読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『火の女シャトレ侯爵夫人』

2009年03月31日 | 評論
辻由美『火の女シャトレ侯爵夫人』(新評論、2004年)

副題に「18世紀フランス、希代の科学者の生涯」とあるように、エミリー・デュ・シャトレの生涯をおもに彼女の生涯の愛人であり、科学研究のライバルでもあったヴォルテールとの関わりを中心にして描いた伝記である。

シャトレ夫人の年表を簡単に。
1706年 ブルトゥイユ家に長女として生まれる。父はルイ14世の大使を務める高官。
ラテン語、ギリシャ語、イタリア語、ドイツ語などに堪能。とくにラテン語の能力は非常に高く、ラテン語の古典作品をまるで目の前にあるフランス語訳を読んでいるかのように、瞬時に素晴らしく翻訳することができたという。また数学にたいする興味も強く、集中すると食事もなにも忘れて、没頭するという性格だった。

1725年 シャトレ侯爵と結婚。侯爵は軍人でほとんど戦場に出かけていることが多かった。また夫人の勉強好きを自分にはない特質として認め、ほとんど干渉しなかった。口下手で社交嫌いでもあったので、かわりに頭の回転が速く、社交的であった夫人に宮廷や社交界での働きを委ねていた。夫人も夫の出世のために働いている。

結婚してから、リシュリュー公、数学者のモーペルチュイ、ヴォルテール、サン=ランベールたちと不倫関係になる。たいていはプレイボーイたちがたんなるなぐさみとして彼女に手を出したのだが、シャトレ夫人は恋に陥ると夢中になってしまう傾向があり、すぐに相手から避けられるようになるのだが、それが分らず、熱烈な手紙を大量に送りつける人だったらしい。ただしヴォルテールとはシレー城に一緒に住んで、研究をともにするなどのたんなる愛人関係だけではない関係を長期にわたって続けることになる。

私にとって興味深かったのは、第二章で描かれた18世紀前半における科学観や女性観の素描であった。

「国家とは私のことだ」と豪語したルイ14世は、首都パリから離れたヴェルサイユの宮殿に全廷臣を住まわせ、知的活動も芸術・文学的創造も娯楽も自分のまわりに集中させて、絢爛豪華な宮廷文化を現出させた。だが、それには、演劇や舞踏などパリの趣味を大幅にとりいれ、人材や資源の確保をパリに頼るしかなかった。そのことが逆に、ヴェルサイユの情報をことごとくパリに伝える結果を生む。(...)
 ヴェルサイユの遊興は、窮屈な高速の少ないパリへと広がっていき、それによって開放的で放縦なモラルが生まれ、女の時代を準備した。そして、ルイ14世時代が終焉したとき、女たちの眼前には、かつてなかったほどの自由と権力を手にする可能性がひろがっていた。
 おんなたちのその権力を行使する場をあたえたのは、前世紀に誕生したサロンであった。彼女たちは競って自分のサロンに高名な詩人や科学者や芸術家や政治家たちを集め、そこに女王として君臨する。」(p.45-46)

また17世紀後半から18世紀前半にかけて科学への熱狂が時代の雰囲気となった。1662年にはイギリスで王立協会設立、66年にはフランスで王立科学アカデミー設立などで科学が組織化され始めただけでなく、サロンが科学を一般向けに論じる場となり、それにあわせて、女性向けに科学的発見を論じるということが流行になる。フォントネルが1686年に出版した『世界の複数性についての対話』は哲学者が若くて美しい貴婦人に宇宙を語るという体裁をとっているのは、そうした時代の趨勢を反映してのことである。この本はヨーロッパ各国語に翻訳されて、18世紀前半の科学ブームを生み出す原動力ともなった。

シャトレ夫人もまだ少女の頃に父親のサロンに出入りしていたフォントネルの宇宙談議を楽しみにしていたほどに科学に対する関心が強かった。女性にして科学者というシャトレ夫人こうした時代の中で出るべくして現れた人だと、著者は説明している。

シャトレ夫人は1749年に亡くなるのだが、彼女の作り出した女性研究者という道筋は多くの女性に引き継がれ、そのなかの一人に女性論を執筆することになるデュパン夫人がいた。彼女は徴税請負人の妻で、今日で言うところのフェミニズムのさきがけといえるような女性論を書いている。女性は男性よりも劣っているのが女性の本性だという当時普遍的に信じられていた考え方に反旗を翻して、それはヨーロッパの近世が作り出した歴史的なイデオロギーであると考えて、それを証明するために古代史や法律や世界各地の風俗(今日で言うところの人類学的研究)などを調べ上げた。この研究に助手として働いたのが、無名時代のジャン=ジャック・ルソーであったというのも面白い。

公的な機関からは女性は排除されていたが、サロンなどを通して、女性も男性と同等にあらゆる問題を論じるだけの能力があることを示した18世紀の時代の動きは、当然のこととして女性はけっして男性に劣っていないというフェミニズムの主張を勃興させるだろう。それを思弁的な議論によってではなくて、地域と時代に制約されたイデオロギーとして見極めようとしたデュパン夫人の女性論は、これまた時代の趨勢の中で生まれるべくして現れた思想であるといえる。それをルソーが支え、自己の思想の中に取り込んでいったというのは、もっと指摘されてしかるべきことだと思う。

なかなか面白い本だったが、後半になるとシャトレ夫人の愛人問題ばかりに話題が集中していたのは残念。

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鎌倉旅行

2009年03月30日 | 日々の雑感
鎌倉旅行

29日30日と鎌倉&横浜を旅行してきた。鎌倉は一度行ってみたかった町だ。数年前に箱根に行ったときには、箱根に行く前に鎌倉にも行く予定にしていたのだが、なんか体調がわるくなって、鎌倉のほうはキャンセルして、箱根だけにしたのだったので、余計に行ってみたいという思いが強くなっていた。

鎌倉といえば大仏とか鶴岡八幡宮だが、そちらのにぎやかなところではなく、北鎌倉の鎌倉五山のうちの二つ建長寺と円覚寺があるあたりが、静かで、落ち着いていていいという話を聞いていたので、そのあたりをメインに予定を組んだ。

春休みの日曜日とあって、静かで、落ち着いているというわけにはいかなかったが、こじんまりした雰囲気のいいところだった。JR横須賀線で北鎌倉駅に着くと、もう昼ごはんの時間なので、目当ての鎌倉陶芸館に行った。ここは名前の陶芸館とは関係なく、けんちん汁をはじめとして季節の野菜をつかった和食を1600円というお手ごろの値段で食べさせてくれる穴場なのだ。メニューは一種類しかない。むかごご飯、マグロの煮魚、わけぎのぬた、つくしんぼのナムル、菜の花のおひたし、けんちん汁、それからもう一品小鉢があった。これで1600円で、なかも雰囲気がいいし、客への対応も丁寧だし、もう少し暖かければ、ベランダでの食事もできる。200円プラスであんみつを食べて、満足して、円覚寺に向かった。

円覚寺は夏目漱石の『門』にもでてくる山門が有名らしいのだが、私は『門』という小説は、なんかとにかく暗くて陰気な小説という記憶しかなくて、そうだったかなという程度。まぁなかなか立派な山門であることには違いないが、門というには、あまり門の機能を果たしていないように思える。両側がオープンになって、別に門を通らなくても中に入れる。後世になってそのあたりの構築物が変わったので、門としての機能がなくなっただけのことなのだろうか?

円覚寺を出て、しばらくJRに沿って歩くと左に入る道があり、その先に葉祥明の個人美術館がある。私は別に入りたかったわけではないのだが、上さんがそれを見て、入りたいと言うので入った。なんでも昔けっこう好きだった絵描きさんらしい。すごく細部を省略した純粋な絵を描く人だ。けっして単純だからといってお粗末というのではなく、哲学的思弁的と言いながら、決して小難しい絵でもない。よくよく考えられた絵のようだ。

そこを出てさらにJRに沿って進むと建長寺につく。鎌倉五山の第一の寺で、けんちん汁はここから由来すると上さんが言うのだが、ほんとうだろうか。とにかく規模のでかい禅寺で、建物がずっと一列に並んで建てられているのは中国式なのだとか。もちろん現在でも多くの禅僧が修行していると説明にある。

このあたりまで来ると観光地化しているが、北鎌倉駅の周辺は普段なら静かで落ち着いた町なんだろうと思う。平日の静かなときに来るのがいいかも。建長寺から坂を下っていくと鶴岡八幡宮の裏につく。こちらはものすごい人で、完全に観光地。まだ桜は咲いていないのに、あの人だかりだから、桜が満開にでもなった日にはすごいことになるのだろう。いい加減疲れてきたので、バスで鎌倉駅まで行き、乗り換えて、広徳寺の大仏を見学に行く。

この大仏は鎌倉時代にできたものだが、当初は木製で、火災に遭ったので、金属製に換えられたらしいが、それでも1300年よりも前にできているから、けっこう古いものらしい。高さも13メートル以上はあるそうで、奈良の大仏さんよりも小さいにしても、それなりに由緒のある大仏なのだ。でも奈良の大仏に比べると安っぽく見えるのはなぜだろうか。建物の中に安置されているのではなくて、ふきっさらしに置かれているせいだろうか。そんなことを思いながら、鎌倉駅までもどり、JRで横浜に行って、中華街の近くにあるホテルに泊まった。

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滝畑ダム

2009年03月27日 | 自転車
滝畑ダム

レーパン(長いのもレーパンって言うのかな?)と長袖ジャージを買った。インターネットであれこれ探していたら、いいのが見つかったのだが、サイズがどうも中途半端なところにあるし、長袖と言っても生地にいろいろあるので、迷って迷って、結局やめていた。ところがこの店の住所を見たら、なんと大阪市住吉区の粉浜ではないか。完全に通勤途上というわけではないけど、ちょっと遠回りをすれば、店まで行ける、ということが分ったので、昨日行ってみた。

そんな遠回りしなくてすんだし、やはり実際に触ってみないと今の季節に合うかどうかわからないからよかった。とはいっても、私のいつもの癖で、あれこれ触って行ったり来たりして決断がつかない。変なおじさんがうろうろしていると思われたのか、店の女主人とおぼしきおばさんが「そこはレディースだよ」とか「それはリブつき七分だよ」とか怒ったような口調で声をかけてくるので、思い切って、これこれのものがほしいんだけどと言うと、これとこれがいいんじゃないと勧めてくれたので、それを買ってきた。

さっそくそれを着て滝畑ダムまで行ってきた。最初はちょっと肌寒い感じだったが、走っているうちにちょうどよくなった。ちょっとはローディーっぽく見えるようになったでしょうかね。ウェアーもそれっぽくなると、なんか速くなったような気がするのは、気持ちの上だけか。

帰りは金剛寺のしだれ桜が満開にちかく、じつに見事だったので、ちょっと花見をしてきた。境内の門の下には入場料200円って書いていあるのだが(もちろん普段はありませんよ)、だれも料金を取る人がいないし、ちょっと写真を撮るだけだから、勘弁してもらって、写真をぱちり。どうです、なかなか見事な桜でしょう。

走行時間1時間50分 距離35Km

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『三銃士』

2009年03月24日 | 作家タ行
アレクサンドル・デュマ『三銃士』(岩波文庫)

佐藤賢一の『褐色の文豪』を読んだことで、またデュマにたいする興味がわいて『三銃士』を読んでみた。以前読んだのは子どもの頃に子ども向けにリライトしたものだったので、原作を翻訳したものはこれが初めて。もっと波乱万丈の出来事が次から次へとでて来るのかと思ったら、意外にそうでもなかった。

文庫本の上巻にあたる前半部は、まずダルタニャンと三銃士の出会いという形でこれらの主人公たちを紹介する部分があって、それがルイ13世の宮廷内でのルイ13世とトレヴィル殿にたいする枢機卿リシュリューの対立として描かれているのは興味深かった。

前半のメインは、王妃アンヌとイギリスのバッキンガム公との恋愛がらみの出来事だ。王妃アンヌにほれ込んでしまったバッキンガム公がやっとの思いで王妃と会うことができたとき、王妃が記念にダイヤモンドが12個もついた飾り紐をバッキンガム公に贈るのだが、それはルイ13世が王妃のために贈ったもので、それを知った枢機卿リシュリューがパーティーを開催して王妃にその飾り紐をつけて参加するように王から提案させる。困った王妃は侍女のモナシュー夫人に相談すると彼女がダルタニャンにバッキンガム公から返してもらってくるように働きかける。ロンドンまで行くダルタニャンと三銃士とそれを阻止せんとする枢機卿側の策謀ははらはらどきどきがなくもないではなかった。

1844年に『三銃士』は書かれ、新聞に連載された。まったく無名の男が王位を簒奪したナポレオンの帝政期をへて、大地主の利益に依拠した王政復古期、そして1830年の7月革命によってルイ・フィリップによる立憲王政期にあった。これらの時代は、いわばまったく無権利だったブルジョワジーが経済力をつけ、王政をフランス革命によって倒したが、そのまま自分たちの権力へは直結せず、そのあらぶるエネルギーを暴力的に発散していた時代であるといっていい。そういった秩序とか安定などをぶち壊してまで、自分の信ずるところを猪突猛進する人間形象が、『三銃士』のダルタニャンであり、三銃士たちであるといえるのではないだろうか。

ルイ14世統治下のがっちりと秩序と序列が決まった、息の詰まるような時代になる前の、まだおおらかな時代というのは実際そうだったのだろう。しかしだんだんと真綿で首を絞められるように、あれはするなこれは礼儀に反すると秩序という名によって自由な行動が狭められていくのを感じながら、大暴れするダルタニャンに、せっかく革命を起こして王政を転覆して自分たちの時代が来たと思っていたのに、思うに任せない新興ブルジョワジーのエネルギーの発露を描いたものであったればこそ、19世紀の前半にデュマの小説がたいへんな人気を博したのだろうと思う。

こう考えれば、デュマ自身があまりルイ13世統治下のフランスのことを熟知していたわけではなかったこともあり、この時代のことがそれほど綿密に描かれていない理由もうなずけるのだが、もう少しこの時代のことを知りたかった私としては不満が残った。

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『蟹工船』

2009年03月22日 | 映画
『蟹工船』(山村聡監督、1953年)

金融危機から非正規雇用の大量首切りが横行し、それが小林多喜二のプロレタリア文学作品『蟹工船』への関心を高めているらしい。なんでも累計で160万部も売れているとか(って、本当?)。おまけに俳優松田龍平の主演で映画化されることになったという。監督は「疾走」などで知られるSABUという人だとか。こうなると本当だろう、この人気は。

それで50年以上も前にあの俳優の山村聡が監督をして撮影された映画の『蟹工船』の上映会があちこちで開かれており、中百舌鳥であったので、上さんと観てきた。監督の山村聡といえば、「華麗なる一族」の会社の重役とか「日本沈没」の総理大臣とか「トラ・トラ・トラ」の山本五十六なんかをやらせたらその重厚な演技で定評があった人だ。どちらかといえば、いつも支配者の側の役ばかりで、まさかこんな正真正銘のプロレタリア文学を映画化するような人には思えなかったので、びっくり。映画の中では、意外にダメ青年で海に飛び込んで自殺してしまう役なのだが。

とにかく古いので、音は悪いし、映像も荒いしで、たぶんきれいな映像で見たら、あちこちぼろが目に付いたのだろうけど、あまり目立たなかった。

そのほかあれこれけちを付け出したらきりがない。最後の海軍が乗船して労働者を鎮圧する場面でもみ合って海軍側が発砲してしまう場面などはなんだかリアリティーに欠けるし、どうみても嵐の場面なのに、海は凪いでいる感じで、雨を前面に降らせ、嵐のような音響効果で、嵐の場面と思わせている。

ただ、劣悪な船内生活の描写は圧巻だ。あれで半年間も生活するという設定だから、空恐ろしい。蟹工船が死の工船だとうすうす感ずいているような者たちもいて、それでも嵐のなかを蟹のかかった網を引き上げに小船に乗せるだとか、病気になっても暴力的に働かせるなどの描写は一番重視されたところだろう。

どことは指摘できないが、やはり『戦艦ポチョムキン』なんかの影響もあるのだろうか?原作では自覚的な労働者の数人が説得工作をして労働者を立ち上がらせるというようにきめ細かく描いてあるらしいが、映画ではたまりにたまった彼らの怒りに火がついて暴動に決起するようになっている。それはたぶん映画では正解だったと思う。映画で、あまり細かい工作の様子を描いてもリアリティーに欠けることになるだけだっただろう。

53年といえば戦争が終わってまだ8年目だ。もちろん独立系で撮影したのだろうから、資金だってたいして集まらなかっただろうに、よくあそこまで撮影できたなと感心する。

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金剛トンネル・五條・紀見峠

2009年03月21日 | 自転車
金剛トンネル・五條・紀見峠

観心寺から金剛トンネルをめざす。今日は久しぶりに黄砂もなくなってきれいに空が晴れ渡っている。前回は1時間かかった。少しはタイムが縮められるだろうか。観心寺を出たのは9時38分。自宅を出たのが8時48分くらいだったので、やはりどうしても観心寺まで1時間くらいかかる。まぁウォームアップの意味もあるから、無理して時間を縮める必要はないのだが。

観心寺を出ると、すぐにけっこうな坂がある。もうなんだか体が重たい、というか足が重い。上さんの調子が悪かったり、黄砂でライドをやめていたりしたので、10日ぶりだからだろう。とにかく石見川バス停からトンネルまでの九十九折に力を残しておかないと、前回のように、上まで上がったはいいが、ふらふらというのでは、奈良県側に下りることができないので、ちょっと余裕を残しつつ、「ゆっさゆっさ」というよりは、我慢我慢という感じで上がる。金剛トンネルのほうから下りてくるローディーは何人もいるのだが、私を追い越していく人はまったくいない。こんな早くからタイムトライアルでもやってきたのだろうか?

九十九折れにはいる。やはりあれからあちこち走ったのが生きているのか、らくだ。かなりの余裕を残して、トンネルに着く。50分で来た。もっとタイムを縮めようと思ったら、昇條坂を何度も上がる練習を繰り返したらいいかも、なんて考えつつ、羊羹を食べて、ひと休憩。地図で五條側の道路を確かめる。今日は紀ノ川まで下りないで途中で右折することにする。じつはこれは失敗だったとあとで分る。

310号線(つまりうちのすぐ近くを走っているこの国道がずっとここまで続いていることになる)を降りる途中で、はるか向こうにたぶん高野山あたりの山々と思われる山脈が見える。いずれはあそこまでもいけるようになりたいものだ。ダウンヒルを軽快に下りる。昨日YouTubeで見たダイジェスト版のツール・ド・フランスを思い出してちょっと格好つけてみたりする。危ない危ない!

ふもとまで下りてきて、大善寺というところで右折する。紀泉山地の南側斜面を走ることになる。車が少ないからと思ってこちらを選んだのだが、アップダウンがすごくて、もう疲れた。いっそ紀ノ川沿いの国道24号線まで下りて、すっと橋本まで行ったほうがすんなり行けてよかったと思う。やっとこさ林間田園都市までやってきて、371号線に合流。すごい交通量だ。でも抜け道があるのさ。次の信号を右折して、紀見ヶ丘という住宅地を横切って371号線の旧道に入る。さぁここからが正念場だぞといい聞かせて走るも、意外とすんなり紀見峠まで来てしまった。こちらは意外に楽だったんだ。

あとは休憩もなく河内長野のラブリーホールを経由して無事に帰宅した。サドルもVELO RACER SADDLEに変えて、正解でした。走行時間3時間48分。66km。でも今のところ、これくらいが限界。

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古地図展

2009年03月20日 | 日々の雑感
古地図展

昨日は神戸市立博物館に「古地図に描かれた世界 アジアと日本」という特別展示を見に行った。16世紀から18世紀にヨーロッパでつくられた世界地図に日本がどんなふうに描かれているかを年代順に並べて分るようにしてある。(左の地図は、1570年の東インド諸島図)

16世紀にはただの台形でしかなかったものが18世紀になると、日本列島を素描したような形になってくる。どうも日本で作られた地図がオランダ経由で流出して、それをもとに描かれたので、そのようになったという解説であった。だから北海道はまったく描かれていないか、完全に違う形でえぞと記されている程度である。日本人の認識がその程度だったということだろう。

アジアの地図で興味深いのは、インドネシア、フィリピンあたりはかなり以前から詳細に描かれているのにたいして、朝鮮半島はまったく描かれていないか、いまのサハリンのように中国大陸から分離した形で描かれることが多いということだ。東インド会社はインドネシアを根城にして交易を行っていたので、フィリピンやインドネシアの大きな島なんかには相当行き来があったのだろう。当時の地図は実際の交通量が正確さに反映するので、朝鮮半島が無視されているということは朝鮮半島とはほとんど交易がなかったということなのだろう。

日本は黄金の国としてヨーロッパに紹介されたのはだれでも知っていることだが、朝鮮はどのように紹介されていたのだろうか。ヨーロッパ人の目的は金とか銀とかで、日本がオランダあたりと交易を始めた当初も銀が大量に流出してしまったということはどこかで読んだような気がする。朝鮮にはそういった資源が発見されておらず、ヨーロッパ人から見て魅力に乏しかったということなのかもしれない。

もう一つ企画展があった。吉宗の時代に西洋画を書いていた日本人がいたのだが、その人に照明を当てた企画である。博物館の解説をそのままここに引用する。

「石川大浪(いしかわたいろう、1762~1817)は旗本の家に生まれ、江戸城の警護などにあたる大番(おおばん)を勤める一方、洋風画家として活躍しました。8代将軍吉宗の命により舶載(はくさい)された油彩画を模写したことや、杉田玄白(すぎたげんぱく)の肖像画(重要文化財)はよく知られています。また、当代一流の知識人であった大槻玄沢(おおつきげんたく)、木村蒹葭堂(けんかどう)、谷文晁(たにぶんちょう)などとも親しく交遊しました。
 親交のあった大田南畝(なんぼ)は、随筆『一話一言』で大浪が書画の類をかなり所蔵していたことを伝えます。蔵書の全体像は不明ですが、フランス語版『イソップ物語』や最新の海外情報であったニューホフ著『東西海陸紀行』などを所蔵していたことがわかっています。
 その挿絵が、歌川国芳(うたがわくによし、1797~1861)による「忠臣蔵十一段目夜討之図(ちゅうしんぐらじゅういちだんめようちのず)」「近江の国の勇婦於兼(ゆうふおかね)」「二十四孝童子鑑(にじゅうしこうどうじかがみ)」シリーズなど、洋風浮世絵版画の源泉として活用されています。国芳は、幕末期に浮世絵のあらゆるジャンルにおいて、個性あふれる才能を発揮した人気の浮世絵師です。
 蘭学に深く関わった旗本画家と江戸っ子気質そのままの幕末の浮世絵師。大浪と国芳を繋ぐ蘭書(らんしょ)を手掛かりに二人の画業をたどります。」

石川大浪という人は、上記のように、吉宗が取り寄せさせた西洋書のイラストなどを模写することで西洋画に熟達し、杉田玄白などが医学書の解剖イラストを載せるときにその模写を手伝ったりしている。西洋書の翻訳出版などではイラスト書きとして重宝がられたようだ。もちろん彼の書いた西洋画が日本絵画の必然的発展として成り立ったものではなく、たんなる物まねに過ぎないとみなすこともできるだろうけど、原本と模写、原本とそれを参考にして書き換えられた作品とが並べて展示してあるものもあり、とくに歌川国芳の場合はプロの画家でもあり、こうした西洋画の模写が日本の浮世絵などにどのような影響があったか・なかったかを調べるのも興味深い研究になるのではないかと、ひとごとながら思う。

神戸市立博物館ってけっこうおもしろいものを収蔵しているようなので、日本国内の古地図展やヨーロッパの大都市の古地図展などもやってほしいね。

神戸市立博物館のホームページ

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『褐色の文豪』

2009年03月18日 | 作家サ行
佐藤賢一『褐色の文豪』(文芸春秋、2006年)

『三銃士』『モンテクリスト伯』『王妃マルゴ』などの小説で有名なアレクサンドル・デュマの伝記的小説である。いちおう、フランス文学に関心をもつものとして、デュマがどんな小説を書いていたか程度のことは知っていたけれども、こうやって小説の形で読むと、シャルル・ノディエとの関わりやあの文豪ビクトル・ユゴーを歯軋りさせた新聞小説での大活躍など有名な人物との関わりや、時代状況が手に取るように分って、じつにためになる。

興味深く読んだところは二つある。一つは、デュマが作家として活躍を始めて、一躍パリの有名人になった頃に起きた7月革命である。王政復古がなり、ギロチンにかけられたルイ16世の弟であったルイ18世が国王になるが、彼の後を継いだシャルル10世が暴君の名をほしいままにして、矢継ぎ早に彼の支持基盤である大地主に有利な政策を展開していったために7月革命が起きる。そして政治的には自由主義を標榜するオルレアン公ルイ・フィリップが立憲王政を継承することになる。もちろん議会が実施的な政治を行うという意味で立憲王政なのだが、大地主から大ブルジョワに権力が移行しただけの革命とは名ばかりのものであったことは、まぁ一般に歴史の本などで言われていることだ。だがそれをそこに生きたデュマという人物がどのように関わっていったのかということを、生きた人間の物語として提示されると、その相貌もずいぶんと変わって見える。パリのバリケード戦というのは、パリの通りが狭いのですぐできることで有名で、たしかフローベールの『感情教育』の冒頭にも描かれていたのは7月革命の余韻ではなかったかな(記憶違いかもしれない)。それでまた48年には2月革命が起き、クーデタがおきて第二帝政になるときにも同じようなことがおきたため、ナポレオン三世がオスマン将軍に命じて、パリの大改造を行い、簡単にバリケードが気づけないように通りを広くしたという話がある。

二つ目には、新聞小説ということだ。新聞小説といえばバルザックだと思っていたが、たしかに新聞小説が新聞の発行部数を延ばす働きを演じるほどに読者をひきつけるようになったというのはデュマの『三銃士』が最初だったのかもしれない。このなかでも描かれているように、革命前はフランスの識字率はほんとうに低いもので、読者といってもたかが知れているが、19世紀になると学校教育もじょじょに整ってきて、識字率が上がってくる。それにともなって、安価で手に入る新聞で読める小説は読者大衆をひきつけるのに格好のメディアだっただろう。日本でも夏目漱石の小説はほとんど新聞小説で発表されたものだ。新聞好きのフランス人という特徴はこの時代にできたのかもしれない。

新聞小説作家の売れっ子ぶりも書かれているが、それはもう現代の売れっ子漫画家、たとえば手塚治虫の様子を見ているような風に描かれている。もちろん作者の佐藤賢一がそうなのだろうし、現代の売れっ子作家のイメージをそこに投影していることは間違いない。そういう意味でも現代のように文芸が商業ベースにのって、作家をあっという間に時代の寵児にしたり、あっという間に没落させたりというのは、デュマの時代に始まったとみていいだろう。

たしかにユゴーの『レ・ミゼラブル』やバルザックの小説に比べると時代がルイ13世とかルイ14四世とかのように17世紀であってみれば、あまりに古臭い感じがしないでもないから、それが『レ・ミゼラブル』のように今日でもいまだにミュージカルの題材となったりするところと違う。ただ、絶対王政に入る以前のフランス人にはまだ自由闊達なところがあっただろうから、それが『三銃士』のようなはらはらどきどきの活劇的作品を生み出す政治的土壌であったのだろう。

それにしても『三銃士』なんて、少年少女向けのリライトしたものでなくて、そのまま読めるのだろうか? 岩波文庫にありました。

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『下妻物語』

2009年03月17日 | 映画
『下妻物語』(原作:嶽本野ばら、監督:中島哲也、2004年)

一度見てみたいと思っていた『下妻物語』をやっとみれた。たまたまJ-COMでやっていたのだ。物語はおくとして、配役がすばらしい。深田恭子の竜ヶ崎桃子、土屋アンナの白百合いちご、桃子の父親に宮迫博之、母親が篠原涼子、祖母が樹木希林、その他、岡田義徳やまちゃまちゃが脇をかためる。一角獣の竜二なんてのを阿部サダヲがやっているし、八百屋とジャスコの店員役をとぼけた顔の荒川良々がやっている。

関西のファッションをジャージ一色で説明する冒頭のシーンもすごい。かつてはジーンズもそんな風に肉体労働者のはきものだったから、ジーンズでは名の知れたレストランなどでは「入店お断り」だったのが、今ではれっきとしたファッションの一部で、プレミアのつくようなオールド・ジーンズだってあるくらいだ。だからジャージだっていずれはこの冒頭シーンのように、ジャスコで買うようなものからプレミアがつくようなものまででてくるかもしれない。そんなことを思わせる冒頭シーンだった。すごい!

ロリータファッションっていうのだろうか、あの桃子が着ているような服。ときおりなんば駅なんかでみかけるが、さすがに浮いている。でも桃子は自分がフランスのロココ時代の生まれ変わりみたいに思っていて、自分が最高と思える服をきることで、その服にみあった人間になるように努力しているわけで、それは一つの信念、生き方であるからして、素晴らしいことのように思う。別に人に迷惑をかけているわけではなく、自分の信念とするファッションを着て、自分を高めていこうとする姿勢は、まさに、現代社会ではマイナーかもしれないが、一つのしっかりした生き方をもっている若者をつねに提示してきた嶽本野ばらならの物語だろう。煙草を吸って人に迷惑をかけておきながら、「禁煙ファシズム」などと開き直る御仁たちよりはよほど人間的に優れている。

一方、ヤンキーの白百合いちごは、ちょっと特異である。ヤンキーがみんなそういうわけではないだろうが、たんに特攻服に身を固めてにぎやかなバイクで徒党を組んで走り回っているというだけではなく、いちごの場合は、いじめが原因で、自分をどうしていいかわからないでいた頃に暴走族の亜樹美にあこがれてレディースの「舗爾威帝劉」に入るが、この族は一緒に群れて走るだけで、上部組織だとかの上下関係なんかをもたないことで、ほかの族とはちがっていた。いちごはここで自分を解放することができたのであり、一般に社会の嫌われ者と思われている暴走族にも筋をとおす友だち思いの人間もいるということを描こうとしているように思のだが、どうだろうか。

いちごが亜樹美が引退した族から抜けたいと言い出したために、「ケジメ」をつけるとして集団リンチにあう場面に桃子が助けに行った場面で、あのおとなしいだけの桃子が「本領発揮?」みたいに族のメンバーをやっつけるのは、この二人がまるで入れ替わったかのような印象をもつが、だいたい竜ヶ崎というようないかにもな名前といちごというこれまた暴走族とは相容れない名前がしからしむところだろう。

原作は読んでいないのだが、映画の方はほんとうによくできていたと感心した。

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黄砂=中国公害の襲来

2009年03月16日 | 日々の雑感
黄砂=中国公害の襲来

今日はまたひどい黄砂であった。今日の大阪は朝のうちは北のほう、家から見えるところでいうと生駒山地の北のほうが黄色くかすんでいるだけで、東や南はそれほどでもなかったが、昼過ぎからこちら方面もかすんできて、夕方になると、いつもきれいに見える二上山、大和葛城山、金剛山の稜線がまったく見えない。空も晴れているのに、曇っているときのようにぼんやりしている。

黄砂をたんなる春の風物詩と思って、黄色くけむる山々をのんきに眺めている時代は終わった。工藤静香のように「黄砂に吹かれて」なんて暢気に歌ったり、「やすやすと天山越ゆる黄砂かな」なんて優雅に歌を詠んでいる場合じゃないだろう。黄砂は数万年前からあったという。まぁ中国奥地の砂漠がそんな数千年でできたわけではないだろうから、それもそうだろう。かつての黄砂はまさに砂だけだったが、いまや中国の工業化にともなって、怖ろしいものを付着させて日本にやってくるようになった。

このあいだテレビでやっていたが、黄砂には、細菌、硫黄酸化物、窒素酸化物など付着して、いっしょにやってくる。そして日本まで来る黄砂はそうとうの遠距離を飛んできているので、粒子が非常に微小で、肺の中に簡単に入ってしまう。それに細菌が付着していたら、その結果、肺炎になったり、そこまでいかなくても、花粉症や喘息になることは容易に考えられる。

マスクなんかやすやすと通過してしまう。まぁマスクもしないよりはしたほうがいいから、今日出かけるときに私もマスクをしたけど。なんか気持ち悪くなる。そのために、喘息の原因になるという。日本では公害反対運動によって空気がだいぶきれいになっているのに、まったく公害対策をしていないで金儲けのことしか考えていない中国が発生させた公害物質がはるばる日本にやってきて、日本人の健康を蝕むなんてことは、まったく納得できない話である。

その因果関係だって、最近になってごく一部の研究者が調査を始めたばかりで、それだって、多くの犠牲者を出してからでないと、その因果関係を科学的に明らかにするのはなかなか難しいだろう。結局、中国はけっして自分たちのしたことを認めないだろう。それ厚労省なんてまず動かないだろうから、結局多くの日本人が訳の分からない病気で犠牲になってしまうことは十分考えられる。

昨夜テレビで今日は黄砂がやってくると放送していたので、ロードバイクに乗ろうと思っていたけど、やめにした。わざわざ黄砂を吸いに出かけることはない。でもみんなは仕事やらその他の用事で出かけなければならない。

黄砂の健康被害については、こちら

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