読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『フランス史V(18世紀ヴェルサイユの時代)』

2017年06月26日 | 人文科学系
ミシュレ『フランス史V(18世紀ヴェルサイユの時代)』(藤原書店、2011年)

歴史の記述というのは、フランス語では単純過去形といって、事実が自らをそのまま語っているかのような「客観的」な叙述の形式がある。ミシュレの『フランス史』はまさにその対極にあるような、語り手の個性むき出しの叙述だ。

こういう叙述が好きな人には大いに受けるのだろうが、客観的な記述を好む私としては、なんとも読みにくいことこの上ない。とは言ってもこの時期を扱った日本語の本があまりないので、大雑把な感じにせよ、概略をつかみたいと思って、読んでみたのだが、意外と面白かった。

ただ登場人物が多すぎて(もちろん翻訳なので、適宜注の形で簡単な説明が付いているとはいえ)、訳がわからない。ダルジャンソンなんて、親のダルジャンソンから、けっこう悪い長男のダルジャンソンから、わりと良い奴の次男のダルジャンソンまで三人も登場してくる。

ローのシステム崩壊の過程について、そこはやはりたぶん素人だし、19世紀の本だから、現在の研究の到達ということから見たら、不十分な記述が多い。

私が知りたいのは時代の雰囲気のようなものだが、それはなんだかつかめたような気がする。

それにしても、いったい誰がこんな本を読むんだろう。

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『ホフマン物語』

2017年06月12日 | 舞台芸術
オッフェンバック『ホフマン物語』(河内長野マイタウンオペラvol.15)

河内長野のマイタウンオペラを鑑賞するようになってかなりの年月がたつが、初めてのフランス語オペラだと思う。以前、感想を書く用紙に、フランス語オペラもやってほしいと書いたのが反映されたのだろうか。(そんなことはないだろうけど)

しかもオペレッタの申し子ともいうべきオッフェンバックの唯一の正統オペラである。第一幕と第五幕は枠組みみたいなもので、主人公の詩人ホフマンが人生の三人の恋物語を語ると言って酒場の人々を引き込み、最後にじつは三人の恋人はひとりの女性、ステッラのことだったという話しで終わる。

第二幕、第三幕、第四幕はその三人の恋人が一人ずつ取り上げられる。いわばこれが本編みたいなものだ。第二幕は、自動人形のオランピア。オランピアを演じた古瀬まきをが、パンフレットによれば、伊豆のミュージアムまで自動人形を見に行って、その動きを研究したと書いているほど、じつに上手に演技していたし、声もかなりの点まで行っていた。

さらにこれは書いておきたいが、このオランピアと連動しているような機械人形を演じていた久保尚子も、まったく歌がなかったけれども、じつに愛らしい機械人形を演じていた。注目される役ではなかったが、心を込めて演じていたので、大拍手。

第三幕は、母譲りの美声をもつアントニアの話しだが、悪魔のようなミラクル博士という医者の薬にかかって死んだ母親の美声がアントニアに乗り移り、彼女もまた歌を歌いながら死んでしまう、という話だが、いったい何から着想を受けたのだろうか。

第四幕は、ヴェネチアの高級娼婦ジュリエッタの話で、ホフマンの影を手に入れようとしてホフマンを誘惑するが、ホフマンがシュレーミルという、同じように影を奪われた男と決闘になって、殺してしまう。ついに友人のニクラウスとともに逃げ去るのだが、これもいったい何を言おうとしているのかよく分からない話だ。

私はオペラを見る前にできるだけ、パンフレットを見ないようにしている。オペラそのもを鑑賞することで話を理解したいし、歌手たちにも先入観を持ちたくないからだ。それで面白かったのが、一昨年のヨハン・シュトラウスⅡ『こうもり』だった。あれは日本語上演だったから言葉の問題はなかった。

いつもはイタリア語のオペラが多い。イタリア語は分からないから、なんともコメントできない。みなさんよく歌っているのだから、正確に発音されているのだろう。で、今年はフランス語だ。冒頭から、何を歌っているのかよく分からない。あれ、でもホフマンだけはよく分かる。この人だけ違うぞ、と思い、2幕と3幕の間の休憩時間にパンフレットを見たら、この人はヨーロッパに長く住んでいて、ホフマン役は十八番と言ってもいいような役のようだ。道理で…と納得。

そこで思ったのは、ただフランス語を正確に発音して歌っているというだけでは、オペラの場合には聞き取れないのではないか。それプラス、自分でもよく分からないけど、オペラ固有の発声法のようなものが身についていないと、聞き取れるような歌にならないのではないかと思った。

これは、岡村喬生さんが、毎年の夏にイタリアで行われるプッチーニ音楽祭に、日本人の歌手を出演させるべく、日本でオーディションを行って、優れた日本人歌手を連れて行ったが、たったひとりスズキ役の女性だけが、出演させてもらえたが、何度も何度も現地で練習を重ね、やっと一日だけの出演だったという結果をNHKでやっていた。こちら。これが教えてくれるのも、上のことと同じことだと思う。どんなにイタリア語を正確に歌う、上手な日本人歌手でも、オペラで歌うということは、それだけでは足りない発声法があるのだ。

それは今回ホフマンを歌った千代崎元昭さんのように、ヨーロッパで歌う経験を積まなければ決して身につかないものなのではないだろうか。


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『旅・戦争・サロン―啓蒙思潮の底流と源泉』

2017年06月07日 | 人文科学系
高橋安光『旅・戦争・サロン―啓蒙思潮の底流と源泉』(法政大学出版局、1991年)

17世紀・18世紀のフランスの啓蒙思想に関する逸話とか著者の雑学などを、旅、戦争、サロンという三つの主題を中心に披露したもの。

ヴォルテール関係の翻訳や著書がある著者の該博ぶりを披露するためのもの、要するに自分の雑学・知識を書き綴ったというようなもので、とくに上のテーマにそって一つの問題設定があって、それに基づいて書かれているというような類のものではない。

ただそれだけに意味がないかといえば、必ずしもそういうわけでもなく、随所に面白い知識の披瀝がある。要するに、読む側が「おや」「なるほど」「こんなものがあったのか」と感心しながら読めるなら価値があるが、そうでないならあまり読む価値はない。

私にとってはサロンの主題の部分が興味深く読めた。17・18世紀のフランスの啓蒙思想はサロン抜きには語れないだろうし、18世紀になると徴税請負人やその妻が開いていたサロンが重要な芸術家や文人と交流があったり、育てたりしたことがあるからだ。

例えば、ヴォルテールとラモーが知り合うきっかけになったラ・ププリニエールという徴税請負人はイタリア音楽の支持者であり、彼が持っていた常設のオーケストラの音楽監督にラモーを雇い入れていた。ラモーの後は、ドイツ古典派の走りとなるシュターミッツを雇い入れていた。

またルソーが一時期秘書をしていたデュパン夫人の夫も徴税請負人で、二人はモンテスキューの『法の精神』に対する反論書を書いたりしている。デュパン夫人の秘書時代にルソーの反文明的思想が形成されたことを考えても、思想家ルソーの形成に大きな意味を持っていた。

徴税請負人という制度そのものが実に面白い。政府から税金徴収を請負い、例えば1億リーヴルの税金徴収を請け負う契約をして、決まった時期に1億リーヴルを政府に支払うが、実際に国民からどれだけの税金を徴収するかは自由なのだ。だから、政府に収めたのと同じ額ほどの差額が自分の懐に入ることになる、というような信じられない制度である。

啓蒙思想家と経済についてだれか研究してくれないかな。きっと面白いものができると思うけど。


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『walk in closet』

2017年06月04日 | 舞台芸術
横山拓也『walk in closet』(劇団大阪定期公演、2017年)

同性愛を家族にカミングアウトするという問題を主題にした作品。

冒頭から、記録的な豪雨で河が反乱し、道路が通行止めになってしまい、登場人物たちがみんな主役の政次の家に缶詰状態になって、逃げ場がないという設定が作り出されるのだが、これなんか実に上手い作りである。

登場人物は、政次、母・清美、隣人の椿本、政次がアルバイトをしているカフェの店長の平良と店員の梓のぶ代、さらに父・利弘とかつて政次が告発したことで体操教室を首になり父・利弘が就職などの世話をしてきた小西である。

政次がアルバイトをしているカフェの店長の平良がゲイだという噂があるという話から、政次のクローゼットにゲイのDVDがあったという母・清美の話から、さらに政次を好いている梓が政次に振られたと言ったり、そして平良に小西が政次をゲイの世界に引きずり込むなという発言などなどがあって、梓が勝手に政次はゲイだと口にしてしまう。

そのテンポの良い、大阪弁のやり取りは、小気味よい。一人ひとりの特徴が際立っていて、その特徴的な発言や会話のやり取りの結果、大団円に突っ込んでいく。普通は家族のあいだではこういう問題は触れずにおこうという風になるものだ。それでは芝居が回っていかないので、缶詰状態という設定が作られ、第三者が普通なら言わないでおくところを、口にしてしまう。

自称カウンセラーの椿本は、普通ならスルーすべきところを「その問題をほっておいたらあかんのんとちゃう」とか言って、話の流れを作者の都合のいい方向に導く役目をもっている。

缶ビールを飲んで滑舌が良くなった小西は、政次のせいで人生を狂わされたと思っているのか、政次に直接口出しをしないが、平良を責めて、話をそちらの方向に向けようとする。

政次に振られた梓、この娘もおもしろい。世間の常識的な言葉にツッコミをいれ、高い次元からものを言っているように見えて、じつは政次に振られた腹いせだったり。

平良の演技もいい。ゲイだからといって、やたらとオネエ風の仕草をしないところがいい。しかし、ちょっとしたところにその雰囲気を見せる。26才とはいえ、ゲイということで苦労してきた大人らしく、政次を気遣って、DVDの件を自分のせいだと引き受けたり。

小西は、酒が進むに連れて本性、というよりもこれまで腹の中にためて来たものを出す。

一番戸惑っているのが、母・清美と政次自身だ。政次は台詞にあったように、自分で自分が分からない。大西がその活気のない感じ、ぼんやりしたような表情でそれをよく表していた。

母・清美は、自分の腹を痛めた子にどう接したらいいのか分からない。ただでさえ男の子は20才ともなれば、自分からは完全に離れていくものだ。その上にゲイだと言われたら…。でもなんとか理解しようとして、「好きなようにしたらいい」と言えば、「好きなようにってなんや」と息子から突き放される。そういう心許なさを名取が好演していた。激しい動きや台詞はないが、心の中を繊細に表す演技だった。

新鮮な感じのする芝居だった。芝居っていいなと思う仕上がりだった。


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『憂い顔の「星の王子さま」』

2017年06月02日 | 評論
加藤晴久『憂い顔の「星の王子さま」』(書肆心水、2007年)

サン=テグジュペリの『星の王子さま』は2005年に独占的出版権が切れて、それまで岩波書店の内藤濯訳だけだったのが、続々と翻訳本が出版された。この時点で13本もあったという。内藤濯訳の誤訳を中心に、これらの後継翻訳本のすべての誤訳を検討して、書いたのが、この本だということだ。

私も、少し前に加藤恭子の『星の王子さまをフランス語で読む』を読んだのがきっかけで、『星の王子さま』を少しずつ読んで、自分なりの感想を書いたりしたことがあったが、この時に指摘した、加藤恭子の説明の間違いが、当たり前のことだが、この本でも136~140ページで指摘されている。

上の本については、こちら
私自身による読みの試みについては、(1)(2)(3)(4)

ただ、だれがこのreflexionsの主なのかという問題は、やはり難しいようだ。前後の関係から星の王子さまであると書いているが、ではなぜきちんと所有形容詞を明記しなかったのかと問われば、実際にreflexionsの前に所有形容詞を明記している場合もいくつかあり、理由を説明することは難しいという。

私はフランス語で読むのを途中でやめてしまったが、昨日知り合いのフランス語の先生に話してみたところ、この先生も授業で『星の王子さま』をフランス語で読み通したが、解釈が難しいところがたくさんあったと言っていた。

自信があるのなら自分で翻訳を出すのもいいが、自信のないところがあるのなら、翻訳本など出すべきではない。どう見ても、そういうことを考えもしないで分からないところは「意訳」すればいいやみたいな調子で出している本が多いというのが、この著者の批判である。

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