読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

今年のトップテン

2008年12月31日 | 日々の雑感
今年のトップテン

毎年年末に今年読んだ本のトップテンをピックアップしている。今年このブログで取り上げたのはは112冊の本ということになる。実際にはこれ以上の本を読んだのだが、読んでもこのブログで取り上げなかった(しょーもない本とか、仕事関連のためにここに載せるのに適当でない本とか)本もある。2007年が125冊、2006年が194冊だから、ずいぶんと減少している。まぁそれでも3日に1冊のペースで読んでいることになるのか。食わず嫌いをしないで、もっとアンテナを研ぎ澄まして、情報を集めて、面白い本をたくさん読んでみたい。(右の写真は、「大山王国」ロッキーさんの写真を借りました。)

次にあげる10冊は決してどれが1位でどれが10位ということはない。順番をつけたわけではない。心に残った10冊ということでのトップテンだ。また出版年に関係なく、私が2008年に初めて読んだ作品ということで今年のトップテンとして挙げてある。


1.井沢元彦『逆説の日本史』(小学館文庫、1998年)
思想的には真逆といっていいような考えを持った人だが、日本の歴史学がもつ弱点・矛盾をついたその論点は小気味よい。彼の仮説をきちんと批判できない古代史研究者、日本史研究者なんて存在価値はない。どうせ彼らは井沢の仮説を素人と馬鹿にしているのだろうが、彼らこそ重箱の隅をつつくようなことをやっているだけで、日本史研究になんの役にも立っていない。

2.村上龍『半島を出よ』(幻冬舎、2005年)
一小説家というカテゴリーを越えて、政治・経済・金融などの分野にも関心をもってさまざまなリサーチを行い、コメントを発している村上龍がやっと時代と自分を一致させることができるような小説のテーマを得た。水を得た魚とでも言えばいいのか。やっと本領を発揮できる場を見つけたとでも言えばいいのか。とにかく世界に誇れる小説を書いたのだから、これを外国語に翻訳してほしい。

3.清水良典『MURAKAMI 龍と春樹の時代』(幻冬舎新書、2008年)
村上春樹と村上龍という同世代の作家を並べて、時代の趨勢を折りませながら作品論を展開している。じつに読みやすいし、著者と同世代の私には自分が生きてきた時代の意味を学びなおすことができるという意味でも、一見するとしょうもない作家論に思えるが、意外と優れものの著作である。私が日ごろからモットーにしている(だからといってそれができているという意味ではないから誤解のないように)、作品を時代の中に置いて見るという批評の日本現代版の優れた成果といえる。

4.堤未果『ルポ貧困大国アメリカ』(岩波新書、2008年)
私たち日本人にコイズミ「改革」が実行してきたものが、じつは現在のアメリカの姿だということを知らしめる啓蒙書である。どんなに貧乏でもセーフティネットがしっかりしていたコイズミ以前の日本は安心して暮らせる国だったが、いまや派遣切りの横行によって住む場所もなくなるとか、救急車を呼んでも死を免れないとか、公立病院のあいつぐ閉鎖とか、公教育の崩壊と高すぎる私学教育など、日本は確実に崩壊に突き進みつつある。

5.内田樹『街場の中国論』(ミシマ社、2007年)
「街場の中国論」が優れているというわけではない。内田樹の論理やレトリックがじつに秀逸なので、たまたま読んだこの作品を挙げたまでのことで、別にどの作品でもよかったはずである。彼のブログを読むたびにその思いを強くする。ほんとに頭の切れる人だ。

6.野沢尚『恋愛時代』(幻冬舎文庫、1998年)
10年も前の小説で、いまさらという感じがしないでもないが、韓国版ドラマともども、じつに面白かった。

7.カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(土屋政雄訳、2006年、早川書房)
クローン技術が何を人間にもたらすのか? かつて、たとえば手塚治虫などが描く未来社会はきらきら輝いていたが、最近の映画などが描き出す未来社会は、まるで廃墟だ。クローン技術やip細胞の技術が誕生した現在においてそれらに伴って作り出されているイメージはバラ色みたいだが、ほんとうのところはどうなるのだろうか。映画の未来社会と同じで、じつは暗黒のように暗いものではないのか? クローン人間の臓器を切り取って命を永らえる、それだけの価値があるのか? この小説はそういう問題提起をしている。メロドラマのようなタイトルにしたのは、作者の戦略?

8.小熊英二『<民主>と<愛国>』(新曜社、2002年)
戦中戦後思想の総決算とも言える大著。自分が生まれた時代の直前の時代って、知っているようで知らない。知らなさ過ぎる。最近は、みんなが当たり前と思っていることがいつ頃どんな風にして形成されてきたのかを綿密に解き明かしていく研究がちらほら見られる。新しい研究テーマの作り方だと思うのだが、出来上がった成果の見かけ以上の膨大な研究が要求される。そういう研究の走りだろうか。とにかくすごい!の一言。

9.海堂尊『チーム・バチスタの栄光』(宝島社、2006年)
医学推理の面白さではなく、白鳥と田口公平のやり取りの面白さがこの小説の持ち味だということを、ドラマ版が再確認させてくれたといえる。その意味で、田口公平を女にした映画版は本質をとらえそこなっている。

10.長部重康『現代フランスの病理解剖』(山川出版社、2006年)
教育、福祉、社会保障など日本から見たらうらやましいような制度があるにもかかわらず、さまざまな問題に苦しんでいるフランス社会。そういう問題がいったいどういう経済政策や社会政策から生じたのかを詳細に分析した本で、まさに現代フランスの病理を解剖してみせるタイトルどおりの本といえる。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年の三大ニュース

2008年12月30日 | 日々の雑感
今年の三大ニュース

というようなたぐいのことはこれまで、年賀状にせよ、こういったブログにせよ、ほとんど、というか一度も書いてきたことがなかったのだが、今年は書いておくべきと思うようなことがあったので、やはり書いておこう。

1.娘の結婚

2.ロードバイクを始めた
ロードバイクにこれまで縁もゆかりもなかったわけではない。中学1年生の頃に、当時では珍しかった、ダウンドロップで5段変速のロードバイク(とは言わないのかな?)を父親が買ってくれた。別に頼んだわけでもなかったのだが、何を思ったのかある日突然買ってきてくれたのだった。もちろん鼻高々の私は田舎の道でこれを乗り回していたし、高校に入って自転車で通学するようになると、毎日乗っていた。ただしばらくしてからかばんを入れることができるようにサイドにかごをつけたり、ドロップハンドルを、今で言うシクロスバイクのようなハンドルに変えたりした。それ以来ロードバイクにはまったく縁のない生活をしてきたので、今年の6月に人のロードバイクに試乗させてもらったときの違和感は当然だったかもしれない。

ロードバイクということでいうと、今から20年位前に、仕事の都合で西梅田近辺をよく歩いていた頃に、今はないが、毎日新聞の地下に名画座があって、そこで「ヤングジェネレーション」とかいうアメリカのB級映画を観たことがある。これはアメリカのオチこぼれの高校生でカッター(石切り工)の息子が主人公で、彼は自転車が好きで、自転車に乗って家の近くの大学に行き、そこでその大学の学生と偽って美人学生と仲良くなるとか、ちょうどその頃に自転車レースにヨーロッパから彼があこがれているイタリアのプロチームがやってきて練習するのに遭遇して一緒に走ろうとするが、嫌がらせを受けて、プロになることは諦めるというような映画。なぜだかこの映画が気に入って何度か観にいった。

まさか自分が乗るようになるとは思わなかったが、面白い、楽しい。早く首が痛いとか、お尻が痛いというのがなくなればもっと楽しいのだが。

3.腰痛になる
高校生の頃にボート部をやっていたために軽い椎間板ヘルニアになっており、そのために腰痛を経験しているし、その後もときどき軽い腰痛になったことはあったが、歩けないほどの腰痛というのはこれまで経験したことがないのでびっくりした。しかも仕事上重いものを無理して持たなければならなかったとか、急に重いものを持ち上げてぎっくり腰になったとかとは違うので、たぶん急にロードバイクをやり始め、しかも30km/hくらいは軽く出すほどの走り方をしていたのが原因だろうか、としか思えない。初めてMRIで椎間板の影像も撮ったが、たしかに軽いヘルニアになっている。二度とあんな激痛にはあいたくないので、毎日朝起床後と就寝前にストレッチと腹筋をして腰まわりを柔軟にするようにしている。体全体が硬いのでもっと柔軟運動をいろいろしてもいいのだが、なんでも最初はすごくがんばるのだが、そのうちしなくなるという三日坊主の傾向が強いので、とにかく毎日続けることが大事で、毎日続けることができることを(それだけではほんとうは不十分でも)やるという方針でやっている。とくに腰を折り曲げるストレッチと腹筋はベッドの上でもできるので、よほど疲れているとき以外は毎日できる。それがいい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滝畑ダム完全往復

2008年12月28日 | 自転車
滝畑ダム完全往復

天気のよい穏やかな日曜日になったので、あちこちで今年のライド納めの人たちがたくさん走っていたのではないだろうか。私も当初は石川CLを往復してこようかなと思っていたのだが、ちょっと風が強くて、風の強い日は当たり前のことだが、石川沿いのこのコースは帰りの上流方向へのライドが強風の向かい風になるので、いつもてこずる。それで、急遽、山の中ならそういう風の影響をあまり受けないだろうと考えて、滝畑ダムに行くことにした。

じつはこれまで2回滝畑ダムに上がっているが、一回目は金剛寺コースであがって、日野コースで下りてきたし、二回目はその逆で日野コースから上がって、金剛寺コースを下りてきた。金剛寺コースのほうが傾斜もきついし、行きも帰りも滝畑ダム手前の焼却場までいったん上がって下りるコースでとうぜんこちらのほうがしんどい。今日はそれに挑戦してみようという考えである。

さすがにあれから金剛トンネルやら金剛山ロープウェーまで上がってきただけあって、金剛寺直後の急なのぼりも今日はそれほどしんどい思いをしないで上がれた。さすがに年末だけあって日曜日でもサイクルセンターに来る車はほとんどない。サイクルセンター前の二つめの激坂を過ぎて、やれやれ。あとは下りだけ。もう紅葉は完全に終わりで、木々の葉はすべて落ちている。ただ天気がよいので、青空をバックに枯れた山や杉などの常緑樹の山がきれいに見える。

1時間10分くらいでダムに到着。トイレ休憩をして、ダム湖の端まで行ってみる。帰りも焼却場までが急坂になる。これも前回に比べたら、ずっと楽に上がれた。一気に金剛寺まで下りて、そのまま休憩なしに家まで帰ってきた。途中で食べようと思って買っていた補助食も食べずに家に着いた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ミカドの肖像』

2008年12月27日 | 作家ア行
猪瀬直樹『ミカドの肖像』(小学館、1986年)

たとえば海老沢敏の『むすんでひらいて考』のように、日本固有の音楽とか言葉とか作品と思われているが、じつは外国から持ち込まれて日本に帰化したようなものがけっこうある。それがどのような経緯で持ち込まれ日本に根付いていったのかという研究は、たぶんけっこうあるだろうが、逆に日本固有のものが外国に持ち込まれて、どれほど大きな影響を与えたかのかという研究は、なくはないだろうが、それほど多くはないように思う。

猪瀬直樹のこの著作は、イギリスのサボイ・オペラで作られた『ミカド』というコミック・オペラがどういう経緯で作られ、どんな影響を与えていったとか、明治天皇の肖像画、つまりご真影と言われ、すべての学校に飾られていた肖像画がどのようにしてできたのか、プリンスホテルがどうやってプリンスホテルなる名称を使用できるようになったのかなどを調査することで、明治以降の天皇の姿や天皇にたいする大衆の見方を明らかにしようとする野心的なものである。

しかしあまりにも対象が拡散してしまって、最終的になにも映像を結ばないという結果になっているようにも思える。

とりとめのない感想をいくつか。歴史の教科書などで明治天皇の写真というのを見たことがある。ずいぶんと垢抜けたハンサムな人だなとずっと思っていた。ところがあれはイタリア人のキヨソーネという造幣局お抱えの絵師が描いたもの(銅版画)を写真に撮ったもので、実際の人物を撮った写真がこの本にも載っているが、たしかに昔の典型的な日本人の顔である。

1867年のパリ万博で床机に赤い毛氈をひいてそこで日本のお茶がふるまわれた。その給仕をしたのが日本から連れて行かれた浅草の芸子の三娘で、フランス人にずいぶんと人気だったらしい。それがその後にフランスで着物(とくに女性の着物)人気を起こしたにちがいない。モネだったかの絵にも着物を着流したフランス人女性が描かれているし、ずっと後のことになるが、プルーストの映画にもそうした服装をした女性が出てくる。ずいぶんとエロチックな印象を与えたのだろう。

日本のものと言われているものの多くが中国と日本がごちゃまぜになったような場合が多い。私たちがフランス固有のものとイギリス固有のものの区別がきちんとできないように、両者の違いがヨーロッパの人々に分らないのは当然だろう。たとえば現在のパリにも日本レストランというものがたくさんある。たとえば焼き鳥なんかも人気がある。でもその多くは日本人ではなく、東南アジアとか中国の人が経営しており、そういう店は私たちが入るとすぐに分るのだが、フランス人にはまったく違いが理解できないらしい。おもしろものだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大掃除

2008年12月26日 | 日々の雑感
大掃除

うって変わって北風の強い冬型の天候になってきた。金剛山あたりはずっと雪雲に覆われて、今日あたりから雪かもしれない。このまま年末までもう自転車に乗る機会がないかもしれない、これで走り納めかな。

というわけで、昨日と今日は、そろそろ家の掃除もしなければならないので、自転車もジョギングもお休みして、家の掃除。といっても外回りがベランダの窓ガラスと網戸をきれいにすること、家の中が壁をブラシ付きの掃除機でホコリや綿ごみなどを書き落としながら吸い取る、さらに板でできている壁やドアを雑巾がけして、風呂場のタイルをブラシでごしごしやってカビや汚れを落とすといったところか。一度にやろうとするとたいへんなので、これまで少しずつやっておいたところもあり、二日間に分けてやったので、まぁ午前中の作業でなんとか終了。

今年は、夏の腰痛で寝ていた頃は、たぶん年末の大掃除はできないなと予想していた(ってところがすごいでしょ!)けれども、こうやってまぁ大掃除もできたし、感慨もひとしお。それにしても自転車の魅力ってなんでしょう。なんでまたこんなに楽しいのだろう?

ひとつは、スピード感! 私は車の運転をしないのでそう思うのかもしれないが、ロードバイクはほんとうにスピードが出る。プロなんかになると平地で普通に40Km/hくらいは出すみたいしだし、ダウンヒルになれば100Km/hくらいはでるらしい。今年のツール・ド・フランスをケーブルテレビでやっていたときに解説者が言っていた。私でも7月1日に乗り始めて、すぐに30Km/hくらいは出していたし、路面がよくて直線距離で車がほとんど来ないところだと、張り切って40Km/hくらいは瞬間的に出るくらいに飛ばしていた。たぶん乗り始めてすぐにそんなことをしていたから、腰痛になったのかもしれないと少々反省している。最近はゆっくり走ることをモットーにしているので、平均は20Km/hだ。

ふたつめは、遠距離感! 意外と遠くまで走れるのが魅力だ。3時間くらいで家から金剛トンネルまで往復したり、金剛山ロープウェーまで往復したり、石川のCLを大和川まで往復ということができる。家に帰って、あんなところまで走ってきたんだなという感慨はいつも、信じられないという思いとともに、ちょっとした満足感をともなっている。ジョギングも自分の足で!なのだが、走れる距離はほんとうに知れている。フルマラソンでへとへとになる。でもロードバイクなら現在の私でもまだまだ余裕だ。いずれは100Km200Km走っても余裕というようになりたいものだが、そうなれば、大阪から鳥取まで乗っていくのも夢ではなくなるだろう。

ただ交通事故にだけは注意しないとね。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金剛山ロープウェー

2008年12月24日 | 自転車
金剛山ロープウェー

今日もいい天気。明るい太陽が私を誘っている。じっとしていられない。ということで、今日は金剛山ロープウェーまで行くことに。

どう見ても、小深からトンネルまでが最大の難所のような気がする。今日は、観心寺までいつもと違うコースで行った。というのは途中でトイレに行きたくなり、仕方なく、寺が池公園のトイレが一番近かったので、そちらに。用を済ませてから、寺が池を一周する形で周り、河内長野のラブリーホールに出てきて、河内長野駅までまっすぐ下って、金剛山への道を行くというコースで、やはり車が多くて、まぁ途中のコンビニでバナナパンと補助食を買ったりしたので、余計に時間がかかった。

小深から左に折れる。やっぱすごい坂だ。でもすごい坂だろうと観念していたので、なんとかトンネルまで上がってきたときはホッとした。しかしそれもつかの間、すぐにまた坂が続く。このコースはこれまで金剛登山に何度もバスで通っている道なので、よく知っているが、やはりバスで上がるのと自転車で上がるのとは大違い。やっと登山口までやってきた。ここまででもうええわと思い、ひと休憩。買っていた補助食を食べて、ジュースを飲んで、ここまで来たかと感慨にふけることしばし。なんだかまた元気が出てきたので、この調子でロープウェーまで行くかということになり、出発。

ここからが平坦がなく坂が続くと書いてあったのを思い出し、2Kmくらいけっこうな坂を我慢して上がる。途中にはマス釣り場というバスステーションもあって、普段ならレストランが営業しているのだが、さすがにクリスマスイブとあってはどうも休業のようだ。昼どきなので、もしやっていたら帰りにマスの塩焼き定食でも食べて帰ろうかなと思っていたが、あてが外れた。

金剛山は金剛錬成会なるものがあって、要するに、金剛山に何回上ったかを競う会があるので、毎日でも上っている人がいる。それでけっこうこんな日でも車で登山口やロープウェー下の駐車場まで上がってくる人がいるのだ。そこそこ車が走っている。前回の金剛トンネルとはまったく違う。

やっとこさロープウェー下まで着いた。それでも家から2時間程度でここまで上がってきた。すごく寒くて、ストーブを焚いていた。バナナパンを食べつつ、温かいコーヒーを飲んで休憩。売店があると思っていたのだがなかった。コンビニでバナナパンを買っておいて正解だった。4人くらいロープウェーを待っている人がいた。外では門松の用意をしている。よくここまで上がってきたなとしばし感慨にふける。やはり何度も来たことがあるので、道も分っているから、気分的には楽だったのかもしれない。

金剛山ロープウェーコースのYahoo地図はこちら

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石川サイクルロード

2008年12月23日 | 自転車
石川サイクルロード

久しぶりの石川サイクルロードである。前回は8月3日だったから腰痛になる直前にかなりむこうまで行ったのだった。今日は、午後から仕事もあるので、8時半に家を出た。まだ寒かったが、それでも休日だから、すでに走っているいるライダーもたくさんいた。車が多いところを走りたくないので、いつもの千代田から汐ノ宮経由で石川サイクルロードに入る。今日は、風もなく、いい天気だ。暮れも近いというのに、河川敷の野球場ではあちこちで少年野球をやっている。大会でもあるのだろうか。

今日はとにかく余裕を持って走るを課題にして、急がないように走った。大和川まで24Kmを1時間半だから本当にゆっくり走ったことになる。それでもやはり2時間くらいからお尻が痛くなってくる。単調な走りはどうもお尻が痛くなるのが早いのか、ヒルクライムだと足の疲れや腰の疲れに気持ちがいって、お尻の痛いのが気にならないのか、よく分からないが、「いくら走っても快適」っていうような境地に達するには、どれくらい走ったらいいものやら。たとえばジョギングだと、ゆっくり目に走っていると、ランナーズハイみたいに、このままどこまででも走っていけそうというような状態になることがときどきある。はやくそういう境地になりたいものだ。

帰りはPLの塔が見えるのが一つの目安。だんだん近づいてきたと思ったら小粒の雨が!ほんとうは通りたくなかったのだけど、そうも言っていられないので、汐ノ宮まで行かないで、川西大橋を渡って富田林に入り、近道をして帰ってきた。

休日ということもあってたくさんの自転車乗りが走っていた。12月の暮れも押し迫ってきたといってもこれくらいの気温ならまだまだロードバイクで走れます。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『黒船の世紀』

2008年12月21日 | 作家ア行
猪瀬直樹『黒船の世紀』(小学館、1993年)

いやー面白い本を読んだ。明治・大正・昭和初期、つまり太平洋戦争に突入する以前から、すでに日米双方で、対米戦争、対日戦争、つまり未来の日米戦争についての戦争記があったなんて、しかもそのなかには現実の太平洋戦争にそっくりのことを予想したような内容のものもあったなんて、まったく知らなかった。

猪瀬直樹はいまは飛ぶ鳥を落とす勢いの政治家みたいになっているが、かっては作家だったというのか、とにかく猪瀬直樹という人物自体をあまり知らなかった。朝日新聞に連載されていた「明日も夕焼け」というエッセーがじつによかったので、なかなかいい人物なのかなと思っていたが、最近の道路公団問題批判はいいとしても東京都の副知事になって石原都政を助けるようになってからは政治家としての猪瀬は好きではない。ただまぁこれとあれとは別だから、そうした目で彼が過去に書いたものまで見るのはまちがっているだろう。

最初は日米そうぞれの国で軍備拡張を推進する主張のために当時から仮想敵国とみなされていた日本とアメリカそれぞれで未来の日米戦争を描き出してみせることで、うかうかしていたら日米戦争で負けてしまうぞと軍備拡張を主張して見せた戦争記が同じような時期に出たというから面白い。

とくに興味深いのはこのときも、現在の反イスラム的な論調によってアメリカが軍備を拡張しアフガンやイランなどのイスラムの国々をめちゃくちゃにしてしまったのと同じ論理が、日本に対して使われていた。つまり排日運動である。当時ハワイ経由で西海岸に入ってきた日系移民にたいするいわれなき排除運動がアメリカであった。アメリカにやってきてもけっしてそれまでの習慣を変えようとしないし、何を考えているのか分らない日系人という言い方でアメリカ社会から締め出そうとした。しかも彼らがハワイで武装蜂起したらあっというまにハワイは日本の領土になってしまうというような主張もあった。まるで現在のイスラム教徒たちがヨーロッパやアメリカに入ってきてもなんら生活習慣も言葉も変えようとしない、移民先の社会に統合しようとしないことから、彼らを排除しようとする、そして彼らをテロの手先のように見る論調までいっている姿を思い出させる。

日系移民は現実に存在したことであるから、その評価が間違っていたにせよ、アメリカで日系人排除の運動が起き、それが日米戦争記にまで発展したのは分らないでもないが、日本ではアメリカ人の移民が日本人の生活を脅かしたわけでもないし、軍事力でもって脅威を与えたわけでもないのに、なぜ日本ではそんな早くから日清戦争、日露戦争のあとは日米戦争だ、これからの敵はアメリカだという論調になっていったのだろうか。それに猪瀬は江戸時代末期の黒船の衝撃がずっと続いていたのだと主張するわけである。

しかも日本で最初に日米戦争記を書いた水野広徳が軍人時代に視察したサンフランシスコでの排日運動の経験が彼にそれを書かせることになったと考えている。この水野は『此の一戦』で日露戦争の記録をまとめその印紙収入で第1次大戦のヨーロッパを視察し『次の一戦』で未来の日米戦争記を書いた。その彼が第1次大戦のヨーロッパで飛行機による空爆を経験し、空襲の怖ろしさから反戦論になっていく件は興味深い。彼以降に出てくる戦争ものの作家たちがみな日米戦争を称揚するような論調で書いていたのに対して、彼は後に特高ににらまれるくらいに反戦を主張するようになった稀有な人であった。

それにしても池崎とか平田とか福永といった今日では忘れられた作家たちが日米戦争未来記を書いて、日米戦争へのイデオロギーを盛り上げたという事実、しかも軍部以上に日本勝利の楽観論を主張していたという事実は、なんとも後味の悪いものではある。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金剛トンネル攻略

2008年12月19日 | 自転車
金剛トンネル攻略

この前、金剛山に行く途中にある(というか、ヒルクライムのサイトでは出発点となっている)観心寺まで行ったので、今日はそこから10km弱のところにある金剛トンネルまで行った。平均傾斜率が4.7%だから、それほどの激坂はないだろうという読みである。

平日の昼間でもあるし、観心寺をすぎて小深から金剛山ロープウェーへの分岐を過ぎたあたりから、ほとんど車が来ないので走りやすい。たまに坂がある程度で、坂を上がれば平坦な道が続く、を繰り返して、石見川という南海バスの終点にもなっている集落を通り過ぎると、延々と坂が続く。帰ってから調べてみると、この最後の2Kmだけは8%になっていた。どうりでここがきつかった。ここに来るまでにもう2時間近く走っているし、今日は、観心寺でのんびり休憩していると走る意欲がなくなるので、トイレをしただけですぐ走ってきたから、2時間近く走りっぱなし。ただでさえ太ももはしんどくなっているし、腰のほうもなんか重たくて不安!

そこへもってきて最後の2kmが四十折れというのだろうか、斜面を右に左に這うようにして上がっていく。谷道ではなく斜面を上がるにはこういう道を作るしかないというやつ。最後の最後に、腰が不安で仕方がないので、すこし歩いた。そして最後のカーブを回ったところの直線に入って金剛トンネルが見えたので、やれやれ。

たぶん観心寺から10Kmの距離だから1時間程度で上がれるかなと予想していたが、ぴったり1時間で上がってきた。冷たい水しか持ってきていなかったのが想定外。温かい飲み物がほしいくらいに空気は冷たかった。それに足もガクガク。やっぱこれだけの距離を走るときは補助食が要るね。少々頭もぼんやり気味なので、用心用心と言い聞かせて、急坂を下りてきた。観心寺まで20分くらい。ここで温かい飲み物を飲んで、ひと休憩して帰宅した。もうフラフラだった。スパゲッティを食べて、昼寝した。滝畑ダムのときと同じで、どうも腰が不安で、うれしさ半分こわさ半分というところ。

コース周辺のYahoo地図はこちらをクリック


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『逆説の日本史1』

2008年12月18日 | 作家ア行
井沢元彦『逆説の日本史1』(小学館文庫、1998年)

井沢歴史学、じつに面白い。そしてじつに説得力がある。田母神元自衛隊空幕長がアパグループの懸賞論文で中国侵略などなかったと書いた問題で、自衛隊ではどういう教育をしているのかということが問題になり、講師の名前が公表されて、そのなかに井沢元彦の名前があったので、なにやってんだ!と思ったが、それとこれとはまた別で、彼の書いたものはじつに興味深い。

今回はその第1巻である。古代が扱われている。古代史というのは、資料も少ないし、そもそも古代史をやる人は必ずしも考古学者とは限らないというは、古代史と考古学とはまったく別物のようだし、いったいそういう状況で古代史研究なんか可能なのかとつねづね思っていたのだが、日本人であるのなら、多少の文献が読めさえすれば、あとは理論物理学じゃないが、紙と鉛筆で研究できるんだな、問題は資料の量ではなくて、合理的想像力の問題だなということが分った。

たとえば卑弥呼と邪馬台国の問題である。いったいこの問題、とくに邪馬台国がどこにあったのか、九州だったのか、近畿だったのかという論争で、どれだけの本が書かれていることか。それだけの研究者やら歴史愛好家がああだこうだと論争しても埒が明かないのだから、普通は私なんかがやっても、と諦めるところだが、井沢はちがう。

それが可能になったのは、彼が日本人の歴史を語る上での基準というもの、怨霊信仰、言霊信仰、和の思想をつかんでいたからといえる。そのいい例が、出雲大社の存在理由を明らかにした第2章にある。この第1巻は1992年に初版が出版されているが、それ以前に「週刊ポスト」に連載されていたから、彼がこれを書いたのはそれ以前になる。その当時から、出雲大社の大きさは通常の神社から見ても異例の大きさを誇っていたが、彼は昔から言われていた「雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎」という言葉に言及しつつ、きっと出雲大社は東大寺よりも大きかったはずだ(あるいはそうでなくても、当時の人々はそう思っていた)ということを主張したが、はからずも2000年に巨大な柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘された。古代社殿の柱ではと注目を集めたが、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも宝治2年(1248年)造営の本殿である可能性が大きいと考えられている。しかしこれでも16丈48mになるはずで、東大寺を超えてしまう。出雲大社はオオクニヌシノを祭った神社であり、それは大和の国がオオクニヌシの国を滅ぼしたときに、その霊魂をなぐさめ怨霊とならないようにするために出雲に巨大な神殿を建築して、そこにオオクニヌシとともに大和の神々を祭って彼の霊魂を慰めるとともに怨霊となって出てこないように監視させたというのだ。そしてそういう土地だから出雲の雲はまさにアマテラス(太陽)を隠す雲、つまり死を意味するのだという。

第三章の卑弥呼は皆既日食によって前王が失脚(たぶん殺害された)あとに、太陽神の巫女として女王になったのだろうという仮説も興味深い。ひみことは日巫女あるいは日御子であるというのも面白い。そして現に248年に再度皆既日食があって、そのときにそうして天変地異のせいで卑弥呼も殺害されて死を迎えたという仮説。卑弥呼が殺害されたという仮説は松本清張なんかも主張していることだが、これを皆既日食と結びつけたのは井沢が初めてだろう。邪馬台国というのもじつは古代中国の発音からすると日本人が「やまと」と言ったのを中国人が邪馬台と書いたのではないかと、古代中国語の研究者にも調査して主張している。そこから、後に『古事記』には卑弥呼の死が「アマテラスの岩戸隠れ」として記録されたという。

そして第四章で神功皇后神話にからめて、8世紀に称徳女帝が道鏡を天皇にしてもいいかどうかを九州の宇佐八幡にお伺いをたてたという事実は、当時から伊勢神宮がオマテラスつまり天皇家の祖先の神社であったにもかかわらず、そちらではなく宇佐八幡に詣でたということは、もともと大和朝廷の始祖の神社は宇佐八幡だったのではないか、つまりもともと大和朝廷の始祖は邪馬台国で九州にあったが、勢力を強め、近畿の諸国を討伐し、そこに本拠を移し、その威を示すために、仁徳天皇稜をつくり、伊勢に始祖アマテラスの神殿を作った、という仮説を提示する。

最初にも書いたが、古代史なんていうとほとんど素人が手にすることができる資料なんてしれているし、素人には無理だろうと思ってしまうが、じつは井沢がここで使っている資料でも古いものは『古事記』『日本書紀』くらいのもので、それはこれだけの研究があるのだから、現代語訳でも読むことができる。あとは、まさに日本人の歴史を見る上での基準、これさえしっかりしていれば、いままで矛盾だらけに思われていたことが、きれいに筋を通して見えてくるということなのだろう。ほんと、たいしたものだ。

彼の仮説をきちんと批判できない古代研究者なんて存在価値はない。どうせ彼らは井沢の仮説を素人と馬鹿にしているのだろうが、彼らこそ重箱の隅をつつくようなことをやっているだけで、古代史研究になんの役にも立っていない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする