読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

本末転倒のスポーツ

2011年07月25日 | 日々の雑感
本末転倒のスポーツ

だれしも健康のために始めたスポーツなのに、いつの間にかやり過ぎて健康を損ねてしまうということはよくある話だ。私もその一人で、ついついやり過ぎて、腰を痛めたり、膝を痛めたり、雨の日にはジョギングはやめたらいいのに、毎日走らないと気がすまなくなって、雨の中を走ったり(夏には気持いいけどね)ということはよくある。今朝もそんな例を見た。

ジョギングの途中に交通量の多い国道があって、そこを横切るのだが、その横断歩道で待っていると、向こうから大きなリュックを背負い、幅広の帽子をかぶり、右腰にはタオルをぶら下げた40才前後のおばさんが走ってきた。以前にも遭遇したことがあるから、毎日のように通勤のために走っているのだろう。

今朝は曇っており、私もそれほど汗をかかずに走り終えたところだったが、その人はもう顔を真赤にして、足はよたよた、まるでフルマラソンの例の30Kmを超えた人の状態(分かる人には分かると思う)。これから一週間が始まる月曜日の朝、これから職場に行って仕事しようという朝一の時間にこの状態でいいのかしら、と人ごとながら心配しつつ見ていた。たしかに家と職場をジョギングで往復すれば、時間がなくても運動ができるし、一石二鳥というわけだが、あんなことをしていて、仕事になるのだろうか?おまけにすごく交通量の多い国道を毎日往復してて大丈夫?

フルマラソンを連続何回走れるかを競ってギネスブックにのった日本人もいたが、あれもまったく本末転倒の一例だろう。もちろん本人もそれは分かっているのだろうけど、ギネスに登録したいという名誉心が優ったということだろう。毎日フルマラソンを走って、あとは一日中マッサージをしてもらい、もう記録に近づいてきたら、体中が悲鳴を上げている状態でも走らなければならない。とにかく記録のため。

ロードバイクでの交通事故も、あまり報道されたりしないが、結構あるのだろう。昨年もあるサイトでいつも見かけていた老人ローダーが交通事故に遭ったらしい。このブログでもリンクを張っている天五さんたちの鉄人・児玉さんという人も過去に二度ほど寝たきりになってもおかしくないほどの事故に遭っている。私なんかも初めてから2年ほどのあいだに数回はひやりとした経験があるし、坂を下っているときに、ブレーキが効かなくなったらどうなるんだろうと思うことがある。

やり過ぎにならないで、適当が一番いい。


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『転々』

2011年07月24日 | 映画
『転々』(2007年)

転々 プレミアム・エディション [DVD]
クリエーター情報なし
ジェネオン エンタテインメント
偶然、映画『転々』をJ-COMで見た。主演の三浦友和と同世代の人間として、悔しいけれど「いい役者になったな」と思う。妻となった山口百恵と共演した『伊豆の踊り子』あたりでは、ただの二枚目の役者にすぎなかったのに、この『転々』では、ときおりみせる表情がジャック・ニコルソンのようでもあり、また無邪気な渡辺徹のようでもあり、得体のしれない中年男を演じて、堂々とオダギリジョーと渡り合っていた。しかも肩から力の抜けた自然体として。

自然体といえば、オダギリジョーもそうで、まるで『時効警察』の雰囲気であった。これは共演のお馬鹿コンビの岩松了とふせえりが出ていただけではなく、また小泉今日子演じる麻紀子のスナックの名前が「スナック時効」であったばかりではない。というのは上さんがこの映画をちらっと見て、「あれ、これ『時効警察』?」と聞いたくらいに、雰囲気が同じなのだ。オダギリジョーは警察の制服を着ていなかったし、一緒に画面に写っていたのは三浦友和だけだったのに。やっぱり画面のもつ雰囲気ってあるんだね。そうそう、麻生久美子も警察の制服姿で友情出演していましたね。(後で調べて、監督の三木って人は『時効警察』の監督でもあったと分かった。)

それにしても東京の見せる顔つきも本当に面白い。二人は旅館のようなところで二泊するのだが、一泊目は飲み屋街の連れ込み宿のようなところだし、二泊目は外人旅行客が喜びそうな浴衣がでる旅館のようなところだし。広田レオナ扮する鏑木という女に出会ってしまい、彼女の絵を見に行っているあいだ、オダギリジョーが待っている公園は、ニョキニョキ林立する高層ビルのすぐそばにあって緑豊かな(というか紅葉がきれいな)林に囲まれていて、まるでニューヨークを舞台にした映画を見ているみたいかと思えば、鏑木の住んでいる文化住宅はまさに滅び行く日本固有の文化のように味わいがある(きっと製作者もこうした対比をわざと浮き彫りにしようとしているのだろう)。

しかし原作を読んでみないことには分からないが、福原が妻を殺したから自首するまで一緒に三日間を過ごしてくれという話のリアリティは別としても、映画では時折、福原のマンションのベッドに横たわる妻らしき女性が映しだされるだけで、福原の後悔の念とか慚愧の思いとか、あるいはついにやってやったという達成感とかがまったく表していないのはどういうことだろうか?まるで、妻を殺して自首するまでの三日間の猶予とか借金取りがこの福原だったという設定は、知らない者どうしが東京の街を三日間転々とする(というよりもまるで散歩しているようにしか、あるいは思い出の場所を訪ねあるいているようにしか見えない)ための口実にすぎないように見える。ただ映画ではその散歩が成功しているから、だれもそういうことを問題にしないだけのように思える。



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『南仏プロヴァンスの12ヶ月』

2011年07月20日 | 作家マ行
ピーター・メイル『南仏プロヴァンスの12ヶ月』(河出文庫、1996年)

南仏プロヴァンスの12か月 (河出文庫)
ピーター メイル
河出書房新社
南仏プロヴァンスを日本でも有名にしたエッセーとして有名なので、これまで敬遠してきたのだが、最近、ピーターラビットで有名なイギリスの湖水地方とか、このプロヴァンスといった、自然が豊かに残され、かつ人間の嗜好にあった自然の姿をしていることで、興味が湧いてきたので、読んでみた。

フランス人が食べ物にこだわるというか、食べるために生きている民族だということを有名にしたのが、このエッセーなのかどうか知らないが、作者が食べることにはあまり興味もないしお金もかけないと言われるイギリス人であることから、当然のようにフランス人のこの面が強調されるのは仕方ないだろう。フランス人のなかでもとくに南仏のフランス人にこの傾向が強いのはやはりラテン系ということか?

フランス人のこの側面を強調して面白おかしく仕立て上げている映画もあるが、やはりこのエッセーの影響かもしれない。一つは『グリーンカード』(1990年)という映画。独身者は入居不可という庭園アパートメントを借りたいアメリカ人女性がアメリカの永住権を手にしたいと思っているドパルデュー演じるフランス人と偽装結婚をするという話だが、第一印象はまるで野蛮人みたいなこのフランス人が食べ物にうるさいし、美味しい食事のためなら自分で買出しにも行くし、自分で料理もするという人間として描かれ、それがセンスを重んじて、食べることなんかどうでもいいという洗練されたニューヨーカーである女主人公から軽蔑のまなざしで見られるというところから始まる。

二つ目はベッソンの『トランスポーター』(2002年、パート2は2005年)。運び屋のフランクが南仏に住んでいるというのがミソ。とうぜん彼に絡んでくる警部のタルコーニ警部は食べ物にうるさい。このパート2では、舞台はアメリカのマイアミになっているが、タルコーニ警部がまちがって警察にしょっぴかれ警部であることが分かるとサンドイッチとワインを出されるが、これが気に入らず、アメリカ人に料理の手ほどきをするという話になっている。これはフランス人監督のものだから、フランス人がフランス人をそうした国民として描くというのはどうかなと思うのだが、まぁベッソンは完全にハリウッド監督になっているから、そういう視点をいれるのにさほど引っ掛かりはないのだろう。

話をもどすと、1月から始まるこのエッセーの冒頭から、南仏に雪と読む方もビックリするようなエピソードから始まるが、以前ある小説でもアルルの付近に雪が降ったという設定で物語が始まったことを見ても、時折こういうことがあるようだ。

郷に入れば郷に従えということを実践した作者が、その郷とはまったく相容れないようなイギリスからやって来た人間だということが面白さを醸し出しているのだが、それにしても、プロヴァンス人の自分たちの生活スタイルにたいする自信こそ見習いたいものだ。鉛管工、ぶどう農家、学問とか学歴とかとまったく無関係の世界でも、だれもが一家言をもって自信に満ちた人生を送っている。日本人に欠けているのはそこではないだろうか?


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『「日本=百済」説』

2011年07月07日 | 人文科学系
金容雲『「日本=百済」説』(三五館、2011年)

「日本=百済」説―原型史観でみる日本事始め
金 容雲
三五館
『日本語の正体』につづいて二冊目になる。前作でも何度も触れられていたが、飛鳥時代、奈良時代、平安時代などはずっと日本の支配者は百済人だったという視点から、古事記や日本書紀などを読みといていく本。こんな刺激的で衝撃的な本は日本人には書けない、あまりにも天皇制の呪縛が強すぎるからということらしい。

うちでは昨年10月にJ-comで放送されたペ・ヨンジュン主演の『太王四神記』が録画してある。最近になってそれをもう一度見直している。それは歴史的には広開土王(好太王)のことで390年前後から410年前後までのことになる。もちろんチュシンの王とか四神の守り主というのはフィクションであるのだが、久石譲の音楽とあいまってじつに面白いので関心しながら見ている。

そこに出てくる百済は西百済と東百済に分かれているという。西百済はどうみても今の中国の山東半島あたりにあるように書いてある。しかしあんなところに百済があったのだろうかと現在の地図を広げながら、首をかしげつつ見ていたのだが、この本によると、高句麗が農耕民族であるのにたいして百済というのは海洋民族でもあり非常に行動力があったので、今の平壌から鴨緑江上流にあった国内城そして遼東半島を領土とする高句麗を挟んで黄海のちょうど奥まった地域(当時の北魏と国境を接するあたり)にも百済の分国があったと書かれている。たぶんこれがドラマで出てくる西百済なのだ。(もちろん同じころ、日本も百済の分国であった。)

それと昔チュシンという広い国土をもつ国があってという『太王四神記』の基本テーマは、どうも13世紀頃に朝鮮半島が統一されたときに作られた檀君神話がもとになっているようだ。この本では、半島が統一されたときに、それまでの各小国がもっていた神話が統合されて作られたということらしい。それは天帝のファンウォンの庶子にファンウン(ペ・ヨンジュンがこれを演じている)という神がいて、人間を救うために太伯山の頂きの神壇樹(火天会のある阿仏欄寺の地下にこれがあるということになっている)に天降った。そこの洞窟には虎と熊(キハや火天会がこの虎族で、スジニたちが熊族の子孫)が住んでいてて、自分たちを人間の姿にしてほしいとファンウンに願い出た。ファンウンはよもぎ一束とにんにく20個を与えて、「これを食べながら、百日間日光を避けてお籠もりをせよ」と命じたところ、教えに従った熊は人間の女になれたが、虎は人間になれなかった。この熊女がファンウンの愛を受けて生んだのが最初の君主である檀君王倹で、檀君はアサダルに都を定めて国を開き1500年間治めたという話である。

これをもとにして『太王四神記』は面白い物語に作られている。四神にそれぞれ守り主がいて、それと知らずに彼らがチュシンの王の生まれ変わりであるタムドクを助けて、チュシンの再興を促す。タムドクが最初に愛したキハはじつは虎族の子孫で四神を奪って天を自由に操ることを狙っている。最初はただの酒飲みで不良少女のように思われていたスジニがじつは熊族の子孫でタムドクを助けることになる。

チェジュ島に巨大セットを組んで撮影したらしいが、手法はもう映画を作るのと同じようで、とてもテレビドラマのちまちました感じではない。テレビの小さな画面で見るよりも映画館の巨大スクリーンで見るほうがよほど合っている。キハとタムドクの最後の別れの場面など、回想シーンの使い方も秀逸で、上さんと毎日一回分づつ見ているが、もうその間はふたりともすごい集中力で、一言も言葉もかわさない。それももう全部見終わってしまって、また民放の下らない番組ばかり見ることになるかと思うと(見なきゃいいんだけど)うんざり。

本の話から『太王四神記』のほうに流れてしまったが、もっと勉強してみたい分野ではある。だが、朝鮮語を勉強しないと話にならないな。それに大嫌いな古語も。


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