読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『プラハの憂鬱』

2015年07月29日 | 作家サ行
佐藤優『プラハの憂鬱』(新潮社、2015)

あとがきを読むと、人生で最も重大な時期の一つに位置づけられると書いている、イギリス陸軍語学学校での1年、とくにその時にであったインタープレスという古本屋のズデニェク・マストニークというチェコからの亡命人との交流とのことがメインに書かれている。

内容は、どんな問題意識で同志社大学神学部に入って、どんな勉強をし、どんな先生たちと出会ったかということから、チェコの宗教者フロマートカのことを勉強したいと考え、そのための手段として外務省に入り、イギリスでロシア語を勉強し、さらに語学研修を続けるためにモスクワに出発するまで、である。

きちんとした目的意識をもって日々を生きていた人のようで、行動に移す前に自分のしたいこと、しようとしていることのために、どういう方向に進んだらいいか、そのために何をしたらいいのかを考え、コマを進めている。

さらに読書を単なる知識吸収ではなく自分のものとして咀嚼している。だから、イギリスで出会ったズデニェク・マストニークとの会話でも表面的なものにならずに、最終的には彼から50回ものチェコに関する講義を受けたのと同じくらいの会話に発展していったという。

以前からどうして同志社大学神学部なのと思っていたが、マルクス主義とキリスト教という、キリスト教の文化が薄い日本ではあまり問題にならないが、ヨーロッパのように、決して避けて通れない問題として根を張っているこの問題を重視していたこと、そして同志社大学だけがクリスチャンでなくても神学部に入れたことから、ここが選択されたという。

それにしても、彼の私的先生となったズデニェク・マストニークも語学学校での先生であったブラシュコもそうだが、みんな佐藤優のことを人間洞察力のある人だと見抜いている。大抵の日本人は当たり障りのない人付き合いしかしないものだ。変な人間関係に巻き込まれて、自分の将来を無駄にしたくないという恐怖心のほうが先にあるからだ。

そういう意味では、この人が鈴木宗男事件に巻き込まれて外務省から抹殺されることになるという将来はすでに既定のものだったのかもしれない。

適度な長さで章分けがされており(というか初出は『小説新潮』なので、一回分の長さということ)、読みやすかった。もちろん内容がチェコの民族問題だとかキリスト教の問題とはいえ、会話体が中心なのも読みやすい原因だろう。

以前読んだ『自壊する帝国』が同じ時期をさっと通って、ロシアに赴任していた8年近くのことを中心に書いているので、その前編と言っていいだろう。『自壊する帝国』についてはこちら

『世界認識のための情報術』についてはこちら

『インテリジェンス武器なき戦争』についてはこちら

『反省』についてはこちら




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『太宰治の辞書』

2015年07月26日 | 作家カ行
北村薫『太宰治の辞書』(新潮社、2015年)

北村薫、薫って男性にも女性にもある名前で、ずっとこの人は男かと思っていたが、どうも女のようだった。

毎日新聞の書評にたぶん面白いと書いてあったのだろう。図書館に予約して、ようやく順番が来たので、借り受けに行って、読んでみると、太宰治の辞書というのは、太宰治に関する辞書ではなくて、太宰治が使っていたらしい辞書の話しで、「私」があれこれ調べて、京都くんだりまで調査に出かけて行ったにもかかわらず、結局特定できなかったというオチの小説だ。

面白くもなんともない。以前この作家の小説を読んだことがあるという記憶がうっすらとあり、このブログを検索してみたら、『冬のオペラ』という小説を読んでいた。そのブログでも否定的なことを書いている。なんだかなぁ~って作家です。

別にここに書かなくてもよかったんだけど。

『冬のオペラ』についてはこちら

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『こうもり』

2015年07月20日 | 舞台芸術
ヨハン・シュトラウスⅡ『こうもり』(河内長野市マイタウンオペラvol.14、2015年)

ワルツの王ヨハン・シュトラウスⅡが作曲した喜歌劇(オペレッタ)『こうもり』を観てきた。最高に楽しい、素晴らしい上演だった。配役もドンピシャ、日本語上演も、随所にアドリブのようなセリフが入っていて、東京では決してできない、まさに大阪版『こうもり』だった。

序曲はよく演奏会などでも単独で演奏されるほど有名なモチーフがてんこ盛りのオーケストラ曲で、これだけで、ああ知ってると思わせる。

第一幕は、かつてアイゼンシュタインにからかわれてみっともない姿を町中に晒してしまったファルケ(つまりこうもりとアダ名されている人)が、復讐のために(と言ったら少々怖い感じになるが、遊びのつもりで)アイゼンシュタインを嵌めてやろうと企む。訴訟に負けて、次の日から刑務所入りするのだが、名前を変えてオルロフスキー殿下(オフロスキー?とわざと言い間違えるのも傑作)の主催する舞踏会に出かけていく。夫がいなくなったので、妻のロザリンデも仮面をつけて舞踏会へ。おまけに女中のアデーレも奥様のドレスを失敬して友人のイーダとともに舞踏会へ。唯一、ロザリンデの愛人のアルフレードは、アイゼンシュタインと間違われて、刑務所入り。

第二幕は、舞踏会。市民オペラなので、ここで市民合唱団の人たち(多くはもう相当の老人たちばかり、しかも男性と女性の比率が1対2くらいなので、男性は両手に花状態)が多数登場するし、特別に近所の高校のハンドベル演奏あり、これまた近所の創美バレエスクールのチャルダーシュのダンスありで賑やか。仮面をつけた謎の美女(アイゼンシュタインの妻)に首ったけになったアイゼンシュタイン、刑務所所長のフランクはアデーレといい仲に。

第三幕冒頭は、留守番を頼まれた刑務所看守のフロッシュの独演会が傑作。これは通常どの程度の時間を取るのかしらないが、はまり役の山中雅博の独壇場で30分を一気に。めちゃめちゃ気取っているのに、大阪っぽい清原邦仁のアルフレードとフロッシュのやりとりも面白いし、刑務所所長のフランクとアイゼンシュタインとのやりとりも日本語上演ならではの言葉遊びで観客を沸かせた。

こんな楽しいオペラは初めてだった。大阪のオペラ人に拍手喝采!河内長野市のようなそれほど大きくもない町の市民オペラで資金的にも大変だろうけど、ぜひ続けて欲しい。



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新国立だけじゃなくて、戦争法案も見なおしたら

2015年07月18日 | 日々の雑感
新国立だけじゃなくて、戦争法案も見なおしたら


今日の朝日新聞のヒットは「民意反映、新国立だけ?」だ。安倍首相が新国立競技場の計画を白紙に戻してデザインから見直すようにと指示したという報道を受けて、朝日新聞が鋭くかました。

森喜朗が「国がたった2500億円出せなかったのかね」と慨嘆しているという。自分の成果にしたいだけなんだから、テメエが出せ!

安倍首相が新国立のやり直しを指示した理由が「国民の批判」だと言っているのだから、当然の一矢だ。国民の批判を素直に認めるのなら、過半数の国民が反対している「戦争法案」である安保問題も、辺野古の基地問題も原発再稼働もやめてほしいというのが、国民の当然の意見だ。

誰だったか、これは安保問題の強行採決に対する批判を交わすためのガス抜きだと主張していた女性がいたが、まさにその通りだ。だから新国立差し戻しの指示も素直に喜べない。

今度の戦争法案の大きな問題点は、これまでと違って、確実にアメリカの世界戦略に巻き込まれて、自衛隊が戦争に参加することになり、殺し殺されるという事態になるということだ。これまでは、フランスに行っても「日本ってアメリカの子分でしょ」というようなことを言われたことがあるが、まだ軍事的にはあからさまには見えなかった。なぜならあくまでも日本周辺での従属だからである。

しかし今度の法律が通れば、世界中に出張っていった先で、アメリカの指令系統に組み込まれて戦闘行為をすることになる。文字通り、アメリカの子分になっているのが、見えることになる。つまり日本の利害の埒外で、アメリカの軍事行動に巻き込まれるということだ。日本の自立などありえない。集団的自衛権とはそういうことだ。

だから、自衛隊を認めるにせよ認めないにせよ、自立防衛を主張する(軍隊を持てと主張する)にせよ、非武装中立を主張するにせよ、日本の利害関係に関係なく、また日本の利害に関係があっても、外交的努力によってではなく、アメリカという外国の軍事行動に否応なく巻き込まれてしまう事態を招来する今回の法案に多くの人が反対の声を上げているのは、そうした理由による。

民意は戦争法案に反対なんだから、見直せ、安倍首相。

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『天の蛍』

2015年07月11日 | 作家マ行
松本薫『天の蛍』(江府町観光協会、2015)

米子で高校の国語教師をしながら、米子周辺を舞台にした小説を書いている松本薫さん(柔道の松本薫とは関係ない)の新作で、江尾という城下町を舞台にしたもの。500年前、ちょうど織田信長が全国制覇を成し遂げる直前に本能寺の変で死んだ、少し前の時代、毛利元就が中国の覇者となるべく尼子氏と最後の戦いをしていた時代の話しで、この時代から現在にまで続く江尾の夏の風物詩である「十七夜」という夏祭りをモチーフにした時代劇である。

じつは私の母親が江尾の出身だし、家の寺は江尾の黄檗宗東祥寺で、祖父母の死以来、よく法事で出かけたので、よく十七夜の話は耳にしたが、実際にこの夏祭りに行ったのは一回くらいしかない。この小説を読むまでは、これほど伝統のある夏祭りとは知らなかった。それに江尾城というのは、いまは写真のような模擬天守が作られて、歴史資料館となっているが、この江尾城跡も、じつはこの小説の舞台となっている蜂塚氏の居城のあった場所ではなくて、蜂塚氏が滅ぼされてから、吉川がこの場所に新たに城を作ったときの場所である。蜂塚氏の居城はずっと上のほうにあったようだ。

主人公は波留。月山富田城の城下に母親、妹の邦と三人で住んでいたが、新宮党事件で母親が巻き添えにあい、山中鹿介(当時まだ少年)の家に、しばらく世話になった後、占部という旅芸人の一座の座長に拾われて、邦を山中家に預けて、一座に入る。そこの人気踊り子の藤尾(実は、邦の実の母親)に踊りを教わる。その後、一座を抜け出し、旅の途中で盗賊から助けてくれた要(槍の名人)と江尾に流れ着く。

折しも十七夜で、そこで踊って人々の喝采を受けているところを城主の娘の寿々を火傷から救い出し、城主のもとにいつくことになる。こうして江尾を舞台として、蜂塚氏夫妻や幼なじみであった山中鹿介、一緒に江尾にいつくことになり、槍の名人として城主から信頼されるようになった要たちとの交流というフィクションの物語を横軸に、また毛利と尼子の国人領主支配の駆け引きや合戦といった史実を縦軸にして、展開していく。

山中鹿介だとか蜂塚氏だとか、最後には実は妹の邦は出雲の阿国(邦)として京都に上がることになるだとか、歴史上の実在人物が登場するので、どこまでが史実でどこからフィクションなのか分からないが、興味深い小説だった。

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こんなことでいいのかな

2015年07月08日 | 日々の雑感
こんなことでいいのかな


1.原発再稼働
9月の原発再稼働のために九州鹿児島の川内原発だけでなく、関西電力の高浜原発、伊方原発も再稼働する予定だという。最近は、あちこちで火山性の噴火や地震が頻発しており、これらの地域だって、その余波で地震が起きる可能性が非常に高い。

これらの地域は活断層があるということで、その危険性を調査するために、しばらく休んでいたわけで、そうであるならばなおさらこの時期に再稼働するのは、ちょっと待ってくれと言いたくなる。

大丈夫か?じゃなくて、大丈夫じゃない、だ。こんなことで市民を危険に晒さないで欲しい。

2.東京オリンピックのメインスタジアム建設
2500億円以上もかかるメインスタジアムの建設に有識者会議がゴーサインをだしたという。10月から工事に入るという。このスタジアムのデザインを決めた会議の委員長は安藤忠雄。オリンピックの大会組織委員長は、あの森喜朗(「しんきろう」と入力したら、出てきた!)。二人とも国民の幸福とか、財政の問題とか、本当に期日に間に合うのか、という懸念よりも、自分の名声のほうが大事な人たち。

もっと抵抗するかと思っていた都知事の舛添は、選挙のときに支援してくれた自民党からプッシュされて簡単に折れた。災害時の避難場所として使えるという名目があれば、500億円だすのも可能だというのだ。だが、屋根はできないじゃ、シェルターとして使えないだろう。シェルターとして使いたければ、開閉式の屋根の費用も東京都がもってくれと言われたら、どうするのだ?

専門家に言わせれば、今日の朝日新聞でも、一本の鉄骨を支えるために地下に埋めるが、その力は膨大なもので、地下には大江戸線が走っており、必要なスペースを確保できないと主張している。

専門家の試算では設計をやり直せば、そのやり直しの期間も含めて、十分1000億以内で、19年夏のラグビーの世界大会までに間に合うという。どうしてそれができないのか。最初のデザインでIOCの承認を得ているからと言っているが、スタジアム1500億円分の建設が大成建設、ドーム950億円分の建設が竹中工務店だという。ゼネコンのために仕事を作ってやるという、自民党のお家芸。そして森喜朗先生が褒め称えられる。しんきろう先生、安心できないよ、完成するかどうか…

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『ヴォルテール、ただいま参上!』

2015年07月02日 | 作家サ行
シェートリヒ『ヴォルテール、ただいま参上!』(2015年、新潮社)

ヴォルテール、言わずと知れた、18世紀最大のフランスの劇作家、歴史家、哲学者、いわゆる啓蒙思想家である。かたやプロイセンのフリードリヒ大王といえば、フルートを愛し、自分でも作曲をしたりしたという「啓蒙君主」と言われた国王である。

フリードリヒの「ラブコール」を受けたヴォルテールが彼の宮廷に赴き、あっという間に犬猿の仲になって別れた顛末を史実(書簡など)に沿って小説化したものである。

訳者も指摘している通り、読んでいる限りでは、作者はそんなことはまったくひけらかしていないが、膨大な資料を読み込んであるらしい。ある時には日々の行動を詳らかにし、またある時には、あたかもその場にいたかのように、二人の会話を再現してみせるその手法は、そうした研究の賜物なのだろう。

したがって、ヴォルテールの研究者でさえも一読の価値はあると思う。しかし、小説ということで言えば、この作者、ヴォルテールとフリードリヒ大王という超有名な人物の有名性にあぐらをかきすぎているのではないか。

どういうことかというと、あまりに人物像形が貧弱すぎる。まるで、ヴォルテールとフリードリヒ大王の骨と皮だけを見ているようなそんな気がする。ある意味、研究論文でも読んでいるような感じ。

たしかにある場面では彼らの手紙を並べるだけで、両者にどんなやりとりがあったのか手に取るように分かるといえば、その通りだ。しかし、ヴォルテールがどんな人間だったのか、フリードリヒが表向きは啓蒙君主とか言いながら、その実、冷酷無比な暴君であったわけで、そのあたりのことがほとんど見えてこない。

訳者も指摘するとおり、たしかにあまり注目されない、ヴォルテールの金銭感覚に注目しているところは興味深い。しかしそれもさっと読んでしまえば、だれも気づかない程度でしかない。ヴォルテールはある意味ブルジョワであり、いろんなところで金儲けをしていたし、それを自立した生活のためと思っていたことは確かだが、生活できる金があればいい程度の話ではないことを、もっと追求したら面白かったと思うのだが。

ブルジョワとしてのヴォルテールなんて主題は興味深いと思うのだが、この小説にそれを要求するのはないものねだりか。

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