竹岡俊樹『旧石器時代人の歴史』(講談社選書メチエ、2011年)
私がこの本を手にとったきっかけは、2000年に発覚して大騒動になった例の旧石器時代遺跡捏造事件発覚について触れられているからだった。だが、読み進めるうちに、そういうスキャンダラスな事件を引き起こした背景に、日本の石器研究に限らず、あらゆる学問分野に通底するような非科学的なものの支配があるのではないかと思うようになり、またこの著者がフランスに留学してしっかりした石器の分析力をつけてきたからこそ、捏造事件に巻き込まれずにすんだことにも思いいたるようになり、何度も読み返すべき本であるように思うようになった。
この著者は、この捏造事件が起きて、ごく少数の研究者以外にはだれもその捏造を見破ることができなかった原因は、石器の分析力のなさを放射性炭素を利用したり、顕微鏡による使用痕研究など「科学的」な手法を絶対視して、石器そのものの人間の目による徹底した分析と言語化をいい加減にしてきたことによると喝破している。たしかにこの分野の研究が始まったのは戦後の1949年であり、それからの研究の蓄積がいかにも足りないと素人でさえも思うのだが、この本によれば、もう最初から研究者同士の権力争いの様相を呈し、とてもではないが研究実績を蓄積していくというような本来の姿は見られない。
本当は石器の分析力などないのに、自分は石器を見る目があると勝手に思い込んでしまっているから、明らかに縄文時代の石器と思われるものが、50万年も前の、あるいは70万年も前の地層から出土したと言われたら信じこんでしまうという、愚かなことになったのだという。
私はこれを読んで、以前にも書いたことがあるが、日本の地質学会が井尻正二が主張した地向斜造山理論なるものに惑わされて、プレートテクトニクス理論を受容するのが大幅に遅れて、地震研究などにも大きな遅れの原因になったという話を思い出した。
この著者に興味を惹かれたのは、1980年頃にフランス政府給費留学生としてパリで石器分析の修行をしてきたことについて書かれているのを読んだからことによる。「総合的な博士課程がパリに創設された年だった」という幸運な時期に留学したことにもよるが、そこでの石器分析の手法が「人体解剖と同じ」だと医者に言われたくらいに徹底していたということが、著者の分析力を飛躍的に高めた。その結果、一目で石器か偽石器か見分けられるようになったと言う。
それ以上に私が興味を惹かれたのは国語学の教師であった父親の薫陶をうけてフェルディナン・ド・ソシュールの構造言語学を考え方の枠組みにするようになったという話である。いったいどういう教育を受けたらそうなるのだろう。さまざまな石器の意味付けを、歴史的な見方ではなくて、共時的な枠組みのなかで見るというようなことも書いていたと思うが、なんだかソシュールを民族学に適用したレヴィ=ストロースのようなことを石器研究に考えているのだろうか。石器の世界に進化ということはないと言い切る。一見進化したようにみえても、じつはまったく別の人類があとからやってきた結果であるというこの本の結論は、私にはよくわからないが、こういう人がいるということは日本も捨てたものではないなと感心しながら読み終えた。
旧石器時代人の歴史 アフリカから日本列島へ (講談社選書メチエ) | |
竹岡 俊樹 | |
講談社 |
この著者は、この捏造事件が起きて、ごく少数の研究者以外にはだれもその捏造を見破ることができなかった原因は、石器の分析力のなさを放射性炭素を利用したり、顕微鏡による使用痕研究など「科学的」な手法を絶対視して、石器そのものの人間の目による徹底した分析と言語化をいい加減にしてきたことによると喝破している。たしかにこの分野の研究が始まったのは戦後の1949年であり、それからの研究の蓄積がいかにも足りないと素人でさえも思うのだが、この本によれば、もう最初から研究者同士の権力争いの様相を呈し、とてもではないが研究実績を蓄積していくというような本来の姿は見られない。
本当は石器の分析力などないのに、自分は石器を見る目があると勝手に思い込んでしまっているから、明らかに縄文時代の石器と思われるものが、50万年も前の、あるいは70万年も前の地層から出土したと言われたら信じこんでしまうという、愚かなことになったのだという。
私はこれを読んで、以前にも書いたことがあるが、日本の地質学会が井尻正二が主張した地向斜造山理論なるものに惑わされて、プレートテクトニクス理論を受容するのが大幅に遅れて、地震研究などにも大きな遅れの原因になったという話を思い出した。
この著者に興味を惹かれたのは、1980年頃にフランス政府給費留学生としてパリで石器分析の修行をしてきたことについて書かれているのを読んだからことによる。「総合的な博士課程がパリに創設された年だった」という幸運な時期に留学したことにもよるが、そこでの石器分析の手法が「人体解剖と同じ」だと医者に言われたくらいに徹底していたということが、著者の分析力を飛躍的に高めた。その結果、一目で石器か偽石器か見分けられるようになったと言う。
それ以上に私が興味を惹かれたのは国語学の教師であった父親の薫陶をうけてフェルディナン・ド・ソシュールの構造言語学を考え方の枠組みにするようになったという話である。いったいどういう教育を受けたらそうなるのだろう。さまざまな石器の意味付けを、歴史的な見方ではなくて、共時的な枠組みのなかで見るというようなことも書いていたと思うが、なんだかソシュールを民族学に適用したレヴィ=ストロースのようなことを石器研究に考えているのだろうか。石器の世界に進化ということはないと言い切る。一見進化したようにみえても、じつはまったく別の人類があとからやってきた結果であるというこの本の結論は、私にはよくわからないが、こういう人がいるということは日本も捨てたものではないなと感心しながら読み終えた。