仲正昌樹『今こそルソーを読み直す』(NHK出版生活人新書、2010年)
アマゾンのエントリーを見ていると、この本はほとんどが☆5つで、その内容も、著者のファンが書いているようで、人文科学系には珍しくファンの多い著者のようだ。分かりやすい、懇切丁寧で、具体的な論述の仕方が好評のようだ。
私が驚いたのは、デリダの『グラマトロジーについて』におけるデリダのルソーの音声中心主義批判の核心ををほんの数行で分かりやすくまとめているところだ。まずはエクリチュールの意味。もちろんエクリチュールというは文字などの書かれたもののことを意味するのだが、この著者はそれをもうすこし拡大解釈する形で、パロールが定着してラングという強制力をもつものになったものというふうに説明している。たとえばこんなふうに。
「しかしながら、こうしたパロールの優位は、本当のところ表面的な現象である。エクリチュールというのを文字通り、神などの物質的媒体に刻み込まれた文字の連なりと取れば、確かに、それはパロールから派生した二次的なものにすぎないが、そのパロール自体は、決して自然発生的に私の口から生じてくるものではない。(…)音の最小の単位が何か決まった観念を表象する、あらかじめ音韻論的に割り当てられている必要があるわけである。そうした慣習=規約の体系が成立していることを前提にパロールがパロールとして機能するわけである。(…)そうした記号の体系が、私の心の内に「書き込まれて」いなかったら、私の自己内対話も成立しない。私の心にしっかりと「書き込まれて」いる記号の体系こそが、最も根源的ない見での「エクリチュール』だとすれば、むしろエクリチュールがパロールを生み出していると見るべきだろう。」(p.57)
デリダによるルソー批判の核心がここにあるという説明は私には目からうろこだった。ただ私としては、もしデリダによるルソー批判の核心がここにあるということが真実ならば、これはかつて丸山圭三郎が『ソシュールの思想』で明確に説明している「構成された構造」というソシュール理論の重要な柱の一つであって、これに近いことをルソーはすでに『言語起源論』や『音楽辞典』で指摘している。それがルソーに二つの歌概念だ。一つは原初の状態に近い言語と音楽がほぼ同じであるような状態をもつ古代ギリシャ語では、詩を朗読することがそのまま歌になるという。この場合、歌とは言語がもつ抑揚に一定のリズムを与えるだけで音楽的になるという意味である。ところがルソーによれば、言語と音楽が完全に分離した近代西洋では、言語は音楽的ではないし、音楽は言語の抑揚とはまったく無関係な体系をもっているので、歌うとは、言語とは無関係な音楽の体系に入ることを意味する。この場合、音楽の体系に入らなければ、歌は歌とはならない。これが「構成された構造」のもとでの必然性というソシュール理論の重要な柱の一つを先取りするものであると私には思われる。
とまぁ、こういうわけで、この本の始めの部分でこうした解説にであったことから、さらに読み進めようという気になった。
しかし一般意志の問題などは、こういう解説を読めば読むほど難しいなと思う。学者が読んでも分からない、あるいは各人各様の解釈ができるような概念はどうしようもないという気がしてくる。その点から考えれば、各人は自由な意志によって政治に参加し、その多数決による決定にその限りで拘束されると考える立憲民主主義的な考え方のほうが、ずっと分かり良い。
しかしずっと大きな視野で見ると、ルソーの政治思想は、契約論にせよ、自然状態と堕落した状態から社会契約のやり直しによる新しい社会の創造という考え方にせよ、この著者もマルクス主義の源流として説明しているように、社会変革の理論に大きな武器となったのだろうと思う。と同時に、ルソーの一般意志論は全体主義的な色合いを持っていることは確かで、全体主義に絡め取られないために、何が必要なのか、さすがにこればかりはこの著者もよく分かっていないのではないだろうか?
アマゾンのエントリーを見ていると、この本はほとんどが☆5つで、その内容も、著者のファンが書いているようで、人文科学系には珍しくファンの多い著者のようだ。分かりやすい、懇切丁寧で、具体的な論述の仕方が好評のようだ。
私が驚いたのは、デリダの『グラマトロジーについて』におけるデリダのルソーの音声中心主義批判の核心ををほんの数行で分かりやすくまとめているところだ。まずはエクリチュールの意味。もちろんエクリチュールというは文字などの書かれたもののことを意味するのだが、この著者はそれをもうすこし拡大解釈する形で、パロールが定着してラングという強制力をもつものになったものというふうに説明している。たとえばこんなふうに。
「しかしながら、こうしたパロールの優位は、本当のところ表面的な現象である。エクリチュールというのを文字通り、神などの物質的媒体に刻み込まれた文字の連なりと取れば、確かに、それはパロールから派生した二次的なものにすぎないが、そのパロール自体は、決して自然発生的に私の口から生じてくるものではない。(…)音の最小の単位が何か決まった観念を表象する、あらかじめ音韻論的に割り当てられている必要があるわけである。そうした慣習=規約の体系が成立していることを前提にパロールがパロールとして機能するわけである。(…)そうした記号の体系が、私の心の内に「書き込まれて」いなかったら、私の自己内対話も成立しない。私の心にしっかりと「書き込まれて」いる記号の体系こそが、最も根源的ない見での「エクリチュール』だとすれば、むしろエクリチュールがパロールを生み出していると見るべきだろう。」(p.57)
デリダによるルソー批判の核心がここにあるという説明は私には目からうろこだった。ただ私としては、もしデリダによるルソー批判の核心がここにあるということが真実ならば、これはかつて丸山圭三郎が『ソシュールの思想』で明確に説明している「構成された構造」というソシュール理論の重要な柱の一つであって、これに近いことをルソーはすでに『言語起源論』や『音楽辞典』で指摘している。それがルソーに二つの歌概念だ。一つは原初の状態に近い言語と音楽がほぼ同じであるような状態をもつ古代ギリシャ語では、詩を朗読することがそのまま歌になるという。この場合、歌とは言語がもつ抑揚に一定のリズムを与えるだけで音楽的になるという意味である。ところがルソーによれば、言語と音楽が完全に分離した近代西洋では、言語は音楽的ではないし、音楽は言語の抑揚とはまったく無関係な体系をもっているので、歌うとは、言語とは無関係な音楽の体系に入ることを意味する。この場合、音楽の体系に入らなければ、歌は歌とはならない。これが「構成された構造」のもとでの必然性というソシュール理論の重要な柱の一つを先取りするものであると私には思われる。
とまぁ、こういうわけで、この本の始めの部分でこうした解説にであったことから、さらに読み進めようという気になった。
しかし一般意志の問題などは、こういう解説を読めば読むほど難しいなと思う。学者が読んでも分からない、あるいは各人各様の解釈ができるような概念はどうしようもないという気がしてくる。その点から考えれば、各人は自由な意志によって政治に参加し、その多数決による決定にその限りで拘束されると考える立憲民主主義的な考え方のほうが、ずっと分かり良い。
しかしずっと大きな視野で見ると、ルソーの政治思想は、契約論にせよ、自然状態と堕落した状態から社会契約のやり直しによる新しい社会の創造という考え方にせよ、この著者もマルクス主義の源流として説明しているように、社会変革の理論に大きな武器となったのだろうと思う。と同時に、ルソーの一般意志論は全体主義的な色合いを持っていることは確かで、全体主義に絡め取られないために、何が必要なのか、さすがにこればかりはこの著者もよく分かっていないのではないだろうか?