読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『物語の織物 ペローを読む』

2023年09月24日 | 人文科学系
水野尚『物語の織物 ペローを読む』(彩流社、1997年)

17世紀末から18世紀初めにかけてフランスのルイ14世の宮廷で活動したシャルル・ペローが書いたお話を、いまのような子供向けではなくて、当時の人々がどう読んだかということを主眼にして、とくに文化や風俗の視点、そこで使われているフランス語の視点から解き明かした本で、じつに興味深い内容になっている。

取り上げた物語は「赤ずきんちゃん」、「眠れる森の美女」、「親指小僧」、「サンドリヨン、あるいは小さなガラスの靴」(いわゆるシンデレラ)、「青ひげ」、「猫大将、あるいは長靴をはいた猫」、「妖精たち」、「巻き毛のリケ」である。

私がよく知っているのは「赤ずきんちゃん」「眠れる森の美女」「サンドリヨン」くらいだから、それを中心に読んでみた。

「赤ずきんちゃん」は小さな赤ずきんと大きな狼という対比を強調するように書かれており、子どもたち向けには、家の外に出たら狼のような怖いものたちばかりだから、一人で出歩いてはいけないよ、社会は敵だらけだから、気を引き締めて社会に出なけばいけないよという教訓物語なのだが、性的なコノテーションを持つ言葉を使うことによって、うら若き女性向けに、男はみんな狼みたいなものだから気をつけなさいよという教訓話になっているという。

それをフランス語の使いかたや「小さな赤ずきん」が当時の人々に想起させる「大きな赤ずきん」が若い娘たちに付きそう年配の女性を意味しており、「小さな赤ずきん」という言葉は、監視が行き届かないという意味で使用しているのだと解き明かしてくれる。

しかも昨今のお話になっている「赤ずきんちゃん」のハッピーエンドとはちがって、ペローのコントは狼に食べられておしまいという結論になっていて、これは明らかにうら若き娘が男に食べられたら、もう娘は幸せになれないという教えでもあっただろう。

つぎに「眠れる森の美女」では、いったいどれくらいの期間眠っていたという設定になっているのかと問うて、じつは100年くらいという設定にしてあり、それが当時の人々にもすぐ分かるような17世紀末から100年前、つまりアンリ4世の時代の風俗が分かるような衣装や武器などが描かれているということだ。

眠れる森の美女は「待てば海路の日和あり」という教訓で、結婚を急がなくても待っていればよい男と巡りあえるよということらしい。これに対して、通常のお話では省略されてしまう後半部分は、王子の母親というのが欲望の人として描かれ、「…したい」「…したい」と欲望する人間は恐ろしい破滅が待っていると教えているというのだ。

タイトルだけしか知らなかった「長靴をはいた猫」について読んでみるとこれも興味深い。才気によって人を騙して次々と成り上がっていく猫のことが描かれているという。それはルイ14世の重商主義政策によって没落していく帯剣貴族と商業で巨万の富を手にして貴族になる法服貴族という二つの人間相を表したものとされる。

ペロー自身が同じく商人から成り上がった財務大臣のコルベールに取り立てられた人であり、古代人のほうが優秀であったとする人々に対して近代人(つまり当時の人々)のほうが優秀だとする論陣を張った人物でもあったのだから、当然といえば当然である。

しかしこういう擬人化された物語というのは、やはり普通に読んでいただけではわからないことが多い。それだけでも楽しめる内容ならいいが、それだけでは陳腐な話という印象しかうけない場合には、やはりこのような解説が必要だろう。

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『和声論』

2023年07月10日 | 人文科学系
ラモー『和声論』(翻訳・伊藤友計、音楽之友社、2018年)

近代和声学を確立したことで音楽理論の分野ではつとに有名なジャン=フィリップ・ラモーの最初の理論的著作である『和声論』の本邦初訳である。

18世紀のフランス音楽を研究しようという人にとっては、ラモーのオペラも研究対象としては偉大すぎて、なかなか手に負えないが、ラモーの音楽理論も膨大すぎて二の足を踏む。そのような大きな壁を邦訳という形で引き寄せてくれたのが、この著作である。

ラモーの音楽理論書ということで言うと、

1722年『和声論』
1727年『音楽理論の新学説』
1737年『和声の生成』
1751年『和声原理の証明』

このあたりが必読の書ということになるが、『和声原理の証明』はある意味でラモーの音楽理論の集大成であるし、それまでの試行錯誤がある程度手の中に収められてこなれているし、当時ラモーに共感していたディドロ(あの『百科全書』のディドロ)が執筆に手を貸したということもあって、比較的読みやすい。

しかしラモーの悪文は当時から有名で、実際、原文にあたってみると何が言いたいのかわからないような文章が延々と続くという印象がある。それは文章が下手ということと同時に、ラモーが新しい概念をなんとか文章にしようとして行なった悪戦苦闘の結果であるとも言える。それにしても読みにくいことこの上ない。同じ時代のディドロやダランベールやルソーなんかと読み比べてみるとそれがよくわかる。とくにダランベールがラモー理論をわかりやすく解説した『ラモー氏の原理に基づく音楽理論と実践の基礎』(邦訳あり)と比べるといい。

そういうわけなので、それが日本語で読むことができるというのはこの上ない僥倖であるだろう。しかしこの訳本をちょっでも読んでみると、それを手放しで喜んでいられないことがわかる。なんと言っても訳語の問題がある。

訳語には日本語にそのような概念がないので、日本語にしにくい場合がある。そういう場合にどうするかは訳者の腕の見せどころなんだろうが、これがなかなかたいへんだ。だからちょっと読んでみただけでも、この訳者がたいへんな苦労をしていることがわかる。いくつか挙げてみる。

まずbasse-fondamentale, son fondamentalという語である。この語はラモーの音楽理論を理解するうえで、キーワード中のキーワードであると言える。通常では「根音バス」と「根音」と訳すところだが、この訳者は「基礎バス」「基礎音」と訳している。

たぶん訳者は「根音バス」という訳語が新しいもので、18世紀のフランスではそのような概念がなかったと思っているようだ。(例えば、18世紀のimageという語を現代風に「イメージ」と訳するのは間違っているのと同じ)。しかし日本人の誰が「根音バス」という訳語を最初に使ったのか私は知らないが、たぶんこの人は英語のrootには「根」という意味があるから、「根音」という語を使ったのだと思う。

rootという語は音楽用語としても決して新しいものではなくて、英語では1618年にThomas CAMPIONがA New Way of Making Fowre Parts in Counterpointで使用したのが最初とされていて、もちろんラモーは『和声論』でそれにもっと重要な意味付けをしたわけだが、彼の時代からすでにfondamentalにrootの意味があったのだから、「根音バス」とか「根音」という訳語をラモーの文章に用いることに何の問題もないと思うが、この訳者は「基礎バス」「基礎音」と訳している。

もう一つ訳語の問題を挙げると、sous-entendreとsupposerである。これはラモーの和声理論で初めて概念化された独特の用語なのだが、この訳者はこれを「下に聞く」「下に置く」と訳している。sous-entendreとはラモー自身が『和声論』の用語一覧で説明している文をそのまま使うと、次の通りである。

「暗黙のうちに聞こえる(鳴らす)
音楽では「sous-entendre暗黙のうちに聞こえる(鳴らす)」と「supposer仮定する」という用語はほぼ同義語とみなされている。だがそれらの意味は互いにはっきりと異なる意味を持っている。「暗黙のうちに聞こえる(鳴らす)」という語によってそれが適用される諸音は実際にはそれらが存在しない和音の中に聞こえるということを知っておかなければならない。根音については、それが「暗黙のうちに鳴らされる」という場合には、それが他の諸音の下方に聞こえると考えなければならない。「仮定する」という語によって、それが適用される諸音は、実際には存在しないか、その前後のいずれかに存在する他の音を仮定するということを知っておかなければならない。しかし根音については、それは仮定による和音に私たちが定数外と呼ぶ音のすぐ上方に置かれなければならないと考えなければならない。Supposerを見よ。したがって私たちがここで根音にこれらの用語のそれぞれを正確に適用することによって、それらの真の意味は文字通りに実現されることになる。」(p.xxj)

ラモー自身がこの中で「それが適用される諸音は実際にはそれらが存在しない和音の中に聞こえる」と説明している。つまり実際には存在しないのだが、暗黙のうちに鳴らされていると想定するということである。「仮定する」も存在しない音を想定することでは似ているが、違うのは「その前後のいずれかに存在する他の音を仮定する」ことができるということである。しかも「私たちが定数外と呼ぶ音のすぐ上方に置かれなければならない」と書いているように、必ずしも「下に置く」とは限らない。

この訳者はsous-entendreのsousやsupposerのsuがsous、つまり「…の下に」という意味だからと「下に聞く」とか「下に置く」と訳している。

その他、重要な語としてchantとmodulationがある。chantは普通なら「歌」と訳せるのだが、mettre les paroles en chant (en musique)という形で使われることもある。この場合、明らかに歌詞テキストに作曲する(=音楽を付ける、曲を付ける)という意味であるが、この訳者はchantを一貫して「歌謡」と訳している。「歌」とか「歌謡」という訳は、歌詞と音楽が一体化した状態を意味するので、上記の仏文は「歌詞に歌謡を付ける」となってしまう。「歌詞に曲(音楽)を付ける」でよい。modulationの「横並び」という訳も苦心の結果だとは思うが、「音の動き」と訳すほうがいい。

訳者の苦労は相当のものだったと思うのだが、「これはいい訳だ」、「なるほどこう訳したか、わかりやすい訳だ」と思う箇所もたくさんあって、全体としてみれば、今後の研究者にとって参考になるところがたくさんある。

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『踊るバロック』

2023年07月02日 | 人文科学系
赤塚健太郎『踊るバロック』(アルテスパブリッシング、2021年)

「バッハの舞曲は本当に踊れるのか?」というキャッチーな解説文のせいで、前々から気になっていた本で、地元の図書館にはなかったので、わざわざ大阪府立図書館から取り寄せて読んでみたのだが、結論から言うと、面白くもなんともない本だった。買わなくてよかった。

当たり前といえば当たり前なのだが、バッハの舞曲をバッハ自身が踊られることを前提に書いたのかどうかは、バッハが何も言及していないので、なんとも言えないということだし、現代人が振り付けをして踊っても、どんな音楽でもそれは可能なのだから、バッハの舞曲が踊れることの証拠にはならないというし、結局、どうとでも言えるということのようだ。

ただ、踊れることを前提に書いていなくても、舞踏としての特徴―例えばメヌエットの独特のリズム―などが舞曲に反映されている、取り込まれているのは事実らしく、しかしそれは著者も書いているように、すでに服部幸三が「様式化」という言葉で指摘しているのはよく知られているし、わかりやすい説明なのだが、それもこの著者は否定的である。

そして専門的という第三章のクーラントと第四章のメヌエットの章を読んでみたのだが、運弓の話ばかりで、なんか面白くもなんともないというのが私の印象であった。確かに専門的な内容なので、専門家にはおもしろいのかもしれないが。

上にも書いたがあまりにキャッチーな文句に期待をしすぎたのかもしれない。

まぁこの点は著者自身も自覚をしているのか、「はじめに」で「本書を読んでもバロック舞曲の演奏が即座に上達することはない。むしろバロック舞曲のしかるべき演奏とはどのようなものかということについて、さらに疑問を深めることになるだろう。(…)」と記している。

最後にフランス語の読みのことで疑問に感じたのは、Rameauを「ラモー」ではなくて「ラモ」と表記していることだ。フランス語のeauは三つのアルファベットがあるからと言って、長音節になるわけではないので、Ramoと書いてあるのと発音は同じだという考えから、「ラモ」としたのなら、coulanteも「クーラント」ではなくて「クラント」とすべきではなかったのかと思う。Rameauの場合は、フランス語では最終音節にアクセントが来て、その場合に多少長く読むので、「ラモー」と表記するのが正しい。

こういう人名や用語の日本語表記はある程度日本語として定着したものを使用するしかない(そうしなかったら、何を言っているのかわからなくなるから)。そういう意味では普通に「ラモー」と表記すればよかったのではないかと思うのだが。

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『変動する大学入試』

2023年06月06日 | 人文科学系
伊藤実歩子編『変動する大学入試』(大修館書店、2020年)

フランスの大学入試のバカロレアを含むヨーロッパと日本における大学入試の変化している様子をそれぞれの専門家が分析した著作である。

ヨーロッパ諸国の大学入試の問題点がまとめられているが、昨日の本と同じ坂本尚志という人がフランスのバカロレアの現在を分析している。

フランスでは大学入試を資格試験として、中等教育で一定の学力を獲得しているかどうかを測る物差しとして機能している。したがって競争試験ではないので、基準をクリアした人が合格となり、ほぼ国立だけの大学を自分で選んで入学することができる。

しかし大学の大衆化によって、いろんな問題点が生じた。例えば、定員というものがないフランスの大学では、人気の大学に多数の学生が集中し、教室にもあふれるような状態になった。きめ細かい教育などできるはずもなく、結果的に、大学の授業についていけないで、半分くらいしか進級できないという。

実際、1968年のフランスの大学生の5月革命と呼ばれる事件はまさに急激に進んだ大学の大衆化(つまり合格率の急上昇)によって大学生の数が増えすぎて、大学側のキャパがそれに対応できないことが原因の一つであったのだから、半世紀以上も放置されてきたわけだ。

その改革がやっと動き出して、2019年から、予め(まだバカロレアも済んでいない段階で)高校生が希望をだして、人数を大学側が調整するというシステムが導入された。そうすることで、大学入学希望者を60校くらいある全国の大学にまんべんなく振り分けようというのだが、それでもいろんな問題が起きているという。

普通に考えれば、資格試験としてのバカロレアは残して、その上で、さらに大学が適正な定員程度の学生を選抜する方式を作ればいいのではないのか、と素人考えで思うのだが、どうなんだろうか。バカロレアという制度、フランスの高等教育にせよ、就職活動にせよ、あらゆることの出発点になっている制度を維持する方向で改革が進めばいいのだが。

この論文集には、フランスにおけるエリート養成機関であるグランド・ゼコールについての現状報告も同じく坂本尚志が書いている。こちらも制度の歴史、現状、問題点などがまとめてあって興味深い。

このグランド・ゼコールについてはこちらも興味深い

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『土偶を読む』

2023年05月07日 | 人文科学系
竹倉史人『土偶を読む』(晶文社、2021年)

人類学者による土偶研究の本として結構知られているようだ(第43回サントリー学芸賞を受賞したとある)。最近、土偶の専門家たち(じつは自分から土偶の専門家と名乗っている人はいないと、本書には書かれている。専門家なんて言うと、土偶は何を意味しているのとか、彼らに答えられない質問があちこちから飛んでくるかららしい)から批判の本『土偶を読むを読む』(2023年4月、文学通信)という本が出版されたので、また話題になっているらしい。

私もまったく専門外だが、ある人のツイッターで『土偶を読むを読む』を読んだというのを読んで、それの元になっている本書が図書館にあったので借りて読んだら、めっぽう面白い。

結論から言うと、ハート型土偶はオニグルミ、中空土偶はクリ、椎塚土偶はハマグリ、ミミズク土偶はイタボガキ、縄文のビーナス(カモメライン土偶)はトチノミ、刺突文土偶はヒエ、遮光器土偶はサトイモをモチーフに縄文人が造形したという。

縄文時代は弥生時代と違ってまだ稲作が登場していないので、狩猟生活というように説明されているが、もちろん狩猟もやっていただろうが、だからといって定住していなかったわけではなくて、三内丸山遺跡のように大規模な集落跡も見つかっているように定住していた。

当然、上のような植物や貝類を季節にあわせて常食しており、それの収穫が集落の生存を左右することになっただろうから、それらが充分に収穫できるように、祈願するために土偶が用いられたという著者の仮説は道理がある。

私も最初にこの本のカバー写真(中空土偶=どんぐりの写真)を見て、冗談でしょうと思ったのだが、読んでみると、しっかりした調査・研究・推論の上にこの仮説が成り立っており、「なるほどなー」と唸らせられた。

途中に固苦しい記述もあるが、人類学者であり、土偶にはまったく興味がなかった著者がなぜ土偶に興味を持つに至ったかから始まる箇所は、体験談でも読むような親しみ感があって、どんどん惹きつけられる(この箇所は、飛ばしてもいいと書いてあったが、読んだほうが興味がわいてよい)。だからあっという間に読み終えた。(まぁ専門家でもなければ、固苦しい箇所はすっ飛ばしてもいいと私は思うし。)

最近では世界的な人気も出ている日本の土偶がいったい何を表し、何に使われていたのかということの研究がまったく進んでいないということだが、この著者によると、土偶研究の初期に遮光器土偶のあの目の部分が光を遮るゴーグルだと言った偉い研究者がいたのだが、それが完全に否定されたために、考古学者たちには土偶研究が一種のトラウマというか、タブーみたいなものになっていたことに原因があるらしい。

それに考古学会は、例の「神の手」事件(行く先々で次々定説を翻すような時代の石器を掘り出した考古学者がいたが、じつは完全に捏造―自分で埋めていた―だったという事件)があったしね。専門家たちがきちんとやらないからこういうことになるんだろうね。

本書が考古学の専門家以外の人に書けたのは、1.考古学会による実証的な研究がしっかりなされている(食べ物の分布や土偶の分布など)、2.あと足りないのは人類学的な象徴体系の知識と発想(まさに著者がこれの専門だった)ということにあると思う。つまり本書は偶然の産物ではなくて、書くべき人が書いた、書かれるべくして書かれた考えるべきだろうな。

本書を批判する『土偶を読むを読む』も読んでみたいけど、「素晴らしいのはデザインだけで、正直なところ内容には極めて失望しました」なんてレビューもあるしね。

後日談
『土偶を読むを読む』も図書館から借りて読んでみたが、まったく面白くないので、ここに取り上げることはしない。

旧石器時代遺跡捏造事件に触れた竹岡俊樹『旧石器時代人の歴史』についての私のレビューはこちら

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『朝鮮王妃殺害と日本人』

2022年10月24日 | 人文科学系
金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』(高文研、2009年)

副題に「誰が仕組んで、誰が実行したのか」とある。

日本が朝鮮にたいしてしたことは、他人の家に土足で入り込んできて、「お前たちは遅れている。俺たちが新しくしてやる」とか言って、好き勝手なことをしたり、意に従わない家族を殺したりしたようなものだ。

タイトルどおり、李朝朝鮮の最後の王妃である閔妃を誰が殺害したのかを追求した本である。

興味深いのは一般に閔妃の写真として知られている写真が、どうやら朝鮮宮女の写真であって、王妃のものではないらしいということである。そもそも宮廷内でさえも王妃の顔を知っている者はほとんどいなかったらしいし、王宮を占拠して国王を自由に操った井上馨でさえも、知らなかったらしい。

この本に出てくるが、高いところにある椅子に座った国王の後ろにある衝立の裏にいて、国王のすぐ後ろに空けられた小さな穴から王妃が国王にあれこれ指示していたらしい。

だから、先ほどここでも書いた韓国ドラマでは井上馨公使が国王と王妃と対面している場面が出てくるが、どうもこれはあり得なかったことのようだ。

この事件は、この本の最後にまとめられているように、通信連絡網として最先端であった電信線を支配しようとする日本に対して、表向き独立させられた朝鮮の主権を主張する閔妃を排除しなければならないと考えた大本営によって仕組まれ、実行のために送られた三浦という公使と軍隊によって実行されたということのようだ。

当時の軍事侵攻において電信線がいかに重要なインフラだったのかということがわからなければ理解できないだろう。

著者は、日本在住で日本語しかできないが、それが自分の強みでもあるとして、詳細に文献を渉猟して、事実を炙り出した。その執念のようなものに脱帽である。

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『ロラン・バルト』

2022年08月08日 | 人文科学系
石川美子『ロラン・バルト』(中公新書、2015年)



ロラン・バルト生誕100年という節目に出版された評伝である。

ロラン・バルトとといえば、私が大学院生から、研究者として駆け出しのころに、流行った記号論的文体論なんかのトップランナー。私のような世間知らずでも『零度のエクリチュール』だの『S/Z』だの『ラシーヌ論』などを読んだものだ。

これらの多くは忘れてしまったけど、今でも記憶に残っているのは、バカンス中でTシャツに短パンのバルトが明るい部屋で、小さな机に向かって執筆をしている写真で、南仏あたりで休暇中でも執筆をしているんだなと、私もどこか海辺のセカンドハウスにでも滞在して、本でも書けるようになりたいものだと思ったのを思い出す。

この本を読むと、父親の家系の家がスペイン国境近くで、大西洋の海辺の町バイヨンヌにあって、少年時代をそこで過ごし、毎年のようにバカンスを過ごしていたというから、このバイヨンヌか、その後に滞在するようになったユルトでの写真だったのだろう。

一昔まえによく言われた京大式カードのようなものを作った先駆者のようで、そうしたカードをもっていって執筆していたのかもしれないな。まぁ私の場合は京大式カードを作りかけてはみたものの、まったく続かず、その後はパソコンが利用できるようになったので、今ではパソコンがなければ研究にならない。

断片的なことしか知らなかったバルトのことがひと通り理解できるようになっている、よい評伝だと思う。

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『編集者ディドロ』

2022年05月14日 | 人文科学系
鷲見洋一『編集者ディドロ』(平凡社、2022年)

鷲見洋一さんの『編集者ディドロ』が出版された。日本における『百科全書』研究の第一人者である鷲見洋一さんは、このブログでも何回か取り上げたが、『百科全書』関係の本はあまり書いてこなかった。それが初めて縦横無尽に論じた本が出たのだ。それも895頁という大部の本だ。

私の過去のブログ
『いま・ここのポリフォニー』について
『『百科全書』と世界図絵』について

この本の目次は以下のようになっている。
第一章 『百科全書』前史
第二章 『百科全書』刊行史
第三章 編集者ディドロの生涯
第四章 商業出版企画としての『百科全書』
第五章 『百科全書』編集作業の現場
第六章 「結社」の仲間さまざま
第七章 協力者の思想と編集長の思想
第八章 図版の世界
第九章 身体知のなかの図版

です・ます調で書かれているので、読みやすい。また注もいっさいないのは、はやり判断の分かれるところだろう。私としては、いちいち本文に注を付けるのは大変だとは思うのだが、参考文献リストは欲しかった。でも注がないぶん、書きやすかっただろうとは思う。

だから、補遺版として、参考文献リストを解説を付けて、本にしてくれたら、これから『百科全書』を研究しようという若手のためにもなるのではないだろうか。お願いしたい。

とにかく、あとがきでもあるように、これだけの研究をシてきた人なので、なにかのきっかけが必要だったはずで、それが編集長としてのディドロについて書いてもらえないかという出版社の編集者からの誘いだっという。

たぶんこれだけ書いてもきっと書き足りないという思いが著者にはあるのではないだろうか。元気なうちにまた違う視点から書いてもらいたいものだ。

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『オーケストラの文明史』

2022年02月09日 | 人文科学系
小宮正安『オーケストラの文明史』(春秋社、2011年)

今日ではオーケストラと言えば、編成の大小を問わず交響楽団とか管弦楽団のことを指すが、もともと古代ギリシャでは、円形劇場の舞台と客席のあいだの空間のことで、そこに合唱団がいたり、そこでダンスを踊ったりしたものが、中世からは高貴な人が陣取る場所となり、近代初期になって今日のように演奏家集団がオペラなどのために音楽を演奏する場所になり、そこから演奏家集団のことを指すようになったという歴史的な経緯を、宗教音楽も含めて、音楽の捉え方や音楽の変化なども織り交ぜて、明らかにしたのが、この本である。

そういう意味で、音楽史の本は多数あるが、ちょっと変わった視点から見ることで、新しい発見もあるというような本だ。

私にとって興味深かったのは、ディドロとダランベールが編集をした『百科全書』の項目《オーケストラ》では、今日のような演奏家集団としてのオーケストラという意味の説明がないというのである。そしてこの著者によれば、そのような意味での説明を初めてしたのが、ルソーの『音楽辞典』だというので驚きだった。

早速調べてみたら、確かに『百科全書』の項目《オーケストラ》は、上に書いたようなORCHESTREという語の歴史的な経緯が書いてあるが、あくまでも場所(建築上の)の意味の説明しかしていない。この項目の最後に近代ではオペラ劇場などの舞台と客席のあいだの演奏家たちが陣取る場所がオーケストラと呼ばれるとは書いているが、その演奏家集団のこともオーケストラと呼ぶとは説明していない。

ついでに書いておくと、著者の小宮正安はこの項目の執筆者をディドロだと書いているが、実はジョクールである。

この項目を収録する巻が出版されたのは1766年だが、この翌々年の1768年に出版されたルソーの『音楽辞典』では演奏家集団のことをオーケストラと呼ぶと説明している。

しかしさらにいろいろ調べてみたら、ルソーの『音楽辞典』を待つまでもなく、早くは1690年代からパリの縁日芝居などで上演されていたオペラ・コミックなどでは演奏家集団のことをオーケストラと呼んでいるし、18世紀も中頃になると普通に使われている。ルソーやグリムたちも1752年にはすでに使用している。プチ・ロベールという仏仏辞典では、1750年頃となっている。

ところが同じ1752年に出版されたジャック・ラコンブの『携帯美学辞典』では項目《オーケストラ》に演奏家集団の意味はなくて、相変わらずジョクールが書いたのと同じようなオペラ劇場内部での場所の意味でしか説明していない。

一般に使用されているのに、辞典と称する書物には定義として掲載されないというのは、どういうことだろうか?

これは私の素人考えだが、オーケストラという場所を専有する人々である演奏家集団の意味に使うこの使い方は、ホワイトハウスという建築物を専有する大統領政府の意味で使用するのと同じ換喩という比喩法による使い方である。たぶんホワイトハウスのこの意味もあちこちで使用されるようになってからやっと辞書に掲載されるようになったのだろうし、これと同じように、1750年代には演奏家集団としてのオーケストラという使い方は一般的になっていたが、正式の辞典に掲載するのはためらわれたのだろう。実際、フランス・アカデミー辞典では1798年版になって初めて掲載されている。(ただ気になるのは上に書いたプチ・ロベールが何を根拠に1750年頃としているのかということだ。)

ルソーは新しいフランス音楽をリードしているという自負もあったし、自分は音楽のことをよく知っているということを『音楽辞典』の出版を通して世間に認知させたかったので、初めて演奏家集団としてのオーケストラという定義を載せたのだろうと思う。

いろいろ興味深いところの多い本であった。

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『謎とき「失われた時を求めて」』

2022年02月03日 | 人文科学系
芳川泰久『謎とき「失われた時を求めて」』(新潮社、2015年)

何度か読み始めて挫折を繰り返している小説にプルーストの『失われた時を求めて』がある、という人は多いだろうと思う。

私は何度かではなくて2回だけなので、偉そうなことは言えない。しかし井上究一郎の全訳を揃えて持っていたのに、一時の癇癪で、売り飛ばしてしまった。(情けなや)

しかし近年プルーストのこの小説への評価は高まっているようだ。この本にも記されているとおり、翻訳の数では英語版を抜いて世界一になっている。しかも個人による全訳である。

日本語が滅びるのではないかという水村美苗の心配にもかかわらず、これだけの翻訳が出ているということは、少なくとも人文系においては日本語も負けてはいない。

さてこの本の内容だが、さすがに『失われた時を求めて』を読んでいないのだから、「謎解き」というわけにはいかなかったが、少なくとも作者プルーストへの先入観が取れた。ただの高尚気取りの没落貴族(プルーストは貴族ではないが)くらいに思っていたのだが、その実、優れた文芸批評家であったことは、意外だった。当時、大御所と言われていたサント・ブーブを批判した。

それと私もなんとなく予感はしていたのだが、印象派絵画との関係もここに明らかにされている。

少なくともまた『失われた時を求めて』を読んでみようかという気にさせてくれただけでもよしとしよう。

『謎とき「失われた時を求めて」』』(新潮選書)へはこちらをクリック

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