読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『旧石器時代人の歴史』

2011年05月30日 | 人文科学系
竹岡俊樹『旧石器時代人の歴史』(講談社選書メチエ、2011年)

旧石器時代人の歴史 アフリカから日本列島へ (講談社選書メチエ)
竹岡 俊樹
講談社
私がこの本を手にとったきっかけは、2000年に発覚して大騒動になった例の旧石器時代遺跡捏造事件発覚について触れられているからだった。だが、読み進めるうちに、そういうスキャンダラスな事件を引き起こした背景に、日本の石器研究に限らず、あらゆる学問分野に通底するような非科学的なものの支配があるのではないかと思うようになり、またこの著者がフランスに留学してしっかりした石器の分析力をつけてきたからこそ、捏造事件に巻き込まれずにすんだことにも思いいたるようになり、何度も読み返すべき本であるように思うようになった。

この著者は、この捏造事件が起きて、ごく少数の研究者以外にはだれもその捏造を見破ることができなかった原因は、石器の分析力のなさを放射性炭素を利用したり、顕微鏡による使用痕研究など「科学的」な手法を絶対視して、石器そのものの人間の目による徹底した分析と言語化をいい加減にしてきたことによると喝破している。たしかにこの分野の研究が始まったのは戦後の1949年であり、それからの研究の蓄積がいかにも足りないと素人でさえも思うのだが、この本によれば、もう最初から研究者同士の権力争いの様相を呈し、とてもではないが研究実績を蓄積していくというような本来の姿は見られない。

本当は石器の分析力などないのに、自分は石器を見る目があると勝手に思い込んでしまっているから、明らかに縄文時代の石器と思われるものが、50万年も前の、あるいは70万年も前の地層から出土したと言われたら信じこんでしまうという、愚かなことになったのだという。

私はこれを読んで、以前にも書いたことがあるが、日本の地質学会が井尻正二が主張した地向斜造山理論なるものに惑わされて、プレートテクトニクス理論を受容するのが大幅に遅れて、地震研究などにも大きな遅れの原因になったという話を思い出した。

この著者に興味を惹かれたのは、1980年頃にフランス政府給費留学生としてパリで石器分析の修行をしてきたことについて書かれているのを読んだからことによる。「総合的な博士課程がパリに創設された年だった」という幸運な時期に留学したことにもよるが、そこでの石器分析の手法が「人体解剖と同じ」だと医者に言われたくらいに徹底していたということが、著者の分析力を飛躍的に高めた。その結果、一目で石器か偽石器か見分けられるようになったと言う。

それ以上に私が興味を惹かれたのは国語学の教師であった父親の薫陶をうけてフェルディナン・ド・ソシュールの構造言語学を考え方の枠組みにするようになったという話である。いったいどういう教育を受けたらそうなるのだろう。さまざまな石器の意味付けを、歴史的な見方ではなくて、共時的な枠組みのなかで見るというようなことも書いていたと思うが、なんだかソシュールを民族学に適用したレヴィ=ストロースのようなことを石器研究に考えているのだろうか。石器の世界に進化ということはないと言い切る。一見進化したようにみえても、じつはまったく別の人類があとからやってきた結果であるというこの本の結論は、私にはよくわからないが、こういう人がいるということは日本も捨てたものではないなと感心しながら読み終えた。


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『ピエタ』

2011年05月25日 | 作家ア行
大島真寿美『ピエタ』(ポプラ社、2011年)

ピエタ
大島真寿美
ポプラ社
ヴィヴァルディが孤児たちに音楽教育を施し、自分の作品を演奏させていたことで有名なピエタ慈善員院の女性たちとヴィヴァルディゆかりの人たちを主人公にした小説。

私はなぜかヴィヴァルディは1720年代からすでにヴェネチアを離れていたと思い込んでいたのだが、そうではなくて、1741年にウィーンでなくなる直前まで、ヴェネチアにいて、ピエタとかかわりがあったようだ。おそらく1711年出版の『調和の霊感』とか1725年出版の『和声と創意への試み』以降は、あまり有名なものがないので、ヴェネチアを離れてしまったと思い込んでいた。

ヴィヴァルディといえばもう『四季』というくらいに有名になってしまっているので、ヴィヴァルディは同じ曲にちょっと変化をつけて次々出しているだけというような悪罵に近いことを言う人もいるようだが、あれだけ次々と曲を生みだす創意というのはやはり大変なものなのだと思う。

この小説はヴィヴァルディ本人が直接出てくることはないけれども、彼の弟子であったピエタの女性たちを通して彼の生き方が描き出されるところが興味深い。そのなかには、1740年に神聖ローマの皇帝カール6世が死んだことに端を発するオーストリア継承戦争の話も出てくる。オーストリアやオランダにたいしてフランスが継承権を要求して戦争を仕掛けたのだが、ヴェネチアは交通の要衝として、様々な情報の集まるところとしても重視されており、ちょうどこの小説の舞台となっている時期1743年から44年にかけて、フランス大使の秘書としてルソーがヴェネチアに赴任していた。彼の『告白』にはこの戦争の渦中にあるヴェネチアでの情報戦の様子が簡単ではあるが記述されている。

またヴィヴァルディの『四季』は1725年に出版された直後から、フランスでも大変な人気で、フランスの宮廷でもよく演奏されていた。シェドヴィルが当時の流行を反映してミュゼットなどの楽器用に編曲したりしたのが有名だが、上記のルソーも「春」をフルート独奏用に編曲している。これのCDもあるから、ちょっとは知られているのかもしれない。「ルソー編曲ヴィヴァルディの春」とか難波薫「フルート・レヴォリューション」がある。 

これだけ有名な作曲家なのに、伝記となると、この人が挙げている参考文献でも、1970年のマルク・パンシェルルとかロラン・ド・カンデとか、せいぜい近いところで1981年のトールバットというのは、ひどすぎないだろうか? あれからもっと研究も進んでフランスやイタリアではあれこれ文献が出ているのだから、翻訳したら、売れるとおもうけどな。

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『日本語の正体』

2011年05月19日 | 人文科学系
金容雲『日本語の正体―倭の大王は百済語で話す』(三五館、2009年)

日本語の正体―倭の大王は百済語で話す
金 容雲
三五館
私は前々から、日本語のルーツを明らかにするには、日本語から韓国語とか中国語あるいはアジアの諸国の言語を見ていてはだめで、どう考えても、日本語は辺境の地なのだから、起源にあたる韓国語や中国語のほうから日本語を見ていかなければならないのではないかと考えていたのだが、幼少時代を日本で過ごし、日本語にも堪能で(この本は著者が自ら日本語で書いたというから、相当の日本語力を持っている)韓国語も古い時代のものも読めるような人が、やっと日韓両国の言語の関係を解き明かしてくれたので、非常に面白く読んだ。

日本語韓国語の関係を示す図表が175ページにあるが、これを見るとよくわかる。もともと縄文時代のあとに朝鮮半島から百済系の人々が入ってきて稲作などの文化を持ち込み、その後新羅系も入ってきたが、最終的に天智天皇の頃までは、大和朝廷では百済系の人々が支配していたので、百済語が使われていた。といっても当時の百済語と新羅語は方言程度の違いしかなかったので、ほとんど通訳なども必要なかったが、白村江の戦いが転機になったらしい。

新羅が唐と連合して半島を統一してから朝鮮は新羅語に染まった。新羅が唐のおかげで半島を統一できたことから、中国化を強力に推し進めたために、漢字の中国語読みが導入され、母音が増えていき、この時期から、朝鮮語そのものが大きく変化するようになった。その結果、当時の唐の中国語の音韻が朝鮮にずっと残ることになり、その後中国は北方系の民族が支配するようになったために変わってしまったが、朝鮮語の音韻が古い中国語の音韻研究に役立ったという。他方日本列島のほうは、辺境の地の言語が保守化するという一般法則通り、かつての韓国語をそのまま残して少しずつ変化していって現代日本語になったという。つまり古い韓国語の音韻を調べるには日本語を調べるほうが役に立つということらしい。

私のまとめは、もちろんかなり大雑把なやり方なのだが、日韓両言語の大きな流れを俯瞰するにはこんなものなのだろう。辺境の地の言語が保守化するというのはたしかにそうで、たとえばかつてフランス人が移植していたことから現在でもフランス語圏となっているカナダのケベックでは17世紀のフランス語の発音が残っているという。私自身もfrancaiseを「フランセーズ」ではなくて「フランサイズ」と発音するケベック人に会ったことがある。

面白い。もっとこういう方面の研究をやる人がたくさん出てきて欲しいものだ。

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