goo blog サービス終了のお知らせ 

読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『サロメ』

2023年07月05日 | 作家ワ行
ワイルド『サロメ』平野啓一郎訳(光文社古典新訳文庫、2012年)

そもそもワイルドの『サロメ』には、おそらくビアズリーのイラストの影響もあってか、世紀末の退廃的なイメージしかなかった。

よく思い出せないが、誰からのツイッターを読んでいて、平野啓一郎が翻訳をしているというのを知って、あの平野啓一郎が『サロメ』の翻訳!?しかも解説文が面白い?!ということで読んでみたら、これがまた興味深いのなんのって。

まず「訳者あとがき」から読む。演出家の宮本亜門に翻訳を依頼されたという。そして偶然なのか、宮本亜門の洞察力がすごいのかわからないが、京大に在学中からすでに三島由紀夫に導かれるようにして『サロメ』を読んでいたという。

そして平野啓一郎のサロメ観がまた斬新で、これまでの常識のようになっている、あの世紀末の退廃的で、倒錯した性的妄想のような、つまりファム・ファタールのような、妖婦のような、権謀術数に長けた男たらしのようなつまりこれまでの女性像でいえば、ラシーヌのフェードルのような、またメディアのような女ではなくて、キスさえも知らない、恋は何かさえも知らない、処女としてのサロメ。(三島由紀夫の『金閣寺』を三島流の『サロメ』だと指摘しているのもすごい!)

「サロメは決して、単に純真であるわけではない。しかし、よく誤解されているような淫婦でもない。純真であるにも拘わらず、まったく身に覚えのない淫婦性を母から受け継いでしまっている。」「ここにこそ、サロメの悲劇性がある。」(p.134)

「サロメは、最後には恐ろしい残酷さを発揮する。それが不気味であるのは、彼女が無邪気であるからにほかならない。彼女がヨカナーンの首を求めるのは、ただその唇にキスがしたいからである。それは、ヨカナーンにどうしても会いたいという、彼女の最初のささやかなわがままの延長上にある。」(p.140)

平野啓一郎が提示するこのようなサロメ像をもって戯曲を読んでみると、たしかにサロメのセリフは世間のことを何も知らない小娘のように直截で、断言的である。同じセリフを何度も何度も繰り返す。駄々をこねる子どものように。

オスカー・ワイルドがなぜこのようなサロメ像を形象しようとしたのかという問題は、またここでは別の議論が必要になるので、詳しいことは述べられていない。それを調べてみるのもまた興味深いものなるのだろう。

しかし平野啓一郎って作家はただの作家ではないな、と感心した。

アマゾンのサイトへはこちらをクリック

『おらおらでひとりいぐも』

2018年03月09日 | 作家ワ行
若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』(河出書房新社、2018年)

芥川賞を受賞した63才のデビュー作。かつて井上ひさしの『吉里吉里人』を読んで感動したことがあったので、東北弁のタイトルに惹かれて読んでみた。

『吉里吉里人』は全編が東北弁だったが、これは主人公の桃子さんの頭の中だけの東北弁である。語り手の語りは標準語である。

桃子さんは72才の独居生活。夫とは死に別れた。娘と息子は独立して別居している。娘はわりと近くに住んでいるが、関係が悪くて、寄り付かない。ほとんど近所付き合いもしない。

独居老人の頭の中で自分の基層をなしている東北弁を使ういろんな自分が登場してきて賑やかに喋り合う。

ほとんどが東北での少女時代のことや家族、結婚式直前に東京オリンピックのファンファーレを聞いて出奔したこと、夫との出会い、娘の直美とのいざこざ、などの回想が大部分を占めていて、大した出来事は起きない。

せいぜい、病院に行った話と夫の墓参りに行ったことくらい。結局、この作品の興味深い点は、語りの特異さということに尽きる。もっと東北弁が縦横無尽に出てくると思っていたので、ちょっとがっかりの読後であった。

『村上海賊の娘』

2014年05月11日 | 作家ワ行
和田竜『村上海賊の娘』(新潮社、2013年)

本屋大賞受賞作として今や売れに売れている小説だ。数年前にも『のぼうの城』で本屋大賞の第2位になったくらいの人だから、それはもう面白さというか、読者の心を掴む勘所は手の内と言っていい。

しょっぱなの大阪本願寺での雑賀党の頭首孫一と本願寺の顕如の秘書役のような地位にある頼龍との会話は、まさに序章であって、どうでもいいが、とりあえず状況設定のためのものだから、いらないというわけにもいかないが、私には、ちょうどいまNHKの大河ドラマでやっている『軍師官兵衛』が同じ時期の内容なので、いらないといえばいらない。

安芸郡山城での軍議のあと、宗勝と就英の船が瀬戸内海を進んでいるところで、いよいよ主人公のお出まし。大阪本願寺に食料を送ろうとする広島の門徒たちが雇った船が彼らの荷を横取りしようとしているところへ、村上海賊の姫を載せた船が取り締まりにやってくる。最初は姫は船主に騙されたふりをしながら、ついにそのおろそしいほどの凄腕を見せて、船主を殺してしまう。そのやりとりが、ちょっと間が抜けているようにも、「能ある鷹は爪を隠す」的にも見えて、面白い。これで只者ではない姫の人間像が、そしてそれを取り囲む村上海賊たちの生き生きとした様子も描き出される。読者はこれで、もう参ってしまうだろう。

そして、毛利家の名代として、村上海賊に本願寺までの護衛を依頼しに行った宗勝と就英と村上海賊の首領の武吉、彼の長男の元吉、姫の弟である景親や、三島村上家の代表たちとの会談を通して、彼らの関係や人となりが描き出される。宗勝の豪放磊落さ、就英の神経質でプライドが高い、そして昔のことを知らぬ若造らしさなど。

これ自体も非常に面白いが、その上を行くのが泉州海賊たち、眞鍋七五三兵衛、沼間義清、松浦安太夫、寺田又右衛門たち。なんといっても、眞鍋七五三兵衛が面白い。また泉州弁が異彩を放っている。とくに下巻になると、いよいよ村上海賊と眞鍋海賊の戦いがメインになってきて、どう見ても主人公はこの七五三兵衛になってくる。景はその青臭さと、いかにもありそうな描き方(要するに主役だから死なないという設定)のせいで、登場人物としての面白味も減少してくるのにたいして、七五三兵衛のほうは、ばかみたいな怪力から繊細な戦略まで、もう下巻では他を圧倒しまくっている。

私は泉州に住んでいるけど、生まれも育ちも泉州ではないから、彼らの泉州弁には惚れ惚れする。それにしてもこの作者は生まれも育ちも泉州とは関係ないようなんだが、いったどこでこれほどの泉州弁を身につけたんだろう。

きっと映画かあるいはNHKの大河ドラマになるのではないか。主人公の景は、なぜか韓ドラのNHKBS3でやっている『馬医』にサアム道人の弟子のカヨン役のオム・ヒョンギョン。『馬医』は吹き替えで、彼女の口の聞き方が、この小説の景にそっくり。なぜかわからないが、読んでいると、彼女の顔が浮かんでくる。

しかも景というのは醜女という設定だが、それは泉州海賊からは美人だと言われることからも分かるように、美人であるというのは問題ない。まぁ韓国人なので、そもそも実現性はゼロだけどね。

就英は、谷原章介かな。でもプライドの高さという感じがもう一つだから、今『軍師官兵衛』で顕如役をやっている人。眞島秀和という人がいい。宗勝は、私のイメージだとやはり上條恒彦がいいのだけど、もう歳だからな。


そして眞鍋七五三兵衛は、芸人のTKOの木下隆行。彼の雰囲気がもうそっくり。芸人だけど、演技力は、すでに『チーム・バチスタの栄光』にも出ているし、ドラマには結構出ているから大丈夫だろう。あとは、海賊らしく、体をもっと鍛えて、筋骨隆々にしてもらうこと。

まぁこんなことを考えながら、読みました。面白かった。


「砕かれた神」

2008年04月03日 | 作家ワ行
渡辺清『砕かれた神』(岩波現代文庫、2004年)

戦艦武蔵に少年兵として乗っているときに撃沈されたが、奇跡的に一命をとりとめ、敗戦と同時に復員した経験をもつ著者が、復員後の昭和20年9月から就職のために家を出ることになる翌年の4月まで書き綴った日記である。時期的に無条件降伏条約調印、天皇の人間宣言、マッカーサー訪問、全国巡業などの時期と重なっており、天皇の戦争責任問題に関する鋭い批判書となっている。初版は1983年に朝日新聞社から出版されている。
今読んでいる小熊英二の「<民主>と<愛国>」のなかで引用されていたので興味を持って読んでみたが、こんな本があるとは思わなかった。

この手記は二つの問題を読者に提起している。一つは文字通り、太平洋戦争(日中戦争を含めて)にたいする天皇の戦争責任問題である。そしてもう一つは、私たちのような戦後派世代にとっては、自分のしたことが間違っていたと分かったときに人はどんな対応ができるのかという問題である。

一つ目のことで言うと、天皇の戦争責任をいうことをこんなに真摯に問いかけた人はいないのではないだろうかと思う。自らが戦前の教育によって天皇のために死ぬということを信じ込んで、そのために見も心も捧げようとしただけに、戦後の天皇の言動には納得がいかないものを強烈に感じたのは当然のことだが、それをここまではっきりと表現するには相当の勇気が必要だったと思うのだ。

天皇機関説というのがある。天皇は政治制度の中でたんなるシステムの一部に過ぎず絶対権力者ではないというようなものだが、美濃部達吉が主張した理論である。これは議会政治を重視するという時代の趨勢に叶ったものであった。昭和天皇はたしかに絶対権力者としての天皇というものが政治システムとしても教育制度としてもすでに出来上がって磐石の体制となってから天皇になったので、現実の昭和天皇の人柄がどうであったかどうかに関係なくあらゆることが絶対権力者としての天皇の名において行われたわけで、現実の天皇が戦争についてどう考えていたかどうかは別として御前会議で戦争を承認したした上は天皇の戦争であったことには変わりないだろう。暴走した軍部に利用された、これが天皇の戦争責任を否定する人たちの言うことだが、だれも裁判に訴えてでも天皇の責任を明確にしようとしたことはないから、法的にはどうなっているのか分からない。

私は戦後派世代だが、山間部の田舎では私が少年時代を過ごした1960年代でもけっして戦争は忘れられたものではなかった。私のうちは、私の父の兄、つまり叔父が戦艦大和で戦死しているのでよけいにそうだったのかもしれない。祖母が近所のお年寄りとたまに戦争の話をして死んだ叔父(祖父母の長男)のことを涙ながらに話しているのを見たことがある。戦争は遠い昔のことと思っていたが、そうではないということを感じるのがそういうときだった。しかし祖母も皇后と同い年だということ話の種にしていたくらいで、戦争で大事な長男を失ったこととそれが天皇の責任ということとどのように関係付けて考えていたのか、よくは分からない。

同時に私は自分のしたことが間違っていたと分かったときに人はどんな対応をすべきかという問題としてこの本を読んだ。もちろん天皇の身になって考えてみるという話ではない。この著者のように自分が志願して戦った戦争が間違った侵略戦争だったということが分かったとき、戦争を正義の戦いのように教え、半強制的に戦わせた天皇に対する戦争責任を追及するのと同時に、そうした教えを本当にどうか自分でよく考えてもしないで加担してしまったことで、すべてを簡単に信じ込んでしまった自分に対する批判である。著者は反省として二度といかなる戦争にも加担しないことを、言葉にだまされないようにすでに既定の事実になったことでも自分の頭で考えて納得できることしか行動しないという決意をしている。そして天皇とけりをつけるために兵士として天皇からもらった給与・衣服・食料代などを返金するということをして、この手記は終わっている。

自分のしてきたことが間違っていたということが分かったとき人はどうすべきか。別にそれで人を死なせたとかそういう話ではなく、自分の人生の意味の問題である。この著者はその後1960年頃にわだつみの会に入会して、戦没学生の墓参、遺稿刊行の手伝いなど戦没者慰霊の活動をしていたらしい。この手記でもたびたび出てくるように、自分の人生は天から見ている慰霊に「生き残っていいことをしたな」と言われないようにしたいという思いから、こうした活動に人生をかけることになったのだろうと思う。そうした活動の一環としてこの手記も刊行の準備がされていたのではないだろうか。

お前はこれからどういう生き方をするのかという問いを突きつけられているという思いを強く感じながら読んだ。


「悪いうさぎ」

2006年05月13日 | 作家ワ行
若竹七海『悪いうさぎ』(文芸春秋、2001年)

長谷川探偵事務所のフリーの調査員をしている31才の葉村晶は、家出をした女子高校生を連れ戻すという仕事を引き受けたのをきっかけに、殺人事件に巻き込まれることになる。家出むすめ平ミチルの父親、ミチルが通うセイモア学園の同級生の滝沢美和の父親たちがつくる「二八会」の野中が言い出して始まった人間にうさぎの被り物をかぶらせて山奥の別荘の近くでこれを標的に「人間狩」をやるために美和やその知り合いの佳奈たちが失踪したのだった。葉村はミチルといっしょに彼女たちの跡をおい、危機一髪のところで、救い出されるという話なのだが、美和とか佳奈とか、殺された綾子とか、名前は出てくるのだが、まったく登場しない人物もたくさんいるし、それが同じ高校生ということで(佳奈はちがうが)、だれがだれやらよく区別がつかなかったりするし、また葉村が一人で納得していることが、読者にはなになに?って感じでよく分からなかったりで、途中から退屈になってしまいました。私っておバカなのんでしょうか?話についていけないところが多々ありました。

ミチルというのは満のことでもあるんだけど、うちの近所にみつるというぜんぜん流行らない散髪屋があって、そこのおっちゃんいつも暇そうにしている。私はいつも行く所が休みだったので、一度行ったことがあるけど、こうしてって言っているのに、こうしましょうねと、勝手に違う長さにしてしまう散髪屋なんで、二度と行かない、だれが行くかと思っているのだけど、まぁあのおっちゃんとしては、こんなに人がたくさんいて、髪の毛は毎日のように伸びるのに、どうしてうちには客がないのだろうかと思っているだろうね。私の仕事も同じようなものか。こんなに大学あるのに、どうして声がかからないのでしょうか?