読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『「明暗」夫婦の言語力学』

2013年06月20日 | 人文科学系
小林千草『「明暗」夫婦の言語力学』(東海教育出版会、2012年)

夏目漱石の最後の小説『明暗』は、それまでの漱石の小説と違って、女性も含めて一人一人の登場人物が自立しており、一種の対話劇のようになっている。その対話を語り手が解説を加えて、発話の意図だとか、対話の結果として対話者に生じた外面的な変化の意味だとか、心に生じた内的な変化の意味などをあれこれ説明してくれたり、あるいは読者に読解を投げかけてみたりしながら、進行する。したがってたんに演劇的な対話劇というだけではなくて、非常に高度な心理小説にもなっている。

この本は、このように、すでに語り手が登場人物たちの対話劇にあれこれ解説を加えて、読者の理解を一定の方向に誘導しているにもかかわらず、さらにその誘導の仕方さえも解釈の対象として、登場人物の対話をどんなふうに理解して行ったらいいのかを解説したものとなっている。もちろん、100年以上も前の小説であるだけに、現代とは違う言葉の使い方が頻繁に出てくるということもあるし、女性が使う「…わ」や「…よ」などが、たんに女性言葉の指標というだけではなくて、当時ははっきりした意志を表現するものであったことなど、この本を読んで初めて知ることもある。

タイトルを見ただけだと論文集のようなものなのかなと思っていたのだが、『明暗』を最初から最後まで対話のまとまりごとに区切って順番に解説を加えていくという手法をとっており、読み始めた当初はただ小説の後追いしているだけのように思えて、「なにこれ?小説の字面を追っているだけじゃん」とがっかりしたのだが、ずっと読んでいるうちに、かなり高度な解説本だなと考えを改めるようになってきた。これを読んだら、漱石の『明暗』を読んだ気になる。それだけではない。『明暗』って漱石の最高傑作ではないかと思うようにさえなってきた。今度は水村美苗の『続明暗』を読んでみようと思っている。

『明暗』についての私の感想はこちら

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『鼬(いたち)』

2013年06月15日 | 舞台芸術
『鼬(いたち)』(劇団大阪、2013年)

劇団大阪の第73回本公演を見てきた。いつもなら金曜日の夜の公演ではなくて、土曜日や日曜日の昼公演に行くのだが、私の知り合いの団員が夜公演しか出ていないので、こちらにした。

真船豊という1902年生まれで1977年になくなった人の昭和9年の作品で、福島の農村の地主かなんかの没落した旧家「だるま屋」が舞台になっている。だるま屋の「おかじ」はもう余命をいくばくもない年寄りで、ここに嫁に来てから、なんとかこの旧家を守ってきたが、数年前に息子の万三郎が高利貸しから借金した200円があっという間に元利ともで1000円に膨れ上がり、抵当に入っていた土地家屋を明け渡す日がきている。それに乗じて小金を貸していた馬医者の山影や近所のカカ様が借金のかわりに畳やら馬やらを引き取っていき、家の中は鶏がいるばかり。

そこへ娘のころに勘当されて出て行き音沙汰もなかった「おとり」が人絹を来て羽振り良さそうな出で立ちも戻ってきた。彼女は百姓で、だるま屋の使いっ走りをしている嘉平を手懐けて、井川に万三郎が帰ってくるから明け渡しの延期を通告させる。万三郎が南洋から帰ってくると、おとりは借金の1752円を万三郎に貸して借金をきれいにしてこさせる。

おとりの狙いはじつはもうじきこの屋敷の前にできる鉄道と駅を見越してこの屋敷で商売をしようということだった。おとりは馬医者の山影を買収して、登記の手続きなどをさせ、万三郎が南洋に帰る前日にはだるま屋の土地屋敷をぜんぶ自分のものにしてしまう。万三郎は何も知らずに南洋に帰り、残ったおとりは、いつまで疑り深いおかじにすべてを話して、ショックで死なせてしまう。

たぶんリアリズムを標榜する「新劇」運動のなかで生まれた作品なのだろう。人間のオモテもウラも過不足なく描ききるということをテーマにした作品のように見えた。恫喝するときにはヤクザの女のように、はたまた男を手懐けるときには猫なで声で取り入る変幻自在の女「おとり」を夏原幸子が好演していた。この人もずいぶん前から見ている役者だが、今回は主演を張って、素晴らしい演技を見せてくれた。一本気の女将風の女性を演じた津田ひろこもよかったし、女地主で、周囲に合わせて農村という閉鎖された社会を生きてきた古町のかか様を名取由美子が好演していた。もちろん関西芸術座の特別出演の河東けいがよかったのは言うまでもない。

2時間40分(間に10分休憩)という長い公演だったが、まったく時間を感じさせない演出であり、演技だった。

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『漱石のなかの<帝国>』

2013年06月06日 | 人文科学系
柴田勝二『漱石のなかの<帝国>』(翰林書房、2006年)

国民的作家である夏目漱石の小説をあらかた読んでいる者にとっては、『漱石のなかの<帝国>』なんて、じつに食指をそそるタイトルではないだろうか。漱石が小説家として活躍していた時代の日本人の精神に色濃く影響を及ぼしたと思われる日清戦争、日露戦争、三国干渉、韓国併合、第一次世界大戦、そうした戦争後に起きた不況、そしてそれらの時代を貫通する明治という激動の時代などが、漱石の小説には一見するとそれほど反映していないように見える。そういう時代背景を無視しても、面白く読めるのが漱石の小説であり、そうであればこそ国民的作家などと言われて、100年もたった現代においても多くの読者をもっているのだろう。

しかしこの本は、そうした一見時代の趨勢とは無関係に見える漱石の主要な小説に、じつは上に挙げたような戦争や朝鮮への侵略などが登場人物の名前だけではなく、主人公たちの人間関係という、小説の作りの最も根幹をなすところに影響を及ぼしていることを教えてくれる。

たとえば有名な『坊ちゃん』では赤シャツがロシアで、野だいこは中国であり、そして坊ちゃんとうらなりは帝国主義的拡張によって<強国>になり上がっていきながらも、西洋列強に対しては明確な自己主張をすることができない明治日本のウラとオモテを表しているという。親譲りの無鉄砲という性格をもつ坊ちゃんは、幕末期に向こう見ずにも西洋列強にたいして戦いを挑んだ薩長につながる性格が付与されているというのだ。上に赤シャツはロシアと書いたが、背景的には西洋列強の隠喩と言ってもいいという。

もちろん著者は当てずっぽうでこんなことを書いているわけではなくて、当時の新聞なども丁寧に読んで、当時の新聞紙上でこれらの事件や国についてどんな報道がされていたか、どんなことが話題になっていたかを細かに調べた上で、そうした議論をしているわけで、納得しながらも、ちょっと狐につままれたような感じがしてしまう。

それにしてもこういう解説を読んで私が不思議に思うのは、当時の読者はここまで感じながら漱石を読んでいたのだろうかということ、そして初めてこうした漱石の小説のなかに当時の日本を取り巻く情勢が書き込まれていることが明らかにされたのだと思うが、こういうことが100年もたって初めて明かされるということは、それまでの読者は、私も含めて、読み違いをしていたのだろうかという疑念である。また100年経って研究者によって初めて明らかにされるまで分からなかったことに、小説の価値としてどれだけの意味があるのだろうかということでもある。

たとえば『明暗』ではお延は帝国的「延伸」を意味するとか、津田が結婚前に好きだった清子は「清」(中国)を意味するとかという説明を読んでも、実際の小説を読んでいるときに、そんなことを意識することはまずないし、意識しなくても小説を十分に味わうことができる。

もちろん小説というものは読者ごとにいろんなレベルの読み方があってしかるべきだし、どれが深い読み方だとか浅い読み方だとかは言えないのだが、100年経たねば分からないって・・・と思ってしまうのは私だけだろうか?


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