読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『ゴールデンタイム』

2014年07月18日 | 日々の雑感
韓国ドラマ『ゴールデンタイム』

BS-TBSで夕方にやっている。『いとしのソヨン』が終わって、がっくりきていたときに、偶然見つけて、夢中になってみている。ゴールデンタイムというのは、交通事故などで重症を追った患者の生死を分ける最初の1時間のことを言うらしい。要するに、救命救急医療を象徴するような言葉なのだ。

釜山にある津雲台病院の救急センターの外科医であるチェ・インヒョクとその下で働くインターンのイ・ミヌ、カン・ジェインたち、インヒョクの補佐をしている看護師のシン・ウナ、この病院の理事長、院長、そしてそれぞれの科長たちの人間ドラマ。

チェ・インヒョクは重症患者を一人でも多く救うことしか考えていない。そんな彼の医者としての信念に打たれて、彼の下で働くことを選ぶために、韓方病院の臨床医という楽な仕事をやめて、津雲台病院のインターンに志願してきたイ・ミヌの心の動きが、じつに自然に描かれている。医者として誰にも頼れない重症患者を目の前にした状況にうろたえる姿、患者の死に責任を持てない頼りない自分に、悔し涙をする場面なんかでは、彼の思いに感情移入してしまう。

彼の同僚のインターンのカン・ジェインは、この津雲台病院などを経営する法人の理事長の一人孫。父親(つまり理事長の息子)は交通事故かなんかで亡くなっている。実質的な跡取りなのだが、そのことをみんなに隠して、この病院のインターンをしている。彼女も、チェ・インヒョクの医者としての姿に心なしか感銘を受けている。もともとは、彼女の彼氏がイ・ミヌの先輩で、知り合ったのだが、その彼氏は二股をかけていて、しかもパラグライダーの事故で、意識が戻らない状態。カン・ジェインとイ・ミヌのコンビがおもしろい。

もう一つ、興味深いのは、チェ・インヒョクを支える看護師のシン・ウナだ。彼女は、三年前からチェ・インヒョクの助手をやっているが、二年前に許嫁とカナダに移住する予定だったのに、(詳細はまだ明かされていないが)それを延期して、現在に至っている。もうその期限がきれて、まもなく許嫁とカナダに行くことになっており、代役を募集してその面接を行っていたりする。だが、チェ・インヒョクの気持ちは、口に出さないが、彼女に残って欲しいと思っているし、シン・ウナも、心のなかではこのままチェ・インヒョクと一緒に仕事をしたいと思っている。でも、それが言えない。このへんの微妙な感情の描写というか、演技がじつに上手いので、見る方もどうなるのかと心中穏やかではない。

それに脇を固める役者たちがじつに多彩でおもしろい。自分の地位を保身のことしか考えていない科長たちは言うに及ばず、大きな目でシナを作りながら喋る外科のソン・ギョンファ女医(この人ドラマでは初めて見る)、いつも眠たそうにしている脳外科医のレジテントのチョ・ドンミ(この人も初めて見る)などなど。

まだ半分しか来ていないので、これからの展開が楽しみだ。


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『優雅なハリネズミ』

2014年07月13日 | 現代フランス小説
ミュリエル・バルベリ『優雅なハリネズミ』(早川書房、2008年)

グルネル通り七番地という、パリの高級住宅街にある金持ちたちが住むアパルトマンの管理人をしている中年女性ルネとそこに住む金持ちの一人の娘パルマの語りによる物語。

一般的に管理人というと、ガサツで、頑固で、ぶっきらぼうで、本なんか手に取ることもなく、無知で、というのがステレオタイプだが、このルネは、図書館にも出かけて本を借りてきたり、哲学書も読むし(カントがお気に入り)、絵画にも造詣が深いし、映画もこよなく愛する知的な女性だが、それをひた隠して、ステレオタイプ化したアパルトマン管理人を演じている。そしてこのアパルトマンに住む金持ちたちの、無礼で、ガサツで、人を馬鹿にした態度から身を固くして守っている。

ところがそこにオズ・カクロウという日本人の大人の男性が引っ越してきて、彼女の本当の姿を見抜く。彼女をお茶に誘い、一緒にお気に入りのDVDを見たり、食事に誘ったり、そして最後には自分の誕生日のディナーに誘う(これは愛情の告白と言ってもいいだろう)。しかし、そんな幸福の絶頂のなか、交通事故で死んでしまう。

最初は僅かな部数しか出版されなかったが、口コミで広がっていき、やがてベストセラーになったという。いったい何がそんなにフランス人の嗜好に合ったのだろうか?

それは主人公のルネを通して、哲学、映画、音楽、絵画、文学、日本文化などについて自由自在に語る、その書き方にあるのだろうとしか思えない。パリの地下鉄で分厚い哲学本をもちこみ、通勤時に読むなんて中年の女性がいるような社会だ。ありふれた出来事を、ありふれた文体であったままに書いてみたところで、そうした「知的」な女性たちの気を引くことはできないだろう。管理人ルネの語るカントやフッサール、小津安二郎の映画論、そして他方では「膀胱が小さい」なんて、ちょっと吹き出しそうなエピソードも組み込まれている。

そんな「知的」と「俗世的」な微妙な混交がこの作品のおもしろいところなのではないかと思った。


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『なすの庭に、夏。』

2014年07月12日 | 舞台芸術
鈴江俊郎『なすの庭に、夏。』(劇団大阪第75回本公演)

恒例の夏の劇団大阪の公演を見に行ってきた。今回は、ボケが始まったのか、予約していた日時を一週間勘違いしてしまい、目当ての名取由美子さんの出演とは違う方を見ることになった。劇団大阪の小屋まで行ってら、受付に本人がいて、「今日と違うで」と言われて初めて気づくという、ボケナスぶりであった。

作品のほうは、年老いた老女が、戦時中の、自分が女中奉公に上がっていた家の若さんや、そこに出入りしている写真屋、洗濯女、植木屋などとの交流を回想するという、戦争の悲しみを描く場合の定番を、少々面白い演出ができるようにして笑かしたり、しんみりさせたりするという色付けをしたものであった。

作者の鈴江俊郎という人は50才くらいで、桐朋学園短期大学の准教授をしているということらしいが、これは20年前に作った作品ということで、かなり若い頃の作品のようで、なんだか、シチュエーションの作り方が、若さんと主人公のなすの関係にしても、舟木一夫の青春映画(地方のええとこの跡取り息子がそこで働いている貧しい家の娘に恋をして、親から反対されて…)みたいな感じで、なんでいまさらこんなものを…と思うような内容で、少々がっかり。

唯一面白かったのは、櫛屋を演じた上田啓輔が、江戸川乱歩に出てくるような雰囲気の出で立ちとしゃべり方で興味を引いたが、それが主題とどんな関係があるのだろうか?

演劇作品にせよ小説にせよ、書かれたこと、言われたことがすべての世界(書かれたことや言われたことからしか、読者や観客はその世界を作れないという意味で)では、すべての言説には意味がある。作者は何らかの意味を持たせて、登場人物に語らせたり、行動させている。

冒頭に出てくる、糸くずを見つけて、それをフッと吹き飛ばし、飛んで行く所をしつこく目で追っていくという所作は、いったい何を意味しているのだろうか?この所作はたんに一回だけではなく、4人もの登場人物たちに行わせているのを見ると、作者はなにか重要な意味付けをしてと思われるのだが、私には何を意味しているのかさっぱり分からなかった。

場面の時間が現代に置かれている冒頭から30分位は、いったいなぜこんなにどうでもいいように見える行為を登場人物にさせるのか分からない。そういう描き方自体が目的なのか、したがって最後までこれで押し通すのかと思ったけど、どうもそうではなくて、戦時中に、つまり回想部分になると(これが時間的にも主題的にもメインである)、手法は平凡なものになってしまう。

同じ20年も前の作品でも、前回見た『臨海幻想』は20年という時を越えて、リアリティーもアクチュアリティーもあったが、この作品は、若書きの駄作というほかない。


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『日本語と韓国語』

2014年07月04日 | 評論
大野敏明『日本語と韓国語』(文春新書、2004年)

少しずつ韓国語の勉強もしようとしているのだが、まずハングルがなかなか覚えられない。あの形が音としてイメージできないので、なかなか進歩しない。そこで最近気がついた。韓国語は語順も、場合によっては助詞も日本語とよく似ているのだから、単語を音として覚えていくほうが早いのではないか、もちろん動詞は日本語のように、活用するから、その活用の仕方を覚えないといけないが、とりあえず、名詞や形容詞などを覚えていくほうがいいのではないかと思うようになった。

というのはドラマを見ていると日本語によく似た単語がポンポン出てくるからだ。チョッジキ=正直、ホンデ=ところで、チョンマリヨ=本当ですか、サギ=詐欺などなど。旅行でもしようということになったら、ハングルが氾濫している街で困ることになるだろうけど、ドラマを楽しもうという程度なら、音で覚えるほうがいいような…と、ハングル覚えるのが嫌なので、そんなことを考えている。

以前書いたことがあるかも知れないが、韓国の映画やドラマを見るようになってから、あることに気づいた。それは韓国語の一部の単語(たぶん漢字で表記したら、日本語と同じだと思う)には、日本人からすると幼児語のように聞こえる音があることだ。たとえば基礎を韓国語ではキチョ、さぁさぁをチャーチャー、トンカツをトンカチュと言う。上に書いた正直をチョッジキと発音するのもそうだ。なにか法則性があるのかどうかわからないが、私が気づいたことだけで言えば、サ行をチャ行で発音するように思う。

私が不思議に思っていたのは、ある漢字を韓国語では△△と発音する、日本語では○○と発音するというのは、普通にありうることだ。興味深いのはそれがなぜ幼児語のように日本人に聞こえるのかということが分からない。

こんな研究をしてみたら面白いな、でも日本語と韓国語の音韻体系に精通しなければならないが、そんなことは無理だなと思っていた。ところがこの本を読んでいたら、達磨の発音についてあれこれ説明している箇所に面白い話が載っていた。達磨の達はもともとダツという発音だったので、昔は韓国でもダツと発音し、それが日本にそのまま伝わってダツという音で残っているが、韓国人や北京周辺の中国人は終音に[t]を発音するのが苦手だったので、中国人は[dar]ダーと発音し、韓国人は[dar]ダルと発音するようになったという。

これと似たようなことがさ行をチャ行になっているのではないか。しかもそれが韓国や日本など同じ言語圏では、チャからサに変化してきたが、韓国ではチャのまま残っているので、日本人からすると幼児語っぽく聞こえるというのではないだろうか。うーん、なんかぜんぜん説得力ない説明だな。

『いとしのソヨン』が終わってがっかりしていたのだが、『ゴールデンタイム』という医療関係のドラマが始まって、これがめっぽう面白くて、また楽しみができた。



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