読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

Les Combustibles

2007年09月29日 | 現代フランス小説
Amelie Nothomb, Les Combustibles, Albin Michel, 1994, LP.no.13946
アメリー・ノトン『燃料』(アルバン・ミシェル、1994年)

Hygiene de l'assassin(1992)とSabotage amoureux(1993)に続く、アメリー・ノトンの第三作。小説ではなく、芝居仕立てになっている。登場人物は、文学を教えている大学教授、彼の助手、そして助手の彼女の三人。時は第二次世界大戦かなんかの戦時中で、所は教授の自宅。戒厳令下におかれた町には食べるものも燃料も欠乏し、寒さをしのぐために、蔵書を燃料代わりに燃やしていくというお話。

ペーパーバックスの裏の解説は次のように書かれている。

「街は戒厳令下にある。助手と学生のマリナが避難している教授のマンションでは、寒さをしのぐための唯一の燃料は、本だった。だれもが、孤島にどんな本を持っていくか?という質問に一度は答えたことがあるだろう。爆撃とスナイパーの狙撃による八方塞のなかで、「愛のかけっこ」の小説家は自分の登場人物たちにこれとは別の意味で意地の悪い質問をする。どんな本のどんなフレーズなら、それを燃やして体を温めることを止めてまでして残しておきたい?奇妙にも現在に共鳴するところのあるこの寓話のなかで、ユーモア、アイロニーそして絶望がせめぎあっている。」

かつてサルトルの発言で物議をかもしたことがある。戦争で飢えている人々がいるのに、文学がなんの役に立つのか?という議論は、ここでも健在である。寒さに震えているときに文学は燃料として以外になんの役に立つのか?でもここはちょっと違う。すごく寒くて凍え死にそうだけど、どんな本なら燃やさないで寒さを我慢していられるか?そんな本があるだろうか?

教授は過去をかなぐり捨てて、かつてすばらしいと言っていた本を燃やしてしまう。寒さには勝てない。マリナは助手を愛しているのに、身体を寄せ合えばそれだけで暖かくなると教授に身を寄せる。寒さには勝てない。そのあいだで一人正気を保とうと努力する助手。

私は春に本の処分をだいぶした。そこで分かったことは、これだけ本が溢れていると、本を読むということに激しい欲求を感じている人は少ないということだ。どこでも本が手に入る。でも読みたい本があるのかというと必ずしもそうではない。ただ読み手のなくなった本は、この小説のように燃料になるしかない、ただの紙切れだ。たぶん印刷されたけれど書店に並べられることもなく廃棄処分になってしまい燃やされる本は大量にあるだろう。大量に作られたコンビに弁当が売れ残ったら大量に廃棄されるのと同じことだ。

駅前に天牛書店があって、天牛書店は古本をいくつかの店舗でローテーションしながら回転させている。毎日店員さんは本を箱につめ、他の支店に運び、棚に並べるという作業をしている。きっとこんな本なんかこの世からなくなればいいのにと思っているに違いない。読まれなくなった本はタダの紙。しかし後世の人たちがまた注目するかもしれない。そのためには残しておく必要がある。

人間の知は物質の姿をとらなければ残らないことを肝に銘じよう。

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「ホンモノの人生」

2007年09月28日 | 評論
中島誠之助『ホンモノの人生』(講談社、2004年)

私は人生論だとか生き方本というのはあまり好きではないので、ほとんど読まないのだが、あの有名な「鑑定団」の中島誠之助の書いたものだということで、読んでみたいと思った。いわゆる骨董品の鑑定士にろくなのがいないというか、骨董品屋にろくな人間がいないというのが世間一般の常識ではないかと思うので、テレビで偉そうに焼き物についての薀蓄(というほどの内容でもないが)をたれている、このおっちゃんは何者やねんといつも思ってきた。着物姿というのもなんかわざとらしいしー。

昭和13年生まれというから、うちの両親なんかとは5・6歳下になるわけだが、生まれてすぐに両親がなくなって、伯母さんの家や叔父さんの家で育てられた。それがまたわけ隔てなくということではなかったようで、それでも高校まで出してもらえ、大学は自分でお金をためて日大を卒業し、遠洋漁船に乗り込んで半年ほどインド洋に出かけた後は、叔父の骨董屋の見習いをして勉強をさせてもらった。それが今の中島誠之助を作っているのだから、やはり叔父たちには感謝というところだろうが、でもこの本を読むとそうとうに屈折した思いがあることが分かる。

30歳で西麻布に自分の骨董屋をもってからは順風満帆というわけにはいかなかったにしても、叔父のところで身につけた眼力でもって、いい仕事をしてきたらしい。あまり詳しいことはこの本には書いてないが、いかに自分に先見の明があったか、勉強熱心だったか、など自慢話満載である。

もちろん私としては彼が一代で築いてきたものをけなす気はない。生き方ということについていえば、なかなかしっかりした考え方をしていらっしゃる。よく人にだまされる人がいるが、それは金欲があるからで、表向きは金儲けなんかする気はないといいながら実は金儲けに対する色気があるからだまされるのだ、金儲けになってもならなくてもいいから自分のしたいことをすればいいというようなことを書いていたが、まさにその通りだろうね。金は後からついてくるものなのだろう。でもそれって本当にあとから金がついてきた人だから言えることであって、そうでない者には言えない。

田村一村みたいに何もかも捨てて、奄美で染色の仕事を三年して生活費を稼ぎ、それで三年絵に没頭する、みたいな生き方はだれにでも出来るものじゃないよ。私たちが願っているのはそんなことじゃなくて、もっと当たり前の対価がほしいだけなんだけど、それさえも手にすることが出来ない、そういう世の中のありように腹が立つのだけど、ちがうんだろうか?

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「放課後」

2007年09月26日 | 作家ハ行
東野圭吾『放課後』(講談社、1985年)

東野圭吾が第31回江戸川乱歩賞を受賞したときの、デビュー作。

デビュー作というのは、やはり書きなれていないがゆえの、未熟なところもあるだろうが、それ以上に全精力を傾けて書いたという全力疾走感があるのでいい。

はっきり言って推理小説としての面白み、つまり密室犯罪のトリックを解くという意味での面白みはこの小説にはないし、そもそも小説の最後の最後になってやっとそういうこと(動機も含めて)が問題になってくるので、そんなことはもうどうでもいいような気になってくる。私は最後まで犯人がだれか分からなかった。それでいいのだと思う。

それ以上に、主人公である数学教師の前島やその同僚たち、そして精華女子高校の生徒たちの描写や話の展開に無理がなくて素直に書いてあるのが好感をもった。

手の込んだ事件の背景やトリックが好きな人には、くだらないと思われるかもしれないが、「Xの悲劇」や「Yの悲劇」のような世界的に有名な推理小説というものは、中学生が読んだって理解でき夢中になってしまうのだから、一見手が込んでいるように見えて、やはり物事は単純なのだ。笠井潔の「バイバイ・エンジェル」だの「サマー・アポカリプス」だののように、途中で先を読む意欲がうせるようなものは、どんなに作者の博識がそこにちりばめられているのか知らないが、くだらないと判断せざるを得ない。

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「ふだん着のパリ案内」

2007年09月25日 | 評論
飛幡祐規『ふだん着のパリ案内』(晶文社、1997年)

ふだん着のパリ案内というには、パリの中間層の下あたりの人たちのパリでの生活の実際の姿にフォーカスしすぎて、観光的な意味での案内にはなっていない。でもそれでいいのだと思う。観光的な案内ならはいて捨てるほどあるから、本当のパリジャンたちはどんな生活をしてどんなことを考えているのだろうということを知るには、もってこいの案内になっているかもしれない。

それにしても、パリとかフランス人というものにたいして私たちがもっているイメージとなんとかけ離れていることだろう。たくさんの観光客が来るのだから、観光客に親切で、手際がよく、たっぷりとフランス的なものを味わえるのかと思うと、実際のパリはそうではない。これは本当にパリに観光に行ってみればよく分かる。たしかに2000年以降は変わってきたのかもしれないが、この著者がパリに居ついた1975年よりも少しあとに一度観光で行ったときにはたしかにそうだった。

パリでの住宅難、これはたしかによく聞く話だが、旅行者には分からない。私は学生寮と知り合いの家に間借りしかしたことがないので、よく分からない。それと滞在許可書をもらうのがまた一苦労という話もよく聞いた。とにかくサーヴィス業で働く人たちの対応がまったくもってなっていない。日本の窓口をイメージしていたら、天と地ほどに違う。これは旅行者でもよく体験する。銀行の窓口、暑いのに冷房なんかないから、蒸し風呂みたいになっているところへ、すごい列が出来ているのに(というか、すごい列が出来ているからこそ)、隣通しでぺちゃくちゃ喋って仕事をしようとしない窓口担当者たち。この本によれば、安月給で働かされ、けっしてその労働水準を出る展望なんかない底辺の労働者のサボタージュの一種というが、銀行の窓口とかでもそうだから、かならずしもそうとまでいえないのではないだろうか。

移民の国、これはもう四の五の言っても認めざるを得ない。外国人労働力をフランスが必要としていた時代があり、間口を広げたり狭めたりするフランス社会の政策が一貫していないことが様々な軋轢を生み出していることははっきりしている。スカーフ問題もこの著者の見方からすれば単純だ。「教育の無宗教性は当然だけど、スカーフを着用するかどうかぐらいはどうでもいいことでは?」この女の子たちの親が頑固なムスリムだったというだけの話で、彼らとの宗教問題での対話は別に筋を通してやればいいだけの話ではないだろうか。でも移民の2世・3世がフランス社会で差別されそれが彼らの暴力的レジスタンスを引き起こしていることは直視しなければ、フランス社会の未来はないように思う。

その中でアジア系とくに中国人が特異なコミュニティーを作っているのは彼らには不気味なのかもしれない。中国人はフランス社会に溶け込もうとしないが、けっして騒ぎ立てることもないし、自分たちのコミュニティーの中ですべてを処理するから、失業とか暴力的暴走などはほとんど起きないらしい。旅行するときも、中華のテイクアウトとかけっこういけますよ。

モードの町パリといっても、本当にパリの街そのものはそんなにきれいでもないし、みんながみんなセンスのいい服装をしているわけではないが、ときにはすごいと見とれてしまう人がいる。若者はみんな普通だと思う。まぁ日本のファッション雑誌なんかにパリジャンを紹介する記事があったりするが、あんなのはセンスのいい人を集めているのだから、センスいいなって感心するのは当たり前だろう。

フランス人がブリコラージュが好きだというのは初めて知った。ブリコラージュと限定するよりももっと広く、自分たちの住居を自分のセンスでより安いもので整えることが好きだということなのだと思う。ワンルームのステュディオに住んでいても、自分のセンスにあったちょっとした小物を買ってきたりして、部屋を自分なりの空間に変えていくことが好きだというのは、分かる。私はリビングに本棚を置いて、そこを仕事場、食堂、娯楽室、そして友人を呼んだときのリビングに使い、個室は寝室として決して他人を入れない空間とみなす部屋の使い方が、すごくいいと思うのだが。

この本は、データも適切に使い、著者の友人たちの実際をふんだんに使って、生身のパリジャンたちの姿を多角的に描き出そうとしている点で、いい本だと思うが、きっとパリをモードと芸術の花の都としてしか見ていなかった人にはショックかも。

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夏の総決算

2007年09月24日 | 日々の雑感
夏の総決算

今日はなんだか曇り空のせいか涼しい。やっと盛夏も終わったのかなと一息つけそうだ。今年の夏は、私が暑いとかってに感じていただけでなく、どうも客観的にも暑かったようだ。大阪の8月は真夏日が30日。毎日真夏日だったということか。

1.朝5時に起きて1時間程度のジョギングをかかさずやった。われながらよくやったと思う。とにかく毎日走ることを心がけて早寝したのがよかったのかも。ビールは飲むし、甘いものもけっこう食べたので、まぁダイエットにはならなかった。でも62Kgを維持している。わき腹は脂肪が落ちているけど、へその周辺はしっかり脂肪がついたまま。この脂肪は甘いものをやめなければ落ちないだろうな。

2.旅行は、上さんと行った一泊二日の信州旅行と母親のところへ行ったきり。金がないからしかたがない。また金をためておフランスにでも行きたい。

3.自分の人生の転機がきた。たまたま偶然あるWebのサイトで自分の30年来してきたことを否定されるようなところを発見し、夏のあいだじっくり読んで、自分の生き方の土台がぐらついてきた。いったいこの30年はなんだったんだという思い。すぐに結論を出す必要はないが、いずれは結論を出さざるをえない。

4.これはという本には出会わなかった。最近、読みやすいので小説ばかり読んでいるようだ。もっとカタイ本も読まなくては。本は買わないと決めているので、新聞の書評欄とか広告で面白そうな本を見つけてもすぐに手に入らないのが、ちょっとツライ。

5.姪っ子が結婚した。10数歳も年上の男性との結婚で、式を挙げないこともあって、父親がぶんむくれているらしい。今どき式だ、年齢がどうだというなんて、バカな親。

6.夏前から肩が上がらない「五十肩」がだいぶよくなってきた。眠っているあいだも痛くて、悲鳴を上げることもあったのだけど、やっと楽になってきた。やれやれ。


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「GOTH」

2007年09月18日 | 作家ア行
乙一『GOTH』(角川書店、2002年)

以前に読んだ「失われるもの」とはまったく雰囲気の違う連作っぽい作品集で、今度はどちらかというと冒頭の作品のタイトルにもなっているような暗黒系というところ。犯罪者、しかも猟奇殺人などの犯罪者の心理とか犯罪手法に異常な興味をもつ男女に起こる事件を主題にしたもの。

人を殺してその遺体を100ほどのパーツに切り刻み、10個づつ並べてみたり、頭を切り落として、それを切り裂いた腹の中に入れ、腹から引き出した腸で両手足をしばるなんていうような、書きながらおぞましい光景が浮かんでくるような猟奇殺人が、神戸の事件のように、現実に起きるような時代になったことが、20年位前の日本では考えられなかったことを思うと、現代社会がいかに病的な段階にたちいたったのかが分かる。でもそういう「病的な」殺人なんかずっと昔からあったことと異論のある人もいるかもしれない。

その病的さが病的であるのは、こうした猟奇的殺人に動機らしい動機がまったくないことだ。「暗黒系」の喫茶店のマスターにしても、まったく動機は語られることがないし、「リストカット事件」にしても本当にちょっとした「思い」程度のものしかないし、自宅の庭に棺桶とともに生き埋めにしてしまう「土」だって、埋めなければならないという強迫観念だけだ。

そういう犯罪者の動機のない、あるいは信じられないような動機による猟奇的殺人ばかりが集められている。動機がないから殺すことあるいは死体に対する扱いが猟奇的にならざるをえないのかもしれない。激情にかられて殺したというような場合には、隠匿するにしても隠匿そのものが目的になるのであって、死体を切り刻んだりしてさらしものにするということはないだろう。

さらにこの小説の恐ろしいところは、語り手である高校生の「僕」(神山という苗字だと、コメントいただきました、ありがたいことです)とか森野夜が猟奇的殺人に異常な興味を持っていることだ。人の殺人がじょじょに彼らの内部に入り込んでくる。そしていつか「僕」も殺人をおこなうことになる。作者は語り手をときどき置き換えることで、読者をかく乱し、どんでん返しをねらう。最後の「声」では「僕」がついに殺されてしまい、同じ興味をもつ森野と親しげに話す人物が別の人物に置き換わってしまう。

あとがきによると「せつないものを書く人」という評価がこの作者にはできあがっていたので、それを打ち壊すために正反対のものを書くことにしたと説明されている。書きたいものを書いてきた結果「せつないものを書く人」という評価が出来上がっていたわけだが、プロとしてデビューしたときから、そうした一定の色で見られないように気をつけなきゃね、そうした裾野の広さを早い時期に作れるかどうかが、その後の長生きを決めることになるんじゃないのか。なんて、えらそうなことを書いてる自分に赤面しそう。


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小説と食べもの

2007年09月17日 | 日々の雑感
小説と食べもの

食べることは好きだ。というか、昔から(遺産ではなく)胃酸が多いので、すぐに腹が減る。あまり我慢してわっと食べると、胃酸がさらに出過ぎてよくないことが分かっているので、こまめに食べるようにしている。ときどきバナナとかリンゴとかを持ち歩いて、小腹がすいたら食べるようにしている人を見かけ、なるほどあんなふうにすれば次の食事まで我慢することないし、経済的だと感心したことがあるが、『ふだん着のモントリオール案内』を読むとイギリス系のカナダ人、つまりイギリス人はだいたいに、生活のいろんな要素の中で食べることに一番関心がなく、もちろんお金もかけない、だから昼ごはんにリンゴと簡単なパンで済ませたりしても平気なのだということが書いてあり、なるほどバナナとかリンゴとかを昼食のときに食べていた人たちはそういう人なのかと合点がいった。

私は小説に出来てきた食べ物にすごく執着するたちのようだ。最初は小学校の教科書に乗っていたシベリア抑留者の回想記に出てくる凍った鮭の切り身と黒パンだ。わずかずつしか与えられないこれを抑留者たちがおいしそうに食べる場面が出てくる。それ以来私は何度この場面を頭の中で反芻したことだろう。黒パンってどんなんだろう。凍った鮭の切り身っておいしそうだ。ぬくぬくとしながら凍った鮭の切り身を食べるのはおいしいかもしれないが、凍ったシベリアでそんなものを食べるのが普通ならどんなことなのか、あまり想像が及んでいなかったにちがいない。

最近では、村上春樹の小説に出てくる食べ物とか飲み物に興味がいっている。とくに「ねじまき鳥クロニクル」にでてくるサンドイッチ、からしをぬったパンにチーズとスライスしたトマトをはさんだ簡単なサンドイッチがお気に入りで、毎朝作って食べている。それに冒頭に出てきたパスタ、ナスをいためてトマトソースで味をつけたパスタもなんどか作っておいしく食べている。

それと彼の小説にはビールを飲む場面がけっこう出てくる。初期の小説でもよくビールを飲んでいるし、「ねじまき鳥」でもそうだ。私もビールは夏場はよく飲むのだが、食事のときに飲むと一気にたくさん飲むせいかあとがしんどくなってくるのでいやだったが、村上春樹の小説を読みながら、はたと気づいた。一遍に飲むからしんどくなるんだ、ちびちび冷蔵庫から出し入れして飲めば、ビールも生ぬるくならないし、しんどくなることもない。

私は美食家でもなんでもない。ただ外で偶然おいしいものに出会ったら自分で作ってみたくなるたちなので、けっこうレパートリーはあるほうだろう。ただ気に入ったものがあると何度も何度も作るので、いつの間にか飽きてしまうというのが欠点といえば欠点か。なにごともほどよくしておけば、飽きもこないし、いつでも新鮮な気持ちでいられるものだ。

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「夜は短し歩けよ乙女」

2007年09月16日 | 作家マ行
森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』(角川書店、2006年)

デビュー作「太陽の塔」の続編みたいなものか。ただ、語り口はずっと上達しているし、語り手を二つに分けたことが成功している。しかし東堂さん、樋口さん、羽貫さんなど、周辺の人物たちはじつにリアルなのだが、この女の子だけはどうも作り物めいて見えるのが残念だ。そこらあたりが、この作者が作家として続いていくのかどうかの分岐点になるのだろう。そもそも、この作者はこういう調子でずっと書き続けていくつもりなのだろうか?

世間知らずの乙女の大胆な行状、乙女の外見・中身とやっていることのずれというのが、この小説の面白みのひとつなのだが、そういうのって、小説だけでなく映画とかでもよく使われる手法で、この乙女を付けまわす主人公の語り口の面白さがこの作品をちょっと独特のものにしているものといえばいえるだろう。

そしてそうした精神を生み出す風土を京都大学と京都という町がどうも持っているようで、舞台が東京大学や東京ではこんな小説は成り立ち得ないとすぐ思い当たるのではないだろうか?良くも悪くも、京都という特殊な町のなかで、何をしても京大さんやからという目で見られる特権的な位置を与えられている社会状況があればこそ、成り立つ作品世界なのだ。

ただ緋鯉のぬいぐるみを背中にせおい、小さなだるまの首飾りをかけて、逃げていく姿はなんともかわいらしくイメージされるから、困ったものだ。私は、最近ダルビッシュ君と出来ちゃった婚をしたさえことかいう女優さんとたぶらせながら読んでいたのだが、というのもこの女優さん中学生をおもわせる顔立ちをしていて、「のだめカンタービレ」でコントラバスを背負って歩いている姿が忘れられない。

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「ふだん着のモントリオール案内」

2007年09月15日 | 評論
青木節子『ふだん着のモントリオール案内』(晶文社、1997年)

フランスやフランスの文化に関心がある者がある程度フランス旅行もこなして、さて次はと思うのが、たいていはカナダのケベック州という、フランス語が公用語となっている地域だろう。地名や古い建物はたいていフランス語になっているし、アメリカに近いから、ついでにアメリカ旅行も出来る。私もケベックにはなんとなく興味があるので、おもわずこの本に手が伸びた。

当たり前といえば当たり前だが、けっこう勘違いしていたことが多くあるようだ。アメリカと同じように連邦の国なので州の独立性が強いから、フランス語ネイティブがおおいケベック州がいまだに憲法を批准していないなんていうのは初耳だった。

アメリカに近いから、アメリカの物や文化や情報が怒涛のごとくに流れ込んでくる。当然、英語が一般的になってくるので、フランス語話者が減ってくると思いきや、かたくなに二言語両用を厳しく強制するとかして、なんとかしてフランス語話者を増やそうとするのは仕方ないことかも。

ケベック市辺りでは古い17世紀とか18世紀のフランス語が使われているというのは本当のようだ。実際、私もケベック出身のエンジニア(ARTEとかというところで研究している若い人)と一度話をしたことがあるが、la litterature francaiseを「ラ・リテラトゥール・フランサイズ」と発音していたので、エッと驚いたことがある。聞きなおすと「フランセーズ」といいなおしていた。本国のフランス語の発音は分かっているらしく、きちんと話さなければならないときにはそういう発音になるが、普段はケベックのアクセントになるらしい。方言みたいなものだろうか。

意外だったのは、伝統的な家というか家族というか親子の概念が完全に崩壊して、個人同士の関係になっているという話だ。著者のフランス語の先生(といっても若い女性)の例が紹介されているが、彼女の両親は離婚し、母親は近くに一人住まいをしている。彼女は父親と一緒に生活しているが、父親は別の女性と同棲している。また彼女には高校生くらいの妹がいるのだが、妹には同い年の恋人がいて、その家で生活し、性的関係にあっても、べつに何のとがめだてもない。平気で二人でバスローブ姿でリビングに出てくるらしい。

それにしても70年代あたりに劇的な変化を遂げたのがカナダの社会のようだ。人々のものの考え方を変えてしまうほど、そして社会の構成を大きく変貌させるような劇的変化が起きるということが、日本では信じられない。日本でも変化はあるだろうが、その緩慢なこと。やはりずっと何千年も住んでいるのと、新しい土地に移住してきて作った国とは違うのかもしれない。

まぁ観光ガイドにはもう一つだが、カナダのフランス語圏のことを知るにはけっこう役に立つ本ではないだろうか。

それにしてもカナダは遠い。

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「ドミノ」

2007年09月14日 | 作家ア行
恩田陸『ドミノ』(角川書店、2001年)

じつに面白い小説だった。一気に読んだ。後には何も残らない。奥田英朗の「サウスバウンド」(今度映画化されるらしい)や重松潔「いとしのヒナゴン」(これは映画化されたらしいが見ていない)のようなエンターテインメントでありながら人生を考えさせるという両方を両立させた小説らしい小説というのは、やはりそんなにたくさんあるものではない。面白くて一気に読ませただけでもたいしたものだ。

人物が生き生きしているのがいい。生きがいいというのだろうか。関東生命八重洲支社の女性の事務職員たち、北条和美、田上優子、加藤えり子たちを見ていると、この社会は女で回っているという感慨をもつのもあながち間違いではない。肝が据わっているというか、ここぞというときには、かつては暴走族だったなんてことにこだわるような和美ではない。

国の将来について厚生年金について恋人の正博と何時間も話し合ったという浅田佳代子もいい。正博の別れ話に付き合わされる落合美江も正博ともども世紀の美男美女といわれるくらいに美人なのに、外見と中身の乖離に悩んでいるところがいい。

なんてたって元暴走族の市橋健児が800CC(?)もあるバイクで額賀を運ぶ途中でパトカーとチェイスをやるところや加藤えり子とのやり取りがなんともいえずいいのはなぜだろうか?普通なら社会の嫌われ者である暴走族だ。えり子といい、彼女をひたすら慕う健児といい、一本筋の通ったところがあるのが、アウトローの本領発揮というところを描いているせいだろうか。

俺の爆弾はアートだと言う川添もいい(爆弾テロをいいと言うつもりはありませんので誤解のないように)。

結局、この小説はいいもんも悪いもんもみんないいもんばかりで、普通なら面白くないところだが、なぜかしら面白い。きっと映画のプロデューサならこれを映画化したいと思うことだろう。きっと「踊る大捜査線」みたいな映画ができるに違いない。


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