことと同じことだと思う。どんなにイタリア語を正確に歌う、上手な日本人歌手でも、オペラで歌うということは、それだけでは足りない発声法があるのだ。

それは今回ホフマンを歌った千代崎元昭さんのように、ヨーロッパで歌う経験を積まなければ決して身につかないものなのではないだろうか。