『博士の愛した数式』(小泉尭史監督、2006年)
昨日と同じ小泉尭史監督による「博士の愛した数式」を見た。これも小川洋子の原作はすでに読んでいるが、この作品は原作に負けぬくらいのいい出来だと思う。
ルート君が大人になって高校の数学の先生になり、最初の授業で自分と博士の出会いと交流を生徒たちに回想風に話しながら、数学でもちいられる数字のあれこれについても説明していくという枠組みが設定されていて、しかも大人になったルート君を演じている吉岡秀隆がまた申し分ないほど上手い。数学を愛する人間のシャイな資質と博士との楽しかった時を喜びをもって回想する語り口が、じつにいい。映画特有のこうした作りがこの作品では功を奏している。
最初に天才数学者の寺尾と深津絵里演じる家政婦(彼女もじつによかった)との行き違いというかごたごたがあってもよかったのではないかとおもう。なんせ深津で9人目の家政婦というくらい人付き合いが下手な上に、記憶が80分しかもたないという状態なのだから、最初から上手く行くわけがないのだ。だがそこを深津がうまくコントロールしていくことによって大きな振幅の揺れがじょじょに落ち着いていくという風に描いてほしかった。だいたいにこの監督の作品は静的すぎる。ダイナミックさに欠ける。
原作では博士が熱を出してそれを看病するために家政婦が契約を破って博士の家に泊まりこむことが、母屋の義理の姉に分かってしまい、契約を破棄されることで終わっていたように思うが、そこがやはり小説と映画の違う所で、小説だと盛り上がった所でぷつんと張り詰めた糸が切れたということで物語を終わらせてしまうことが可能だが、映画だとそういうわけにはいかない。
ルート君が博士の所に遊びにいきつづけ、義理の姉に深津家政婦が呼び出され、叱責されるが、その場にいた博士は愛する義理の姉にEπi+1=0(かつて博士は彼女への手紙の中では0でなくて-1と書いていた)と書いたメモを渡し、それを見た義理の姉は深津家政婦と再び契約をする。これが博士の愛した数式(オイラーの公式)なのだ。この数式の話をルート君がしてくれるのだが、意味はよく理解できなかった。
さらに深津家政婦に冷たくしてきた義理の姉(浅丘ルリ子)も心を開き、自分たちの冒した罪を告白する。これはこれでよかったと思う。小説ではあまりそのあたりのことを触れていないが、映画だと義理の姉は頻繁の登場するし、それだけ存在感があるので、いったいこの二人はどういう関係なのか、とくに深津家政婦が若き日の博士と義理の姉の寄り添った写真を見つける場面を入れた以上は、きちんと説明しておかなければならないほどの存在感を与えてしまったのだから。
このあたりの義理の姉の心の動きについては、原作になかった能を見る場面(原作者の小川洋子が写っていましたね)との関連を、あるサイト(http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=323420)でKUMAさんという人が説明してくれている。以下はその引用である。
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オイラーの公式を示された浅丘はなぜか深津親子が寺尾の世話を再開するのを認める。その場面の間に出てくるのが、寺尾と浅丘が事故をする前に見たという能の場面なのである。
能は「江口」という題目である。諸国一見の僧が江口の里を訪れ、西行法師と遊女とのやり取りを思い出す。そこへ里女、実は遊女・江口の君の幽霊が現れ、そのときのやり取りを回想する。西行法師は一夜の宿を遊女に求め、断られる。しかし、それは遊女が出家に対して世捨て人を思う心からで、宿を惜しんだのではないと弁明する。今江口の君はそのときを回想し、仮の宿であるこの世への執着を捨てれば、心に迷いも生じないし、人との別れの悲しさもないと仏教の悟りを開く。そしてその姿は普賢菩薩と変じ、西方浄土に去っていく。そういう「筋」であるが、講師は「後半は言葉では説明できない。」という。たから少し長いと思える能の場面をじっくり見て感じるしかないのである。
オイラーの公式のe(πi)+1=0は調和の0悟りの0でした。
能「江口」はオイラーの公式の「解」だったのです。
悟りを開いたのは浅丘ルリ子です。
だから彼女は「仮の宿」という執着を捨て、木戸を開いたのです。
私はこの説明でものすごくすっきりしました。
言葉では説明できない何かを感じたような気がしました。
0は確かに「無」ではない。博士はこの公式を悲しんだのではない。
やはり愛していたのだ。
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私は能のことがさっぱりわからないので、上の能江口の説明もよく理解できないのだが、監督があえて江口という能を博士と義理の姉に鑑賞させ、その結果彼女の気持ちが変わっていったのかということを考えると、おそらくKUMAさんが指摘されているような意図があったからだろうと思えるので、ここにあえて引用させてもらいました。
小泉尭史監督は一作ごとに上手くなっているというような評もあったが、たしかにそう思う。
昨日と同じ小泉尭史監督による「博士の愛した数式」を見た。これも小川洋子の原作はすでに読んでいるが、この作品は原作に負けぬくらいのいい出来だと思う。
ルート君が大人になって高校の数学の先生になり、最初の授業で自分と博士の出会いと交流を生徒たちに回想風に話しながら、数学でもちいられる数字のあれこれについても説明していくという枠組みが設定されていて、しかも大人になったルート君を演じている吉岡秀隆がまた申し分ないほど上手い。数学を愛する人間のシャイな資質と博士との楽しかった時を喜びをもって回想する語り口が、じつにいい。映画特有のこうした作りがこの作品では功を奏している。
最初に天才数学者の寺尾と深津絵里演じる家政婦(彼女もじつによかった)との行き違いというかごたごたがあってもよかったのではないかとおもう。なんせ深津で9人目の家政婦というくらい人付き合いが下手な上に、記憶が80分しかもたないという状態なのだから、最初から上手く行くわけがないのだ。だがそこを深津がうまくコントロールしていくことによって大きな振幅の揺れがじょじょに落ち着いていくという風に描いてほしかった。だいたいにこの監督の作品は静的すぎる。ダイナミックさに欠ける。
原作では博士が熱を出してそれを看病するために家政婦が契約を破って博士の家に泊まりこむことが、母屋の義理の姉に分かってしまい、契約を破棄されることで終わっていたように思うが、そこがやはり小説と映画の違う所で、小説だと盛り上がった所でぷつんと張り詰めた糸が切れたということで物語を終わらせてしまうことが可能だが、映画だとそういうわけにはいかない。
ルート君が博士の所に遊びにいきつづけ、義理の姉に深津家政婦が呼び出され、叱責されるが、その場にいた博士は愛する義理の姉にEπi+1=0(かつて博士は彼女への手紙の中では0でなくて-1と書いていた)と書いたメモを渡し、それを見た義理の姉は深津家政婦と再び契約をする。これが博士の愛した数式(オイラーの公式)なのだ。この数式の話をルート君がしてくれるのだが、意味はよく理解できなかった。
さらに深津家政婦に冷たくしてきた義理の姉(浅丘ルリ子)も心を開き、自分たちの冒した罪を告白する。これはこれでよかったと思う。小説ではあまりそのあたりのことを触れていないが、映画だと義理の姉は頻繁の登場するし、それだけ存在感があるので、いったいこの二人はどういう関係なのか、とくに深津家政婦が若き日の博士と義理の姉の寄り添った写真を見つける場面を入れた以上は、きちんと説明しておかなければならないほどの存在感を与えてしまったのだから。
このあたりの義理の姉の心の動きについては、原作になかった能を見る場面(原作者の小川洋子が写っていましたね)との関連を、あるサイト(http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=323420)でKUMAさんという人が説明してくれている。以下はその引用である。
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オイラーの公式を示された浅丘はなぜか深津親子が寺尾の世話を再開するのを認める。その場面の間に出てくるのが、寺尾と浅丘が事故をする前に見たという能の場面なのである。
能は「江口」という題目である。諸国一見の僧が江口の里を訪れ、西行法師と遊女とのやり取りを思い出す。そこへ里女、実は遊女・江口の君の幽霊が現れ、そのときのやり取りを回想する。西行法師は一夜の宿を遊女に求め、断られる。しかし、それは遊女が出家に対して世捨て人を思う心からで、宿を惜しんだのではないと弁明する。今江口の君はそのときを回想し、仮の宿であるこの世への執着を捨てれば、心に迷いも生じないし、人との別れの悲しさもないと仏教の悟りを開く。そしてその姿は普賢菩薩と変じ、西方浄土に去っていく。そういう「筋」であるが、講師は「後半は言葉では説明できない。」という。たから少し長いと思える能の場面をじっくり見て感じるしかないのである。
オイラーの公式のe(πi)+1=0は調和の0悟りの0でした。
能「江口」はオイラーの公式の「解」だったのです。
悟りを開いたのは浅丘ルリ子です。
だから彼女は「仮の宿」という執着を捨て、木戸を開いたのです。
私はこの説明でものすごくすっきりしました。
言葉では説明できない何かを感じたような気がしました。
0は確かに「無」ではない。博士はこの公式を悲しんだのではない。
やはり愛していたのだ。
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私は能のことがさっぱりわからないので、上の能江口の説明もよく理解できないのだが、監督があえて江口という能を博士と義理の姉に鑑賞させ、その結果彼女の気持ちが変わっていったのかということを考えると、おそらくKUMAさんが指摘されているような意図があったからだろうと思えるので、ここにあえて引用させてもらいました。
小泉尭史監督は一作ごとに上手くなっているというような評もあったが、たしかにそう思う。