読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「坊ちゃん」

2008年04月01日 | 作家ナ行
夏目漱石『坊ちゃん』(岩波文庫、1929年第一刷)

松山・道後温泉といえば夏目漱石・正岡子規だ。とくに漱石は日本人なら知名度ナンバーワンだから、観光に彼を使わぬ手はないという感じで、坊ちゃん団子やら漱石と子規が共同生活していた愚駝仏庵だとか坊ちゃん電車だとか、まぁいろいろある。もちろん郷土出身者で有名人ということになれば正岡子規が一番だから、子規記念博物館もある。ここにいけば松山の歴史から子規の偉業についてもよく分かる。ここに行ったら、ちょうど「坊ちゃん」を売っていたので、子規が書いた絵葉書とともに買い求めた。帰りのバスの中で読もうという趣向である。

これほど有名な小説であるにもかかわらず、また漱石の小説はほとんど読んでいるにもかかわらず、じつはきちんと最後まで読み通したことがない。高校生の頃にちょっと英語が分かってきたので実際の小説でも読んでみようかと英語に訳された「坊ちゃん」を読み始めたことがあったが、とても手に負えなくて止めてしまった。それがトラウマになっていたのか、それ以来原作のほうも読んでいなかったのだ。

なんかで読んだことがあるが、猫とか坊ちゃんあたりの初期の作品は漱石が本当に心から楽しみながら書いていたらしく、ほとんど書き損じがなかったらしい。この小説も28年から29年にかけての一年間教鞭を取っただけの松山での体験を10年後の39歳のときに小説にしたものだが、じつに生き生きとしている。

「坊ちゃん」はいわゆる青春文学というものの一番の走りだったと思う。青春文学というのはいわゆる「世間知らず」の若者がその純粋さ・一本気ゆえに海千山千の輩の住む世間に出て行って、こっちでぶつかり、あっちで躓きながら、成長していく姿を描くものだと思うのだが、坊ちゃんという人物の形象がまさにそのようなものとして作られている。明治初期の日本人が激動の世の中をなんとかうまく生き延びてやろうとして、人を計略にかけることなんかなんとも思っていないような時代である。いったい時代がどこに行こうとしているのか、いったいどんな生き方をすれば自分が生き残れるのか、訳の分からない時代なのだが、そのなかで善悪の判断をしっかりともって、人をだましたりすることなく、自分が為した悪の責任は自分で取るのが人の道だというような倫理観(江戸時代の武士の倫理観でもあったのではないだろうか)によって生きていこうとする坊ちゃんや山嵐。また守らなければならない家族もいないという身軽さが彼の生き方を支えているのかもしれない。この意味で本当に銭金、世間体、立身出世などを考慮のうちに入れない「無鉄砲な」生き方ができる青春の特権を描いた文学ということで青春文学といっていいと思うのだ。

実際の漱石は実家の両親、養子先の両親と四人もの老人たちを自分ひとりで養わなければならないという人間的しがらみから逃れるようにして東京を離れて松山にやってきたわけで、現実の漱石にはたぶんとうてい生きることが叶わなかった生き方であって、それゆえにそうした現実離れした「気風のいい」坊ちゃんを作ることができたのではないだろうか。

この小説の舞台となるところは現在の松山にはほとんど残っていないが、ゆいいつ道後温泉本館だけは漱石が使っていたのと同じ姿で残っているし、またその使い方も同じで残っている。また道後温泉の周辺には小説で出てくる郭通りとか川とか、そうそう路面電車とかが残っているので、小説を読んでからそこを訪ねてみたり、あるいは逆に観光をした後に小説を読みながら、昔のしのんでみるのも面白い。赤シャツのような人間が今でも私の周りにいる。その点ばかりは今も昔も変わらない。


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