読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「ボーン・アルティメイタム」

2007年11月28日 | 映画
『ボーン・アルティメイタム』(2007年)
「ボーン・アイデンティティー」から始まった三作目だが、たぶんこれで終わりでしょうね。一応ジェイソン・ボーンがいったい自分はだれなのか、なぜ殺し屋になったのかを解明できたできたから。マット・デイモンというのはたしかハーバード大学をでた秀才なのだで、いわゆる身体を張ったアクションものは苦手かと思っていたのだが、今回の作品はアクションもすごくハラハラどきどきになって、一皮向けた感じです。

マット・デイモンはタイトルを忘れたんだけど、弁護士になりたての新米なのに、大企業の弁護士を相手に、まんまと勝利を収めるという役の映画で気に入ったので、あまりアクションものの俳優とは思っていなかったけど、これもなかなかいいね。

今回すごいと思ったのは、これは編集のテクニックなんだろうけど、テンポがじつにすばやくて、気持ちがいいくらいに、すぱすぱ移り変わっていくことだ。これは決して訳が分からないうちに話が進んでしまうということではない。たぶん画面の切り替えが適切でしかも早いから、瞬間瞬間に同時に進行している事態を見せようということかもしれないし、そうすることで物語の進行にメリハリをつけようということなのだろう。これがじつにうまくはまっていた。

でも前二作を見ていないと、マリーってだれ?ってことになるかもしれないし、ニッキー役のジュリア・スタイルズってだれ?ってことになるかもしれないな。ニッキーって第一作目からあまりCIAの諜報員って雰囲気はなかったけど、今回もそんな感じで、ボーンに助太刀をする。

私はノア・ヴォーゼン役のデイヴィッド・ストラザーンが、「サイモン・バーチ」の司祭役いらい注目している役者さんですが、けっこう渋い役をやるようになりました。

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当たり前だのクラッカーだ

2007年11月23日 | 日々の雑感
当たり前だのクラッカーだ

21日付の朝日新聞夕刊に「ニッポン人・脈・記」というコーナーがある。現役の各界の有名人を紹介している。そのなかで狐野扶実子という女性のことが書かれている。料理学校にかよう主婦からたった3年ほどでフランスの一流レストランの副料理長になり、管理職になりたくなくてそこを辞めてパリの老舗食料店(といえばたぶんフォーションかなんかでしょう)の料理長になる。ところがスタッフたちの不満は彼女になべをぶちまけるという形で現れ、彼女は精神的に参ってしまった、というようなことが書かれている。

そりゃそうでしょうと私はこの記事を読んで思った。いくら料理学校を首席で卒業したといったって、働き出して3年なんてまだ修行の身でしょ。それをシェフに認められてたったの3年で副料理長になっただとか、それを認められてフォーションかなんかの料理長になったなんていったらたたき上げのスタッフから総スカンを食うのは目に見えているわな。

もちろん料理にはセンスというものがあるから、いくらたたき上げでこつこつ努力をしてきたからといってそれだけで認められるものではないだろう。しかしたったの3年でシェフに認められて...というのがなんとも胡散臭いよね。しかも東洋の若い女ときたら、鼻持ちならない。

私はけっして女だからそんな早い出世は認めないだとか出る杭は打たれるものだとか言いたいのではない。この人が管理職にはなりたくないとか言いながら、けっして自分でレストランを持つとかしようとしないで、つねに組織の中にいてしかも組織的行動はいやがり、出張料理人などという好き勝手なことができる立場を利用していたことが、組織の歯車として立派に働いているスタッフたちから、総スカンを食ったのだと思うのだ。

美貌とエキゾチックを売りにしているんじゃないというのなら、自分の店を持てばいいのだ。それなら、組織の名前とちょっと変わった料理という目先の変化だけで有名人をひきつける、要するに際物ではなく、本当に実力があるのかどうか、本当に彼女の作る料理をパリジャンたちが求めているのかどうか、まさに現実が示してくれるだろう。

そうではなくて有名レストランのシェフに気に入られた、老舗食料品店の料理長、日本生まれのキュイジニエール、和風の料理を加味した軽やかなキュイジーヌなどという、本当に力があるのかどうか分からないところで、有名人の嗜好をくすぐって名声を得たように見えることが気に入らないというたたき上げのスタッフたちの気持ちは、私には分かるな。

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「魔女と彼女の子ども」

2007年11月21日 | 現代フランス小説
Marie Ndiaye, La diablesse et son enfant, Mouche, 2000.
マリー・ンディアイ『魔女と彼女の子ども』(ムシュ書店、2000年)

マリー・ンディアイは1967年にピティヴィエール(フランス)で、セネガル人の父とフランス人の母のあいだに生まれた。学校教育をフランスで受け、ソルボンヌ大学で言語学を勉強したあと、アカデミー・フランスの奨学金を得ている。12・3才からものを書き始め、わずか18才で最初の作品を出版している。2001年には『ロジ・カルプ』でフェミナ賞を受賞している。

この作品は、いわゆる子ども向けの絵本の体裁をとっており、裏表紙にも「一人で全部読むのが好きな子どもたちのための本」と銘打っている。

魔女が夜ごと家々を回って「私の子どもはどこでしょうか?いなくなってしまいました。私の子どもを見ませんでしたか?」と尋ね歩いている。この魔女は顔も穏やかだしきれいな肌をしているし、目もきらきらと輝いているので、ドアを開けた人たちは最初は快く応対をしているが、彼女の足が人間の足ではなく蹄になっているのを見るや、怖ろしくなってドアを閉めて、家のいたるところの鍵をかけてしまうのだった。だんだんと怖ろしい魔女が家々を回っているといううわさが広がり、だれもドアを開けてくれなくなる。ついに彼女はどの子でもいいから子どもをさらってやろうと思うようになる。昼間は彼女は森の中に住んでいるのだが、ある夜、また尋ね歩きにでかけようとすると道端に女の子が座っている。「ついていらっしゃいという」と言うと素直についてくる。するとこの子は足が不自由だということがわかり、魔女は抱きかかえて歩いていく。不思議なことに森がなくなって一軒家がある。そこが自分の家のような気がして、そこに入りベッドに子どもを寝かしつけ、「こんな小さな子がこんなに重たいなんて思わなかったわ」とひとり言をいうのだった。

以上がだいだいのあらすじなのだが、暑くてじめじめした森のなかには果物がたくさんなっていて食料には困らないというような箇所もあったりするので、セネガル出身の父親が語り聞かせたりしたアフリカの森の伝承なども元になっていたりするのだろうかと考えられる。

童話というのはいろいろな読み方ができるものだし、実際に子どもに絵本や童話を読み聞かせしてやった経験があると分かることだが(たいていのお父さんお母さんなら毎晩のように寝る前に絵本の読みきかせをしてやり、自分も一緒に寝てしまった、あるいは子どもは眠れないのに、親のほうだけ寝てしまったなんて経験があるでしょうね)、じつに奥深いものがある。音読というのは絵本では非常に大事なことで、言葉の感じがよく伝わるし、読み方によって雰囲気も変わってくる。そして子どもにとってはこの音から入ってくるイメージというのが、絵本の挿絵ともどもあれやこれやと想像力をかき立てるもののようだ。本当にこればかりは自分が子どもに読んでやるという場面でしか実現できないもので、というのは子どもが大きくなってから思い出したように絵本を取り出してきて読んでも、昔のイメージは出てこないから。

だから本当はこの絵本も「子どもが一人で読む」のではなくお父さんやお母さんに読みきかせをしてもらうといいのだがと、私は思う。それによって子どもの中に、人間の足ではなくて蹄をもった魔女、食べるものがふんだんにある森、ぴしゃりとドアを閉めてしまう町の人たち、そして足が不自由な子どもが魔女によって救われることのうれしさを、あれこれかみ締めることができるのではないかなと思うのだ。

マリー・ンディアイの邦訳は、『みんな友だち』(インスクリプト、2006年)、『心ふさがれて』(2008年)、『ねがいごと』(駿河台出版社、2008年)がある。

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「パプリカ」

2007年11月20日 | 作家タ行
筒井康隆『パプリカ』(中央公論社、1993)

筒井康隆って、かなり昔に『文学部唯野教授』を読んだことがあるだけだから、ほとんど知らないと言っていい。しかし『文学部唯野教授』のときはただ現代思想にたいして造詣が深いのだなと思ったくらいで、別にすごい作家だとも思わなかったのだが、この小説を読んで、筒井康隆って只者ではないな、すごい作家だなと感心した。

まず第一に、最近ではよく使われるトラウマ(心的外傷)という用語がまだ「トラウマ」という形で定着していなかったためにトロヴというような英語をそのままカタカナにしたような表記で使われている。問題はそのような表記のことではなくて、筒井康隆がまだこの用語が定着していない時期からすでにそのような精神医学の用語を熟知して小説の中で使っていたということだ。たぶん、トラウマというのは10年まえの阪神大震災あたりから使われ定着するようになったのだと思うから、それ以前に使っていたのだ。そういう先駆性がすごい。

第二に、この小説の主題となっている他人の夢への侵犯というのはまるで映画の「ザ・セル」(2000年)を見るようではないか。この映画では精神分裂患者の夢の中にジェニファー・ロペス演じる精神科医かなんかが入っていって、その心象風景を見てきて、その病気の原因となったものを探り出そうとするものだったが、精神分裂患者の夢の中に入っていったジェニファーがその夢の中で殺されたりしたら、それは現実における死を意味するというようなものだったと思うのだが、これはまさにこの小説が描いているものそのものだ。もしかしたら、この映画は筒井康隆のこの小説を基にしているんじゃないかと思ったほど、類似している。アメリカの映画さえも凌駕するような先駆性。

第三に、この小説の第二部にでてくる異形の者たちが町を埋め尽くすという場面は、私に「平成狸合戦ぽんぽこ」を思わせた。多摩丘陵に住む狸たちの住処が土地開発によって破壊され、狸たちは人間たちに対抗するために化けて人間たちを怖がらそうとするが、逆に面白がられてしまうというものだった。この映画は1994年製作だから、あんがい高畑勲は筒井のこの小説からこの街中での異形の者たちの騒動の着想を得たのかもしれない。

そういうことから、筒井のこの小説はいろんなことを先取りしている。なんで筒井康隆が評価されるのかなと不思議だったけど、これはすごい、天才ちゃうと関心している。ちょっとしばらく筒井康隆を集中的に読んでみようか。


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「円生と志ん生」

2007年11月18日 | 舞台芸術
井上ひさし原作『円生と志ん生』(劇団大阪上演、2007年)

今年もまた劇団大阪の芝居を見てきた。今年は井上ひさし作の『円生と志ん生』であった。終戦も間近の頃に、お笑いをさそう落語というようなものは戦意高揚に敵対するとして、なかなか仕事もなく、食べるものもままならないため、ある程度自由が謳歌できた満州に出かけることになるが、すぐに終戦となり、大連はあっというまにソ連と中国に包囲され、帰国できなくなる。そして二年後になんとか帰国するまでの二人の苦労というか珍生活というか、それを描いた芝居なのだが、史実に基づいているのかどうかは私は分からない。

二人が大陸に渡る経緯を簡単に紹介した「枕」あたる第一場から引揚者の待合室でいよいよ帰国するというエピローグまで長短ばらばらの場面が十もある。

いつまで経っても帰国のめど(お金、輸送船)がたたない二人は、ソ連の赤軍政治部から自分たちが文化戦犯として指名手配されているチラシを見て大喜びする。戦犯になれば東京巣鴨の刑務所に入れられるから、官費で堂々と帰国できるというわけだ。しかし大陸の戦犯はシベリア送りだと知らされて、逃亡生活に入る。この場面は戦犯になるという、普通なら嫌がることを逆手にとってうれしがるのが面白い。

古道具にまつわる「枕」をあれこれ考えている円生のところへ大連へ逃れてきた日本人たちが中国人に子どもを預けた未練から子どもたちの形見を古道具として大事にしてくれと亡霊の姿で出てくる場面は、古道具というものにも持ち主にとっては大事だというところから、なんか興味深い「枕」ができそうだという話につながるのだが、どうも前後の連関がいまひとつで、実際の落語にこの経験がどう生かされていくことになるのかよく分からない。

第七場は喫茶店「コロンバン」が舞台で文学好きの女子学生が留守番をしているところに二人がやってきて、落語の語りが言文一致体の元になっているというような話しをするが、これは面白かった。芝居としてというよりも、文学の歴史として。漱石が三代目円生を評価していると言っていたが、どこにでてくるのだろうか?

難民に食料を配っている女子修道院の屋上で円生がキリストに間違われる話は、井上ひさしお得意の場面のように思うが、どうだろうか。

女の登場人物が多く、4人の女性が何役もこなしていたが、違和感もなく、じつに上手かった。もちろん主役の円生役と志ん生役の二人をほめるべきだろう。ちょっと堅物の志ん生役も、奔放な円生役も、それぞれの特徴がよく出ていた。なかなか楽しい2時間だった。

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「党組織」

2007年11月16日 | 現代フランス小説
Jean Rolin, L'organisation, Gallimard, 1996, Folio. no.3153.
ジャン・ロラン『党組織』(ガリマール書店、1996年)

1949年生まれで、ジャーナリストをしながら作家としても活躍しているらしい。この小説は1996年のメディシス賞を受賞している。

フランスの学生や若者が制度疲労を起こしていたフランス社会に対して解体のために立ち上がった1968年の五月革命の時期に、2才年長の兄のオリヴィエに導かれるようにして、極左冒険主義の毛沢東派の運動に参加した経験があり、この小説はその時期の経験にもとづいて書かれている。

毛沢東は文化大革命で知られるように「造反有理」を掲げて、生産手段の社会化以前に、まず人民の意識そのものの革命を主張し、学歴のないプロレタリアこそが革命の担い手であって、知識人はプチブルジョワであり、農村に送り込んでそのプチブル根性を徹底的にたたきなおさなければならないとして、多くの文化人学者たちがつぶされていった。ごく狭い意味での「革命的」学問や文化だけが意味のあるものであり、それ以外の学問芸術はブルジョワ的として焚書にしたり廃棄したりした。

なんといっても毛沢東は中国革命を成功させた「偉大な革命家」であり、彼の影響は全世界に及び、とくに日本やフランスには彼の影響を受けた極左冒険主義的分子が多かった。
この小説の主人公をはじめとする「党組織」というのはこの毛沢東主義のグループである。この小説が事細かに描き出すように、その活動は武装蜂起を訴えるビラや新聞の発行・販売のほかに、工場に入ってそこで破壊活動を行う、場合によっては暴動などを起こすことであって、いくら時代が革命の息吹にあれる頃だといえ、まったくもって馬鹿馬鹿しいこと、この上ない。

主人公は活動に嫌気がさして自殺未遂を起こすまでになる。こういう現実から遊離した、頭でっかちな、まさに「革命ごっこ」のような運動が破綻してしまう姿を、この小説は、たぶん後年になって若き自分の姿をある程度客観的にみることができるようになった作者の冷静な目で描き出している。

それにしてもシンパがこんな地方にもいるのかと思わせる場面が何度も出てくる。世の中にはいろんな考え方の人がいて、こんな毛沢東主義なんかがフランス人に理解されるのかと思うかもしれないが、なかには革命というものを純粋に考えていて、そうした運動を密かに支えている人がどんな地方にでもいるものなのだ。

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「古いものを使い続ける」

2007年11月12日 | 日々の雑感
古いものを使い続ける

20年以上も前に買ったYAMAHAのCDプレイヤーが少し前に壊れた。最初はCDトレーが出てこなくなっただけだったので、針金で無理やり引っ掛けて出していたのだが、ついにモーターが壊れたのか回転もしなくなってしまった。モーターが壊れたのならもうお手上げだと思っていた。新しくCDプレイヤーを買うか、いまはDVDプレイヤーがCDプレイヤーを兼ねているからDVDにするか迷っていた。でもDVDならテレビにつながないと意味がないし、でもヴィデオデッキがあるし、などとあれこれ迷っていた。

とりあえず、CDを聞きたいからと古いノートパソコンをつないで、これで音楽を聴けるようにしていたが、娘が古いのでいいからノートパソコンを使うというので、もって行ってしまった。さてどうするか。もう仕方ないから新しいのを買おうと思って、とりあえず中を開けてみようと思い、開けてみると、なんとトラぶっていたのはモーターではなく、モーターの回転をCDトレーに伝える輪ゴムが劣化して緩んでいることが分かった。

それで市販の輪ゴムに付け替えてみたりしたがどうもうまく行かない。インターネットのYAMAHAのホームページで調べてみたが、さすがに20年以上も前の製品の情報なんか載っていない。そこで、これこれのものが欲しいのだがと問い合わせメールを出したところ、輪ゴムは今でも同じのを使っているからありますよという返事。さっそく送ってもらった。

付け替えたところバッチリ。たった輪ゴム一つのことで壊れていたCDプレイヤーが甦ったのだ。捨てなくてよかったと思うと同時に、この程度の故障で廃棄される家電が多いのだろうなと、大量生産大量廃棄の思想のいかにおろかなことか、こうした現状をなんとか改善できないものだろうかと思うのであった。

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「家政婦」

2007年11月11日 | 現代フランス小説
Christian Oster, Une femme de menage, Editions de Minuit, 2001, Double, no.24.
クリスチャン・オステル『家政婦』(ミニュイ書店、2001年)

結構大きな会社で働いているらしい中年のジャックは妻のコンスタンスが出て行ってしまってからかなり経ち、家の中が片付かないので、家政婦を雇うことにする。まだ二十歳過ぎのローラがやってくる。最初は月曜日の午前中だけやってきて掃除をしてくれるが、どうも棚などにつもった埃(poussiere)をきれいにしてくれないために、またジャックが家にいる週末になるとごみがたまるために金曜日にも来てもらうことになる。

ちょうどジャックが家にいる日で、彼女の仕事の邪魔をしないようにしているのだが、いろいろ気に触ることがある。ある日、ローラが住み込みさせてくれと言う。収入が少なくて家賃が払えず、追い出されそうになっているからだという。しかたなく住まわせることになる。彼女の持ち物と言ってもビニールの袋二つあれば十分だからということで、ジャックが彼女をその日にさっそく車で送っていき、そのまま引っ越してくることに。

それから奇妙な二人の生活が始まる。当たり前のことと言えば当たり前だが、二人は性的な関係を結んでしまうが、けっして愛し合っているわけではない。そんなある日、分かれたつもりになっていた妻のコンスタンスがやってくる。夜に突然やってきたので困るというと、明日下のカフェで話しましょう、あなたが来るのを待っているからと言って帰る。ジャックは二度とコンスタンスに会いたくないので、慌てふためいてあちこち電話して泊めてくれるところを探す。やっとラルフという一人住まいの男が受け入れてくれることに。翌朝一人で出て行こうとするジャックにローラは一人にしないでと縋りつき、一緒に来るまでパリを離れることになる。

長い髪の毛を短くすることを条件に連れて行くことにしたので、途中の見知らぬ美容院でローラにカットさせる。新しい髪形に別人のようなローラを見たジャックは欲望する。西海岸にあるラルフの家につき、海岸で毎日過ごすうち、ローラには別の男ができてしまう。

とまぁあらすじだけを書いてみるとありふれた話のようだが、語り手であるジャックの破格のフランス語による内省が延々と続くので、読みにくいことこの上ない。でもそれも徐々に慣れてきて、最後に男ができたというローラを前にしたジャックがちょっとしょぼたれ男になってしまうところでは、なんだか彼に共感してしまうのは、ほぼ同世代であるせいか? こんな若い子とこんなことになってみたいというスケベジジィのはいやらしい願望が描かれているからなのか?

だいたいこのローラって女はいったい何なの?そもそもジャックの逃避行はかならずしもローラが引きおこしたことでもないし、ラルフのところに行くのだってローラがいたからではない。この女性はジャックの人生にほとんど影響を持たないはずなのに、小説の中では大きな存在感をもち、本来は脇役だった存在が主役になってしまうという変な小説なのだ。

映画化されたらしいが、映画に関する情報はインターネットでも分からなかった。

クリスチャン・オステルの小説は『待ち合わせ』が河出書房新社から2005年に翻訳出版されている。

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「しゃべれども しゃべれども」

2007年11月09日 | 作家サ行
佐藤多佳子『しゃべれども しゃべれども』(新潮社、1997年)

また一つ小説の醍醐味を味わわせてくれる作品に出会った。いろいろ読んでいるとこういう優れものの作品に遭遇するから、捨石はたくさんあっても、自分で探すのはやめられない。人から言われて読んだのでは、なかなかこういう開けてびっくり玉手箱的な喜びは得られないだろう。

少し前に国文太一主演で映画をやっていたとおもうが、見なくてよかった。見ていたら、小説を読んでもこれだけの感動は得られなかったと思う。というのは映画の2時間という枠に収まらないスケールがあるし、単に時の移ろいだけでなく、登場人物たちの微妙な心の移ろいがこの小説では上手に描いてあるが、これは映画ではなかなか難しいことだと思うからだ。もちろん映画というメディアに心の微妙な変化を描写することができないなどと不遜なことを思ってはいないが、たいていの監督というか脚本家は話の流れの面白さ、あるいは登場人物のキャラの面白さにばかり目を向けて、微妙な心の変化を映像の形で示すということにあまり関心がなさそうだ。

それぞれに心の問題を抱えた良、十河、村林、湯河原が三つ葉のもとで落語を習うといっても、落語を覚えました、三つ葉とのやり取りのなかで問題が解決しました、みたいな短絡的な話ではない。落語そのものにそんな吃音や失恋の病や学校でのいじめの問題が解決できるわけはない。やっぱりな、と思わせておいて、でも三つ葉という一途に古典落語を愛しているけどあれこれの悩みをもって自分の殻を敗れないでいる二つ目の噺家との付き合いのなかで、やっぱり落語だから解決できるんやと思わせる話になっている。

登場人物の心の変化だってじつに細かく描かれている。けっして紋切り型ではない。村林の件だって、湯河原がバッティングのコーチをしてやっていじめっ子の宮田に勝てるという展開ではなく、負けてしまい、しかし落語で笑わして新しい人間関係を切り開いていく、自分も関西弁を使わない決心をするというような、面白い展開になっている。そもそも村林がみんなから笑われても関西弁を使い続ける心意気がすごいのだ。

わいも一時期落語にはまったことがあってんで。米朝のテープ聴いて暗記してな、人前でやったことがあってん。それが今の上さんなんやけど。上さんが怪我をしてちょっとへこんどるときやったから、なんかしらんけどえらい受けてもうて、まぁそれで二人の仲もぐっと縮まったちゅーわけやねん。米朝はもちろん枝雀もほんま大好きで、サンケイホールとかによう聞きにいったもんやで。落語を知るきっかけになったのにはまた別の女性がちょっと絡んでるんやけど、まぁこれ以上話すとややこしーなるからやめとこ。

それにしてもこれだけの登場人物を個性的に作り上げて(つまり書き上げて)、しかも微妙な心の移ろいを描ききるこの作者の力はすごいなと思う。

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「片道切符」

2007年11月06日 | 現代フランス小説
ディディエ・コヴラール『片道切符』(高橋啓訳、早川書房、1995年)

1994年のゴンクール賞を受賞してすぐに翻訳されたという、ずいぶんと気の早い企画によるものである。コブラールについては「妖精の教育」でもすこし触れたと思うが、8歳の頃から小説家を志し、書いては出版社に送るということを繰り返し、21歳で彼の才能を認めてくれた編集者とであって作家としてのデビューを果たしたという。34歳でゴンクール賞を受賞するのは早すぎるという声に、自分は8歳から書いてきたと答えたというエピソードもあるらしい。

今回は怖ろしいほどの治安が悪い北マルセイユにすむジプシーの環境の中で育てられた何者かも分からない少年の話で、「アミ・シス」という車に乗せられていたので、アジズという名前をつけられ、ジプシーとして育てられてきた。

不法移民を強制送還するかわりに国まで連れ帰り、そこで就業させるという政策に方向転換した政府の方針から「人道担当官」のジャン=ピエールに連れられて、偽のパスポートにあったモロッコの名もなきアトラス山脈の寒村に送り返されることになる。モロッコに着くと、フランス語も喋れてモロッコのこともよく知っているヴァレリーと知り合いになり彼女にガイドを頼んで四駆にのって出かけるが、そもそも偽のパスポートに偽の話で、行く当てもなくアトラス山脈を進むうちに猛吹雪にあい、ジャン=ピエールは死んでしまう。死んだジャン=ピエールを連れて彼の出身地のロレーヌ地方の寂れた町に行くと、そこに居ついてしまう。

そもそもこんな風に話が進んでいくこと自体にどの程度の信憑性があるのかどうか私のようなものにはよく分からない。たとえば奥田英朗とか桐野夏生の小説を読んでいてもかなりきわどい展開が出てくるが、日本人であるわれわれにはどんなにきわどい展開でもそこにリアリティーを感じるということは、そういうこともありだと思いながら読んでいるわけで、そういうことが起こっても別に不思議ではないと思っているということだろう。

しかしフランスの移民問題に巻き込まれた経験もなく、いわんや滞在許可書をとりに警察に並んだ経験もないようなものには、ジャン=ピエール演じる「人道担当官」がどの程度異国の空港などで自由に振舞えるのか、またジャン=ピエールの死体を持ち込んだアジズが政府の担当官になりすますなんてことが可能なのかどうか分からない。だから途中から話が夢物語のような印象をもちだすのは仕方のないことだろう。

それにしてもマルセイユあたりの貧困問題や移民問題を、こんな風におちゃらけたやり方ではなく、もっと真摯に描く小説というものはないのだろうか?ダニエル・サルナーヴの「レイプ」ほどの真摯さで。

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