読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「幸福御礼」

2006年03月31日 | 作家ハ行
林真理子『幸福御礼』(朝日新聞社、1996年)

さっそく林真理子の『不機嫌な果実』とは毛色のちがう小説を読んでみました。東京の郊外で英語教室をしている由香を主人公として、彼女の夫の大鷹志郎が郷里の河童市の市長選挙に出て落選するまでの顛末を、由香の視点から描いた小説である。30になったばかりの夫もちの女性の視点ということでは変わりないが、今度は愛とか恋とか不倫といったことがテーマではなく、市長を長年やってきた叔父の跡をついで市長選挙にうってでる夫との関係、長年市長を出してきた家柄をかさにきる姑の春子との関係、そして由香自身が河童市の若い女性を組織して後援会組織をつくっていく過程を描くなど、たんに姑との軋轢に不満を口にさせていただけの『不機嫌な果実』とはちがって、由香に積極的な行動にうって出させている。

たしかに小説の技法も語り手と主人公の関係も別のものになっているから、決して林真理子はばかではないということが分かった。やはり一作だけで判断してはいけないなと思う。会話のテンポもよく、構成もよくできているし、保守的な陣営の選挙の裏側のようなものも見ることができて、一気に読んでしまったから、できのいいほうに入るのだと思う。選挙が描かれているということで、ちょうどすこし前に読んだ重松清の『いとしのイナゴン』と比較して読んでしまった。

でどちらがいいと聞かれれば、私は重松清のほうに手を上げる。それは小説の上手さの問題ではなくて、誰の視点から選挙を描いているか、どんな選挙を描いているかというところにある。林真理子のほうは保守の選挙、なんのために選挙やっているのかなどは問題にならないで、これまでの地盤を引き継ぐためにやっている選挙、だから最後にはお金を配って回るということまでもするような選挙であって、河童市の未来とか市民の生活とかといったビジョンなどまったく問題にならないような選挙が描かれている。それに対して、重松清のほうは、過疎でさびれていく比奈町をどやって立て直していくのか、町民の暮らしをどうやって守っていくのかという切実な問題がヒナゴンで町おこしという(これ自体は非現実的なものだが)ことと結びつけて選挙を戦おうとする人たちの視点で描かれている。だから、林真理子の小説からはなにも得るものがなかったが、重松清の小説からは感動を得た。

だから(二人はなにも競っているわけではないけど)私は重松に軍配を上げるよ。

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「双生児」

2006年03月30日 | 映画
塚本晋也『双生児』

GyaOで塚本晋也の『双生児』を見ました。ずいぶん以前のことですが、映画評論の雑誌をよく見ていた頃、この塚本晋也という人の映画についての評論は群を抜いて異質なものが多かったので、いったいどんな映画を創る人なんだろうと興味があったのですが、どこで上映しているのか知らなかったので、見ることができなかった。GyaOでやっていたので「ホホー、こんなのやってるのか」と驚きつつ、見てみました。

本木君とりょうさん、いいですね。あの眉なしメイクも塚本晋也が考え出したのでしょうか。不気味で、江戸川乱歩の世界をもうこれだけで表現しているようでなんともいえませんね。ただ残念なのは、冒頭からこの眉なし人間たちの世界だし、本木君にしてもりょうさんにしてもあの不気味な雰囲気で始まるので、肝心の双生児の兄のほう(?)が登場してからの、わけの分からない世界―本木君がりんの前でほんとは捨吉なのに雪雄のふりをしたり、また捨吉にもどったりするところや、雪雄をカラ井戸に閉じ込めてしまってからの雪雄の変貌ぶり―を描く時点で一番不気味にならなければならないのに、なんか冒頭の強烈な不気味さのために、なんだか慣れてしまって、恐怖感が沸いてこないことですね。それに雪雄があれほどの憎悪をこめて口にした貧民窟というもの―おそらく貧民窟への雪雄の憎悪がこの作品を成り立たせていると思うのですよね―が、意外になんだか楽しそうなところに描かれているので、まったくおぞましい感が沸いてこないので、見ていて困りました。なんか作品のつくりが失敗だったのではと思います。

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「いとしのヒナゴン」

2006年03月29日 | 作家サ行
重松清『いとしのヒナゴン』(文芸春秋、2004年)

小説の醍醐味といえるような感慨を味わわせてくれる小説である。まず語りがいい。東京の私大を出て3年目でコピーライターをめざして養成学校にいっているがうだつがあがらないで、そろそろ故郷に帰りたくもあり、しかし田舎の因習とか付き合いとかにうんざりしている信子が、ヒナゴンという人間でもサルでもない未確認動物の出現にわく広島県(?)の比奈町役場の類人猿課の職員となり、ヒナゴン探索と、備北市との合併にからむ前町長と現町長との確執から町長の辞任・町長選、そしてヒナゴンの出現へとなだれ込む、一連の騒動の顛末を、コピーライター養成学校の課題として書いたという設定になっている。したがって、信子が直接立ち会っていない出来事はそこにいた人に取材して書いたということになるのだろう。この信子が、コピーライター志望というだけあって、文章がうまい。結構、関西芸人のような、きついツッコミも言うし、酒が入ると、絡むという癖もあって、面白い人物として設定されている。

そして比奈北小の五年生を担当している熱血漢のジュンペと、早稲田を出て有名企業に就職が内定していたが交通事故のために取り消され、比奈町の教育委員会に努めているちょっとクールな西野(この二人は信子の同級生)。もと暴走族で数々の伝説を残す現町長のイッちゃん、そのもと手下で、現在は町役場の総務課長のドベさん(いつも神経性胃炎で下痢をしている)、信子の両親、なぎなた師範をしている信子のおばあちゃん、ヒナゴン出現の情報にトクダネを期待してやってきた「週刊文鳥」の坂本美穂などなど。

一人一人の人物造形がじつに明確で面白い。信子はしっかりしているようでおっちょこちょいで、自分の人生の方向性を決めかねており、比奈町の人間関係にはうんざりしているけれどもその自然の移り変わりを堪能している。熱血漢のジュンペは教育について熱く語るが、教師になってまだ2年目であり、まだまだ思うような実践ができていない。クールな西野君は、仕事と自分の考えをきちんと分けて考えられる人間であり、裏では備北市の片山市長を師と仰いで、合併推進派として動いているが、最後には比奈町の現実をよく知っているだけに、町のことを考え、町長選に立候補する。町長のイッちゃんは元暴走族だが、そのリーダーとしてまわりの人間をまとめることに長けており、また男の意地を見せて最後の最後に町民のための大決断をして、立候補を取りやめ、西野君を応援して、町長に当選させる。

町長選告示直前の三つ巴状態のなかで開かれた時局講演会にいたる混乱とクライマックスの描写はじつにテンポが良くて、ぐいぐいと私を引き込んでくれた。現実にはありえないヒナゴンの話であるが、それを縦糸にして、中国地方の郡部の現状や平成の大合併と言われるものの実態を絡めながら、まさにエンターテイメントと呼べるような作品を書いた重松清に拍手を送りたい。

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「不機嫌な果実」

2006年03月28日 | 作家ハ行
林真理子『不機嫌な果実』(文芸春秋、1996年)

以前、「週刊文春」に掲載してあるのを見たことがあったと思うが、もう10年も前のことだと分かったときには、いまさらながら時のたつのが速いことに驚く。ある知人によると50代になると長いということらしいが、私の40代は速かった、ように思う。なにもなかったからではなく、あれこれあったからだ。感情の浮き沈みも激しかった。

さて、林真理子の「不機嫌な果実」。これを読み出してすぐに私は林真理子ってばかじゃないの、と思った。日本的私小説では、語り手と主人公が同一人物であるだけでなく、作者とも同一であるということになっているから、語り手と主人公がほぼぴったりくっついており、しかも、主人公が(美人かどうかは別として)ほぼ作家と似たような年恰好に描かれていると、ついつい主人公を作家と同一と見なしてしまうことになりやすい。この小説の場合がそうで、私は麻也子の価値観や人生観を林真理子のそれと思いながら読んでしまい、それで林真理子ってばかかと思い込んでしまったのだった。というのは麻也子の思考回路がまったく凡俗で自己中で外見や世間体だけを問題にするような価値観にもとづいているので、作者の林真理子がこんな価値観の持ち主だとしたら、こいつばかかと思ったのだ。この小説は、麻也子の思考回路を事細かく説明しながら進行する。たとえば一つのセリフを言ったあと、語り手はなぜ麻也子がこんなことを口にしたのかをながながと説明するし、あるいはそうした彼女の頭の中の思考を披瀝した後にポンと彼女のセリフが書かれるので、彼女の会話や行動の裏にある価値観がよく分かるようになっている。語り手はけっしてそこから一歩身を引いてさらに客観的に麻也子の言動や価値観を見るようなことはしないので、作者―語り手―麻也子が一体になっているような印象を与えるのだ。

ところが、麻也子が音楽評論家の通彦と知り合って、彼にのめりこみ、彼から勉強のためにローマに移住するから一緒に行こうと誘われ、離婚を勧められ、あれこれ動揺するあたりから、そして漱石の名前が出てきたあたりから、もしかして林真理子はわざとこういう日本的私小説風の手法を使っているのかもしれない、漱石が『明暗』で主人公たちの思考を語り手が事細かに説明する手法を使ったのと同じ手法を使っているのかもしれないと思うようになってきた。わざとお馬鹿を装っているのだろうか、と思うようになってきたのだ。これを確かめるには、まったく毛色の変わった作品を読んでみるしかないだろうな。

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天野街道

2006年03月27日 | 日々の雑感
なんだか春めいた好い天気のなか、かみさんと二人で天野街道を歩きに行った。今回は終点の天野山金剛寺まで歩くつもりで、おにぎりとお茶をもって、早くから出発した。前半は山々の稜線の道で、雑木林のなかを歩くので、すごく快適であったが、狭山霊園を過ぎたあたりから、里のなかをあるくコースになり、場所によっては民家のあいだを歩いたり、杉林のなかをとおるコースなので、あまり面白味がなかった。とくに後半になるといわゆる里の田圃や畑の広がるコースで、以前ならそれこそ田舎の雰囲気が満喫できただろうが、最近の里は産業廃棄物は捨ててあるわ、ビニールハウスがあちこちあるわで、歩いていてもあまり楽しいものではなかった。三時間くらい歩いて天野山金剛寺についた。

この寺は創建が792年くらいで古い寺のようだ。しかも金堂とか多宝塔などの建物は1200年前後のものらしいが、創建時のままのようで、味わいのある建物が多かった。多宝塔の一部は豊臣秀頼が改修をしたらしく、そうした刻印の残っているところもあった。屋根なども、詳しいことは分からないが、優美な曲線をもっており、瓦ではなく、かやぶきのような屋根でこうした曲線を出すのは相当の技術力が必要だったのではないかと思われる。しだれ桜が有名な寺のようで何本もあったが、なかでも門のそばにある桜はなかなか立派なものだった。残念ながらまだつぼみで、花を楽しむことはできなかった。満開の頃は相当の人出になるのだろう。わりとこじんまりとした寺ながら、門には増長天立像ともう一体の立像(なんだったか思い出せない)が安置されていました。

ちょっとインターネットで調べていたら、京都の寺の庭にも劣らないような立派な庭があると感心している人がいたが、行く前にこうした情報をつかんでおけばよかったな。まぁまた今度の楽しみということにしておこう。

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「イッツ・オンリー・トーク」

2006年03月26日 | 作家ア行
絲山秋子『イッツ・オンリー・トーク』(文芸春秋、2004年)

私は芥川賞を受賞したからといってすぐその作家の作品を読んでみようという気になる人間ではないのだが、去年受賞したばかりのこの作家を読んでみようという気になったのは、つい最近の朝日新聞の日曜版で彼女の紹介があって、そのなかでこの人がすごく言語中枢の発達した人だということが分かったからだ。彼女は早稲田大学を卒業後INAXに入社し、総合職として各地の営業所を転々とした。それぞれの営業所でその地方の方言を覚えたらしいが、それが半端ではなく、いわゆる方言ネイティブよりも上手な方言つかいになるほどだったらしい。もちろん彼女が各地の営業所で方言を覚えたのは、そのほうが人間関係が円滑になるということに気づいたかららしいが、私が注目したのはそれを可能にした彼女の発達した言語中枢である。こんなに発達した言語中枢をもち、言葉に対して敏感で、かつそれを自由に操れる人の書く文章ってどんなんだろうと興味をもった。これが私に絲山秋子の小説を読んでみたいという気にさせたのだ。

受賞作は「沖で待つ」という作品らしいが、見当たらないので文学界新人賞を受賞したという『イッツ・オンリー・トーク』を読んでみた。作者を思わせる躁鬱病を病んで会社を辞めて、蒲田に住みながら、絵を描いている「私」(優子)を中心に、故郷の福岡でいい年をしながらヒモだったのに、女に捨てられた従兄の祥一、都会議員をしている大学時代の友人の本間、インターネットで知り合った前科五犯のやくざ安田、「私」と合意の上で痴漢をする痴漢男などなど、毛色の変わった登場人物が出てくる。冒頭で優子が駅頭演説をしている本間と出会いから始まり、本間の選挙活動を経て(従兄の祥一が彼の選挙事務所にボランティアとして手伝いに行く)、当選するまでの時間軸で話が進行している。

どうも私はこのような短編小説のよさというものに不感症なのかもしれない。もちろん躁鬱病を病んで会社を辞めた女性の視点から描かれているわけだから、そうした無気力で、どことなく「普通の」ものの感じ方ではない世界、それでいてお馬鹿な人間たちをも「無気力」に抱擁してしまう女性の世界がそれにぴったりする文体によって描かれているわけで、だれでも書けるものではないレベルにあることは分かるのだが、読後になんにも感じないのだ。素晴らしいとも下らないとも感じない。時間の無駄をしたくらいの印象しかないから、やはり不感症なのかもと、思うのだ。

これがけっして絲山秋子の文体ではないことは同じ本に収録された「第七障害」という短編を読んでみればよく分かる。これはまったく文体も雰囲気も違う。友人の紹介で始めた乗馬にのめりこみ、乗馬大会に出場するほどの腕前をあげた順子がある大会の最後の障害である第七障害で人馬転といって、ともに転倒する事故を起こし、自分だけでなく馬のほうも骨折して、その馬を安楽死させてしまい、それがトラウマになっていたが、女友達や、乗馬でのライバルだった篤たちとの交流の中で立ち直るという話なのだが、こちらは、そうしたテーマによくあるほのぼのとした読後感を得させる短編である。

いずれにしても、異常なまでに言語中枢の発達した作家(おそらく彼女は外国語を勉強すれば十数ヶ国語を喋るようになると思う)の小説!に過大な期待をかけすぎたのかもしれない。まぁ別に絲山秋子さんのせいじゃないですよ!

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「風の歌を聴け」

2006年03月25日 | 作家マ行
村上春樹『風の歌を聴け』(講談社、1979年)

私が『ノルウェーの森』『海辺のカフカ』『スプートニクの恋人』を読んで、同じような主題ばかりで飽きてきたとこのブログで書いたところ、この作品を読んでみてはどうかとコメントしてくださった方がありました。コメントしてくださった方、ありがとうございます。読んでみました。

これは村上春樹が30歳前後の作品ですね。ずいぶん突っ張ってるね!なんでこんなに肩肘張ってるの?というのが第一印象です。冒頭、「完璧な文章などといったものは存在しない」と明言する知り合いの作家の言葉を引用し、そして自分が8年間も自分の書けるものがあまりに限定されてきたことに苦しんできたと告白しつつ、「完璧」に近い文章を書き付けるのだから、読むほうは嫌味にしか読めないのじゃないでしょうか。私が村上春樹の文章を完璧と思うのは、こんなに文体とその内容がぴったりしている文章は他にはないと思うからだし、たとえば祖母が死んだという話をしながら「彼女が79年間抱き続けた夢はまるで歩道に落ちた夏の通り雨のように静かに消え去り、後には何ひとつ残らなかった」といような文章のように、その比喩、譬えの的確さにあると思っています。

他には次の年に発表した『1973年のピンボール』という作品で僕は双子と暮らすことになります。ある時電話の配電盤の取替え工事に人がやってきます。双子が配電盤というものがどんなものなのか分からないというので工事人が母犬と子犬のたとえを使って説明します。その一連の会話の最後
「さて、配電盤を捜さなくっちゃ」
「捜す必要なんてないわよ」と右側が言った。
「押入れの奥よ。板をはがすの」と左側が続けた。
僕はひどく驚いた。「ねえ、何故そんなこと知ってる?僕だって知らなかったぜ」
「だって配電盤でしょ?」
「有名よ」
「参ったね」と工事人が言った。

このやりとりの最後なんか会話文の絶品ではないでしょうか? こんな会話文を書ける人はまぁいないような思いますが。これまで読んだことがないですね。

ただ『風の歌を聴け』では、煙草を吸いつづけ、(太鼓腹になるんじゃないかと読むほうが心配するほど)ビールばかり飲みつづけ、得体の知れない人生というものをすでに傍観している僕を、語り手はすごく肩肘張って、突っ張って書いている、そんな風に思うのですが、どんなものでしょうか? 当時の村上春樹がどんなことを考えていたのか私にはよく分からないので、これ以上突っ込んだことは述べることが出来ないのですけど、まぁこれが印象ですね。

それにしても、こんなほとんどだれも読んでいないような私のブログにコメントくれた方が二人いらっしゃいましたが、どちらも村上春樹の作品の時でした。『海辺のカフカ』が発表された時も、読者からすごい手紙が来て、それに村上春樹がいちいち返事を出したそうで、それがまた一冊の本になっているそうですから、村上春樹の人気ってすごいですね。たしかに上にも書きましたが、彼の文章は完璧と言っていいと思います。ほんと、すごい。

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『永遠の仔』

2006年03月24日 | 作家タ行
天童荒太『永遠の仔』上下(幻冬社、1999年)

天童荒太の『永遠の仔』上下二巻を一気に読みました。本当に、読む側をきりきりまいさせる問題作です。読みながら、ここに書かれていることがけっして他人事ではなく、お前にもそういう経験があっただろう、お前も子どもを苦しめてきたのじゃないのか、とぎりぎりと胃を締め付けてくるような、本当に読みつづけるのがつらい、そんな小説でした。子どもを親のエゴとか世間体大事で扱ってきたのではないか、だから今になって親とも口をきいてくれない、こちらが何か言っても聞く耳もたないような子になったのではないか、などと思いながら読んだので、胃が痛くなりました。

この小説がでたときのことはあまり知らないのですが、自分の子どもを虐待したりネグレクトしたりということが社会的に知られて、ニュースなどでもよく報道されるようになった時期でもあり、たいへんな反響をよんだのではないでしょうか。

小説のつくりもたいへんよくできているなーと思いますよ。最初に石槌山登山で「あれをやる」という思わせぶりな言い方だけしておいて、それがなにを意味するかをずっと知らせないでおくという方法もそうだし。優希を初め三人が暴力的に精神を病んだ原因もよく分からないようにして、かなりあとになってからクスの洞穴での嵐の夜で明かすのもそうだし。とくに優希の場合はよくわからないままだったですね。読みながらずっとなにが原因だったんだろうと自問していましたよ。最初は神経質な母親のせいかと思っていましたが、どうも違うようだし、では父親かなと思ったけど、それにしては父親が優希に触っても別に拒否反応を示すわけでもないし、などと思いながら読んだんですが、優希が告白するところでは「やはりな」と思わせるようにできていましたね。たんに物語の進展を興味をもって読むだけではなく、こちらにあれこれ推理させる面白さもあります。たとえば多摩川べりの連続婦女殺人も、私は梁平が犯人だとばかり思っていましたし、奈緒子はたんに自殺をしたのだと思ってました。そして最後に優希の母親の遺書というかたちで、優希の父親を殺したのは妻の志穂だったということがわかるまでは、三人の誰が手をかけたのか、一人一人順番に違うことを示すような工夫もされていたよね。こういうテクニック(小説技法)なんか関係ないと思う人が多いかもしれないけど、創造物はその容れ物によって内容が変わってくるというか、容れ物と内容は表裏一体だとおもいますよ。

この小説、ほんと、いろんな意味で疲れました。


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Happy End

2006年03月23日 | 映画
『ハッピー・エンド』(韓国、1999年)

これまたGyaOで『ハッピー・エンド』という韓国映画を見た。主演がチャン・ドヨンという女優さん(これが体当たりの演技ですごい)とチェ・ミンスク(「シュリ」の北朝鮮特殊工作員のリーダー役をしたり...なんて説明はいらないか、結構出てるもんね)。二人は夫婦でまだ数ヶ月の赤ちゃんがいる。チャン・ドヨンは英語学院の院長でばりばりのやり手ウーマン。他方、夫のチェ・ミンスクはリストラされ、毎日スーツを着て家を出るが(もちろん妻はリストラされたことは知っている)、行くあてもなく、古本屋で買いもしない本を読み漁って、店主に嫌がられている。チャン・ドヨンは子どもができて直後くらいに昔の恋人と再会してよりを戻す。この男は英語学院のホームページの管理をしている。その関係で再会することになった(のかなと推測するしかない)。映画の冒頭はチャン・ドヨンがこの男のマンションに入っていき、その男と激しいセックスをするシーンから始まる。これがまたすごい演技なので、結末が知りきれトンボのような印象を受けるのも仕方ないね。ハッピー・エンドなんてタイトルの映画がハッピーで終わるなんてことはないだろうから、だれしもこの冒頭から終わりはすごいことになるんじゃないかと期待するのだけど...

いつしかチェ・ミンスクはチャン・ドヨンが不倫していることに気づき、相手を突き止め、最後には妻を殺し、不倫男を犯人にしたてあげるべく工作をする。赤ちゃんと二人取り残されたチェ・ミンスクは妻の写真をみて、泣き崩れる、というのがあらすじなんだけど、上でも書いたように、冒頭のセックスシーンがすごいので、終わりがどんなことになるのか、それにあのチェ・ミンスクだし、どんなことするのかと興味津々で見ていたのだけど、意外と淡々と終わってしまった。要するに、妻の不倫を見つけたチェ・ミンスクが計画的に妻を殺してしまったけど、本当は愛していたのだという話で、もうちょっと一ひねり二ひねりあってもよかったんじゃないと思う。

韓国映画は三つの路線があるように思う。一つは『八月のクリスマス』とか『リメンバー・ミー』みたいな純情系、『グリーン・フィッシュ』『親切なクムジャさん』『サマリアの女』とかこの作品みたいにハード系、そしてそれらのいいとこどりをして、きちんとお金もかけている『シュリ』『JSA』のようなエンターテイメント系。すべてがこの路線におさまるわけではないけど、大きな流れということで言うと、ということですね。たいして韓国映画見てないのに、ちょっとムリしすぎかな。

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Flying Virus

2006年03月22日 | 映画
ジェフ・ヘア監督『フライング・ヴァイラス』(アメリカ、2001年)

Gyaoで『フライング・ヴァイラス』という映画を見た。南米アマゾンの開発としょうして高速道路を通すためにアメリカが密かに遺伝子組み替えによって致死的猛毒をもつ蜂をつくり、それを使って原住民たちを殺害していく、それを偶然から知った女ジャーナリストが、解毒剤をもとめて「影の部族」と呼ばれる人々を探してまわる一方で、この蜂を彼女の看病から見つけた昆虫学者がアメリカに持ち帰ろうとして飛行機にのせ、それが乱気流のためにケースからでて飛行機内をパニックに落とし込む、そこに乗っていた女ジャーナリストの、いまにも離婚寸前の夫が決死の献身で飛行機を軟着陸させ、飛行機内で蜂にさされた人たちを解毒剤で救うことができるというようなお話だ。

2001年の作品ということで、わりと最近の映画で、南米におけるアメリカのしたい放題の一端を反映した映画といえるんじゃないかな。アメリカは全世界でしたい放題のことをしているが、南米ではそれにたいする抵抗からさらに反抗、反撃ののろしがあがって、ベネズエラとかグアテマラなど反米政権が誕生して、アメリカの犯罪を国際的な場で堂々と指摘し、これにたいする国際連帯を呼びかけるようになっている。

かつてはチリのアジェンデ政権をクーデタによって倒したように、様々の手段を使って反米政権をアメリカは倒してきたが、権力ではなく、原住民たちにたいしては、このような殺人蜂を使って、犯罪の痕跡も残らないような手法で反対住民たちを抹殺するなんてことも、やりかねないし、現にやっているのかもしれないということだろう。

映画そのものはストーリ展開も映像もちゃちな感じがするが、発想は面白いんじゃないかな。

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