読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「日本の軍事システム」

2006年01月31日 | 人文科学系
江畑謙介『日本の軍事システム―自衛隊装備の問題点』(講談社新書、2001年)

こういう問題にとりたてて興味があるというわけでもないが、現在の自衛隊ってどういうことになっているのか、よく世界でも最強の軍事力を持っているというけど、具体的にはどういうことなのかをちょっと知りたくて、読んでみた。

2000年に始まった2005年度までの中期防計画にもとづいて書いてあるので、かなり古いと言っても過言ではない。あれから数年のあいだに、つまりコイズミ政府のあいだに日本の軍事戦略はイラクに軍隊を送って、表向きは民生のための活動であって軍事活動はしないということになっているし、また一応軍事行動らしきものはとっていないし、死者も0ということになっているけれども、裏では軍事行動がいつでも取れるような訓練なり準備なりを現地でやっているのではないだろうか。いずれにしても2000年時点まで堅守していた専守防衛という立場は表向きは変えていないにしても、実際にはアメリカの世界戦略に組み込まれている。

それにしてもこの本を読む限りでは、世界で2番目の軍事費をもち(ただしGDP比率では1.5%という平凡な数字だが)、東アジアの「不沈空母」とまで言われた割には、ぱっとしない印象をもつのは、もっと軍備を増強せよ、近代的なものにせよ、でなければ抑止力にならないぞという、この著者の執筆動機がはっきりと、読後の印象という形で現われているのだろうか?

たまにケーブルテレビでやっているアメリカの軍事テクノロジーの紹介番組を見るのだけど、その最先端のテクノロジーはすごいことなっているようだ。この本のなかでも完全にデジタル化した場合の、「軍事における革命」(爆弾や弾で人や物を殺傷・破壊するという方法の革命ではなく、爆弾や弾で人や物を殺傷・破壊するにいたるプロセスにおける革命)の最先端のイメージが描かれているが、文字ではその驚異的なリアリティーは伝わってこない。やはり映像のほうが強烈であることは言うまでもない。

でもコスタリカはアメリカの裏庭と言われる中米で軍備を放棄して平和国家を作り上げているのだから、軍備の放棄という憲法9条の精神をいかして、軍備を持たない、いかなる軍事同盟にも加わらないということで、抑止力にすることはできないのだろうか?

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江戸の暮らし

2006年01月30日 | 人文科学系
石川英輔『大江戸えころじー事情』(講談社、2000年)

これは大江戸○○事情シリーズの一つで、タイトルのとおり、江戸時代の生活がいかにエコロジカルな、循環型(あらゆる意味での放置型廃棄物をださいない)のものであったかを、現代社会、とりわけ戦後の日本の、化石燃料大量消費型・廃棄物大量放置型社会にたいするアンチテーゼとして、提示した本で、じつに興味深い。

江戸時代が鎖国のために世界の進歩から取り残された、どうしようもない遅れた社会という印象はしばらく前まではだれももっていたように思うのだが、近年のいろんな分野での研究によって、自然科学、数学、天文学、文化芸術は江戸時代の日本は相当に進んでいたことが分かってきている。ご存知、伊能忠敬の地図がそうだし、浮世絵が印象派に与えた影響は計り知れない、からくり人形の精密さなどなど、挙げればきりがない。

それと同時に、江戸時代の人々がほぼ完全循環型の社会をつくり、隅田川も明治初期まで、飲用にできるほどきれいだったくらいに、環境に付加をかけないシステムを作り上げていたことが、この本では紹介されている。

一番問題になる糞尿は、油粕などとともに貴重な肥料であったので、大都市江戸や大坂、京都などでも、近郊の農民が現金や野菜との物々交換などで買い取っていたので、河や海に放棄する必要がなかった。浴衣などの日常的な衣服の場合も、まず浴衣を作る場合もまったく無駄な部分が出ないような裁ち方をするし、浴衣として使えなくなってきたら、赤ちゃんのおしめに、おしめとして使えなくなったら、雑巾に、そして最後は燃料にして、灰は灰で、農家の肥料になるという次第。

もちろん、問題なのは、こうした社会システムを作り上げていた江戸時代の人々の知恵をどのようにして現代社会にいかすのかということだと思う。この著者も、繰り返し言っているように、けっして江戸時代に逆戻りさせようとなどと考えているわけではない。ただ、江戸時代の循環型システムを成り立たせるには、「手間と暇を」かける必要があるということだ。私もいつも疑問に思うのは、たしかに江戸時代のシステムは完全循環型ということで世界にも誇るべきものだが、それを成り立たせるためには、ほとんどの人々が毎日しかも一日中生活のことに従事しなければならなかったのであり、現代のような、趣味とかその他のことに多くの時間を割くということは不可能になるのではないかということだ。しかし一方で現代社会は便利になり、かつて一日かけてしていたことを、ほんの1時間か2時間で終わらせ、後に残った時間を自由に使うことができるが、他方で大量のエネルギーを消費し、大量の廃棄物を投棄している。

この著者の結論は、現代社会は間違った方向に進んでいると自覚することから始めよう(だからといってどうこうなるわけではないが、自覚しなければ何も始まらないから)と主張する。日本の場合、明治初期まで、地方によっては敗戦直後まで、江戸時代の延長線上にある生活様式を維持していたのだから、現代のようなシステムに変わったのは、たかだか100年、あるいは50年くらいなのだ。だから、転換もまだまだやりやすいと考えるべきかもしれない。

それにしても、江戸時代の初期に、それまで戦国時代でたくさんの城を作ったりするために大量の樹木が伐採されたために、あちこち災害が起きてきたことを考慮して、為政者が伐採を禁じ、植樹を奨励したりしたのを見ても、また江戸の水道網の素晴らしさを見ても、テレビでやっているような老中とか家老とかは馬鹿ばかりに作られているけど、けっこういけてる人が多かったのじゃないかと考え直している。

江戸時代っておもいろい。

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「グランド・フィナーレ」

2006年01月29日 | 作家ア行
阿部和重『グランド・フィナーレ』(講談社、2005年)

この作品は第132回芥川賞を受賞作。でもこの作家はこれ以前に数々の賞を受賞していたので、芥川賞の登竜門という意味はまったく失せている。

この小説を読むと、やはり小説は文体が命だろうと思う。なんと形容していいのか分からないけど、それまで勉強の世界しから知らなかった高校生(いま時なら中学生か)が初めてブンガクなどという世界に触れて、あれこれ試行錯誤の上につかみとった自分の文体、凡俗な社会を斜交いに見て、かといってつかず離れずの関係は保っていたいというような人生の過渡期、普通だったらひらかなで書くところを漢字にしてみたり、ちょっと高尚に書くべきところをわざと日常茶飯事に使う言葉を使ってみたり、そういった文体が、この人の特徴かなと思いながら読んだ。

内容的にはバランス感覚はあるのだろう。とても政治の話とか世界情勢の話なんか出てくるとは思っていなかったようなところで、そんな会話が進んだり、ただのお馬鹿ちゃんかと思わせていた「I」に、ものすごく真面目なこと(友人が幼児性愛の虐待を受けて自殺したという話)を言わせたりとか。ただ芥川賞の選考委員のみなさんが、素晴らしいと思われたから受賞したのだろうけど、どこがいいのだか、私には分かりません。

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『マイノリティー・リポート』

2006年01月28日 | 映画
スピルバーグ監督『マイノリティー・リポート』(2002年)

これを映画館でロードショーのときに見たのはもう4年も前のことなんだなと思いながら、昨日のテレビで見た。最近臨死体験の本を読んだので、犯罪予知者(プリコラとか呼んでいたような気がする)が横たわっているのは、立花隆も体験した例の水槽のようなものなのだろうとか、どういう原理であの三人が犯罪を予知できるのかも理解しながら見ることができた。現実にそういうことが近未来において可能になるかどうかは疑問だが、この手のアメリカの近未来を描く映画でいつも気になるのは、一方にはキーボードなどを使わないコンピュータの形とか超近代的な交通手段に描かれているような目覚しい科学技術の進歩の成果によって変貌した領域と、現在のアメリカ社会のスラム街となんら変わりがない底辺の人たちの生活や住まいが共存していることだ。これはスピルバーグが意図的に描いているのか(意図的なのだろう)知らないが、持てる者たちと持たざる者たちの乖離が限りなく進んでいることを示している。すでに現在のアメリカだってそういう事態になっているが、それが何十年たっても変わらないと考えられているのだろう。前にも書いたように、いまの日本はそういうアメリカの後追いをしている。だが、世界はそういう社会ばかりではなく、北欧のように、底辺を底上げすることで、社会の二極化を避けようと努めているところもある。日本はそういう社会を目指すべきで、アメリカの後追いをしてはいけないと思うのだが、ここ数年の規制緩和は、こちらを急速に推し進めるていることになっているようだ。

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『ぐりとぐら』シリーズ

2006年01月27日 | 日々の雑感
『ぐりとぐら』(なかがわえりこ と おおむらゆりこ、1963年)

昨日の朝日新聞の夕刊で、若手俳優の長澤まさみが『ぐりとぐら』のことを書いていたので、私も子どもが小さかった頃にこの絵本シリーズをよく読み聞かせしてやったことを思い出しました。『ぐりとぐら』は森に出かけたら大きな卵を見つけ、その卵でホットケーキを焼いたら、そのいい香りに誘われて森の動物たちがでてきて、みんなで分け合って食べ、卵の殻は車にして遊ぶというお話。これを書くために本棚にあったのを引っ張り出して、奥付を見たら初版が1963年だというから、うちの娘や息子たちに読み聞かせをしていた時点ですでに20年以上の歳月がたっていたのに、すごく新しい感じに思えたのは驚き。何度も読み聞かせをさせられるので、「ぼくらのなまえはぐりとぐら/このよでいちばんすきなのは/おりょうりすることたべること/ぐりぐらぐりぐら」というところに節をつけて、歌ってやると、子どもたちは大喜びしていた。子どもというのは、こっちが照れるなというようなことをしても単純に面白がってくれるので、いろいろなことがやりがいがあるね。この部分は段が変えてあるので、どう見ても歌の歌詞として作ってあるから、やっぱり歌ってやるのがいいと思う。それと絵本は、ぱらぱらっと見ただけではたいしたことがないようなものでも、読み聞かせをすると面白くなってくるものがけっこうある。そうして初めて「これよくできているな」ということが分かるものが多い。うちの第三子はあちこちに障害のある子だったけど、絵本の読み聞かせがこの子のことばやこころの発達に大きな影響を与えたと思う。絵本という奥深い世界に触れることができたのも、子どもたちのおかげだな。

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「カノン」

2006年01月26日 | 作家サ行
篠田節子『カノン』(文芸春秋、1996年)

またまた篠田節子さんです。しかも音楽の崇高さということが題材になっているという点で、少し前に読んだ『ハルモニア』とよく似ていますね。真の音楽は人間に真実を認識させるとでもいうようなテーゼを描いた小説とでも言いましょうか。この小説が出た直後に読んだはずで、あれからかなり時がたってしまったためか、今回再読して覚えていたのは、ほとんど小説の導入部分と言っていいような、学生時代の主人公たちの夏の出来事の回想部分だけだったことが分かりました。後半のナスターシャこと岡宏子が生きていて、瑞穂が彼女に会って康臣の話をしたことだとか、正寛を追って奥穂高に登ったことだとかは、まるっきり記憶からおちていたのでした。

しかしこういう記憶の欠落、言い換えると、前半部分の夏の出来事の部分しか覚えていなかったということは、10年前に読んだ時には、その部分にしかこちらも感じることがなかったということだろうね。後半の、瑞穂と正寛が自分たちの人生の意味を問い直し、それぞれのその後の人生を生き始めるというような部分は、当時の自分にはどうでもよかったのでしょう。それよりは青春時代の強烈な出来事を懐かしむ気持ちに共感したのでしょう。ところが10年後には、自分の人生ってなんだったのだ、お前にはこれを生きたと言えるものがあるのかという後半部分に読みの重点が傾いていたのです。夏の出来事の部分を読んでも、「なんだ、こんなものだったっけ?」という感想しかないのです。

この世には、天職をもつ少数の幸運な人たち、人生の意味を考えたくないから、なにかにがむしゃらに向かっていく人、人生の意味を考えても答えが見出せず、悶々としている人がいるんじゃないかな。私は悶々グループです。数年前まではがむしゃらグループだったんだけどね。ある一つの目標が達成されてしまうと、突然、訳が分からなくなってしまった。いっそ、絶対実現不可能な目標を設定して、がむしゃらに突っ走ってみるか。

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「連戦連敗」

2006年01月25日 | 人文科学系
安藤忠雄『連戦連敗』(東京大学出版会、2001年)

息子が大学で建築関係の勉強をしたいというので、建築というものにちょっと気を引かれて、いま日本で建築といえばこの人でしょうということで、安藤忠雄の東大での講義録であえるこの本を読んでみた。あちこちの大学で客員教授をしているということだけど、ハーバード大学の客員教授までしたことがあるのだから、恐れ入る。読んでみれば、たしかにたんに建築コンペに入賞したことがあるというだけの人ではない。過去の欧米の建築思想をきちんと学び、消化吸収した上での、安藤忠雄の建築なのだ。独学で建築を学んだとか、ボクシングのプロから這い上がったとか、そういうなんとかドリーム的な部分が強調されるが、若いときに一人でヨーロッパを貧乏旅行して、建築物を見て回ったりするなど、やはり建築家になるための王道を進んできた人なのだ。

フランスでは建築は美術の一種であり、エコール・デ・ボザールがそのトップレベルの学校ということになる。学生時代に建築のための基礎的な技術的なことを学びながら、夏休みなどを利用して、ギリシャやイタリアを旅行して実際の建築物を見て回るそうだが、日本ではそういう思想そのものがないが、安藤忠雄はだれから学んだのか知らないが、そういうヨーロッパ式の建築家修行をへて、トップレベルの建築家となったのだ。テレビなどでは、ものの言い方などが浪速のおっさん風で(それはそれでいいのかもしれないが)、平凡に見えるが、能ある鷹は爪を隠す、ですな。

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上野千鶴子

2006年01月24日 | 人文科学系
上野千鶴子『家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平』(岩波書店、1990年)

シモーヌ・ド・ボーヴォワールが「ひとは女に生まれない、女になる」と書いたのは1949年のことだから、かなり早い時期に、ジェンダーというものが社会的に作り出されるものであって、最初からあるのではないということを語っていたのだが、性の問題が、難しいのは、まさにボーヴォワールのこの言葉に如実に示されているように、ジェンダーがイデオロギーでもあるということだ。そのために、まるで世界の最初からそうであったかのように、女の性が(もちろん男の性も)意識されることだ。意識を通して発現するから、意識の問題にすりかえられることが多い。だが、ジェンダーは、ちょうど資本主義が意識の問題ではなく、言い換えれば、資本家がどんなに善良な人であろうと、資本主義の制度のもとでは、賃労働から剰余価値が生まれ、搾取が起こるのと同じように、夫がどんなに妻に優しかろうと、家事労働を多くこなそうと、私もあなたもジェンダー化された存在であることには変わりない。上野千鶴子のこの著作は、そうした「女性のセクシュアリティの男性による領有」をたんに社会意識(気持ちの持ち方)の問題ではなく、物質基盤をもつ制度的なものであることを明らかにして、そこから女性解放の理論を構築しようとするものだが、残念ながら、その目標には到達しえていないように思う。それはマルクス主義フェミニズムそのものの現時点での限界なのだろう。

すでに十数年前の著作でもあるし、上野千鶴子の到達点がこれだとは思わないが、彼女の議論はもうひとつ分かりにくい。十分に問題が彼女のなかでこなれていないせいか、名前のわりにはあまり切れる人ではないのか、私にはなんとも言えないが。

フェミニズムで入門として優れた本は、竹村和子の『フェミニズム』(岩波書店、思考のフロンティア、2000年)である。こちらは文章が非常に読みやすいし、フェミニズムの歴史と現在何が議論されているのかを概略的にではあるが、腹にストンと落ちるような感じで理解するには、まことに優れた本であると思う。

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『魔笛』

2006年01月23日 | 評論
金子一也『オペラ魔笛のことが語れる本』(明日香出版社、2004年)

今年はモーツァルトの生誕250周年ということで正月からいろいろな企画が目白押しという感じです。モーツァルトは1791年に死んでいるから、ついこのあいだ没後200年でたくさんCDや本が出されたり、コンサートがいろいろ企画されたと思っていたので、またかよって感じですが、モーツァルトなら売れるのでしょうね。

さて、私は昨年の正月3日にフェスティバルホールが「オペラの日」と銘打って上演した『魔笛』を(2万数千円のチケットを買って・・馬鹿だね私も)観たのですが、それに前後して『魔笛』関連の本をいろいろ読みました。そのとき一番しっかりした内容のものはジャック・シャイエの『魔笛―秘教オペラ―』だと思いました。もちろんこのオペラを、モーツァルトがその一員だったフリーメイソン思想と関係付けて論じるのは常識ですが、その論じ方が実に丁寧だったからです。入り口の大蛇を三つに切るところの意味から、試練の意味、そしてタミーノとパミーナが結ばれる意味、パパゲーノの意味など、実に面白かったですね。ところがそうしたことを念頭に入れてオペラを見たものだから、あれ!なにこれ!という箇所が多く、また正月だからなのか、パミーナ役の歌手の声が最初は出来上がっていなくて、おいおい、大丈夫かよとか思いながら、観ていたので、なんだかなーって感じでした。それで余計上のチケット代が高く感じられたのでしょう。

いろいろ読んだなかで、ちょっと変わっていたのが、これです。この人は別に音楽の専門家でもなく、松下政経塾第12期生という、音楽で本を出すには変わった経歴の人ですが、モーツァルトを政治と関わらせて論じているところが面白かったのです。

またまた話は変わりますが、2005年の秋に河内長野のラブリーホールで「わがまちオペラ」みたいな企画で『ドン・ジョヴァンニ』が上演されました。これはチケット代が3000円くらいでしたが、中身は最高。おそらく演出のしかたがよかったと思います。テンポよく、モーツァルトってこんなに面白かった?と思わせてくれました。ドン・ジョヴァンニ役の歌手もじつに上手かった。今年は『フィガロ』をやるそうだから、期待してるよ。



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『韓国』

2006年01月22日 | 人文科学系
金両基監修『韓国』(新潮社、1993年)

いまの20代の人たちにはそうではないだろうけど、私のような40代から50代にかけての日本人にとって韓国は近くて遠い国とはよく言ったものだ。最近の韓流ブームにのっかって私もよくドラマや映画を見るようになったが、現代の韓国社会を映すそれらを見ている限りでは、それほど韓国の歴史や言語や文化を勉強してみようという気にはならなかったのに、『チャングム』のおかげでこれらを知ってみようというきになって、この本を読んでみた。やはりチャングムは歴史ものということで、日本と比較してみてしまうところが多々あるし、NHK版だと最後に韓国の文化や歴史を紹介するコーナーがあることからだろう。この本を選んだのは、別にこの本が類書の中で一番優れているということではなく、いろんなことが網羅してあったので、読んだまでのことである。実際読んでみると、まったくの初心者にはあまりに細かくて読みづらく、かなり飛ばして読んだ。もっと簡単なものを読んで、概略をつかんでから、これを読んだほうがいいかもしれない。


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