読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『身体の零度』

2010年01月24日 | 人文科学系
三浦雅士『身体の零度』(講談社選書メチエ31、1994年)

単純に食べ物や生活様式によって徐々に軟弱になってきただけのように見える人間の身体が、まさに制度と同じように時代によって作られてきたものだというような意味での身体論っていつごろから一般的になってきたのだろうか?

80年代のはじめ頃にある面接で身体論について知っていることを話しなさいといわれて、まったく何も知らなくて恥をかいた経験があるのだが、この三浦雅士の身体論についての本が講談社選書メチエとして、いわば大学生向けの入門書のようなものとして書かれたのが1994年だったということは、さすがに私がこのような経験をした頃は、まだそれほど知られていなかったと思うのだが、どうなのだろう。

人間は寒く感じるようになったから服を着るようになったわけでも、恥ずかしいという感情が生まれたから服を着る様になったわけでもなく、逆に服を着るようになったから寒さを感じるようになったり恥ずかしさを感じるようになったのだという話は、じつに面白い。ここでも一般に理解されている原因と結果は逆の場合が多いと指摘されているが、たしかにその通りなのだろう。

私はいつもなぜ人類がわざわざ生活にまったく困らないアフリカの大地を捨てて寒い地方に出かけて行かなければならなかったのかと不思議に思うのだが、服を着るようになって寒さを感じて初めて、この寒さに対抗するための服を考え出す、つまり毛皮を衣服とすることを考え出した結果、寒い地方でも住めるようになったかなという気もする。

ナンバ走りというのは、あの200mの日本記録をもつ末次慎吾が取り入れたとかいうことで話題になって初めて知ったのだが、江戸時代までの日本人はすり足によるナンバ走りをしていたというからすごい。でも実際に現代人がそんな走りを取り入れて走れるものかというとそうでもないようで、Widipediaによると「末續慎吾の走法は右手と右足、左手と左足が同時に出る「ナンバ」にはなっておらず、ナンバの歩法を練習に取り入れることによって得た身体感覚をもとにして生み出された無駄のない効率的な走り方のことを指して「ナンバ走り」と呼ぶことも多い」ということのようだ。

つい最近まで人間の身体にはあらゆるタブーが付きまとっていたと三浦雅士は言う。そしてこうしたタブーから解放されて、あらゆる虚飾を剥ぎ取った裸の身体が「身体の零度」であり、自分の身体にただ純粋に向き合う姿勢、「科学的な」姿勢を最初に提唱したのはルソーだと書いている。しかしこの「科学的な姿勢」こそ身体の疎外された姿に他ならないはずで、健康志向が、死ぬことから分離された身体を見ようとする疎外された身体観の一つの現れに過ぎないとすれば、ルソーの身体論もそういう時代のイデオロギーに染まったものだったのだろうと思うのだが、それをうまく説明できないもどかしさがある。

この本には読む側の関心のありどころに応じて、興味深いところをあちこち拾い集めることができると思う。私には漱石の『草枕』の那美の笑いに触れた箇所や『三四郎』が立ち会った運動会の箇所が面白かった。ここでの三浦雅士の論じ方や、以前書いた水村早苗の『明暗』論などを読むと、一つの視点をもって読まないと、ただ漫然と読んでいただけでは、作品のすごいところは見えてこないという気がしてきた。

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