読書な日々

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『出雲と蘇我王国』

2018年07月31日 | 人文科学系
斉木雲州『出雲と蘇我王国』(大元出版、2012年)

冒頭の司馬遼太郎を引用した話から、この著者は、出雲王朝の支配者であった向家の子孫であるようだ。その人の父が「向家の伝承」と読んでいるものをこの本にしたということらしい。

彼らの先祖はサイノカミであるという。サイノカミの主神クナトは古代インドの王であったが、部下を引き連れてゴビ砂漠を北上し、シベリアのアムール川を下り、津軽半島に上陸して、本州を南下して出雲に住み着いた。出雲とはもとは「出芽」であったという。

出雲の王家は向家と神門臣家の2つあったとして、交代制で王を努めたという。巻末の系図に、その名前が書かれている。副王には主王の出身ではない王家の若者が就任した。副王の職名は「少名彦」で、記紀では逆順にして少彦名と書かれているという。

以前も書いたが、私の母が住んでいる米子の粟島は、事代主が亡くなって、葬られたと後で記されているから、この近くが彦名と呼ばれていることも、たぶんこれに関係しているのだろう。

紀元前3世紀末に中国の秦(始皇帝の時代)からスサノオ(徐福)が石見に上陸して、長男五十猛命を産んだという。(Wikipediaでは上陸地が多数挙げられているが、石見は書かれていない。)

その一年前(!)にホヒと息子のタケヒナドリが来日して、八千矛(大国主)につかえていたという。副王の事代主が美保関で釣りをしていたところに、タケヒナドリが諸手船に乗って来て、八千矛が行方不明になったと知らせ、事代主を船に乗せて、粟島に着くと、その仲間たちによって粟島の洞窟に幽閉され、死去した(このあたりが夜見ヶ浜と言われるのは、黄泉の当て字だと言う)。八千矛も出雲の洞窟に幽閉されて、死去した。

主・副の国王が同時に死去したので、両王家の分家は多数の人を連れて、大和(奈良地方)に移住した。事代主の子孫は奈良で登美(トビ)家となった。五十猛は丹波に移住して、海部となり、登美家とともに海部王朝を作った。それはその後磯城王朝に変わった。

スサノオ(徐福)二度目(!)の渡来のあと筑後の吉野ヶ里に住んで、その子孫が物部氏になった。磯城王朝時代に、筑後の物部氏が紀伊の熊野に上陸して大和に侵入した。磯城王朝のフトニ(孝霊)大王は、物部氏を恐れて、吉備に逃れ、さらに出雲王国に侵入した。その時、鳥取県の日野川を遡上して、大山の麓で死去した。それでその山が孝霊山と呼ばれるようになった(たしかにそういう名前の山がある)。

中国で漢が滅びて三国時代になっていた頃、九州の筑紫に勢力をもっていた物部イニエ王が日向に進出した。当時は都万(つま)国と呼ばれていた。イニエ王は宇佐宮の姫巫女の豊玉姫を后に迎えた。イニエ王が死んだ後、豊玉姫は皇太后として君臨した。

ここからは面白いところである。「魏の人には「姫巫女」がヒミコと聞こえたらしく、三国志魏書では、ヒミコと書いている。」(p. 43-44)

つまりこの人の話では、ヒミコがいた邪馬台国は日向(の都万国)のことだという。以前、中田力という人が『日本古代史を科学する』で邪馬台国は日向にあったと主張していることを書いたことがある。こちら

ヒミコが第二次東征(つまり物部氏と豊の連合軍が大和の磯城王朝を倒して新しい王朝を作る)に先立って、魏に使節を送って、代わりに、豪族たちを味方につけるために銅鏡と戦争に使う幡をもらうためである。そしてもらったのは「八本の幡」で、これが各地にある八幡神社のもとになったという。

東征軍総指揮者のヒミコ(豊玉姫)は、途上の宮島で死去した。その後、豊の国の宇佐神宮に祀られた(それで宇佐神宮が八幡神社の総本山になっている)。

東征軍は山陰側と瀬戸内海側の二手に分かれて進軍した。山陰側を進軍した田道間守は、出雲王朝内部に寝返るものがいたので、あっという間に勝利した。つまりこの著者の話では、出雲王朝が滅びたのは、奈良の大和にあった大王に滅ぼされたのではなくて、九州北部で生まれた物部氏と豊の国の連合軍による東征の途中で滅ぼされたということになる。

この東征軍は最後の上陸戦を河内で終わったという。その東の佐保川周辺には、大王の大軍がいて、進軍できなかった。物部イクメ王は奈良盆地にまで進めず、その手前の生駒にとどまった。それでこの生駒はイクメから来ているという。

三輪山西麓を地盤にしていた太陽の女神を祀っていた出雲系の加茂氏(最近発掘が進んだ纏向遺跡が邪馬台国があったのではないかと言われているが、この人の話ではまったく違うことになる)は、豊の国の軍勢に破れた。このとき登美家のヤマト姫は丹後の真名井に逃げた。

磯城王朝の大王も山城の亀岡に逃げたことで、磯城王朝は滅びたという。物部イクメは奈良で大王(垂仁)を名乗って新しい王朝を作った。

やれやれ、ここまででも、なんだか知らないけど、面白い話が満載だということがわかる。さらにこの後も、辰韓王の子が山陰地方に上陸して、その子孫の息長帯比売命(神功皇后)が、辰韓が滅びたとき、その継承権を主張して、新羅に出兵し、新羅、百済、高句麗を平らげた話とか、蘇我氏の話とかがでてくるのだが、キリがないので、このへんでやめておく。

これだけのことが向家に伝承として伝えられてきたというのは、たいへんなことだと思う。たしかに客観的な資料もなにもないのかもしれないが、研究してみるに値するものではないだろうか。

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