読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『ゲリラ』

2020年06月30日 | 現代フランス小説
ローラン・オベルトーヌ『ゲリラ』(東京創元社、2017年)

アマゾンに載っていた紹介文。

「貧困層が多く暮らすパリ郊外の巨大団地。この地区で警官が小競り合いの末、住民を射殺するという事件が起きた。「警官による差別的な虐殺」との報道から、移民に共感を寄せる市民は警察に抗議、移民や貧困にあえぐ住民たちは、復讐心から過激な暴力に走り、その機に乗じたテロリストも加わり、暴動やテロはフランス全土に広がる。大統領も首相も殺害され、ライフラインは麻痺、他国の援助も得られぬまま国家が崩壊していく三日間を描いた最悪の近未来小説!」

毎年のようにパリで起きている暴動のような事件。警察が移民の少年や不法滞在者を摘発したのがきっかけとなって、路上の車を燃やしたり、店のショーウィンドウを壊して、強盗を働いたりするようなことになってしまう。

もちろんそうした出来事の背景に移民の置かれた最悪の状態―教育もまともに受けられず、教育をまともに受けても名前のせいで面接さえも拒否される、などなど―があり、それゆえに無法状態になっている地区では、こうしたことが一触即発で起きることは、よく知られている。

だが不思議なのは、それでも、決してそれ以上の事態には発展しないことだった。きっと、無法なら無法なりに、生きていくすべがあって、そうした状態で一定の社会ができあがっているということなのかもしれない。

この小説は、そのエネルギーの発露が止めを失ったときにどういうことになるかを描いてみせたと言っていいだろう。ウェルベックは『服従』でイスラム主義者が大統領になって、国教がイスラム教になった社会―2022年というすぐ目の先のこと―、つまり国家の乗っ取りを描いたが、ここの描かれているのは乗っ取りではなくて、国家の崩壊なのだ。

マクロンが大統領になってこれまで以上に金持ち優遇政策が行われ、中流以下の国民は最低限度の生活さえも苦しくなっているところへ、新型コロナの流行で、国民生活はかつてなく苦しくなっている。

マクロンが舵取りを誤ったら、本当にこんなことになりかねない。

『ゲリラ (国家崩壊への三日間)』のアマゾンのサイトへはこちら


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『6時27分発の電車に乗って、僕は本を読む』

2020年06月20日 | 現代フランス小説
ジャン=ポール・ディディエローラン『6時27分発の電車に乗って、僕は本を読む』(ハーバーコリンズジャパン、2017年)

平凡なフランス人の平凡な日常生活とちょっとした幸せを描いた小説。

ギレン・ヴィニョールは大量の廃棄本を溶解する工場で働いている。そしてその仕事が、つまり本を溶解する仕事がいやでいやで仕方がないので、溶解されないで残った本を、毎朝出勤の電車のなかで朗読する。乗客たちもそれを毎日楽しみにしている。

彼の友人といえば、同僚で、溶解する機械の清掃中にその機械が動き出してしまい、両足を切断されてしまったジュゼッペ(今は車椅子生活をしている)と、何でもかんでもアクレサンドランでしゃべるほど古典演劇が大好きな守衛係のイヴォンくらいだ。

彼の生活に変化が起きたのは、通勤電車の中での朗読を聞いて気に入った老女に養老院でその朗読をしてくれと誘われたこと。そしてギレンはそこで歓迎され、朗読も喜ばれる。その朗読会にはイヴォンも行くことになり、彼も大歓迎される。

さらに、いつもの座席にメモリースティックがあるのに気づき、それを持ち帰って読むと、どこかのショッピングセンターのトイレの清掃係の女性が書いたものだった。その文章が気に入ってしまったギレンは、ジュゼッペにそのことを話すと、彼がいくつかのショッピングセンターの候補を絞り込んでくれて、それをもとにジュリーという女性を探すことになる。

そしてついにその時がやってきて、彼女を見つけたギレンは、彼女に花を送って、デートに誘うのだった。

朗読ということがこの小説の核になっている。フランスは朗読文化の国だ。かつてこの小説でも出てくるラシーヌやコルネイユの時代には詩の朗読によって女性を失神させるほどの官能を覚えさせることができたという話もあるくらい。音の長短、上がり下がり、音の響きそういうものが意味を形成する言語であればこそ成り立つ世界だ。映画にしたらも面白いものができるのではないだろうか。

『6時27分発の電車に乗って、僕は本を読む (ハーパーコリンズ・フィクション)』へはこちらをクリック

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『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』

2020年06月19日 | 評論
蓮池透『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』(講談社、2015年)

数日前に横田めぐみさんのお父さんの横田滋さんが亡くなった。ずっと「家族会」の代表をしてこられたが、ついに横田めぐみさんとの再会かなわずに亡くなられ、さぞや無念だったことだろうと思うと胸がつまる。

それにしても2002年の平壌での小泉首相と金正日との会談で拉致が公になってから、なんと長い年月が経ったことだろう。その間、蓮池さん、地村さん、曽我さん本人たちと家族の帰国がかなった以外の成果はなかった。

この間、とくに安倍晋三が首相になってからは、とくに金正恩が北朝鮮のトップになってからは、核とミサイル開発を優先させたことから、経済制裁の一点張りになって、拉致問題は手を付けられなくなった。この本はこのあたりのことを何度も繰り返し主張している。

しかし、この著者の考えでは、核とミサイル問題と拉致問題は別問題だ。それを連結して議論したり、北朝鮮と交渉しようとするから、まったく前に進まないという。

経済制裁一辺倒の政策にどんな意味があるのかこの著者は疑問に思っており、ある政府関係者に尋ねた時の答えがこうだったという。

「経済制裁すれば北朝鮮はもがき苦しむ。そして、どうしようもなくなって日本に助けを求めてくる。ひれ伏して謝り、拉致被害者を差し出してくる。であるから、日本は広く窓を開けて待っているのだ。」(p. 80)

北朝鮮や韓国、つまり朝鮮の人々がどれほどプライドの高い国民か、慰安婦問題やその他の日朝関係の問題を見たら、だれでも分かるだろうに。そんなプライドの高い国民が、経済制裁に苦しんで、ひれ伏して謝ってくるって、絶対ありえない。この著者も「北朝鮮の人間は「日本に謝るくらいなら、死んだほうがましだ」と考えている」と書いているが、まさにそのとおりだろう。本気で日本政府はそんなことを考えているのだろうか。

安倍政府がまったく拉致問題で無策らしいことはこの本を読めばあちこちで分かる。拉致対策本部がネットでアイデア募集しているとか、全員救出という意味不明のハードルをつけて解決を先延ばし(いや解決不可能)にしていることだとか。つまり拉致問題解決の「定義」がないのだとこの著者は何度も書いている。

日本という国は個を大事にしないとよく言われるが、拉致被害者にたいしても同じらしい。蓮池さん家族が帰国して両親の家に同居している時に、国に経済的な支援を頼んでも、帰国者二人分の領収書を出せとか、洋服ダンスを買うにも3万円以内にしろとか、規定ばかりうるさくて二人に寄り添う気持ちなんかないと書いてる。その結果、蓮池さんのお母さんは逆上して、「24年間も見放しておいて、やっと帰ってきたというのに、何もしてくれないんだね、国は」(p.132)とつぶやいたというから、悲しくなる。

家族会のなかの内紛を書いてある箇所を読むのも悲しい。帰国できた人とそうでない人がいる以上しかたがないのかもしれないが、残念なことだ。

このような本を書くことになったこの著者も最初からこんなスタンスだったわけではない。家族会がだんだんと右傾化してしまったので、それを揺り戻すために左翼化した発言をするようになり、それを咎められて、家族会から排除されたと書いている。まぁこの著者も最初から一貫した主張をしていたわけではなく、右に左に揺れながら現在の立場になったという。もちろん北朝鮮に拉致されたなんて信じられないというところから出発して運動をしてきたわけなので、当然といえば当然なのだが。

最後のジャーナリストの青木理との対談も、とくに273-4ページあたりに書かれている、おおきな構想力のある絵を描いて、その中の最初のステップとして定義を明確にした拉致問題解決をしていくという展望も説得力があると思う。

まぁ日本政府がこういう人たちの発言に耳を傾けるなんてことはないだろうけどね。『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』へはこちらをクリック


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『至福の味』

2020年06月15日 | 現代フランス小説
ミュリエル・バルベリ『至福の味』(早川書房、2001年)

瀕死の料理評論家の断片的な回想と、彼にまつわる人々(家族、友人、料理人、犬、猫など)の回想を、断片的に組み合わせた形式になっている。

最初は、読みながら人間関係を理解しようとして苦労したが、すぐにそれが徒労だと思って辞めた。

すると、逆にそんな人間関係のことなど考えなくて、ただこの瀕死の料理評論家が経験した至福の料理やそれにまつわる状況を愉しめばいいんだということが分かってきて、楽に読めた。

フランス人が食にこだわりを持っている国民だということはよく言われる。決して高級な料理人が高級な食材を使って作った手のこんだ料理が素晴らしいわけではない。そのことをちょうど真ん中あたりに出てくる「農園」というエピソードが教えてくれる。

ノルマンディーの田舎に最近できたというおいしい食事を出すホテルを探して何時間も車で探し回ったあげく見つからずに、たまたま道を尋ねるために車を止めた農園で昼食をすることになった。生牡蠣、生ハム、グリーン・アスパラガス、鶏肉にじゃがいものメインディッシュ、デザートにりんごのタルト、食後のコーヒーを飲んだ後にそこにカルバドスをいれて締めとする。

この土地の人々にとっては手近な料理が最高の味わいをもたらしたのは、気さくな農婦とその場にいた近所の男たちとの他愛もないお喋りだったという話は、料理というものの本質を教えてくれる。

そしてもう一つ、この本のエピソードで私の印象に強く残ったのは、「野菜」というエピソードで、これはこの主人公の伯母のマルトの話である。汚いなりをした伯母のマルトが育てている野菜はまったく他のものと違って、何にもまして美味しかったと言う。そして彼女の家というか農園にある菩提樹の大きな木の下でのんびりすることの至福。

我が家は今晩はカツオのたたきだ。この主人公のようにじっくりと味わってみよう。

『至福の味』へはこちらをクリック


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『流浪の月』

2020年06月11日 | 作家ナ行
凪良ゆう『流浪の月』(東京創元社、2019年)

2020年の本屋大賞を受賞したと新聞で見たから読んでみたけど、なんか今まで読んだこともない傾向の不思議な小説だった。

もともとBL小説を書いていた作家ということらしく、この小説でも主人公の一人の佐伯文は第二次性徴の時期に性的な発達が止まった男性ということになっている。決して女性が嫌いなわけでも、BLなわけでもないということに苦しんでいた佐伯文が大学生のときに、小児性愛者ということなら世間が自分を認めてくれるだろうという歪んだ意識から、家内更紗という9歳の子を「誘拐」した。

更紗は大好きだった両親が亡くなり、叔父夫婦の家で引き取られていたがそこの息子に性的なハラスメントを受けており、家から出たいと思っていた。公園にいた時、雨が降ってきて、傘をさした大学生が家に誘ってくれて…。

二人の関係は世間的には小児性愛者による少女誘拐被害者が二ヶ月も一緒に暮らすうちに犯罪者を愛するようになったというストックホルム症候群といわれるような関係の二人の「本当の姿」を描いた小説ということになるのだろうか。

圧巻は、学校を出て働いていた更紗が同棲していた亮との関係が、亮が結婚を当たり前のことのように話しだしたことから破綻し始め、夜逃げ屋を使って二人が住んでいたアパートを逃げた更紗が新しく住んでいるマンションにやってきた亮ともみあいになって、亮が階段から落ちて怪我をして、警察に事情聴取を受けることになった場面。

それまでは世間的にまったく見えていなかった二人の関係が明るみにでてしまい、いったいどうなるんだろうかと、ハラハラしながら読み進めた。

まぁたぶん二度とこんな小説は読まないだろうけど、不思議な小説だった。
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『原節子の真実』

2020年06月08日 | 作家ア行
石井妙子『原節子の真実』(新潮社、2016年)

原節子は1920年生まれで、2015年に95歳で亡くなった。1965年頃には引退を東宝に告げているので、45歳で引退し、残りの50年間を、鎌倉の姉夫婦が借地に住んでいた家で過ごしたことになる。

私にとって原節子といえば、黒澤監督の『わが青春に悔いなし」に出てくる女優で、たしかに黒澤監督の映画だと思って見たせいもあるかもしれないが、終戦直後にGHQから民主主義を啓蒙するような映画を作れと言われて作ったという映画の最高傑作だけのことはある。自らの信念のために節を曲げることなく夫を信じて生きた主人公の凛とした生き様を原節子が体現していたように思った。

これで原節子のイメージができてしまったので、その後に小津映画に出ていた原節子を見ても、なんか煮え切らない、曖昧な、パッとしない立ち居振る舞いに、何なのこれという印象を持って見たものだ。小津映画は世界的にも評価されていたので、なんでこんな作品が面白いのか分からないと、原節子も一緒に否定していたように思う。

だから世間が原節子、原節子と持ち上げても、たいして美人でもないし、それほどの役者でもないしという感じで見ていた。

そういうわけで、2015年に原節子が亡くなったという報道を見ても、別に何も思わなかった。結局この本を読むきっかけになったのは、著者の石井妙子が、新作の『女帝 小池百合子』のことで近藤という人のインタビュー*を受けていて、その中で、この著作が大変な評判を呼んだという話をしていたので、本当は『女帝 小池百合子』のほうを読みたいのだが、とりあえずこれを読んでみたということにすぎない。
*このインタビューは面白い。これを読んだだけで小池百合子のことがよく分かる。必読と言っていい。インタビューはこちら

最後まで我慢して読み通したけど、原節子という女優のどこがすごいのだかわからずじまいで最後まで来てしまったというのが正直なところである。
原節子の真実(新潮文庫)へはこちらをクリック

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『蒐める人』

2020年06月03日 | 作家ナ行
南陀楼綾繁『蒐める人』(皓星社、2018年)

南陀楼綾繁が、本とかいろんなものを集めて、目録を作っている人たちと対談した記録本で、世の中にはこんなことをして食っている人がいるんだなと思い知った。

私が初めて目にした目録ってなんだろうと過去を振り返ってみると、やはりフランス文学などの新刊本を売っている新宿の「フランス図書」の目録のようだ。

いつ頃からフランス図書で本を買い始めたのがよく覚えていないが、たぶん大学院生になってからのことだろう。こういうところは一度買い物をすると、勝手に目録を送ってくれる。でもその高いこと、とても手が出るようなものは滅多になかった。

思うに目録というのは、書式が一貫していないとだめだし、遺漏があっては役に立たない。私も博士論文を書いた時に、当然のことながら書誌を書いたのだけど、苦痛で苦痛でしかたがなかった。私はこういう根を詰めてやらねばならないような仕事は向いていないと思う。

この本で出てくる人たちはそういうことが好きで好きでしかたがないという感じの人達ばかりだ。とにかく蒐めることが好きで、それを目録にすることも好きなんだろう。

ものを集めたがる人ってけっこういる。私も知らず知らずのうちにものを集めているなんてことがある。まぁここに出てくる人たちに比べたら、お遊びにすぎないけど。

古本屋の人たちがメインなんだけど、古本屋は私も好きで、よく行っていた。大阪駅前第四ビルに数軒ある古本屋とか、阪急うめだのかっぱ横丁とか、なんばに数軒の古本屋とか。でも、掘り出し物に巡り合うのは定期的に通うことが大事だと思う。一見さんのように入っても、そういうものに巡り合うことはめったに無い。

私は、読むか読まないか分からないけど、面白そうだから、というような理由では、いくら安くても買わないからだ。本当に欲しいものだけ。

それに今はネットに「日本の古本屋」というサイトなどもあって、欲しい本を検索することができる。だんだんと古本屋から足が遠のくのは仕方がないことかな。

本読みにとって面白かったのは、最後の対談の都築響一という人が、よく出版社の編集者から「なんかおもしろいものないですかね」と聞かれるが、おもしろいものはそこいらへんにいくらでも転がっている。彼らがそれを知らない、遭遇することがないだけだ、と話しているが、まさにその通りだと思う。

大きな出版社の編集者なんて、売れすじにしがみついて、新しいことに挑戦しようなんてことがないんじゃないかなと思う。
蒐める人―情熱と執着のゆくえへはこちらをクリック

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『文盲』

2020年06月01日 | 現代フランス小説
アゴタ・クリストフ『文盲』(堀茂樹訳、白水社、2006年)

『悪童日記』三部作を書いたアゴタ・クリストフの自伝である。1989年から90年ころにスイスのチューリッヒの雑誌に連載した自伝的エッセーに手を加えて2004年にジュネーヴで出版したのが本書である。

アゴタ・クリストフは1935年の生まれなので、もともとはハンガリー王国であったが、戦後にソ連によって支配され社会主義国になる。最初の数章はそうした幼少期の頃から本を読むことやお話を作ることが大好きだったということや、すでに社会主義国になっていた時代に寄宿学校に入ってひもじさや寒さや本への渇望のなか級友たちを道化芝居によって楽しませることに喜びを見出した青春時代のことが書かれている。

そして1956年にハンガリー動乱が起きたのを期に、オーストリア経由でスイスに難民として逃れる。夫と数ヶ月の長女と一緒に。スイスのニューシャテルに定住するようになったが、フランス語がまったく話せないところから始めたことや、工場での仕事の単調さに辟易したことが書かれている。

彼女はスイスでの生活を砂漠と呼んでいる。一緒に逃亡した仲間たちの多くが、収容所入になると分かっているのにハンガリーに帰ったり、自殺をしたり、精神を病んだりしたという話は、スイスで安楽な生活ができるようになって幸せなんじゃないかという想像がいかに現実からかけ離れたものであるかを教えてくれる。

おそらくこの本で一番考えさせられるのがこの箇所だと思うのだが、アゴタ・クリストフはさらっと書くだけで、深い考察を与えていないので、これらの原因が言葉なのか、環境なのか、祖国というイメージなのか、いったい何なのかよくわからない。

『文盲: アゴタ・クリストフ自伝 (白水Uブックス)』へはこちらをクリック

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