紫式部『源氏物語(巻一)』(瀬戸内寂聴訳、講談社、1996年)
今年は「源氏物語」出版から1000年の記念の年らしい。世界に誇る日本文学の一つであるわけだし、一度は読んでおいてもいいと思っていた矢先、図書館の返却棚にあったので、これが潮時だろうと思って、借りてきた。巻十まであるので、まぁ全部読み通すことができなくてもいいかなという程度の気持ちで読まないと続かない。
巻一には光源氏出生のいきさつを記した桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫が収録されている。光源氏17歳から18歳にかけての女性遍歴ということになるのだが、まず平安時代の結婚制度というのがよく分からないので、なぜこうも女を求めて日々暮らしているのか、光源氏が浮気性なのか、それとも位の高い男性は平安時代にはこういうものだったのか、またそれをやすやすと受け入れる女の側もこういうものだったのかどうかがよく分からないので、尻の軽い女たちだと一刀両断にするわけにもいかず、いったい何なんだろうと思い悩む。
まず光源氏はこのときすでに左大臣の娘、葵の上と結婚している。若紫には光源氏がその妻と夜を過ごそうと左大臣邸に行くが、その妻がどうも光源氏と折り合いが悪く、なかなか光源氏の前に姿を見せないとか、夜を過ごすにも打ち解けず、早々に光源氏が帰ってしまうというような場面が描かれている。たしか平安時代には結婚しても夫婦が同居生活をするのではなく、通い婚とか言って、夫婦別居が普通で、夜を過ごしに夫が妻の家に通うというような話を読んだことが記憶の片隅にある。はたしてこれがそうなのだろうか。(註1)
それならそれはそれでいいとしても、光源氏の女に対する対し方は、とても品があるとは思えない。空蝉で描かれる、伊予の介の妻との関係はほとんどレイプである。訳者の寂聴の解説でも「一度は心ならずも源氏に犯されたが」とはっきりとレイプであることを認めている。そして若紫なんかは幼女誘拐である。そしてこれはさらっとしか描かれていないが、帝つまり天皇の妻(しかも源氏の義理の母)である藤壺を妊娠させてしまうのだから、おいおい、こんなことがしょっぱなから描かれている文学を日本の誇る作品なんて世界に自慢できるのかよと思ってしまう。
もちろん世の倫理に反する恋愛はご法度などとばかなことを言うつもりはない。文学ではなんでもありが当たり前だ。ただ恋愛ものにせよ、その必然性がきちんと描きこまれていないければ、読者を納得させることができない。不倫には不倫なりの必然性が描きこまれてしかるべきなのだが、どうも平安時代の倫理は現代のそれとはそうとう違うのか、ただひたすら一目ぼれをした相手をどうにかして手に入れたいという、それだけの性衝動に突き動かされているようにしか見えない。
この点は、訳者の寂聴は、帚木で語り手がこれから書くものは源氏の情事の話につきること、また夕顔では、源氏の恋愛嗜好が「成立しがたい恋、無理な恋、邪魔のある恋、許されぬ恋」にのみ情熱をかきたてられ、「据え膳には全く興味を示さない」と説明している。
かつてギリシャ悲劇ではオイディプスをはじめとして実の母親と婚姻関係になるというような話が題材となることはある。しかしそれには抗いがたい運命の悲劇という主題があったのだが、はたして源氏物語にそのような悲劇の主題の一つとして藤壺との関係は描かれているのだろうか。また上のような恋愛遍歴ということで言えば、ドンファン伝説が有名だろう。
まぁまだ巻一を読んだだけのことで、なんか判断を下すのは早計なような気もするのでやめておくが、こんな調子で女性遍歴を読んでいくのかと思うと、ちょっと読む気力が落ちる。
(註1)通い婚については、インターネットでちょっと調べただけで、「源氏物語」に描かれているように、という説明が頻出していることが分かる。つまり、平安時代の通い婚の実態を「源氏物語」ほど明確に描き出しているものはないということなのだろう。また逆に言うと「源氏物語」をできるだけ当時の実態に即して読むためには、通い婚などの風習のことを予備知識としてもっていることが必要になる。このあたりのことについては、「恋愛科学研究所」とかいう変なサイトで詳しく紹介している。
今年は「源氏物語」出版から1000年の記念の年らしい。世界に誇る日本文学の一つであるわけだし、一度は読んでおいてもいいと思っていた矢先、図書館の返却棚にあったので、これが潮時だろうと思って、借りてきた。巻十まであるので、まぁ全部読み通すことができなくてもいいかなという程度の気持ちで読まないと続かない。
巻一には光源氏出生のいきさつを記した桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫が収録されている。光源氏17歳から18歳にかけての女性遍歴ということになるのだが、まず平安時代の結婚制度というのがよく分からないので、なぜこうも女を求めて日々暮らしているのか、光源氏が浮気性なのか、それとも位の高い男性は平安時代にはこういうものだったのか、またそれをやすやすと受け入れる女の側もこういうものだったのかどうかがよく分からないので、尻の軽い女たちだと一刀両断にするわけにもいかず、いったい何なんだろうと思い悩む。
まず光源氏はこのときすでに左大臣の娘、葵の上と結婚している。若紫には光源氏がその妻と夜を過ごそうと左大臣邸に行くが、その妻がどうも光源氏と折り合いが悪く、なかなか光源氏の前に姿を見せないとか、夜を過ごすにも打ち解けず、早々に光源氏が帰ってしまうというような場面が描かれている。たしか平安時代には結婚しても夫婦が同居生活をするのではなく、通い婚とか言って、夫婦別居が普通で、夜を過ごしに夫が妻の家に通うというような話を読んだことが記憶の片隅にある。はたしてこれがそうなのだろうか。(註1)
それならそれはそれでいいとしても、光源氏の女に対する対し方は、とても品があるとは思えない。空蝉で描かれる、伊予の介の妻との関係はほとんどレイプである。訳者の寂聴の解説でも「一度は心ならずも源氏に犯されたが」とはっきりとレイプであることを認めている。そして若紫なんかは幼女誘拐である。そしてこれはさらっとしか描かれていないが、帝つまり天皇の妻(しかも源氏の義理の母)である藤壺を妊娠させてしまうのだから、おいおい、こんなことがしょっぱなから描かれている文学を日本の誇る作品なんて世界に自慢できるのかよと思ってしまう。
もちろん世の倫理に反する恋愛はご法度などとばかなことを言うつもりはない。文学ではなんでもありが当たり前だ。ただ恋愛ものにせよ、その必然性がきちんと描きこまれていないければ、読者を納得させることができない。不倫には不倫なりの必然性が描きこまれてしかるべきなのだが、どうも平安時代の倫理は現代のそれとはそうとう違うのか、ただひたすら一目ぼれをした相手をどうにかして手に入れたいという、それだけの性衝動に突き動かされているようにしか見えない。
この点は、訳者の寂聴は、帚木で語り手がこれから書くものは源氏の情事の話につきること、また夕顔では、源氏の恋愛嗜好が「成立しがたい恋、無理な恋、邪魔のある恋、許されぬ恋」にのみ情熱をかきたてられ、「据え膳には全く興味を示さない」と説明している。
かつてギリシャ悲劇ではオイディプスをはじめとして実の母親と婚姻関係になるというような話が題材となることはある。しかしそれには抗いがたい運命の悲劇という主題があったのだが、はたして源氏物語にそのような悲劇の主題の一つとして藤壺との関係は描かれているのだろうか。また上のような恋愛遍歴ということで言えば、ドンファン伝説が有名だろう。
まぁまだ巻一を読んだだけのことで、なんか判断を下すのは早計なような気もするのでやめておくが、こんな調子で女性遍歴を読んでいくのかと思うと、ちょっと読む気力が落ちる。
(註1)通い婚については、インターネットでちょっと調べただけで、「源氏物語」に描かれているように、という説明が頻出していることが分かる。つまり、平安時代の通い婚の実態を「源氏物語」ほど明確に描き出しているものはないということなのだろう。また逆に言うと「源氏物語」をできるだけ当時の実態に即して読むためには、通い婚などの風習のことを予備知識としてもっていることが必要になる。このあたりのことについては、「恋愛科学研究所」とかいう変なサイトで詳しく紹介している。