読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『アメリカから<自由>が消える』

2010年09月22日 | 評論
堤未果『アメリカから<自由>が消える』(扶桑社新書、2010年)

「貧困大国アメリカ」の著者である堤未果さんのアメリカシリーズの一つで、9・11「テロ」後に起きたアメリカでの自由圧殺の動きを詳細に追っている。

空港での過度なセキュリティ・チェック(たとえば乗客を裸にするミリ波スキャナーとか搭乗拒否リストの拡大によって赤ちゃんまで搭乗拒否されるケースがあるとか)、増え続ける街中の監視カメラによってプライバシーが丸裸にされてしまうとか、国民が知らないうちに通過した「愛国者法」によって市民団体や学生の集会やデモが標的になって警察から暴力を受けるとか、令状不要の召喚状によって簡単にFBIや警察に逮捕されるとか、Eメール、ファックス、電話の盗聴、メディアの自粛、ジャーナリストたちの逮捕、科学者や大学教授が簡単に解雇できるようになり口を封じられるようになったとか、とにかく、アメリカのあちこちから自由が消えていきつつある様子は、怖ろしい光景といえる。

9・11はアメリカ人にとっては驚天動地であったにちがいない。あれが本当のアルカイダ系のテロリストたちによるテロであったのかどうかは、いまは置くとしても、建国以来初めて外からの攻撃を受けたのだから、しかもハイジャックした航空機でもってアメリカの象徴のような貿易センタービルに突っ込んだのだから、そのショックは計り知れないものがあるだろうことは私にだって想像がつく。

戦争と違ってテロリストは「私はテロリストです」と分かるような顔かたちや姿や服装や身振りをしているわけではない。善良な市民がテロリストだったなんてこともあるだろう。だからアメリカ政府はそれを逆手にとって市民の中に疑心暗鬼を生み出させ、匿名での通報などの制度も作って、国民同士が敵対するようにさせて、逆に国民を総動員していこう、政府への批判精神を圧殺しようとしているのだと堤未果さんは警告を発している。

そしてあの9・11がアルカイダによるテロではなくて、以前このブログでも書いたようにアメリカ政府の一部が関与したやらせだったとしたらということで、堤未果さんは今回の事件が、真珠湾攻撃をわざと日本にやらせてアメリカ国民を開戦に導いたときの大統領の陰謀やベトナム戦争にアメリカが関与するきっかけになったトンキン湾事件と同じだと示唆している。

勇気をもってアメリカの危機を告発しているのは、きっと日本もアメリカの後追いをするようになるよという危機感があるからだろう。彼女の活動を応援したいものだ。

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『ラ・ボエーム』

2010年09月21日 | 舞台芸術
プッチーニ『ラ・ボエーム』(神戸文化ホール)

プッチーニの『ラ・ボエーム』を神戸文化ホールで観てきた。「19世紀初頭のパリ、詩人ロドルフォとお針子ミミの哀しくも美しい愛の物語」ということらしいのだが、はっきり言って、台本の出来も、プッチーニの音楽も、どうしてこれがプッチーニの代表作と言われるのか私にはさっぱり分からないくらい、つまらないものだった。

愛の物語って、第一幕で初めて出会ってすぐ「愛してます」はないだろうし、そもそ愛の物語がまったくない、第二幕はカフェ・モミュスでの、どちらかといえば売れない画家マルチェッロと彼の元恋人で、今は金持ちの愛人になっているムゼッタがよりを戻すという話が中心になっているし、第三幕はいったいどういう愛の展開があったのだろうか(私は思わず居眠りをしていてよく分からなかった)?第四幕ではミミとロドルフォが再会したのもつかの間永遠の別れとなるという話にいったいどういう展開があるといえるのか?

音楽は音楽で、感極まったら、例のお決まりのごとくに、ベルカントかなんか知らないが、声を張り上げてわめくだけで、もううんざり。そして極めつけは、プッチーニのせいでも歌手たちのせいでもないけれども、字幕っていうんだろうか舞台の両袖に訳が出てくるのだけど、その訳が最悪、意味不明、どういう意味なのか分からない日本語ででてくる。その奇妙奇天烈さをここに見せることができたらいいのだが、それができないので、一つだけ、クルティア・ラティン地区ってパリのどこかわかりますか? だれでもだいたい見当つくはずだよね。ああ、カルティエ・ラタンのことかって。それなら最初から「カルティエ・ラタン地区」って出せよ!

第三幕は町外れの税関近くの居酒屋が舞台で、この地区の名前がデンフェア、は?ダンフェールじゃないの?今はダンフェール=ロシュローって呼ばれている場所でしょ。パリが舞台になっているんだから、パリの地図をちょっと見ればQuartier-LatinとかDenfertをどう読むかくらいはすぐに分かることじゃないの?いくら台本がイタリア語だからっていったって、日本語に訳するときには日本人になじみのあるフランス語の音でカタカナにしてもらわないと意味ないでしょう。

地名の表記だけでもこんな調子だから、歌詞の訳にいたっては推して知るべし。この訳者、第二幕の舞台になっているカフェがどうしてモミュス(これもモォムゥスとかもう読みにくいカタカナで表記されていた)になっているかも、たぶん知らないで訳してるんだろうね。

そんなこんなで、わざわざ神戸くんだりまで出かけたのに、最悪だった。7000円かやせ!

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『かぐや姫と王権神話』

2010年09月20日 | 人文科学系
保立道久『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書、2010年)

日本最古の物語である『竹取物語』は不思議といえば不思議だ。神話とか伝説というのなら、ギリシャ神話などに比べて古いとは言えないけれども、物語ということになれば、こんな物語が極東の小さな島国で千年以上も前に書かれていたということ自体がじつに不思議だといえる。しかも、竹の中で光り輝いていた小さな女の子とか、最後には月の使者が姫を迎えにやってくるだとか、しかもその様子が月の使者がやってくると護衛の者をはじめ人間すべてが凍ったように動かなくなってしまうというような描写など、その想像力はけっして文明の進んでいない時代の話とは思えないような面白さをもっている。

また内田樹が『寝ながら読める』に書いていたような瘤取り爺さんの話のような説話(昔話)とも違うので、なんらかの時代的思想的政治的背景を了解した上で読まなければ、この物語の真の姿は見えてこないだろうということもおぼろげながら了解される。

そういうわけで、この本を新書コーナーで見つけたときにはすぐに借り出して、少しずつ読んでいったのだが、とにかく難しすぎて、結局私にはよく分からなかったというのが正直な読後感である。

新書というものはだいたいどういう人を念頭において書いているものなのだろうか。かつては岩波新書は高校生でも読めるということだったらしいし、この本のなかでもしばしば「教科書によれば」という文が出てきて、著者があきらかに教科書を読んでいる人、つまり高校生か大学生あたりを念頭においているということは分かるのだが、とにかく神道の概念(忌みなど)がよく分からないし、この物語が書かれた天武天皇前後の時代背景も分からないし、あのあたりの政治制度などもよく分からないのに、それらに関する記述がばんばん出てくるので、分からないけどとにかく読み飛ばすということになってしまう。

そういうわけで結局のところかぐや姫の話がいったいどういう人によって、なんのために、どういう動機から、なにに基づいて書かれたのか、さっぱり分からないという残念なことになってしまった。

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『「七人の侍」と現代』

2010年09月12日 | 評論
四方田犬彦『「七人の侍」と現代』(岩波新書、2010年)

「七人の侍」といえば1954年の作品だが、私がはじめて映画館で見たのはそれから20年も後のことだった。私が大学2年生だった春休み(1976年)のことだったと思うが、当時私は吹田に住んでいて、何かの用事で豊津に行ったらちょうど「豊津シネマ」とかいう、今は存在しない映画館で「七人の侍」をやっていた。黒澤明の傑作だということを当時の私が知っていたのかどうか記憶にない。ただビートルズのときもそうだが、同時代に生きていながら、自分はいつも遅れてきた人間だと思っていたので、たぶん知っていたのだろう。

その当時の自分が何をしていたのかまったく記憶にないが、この映画に感動したことだけは30年以上たった今もはっきりしている。何に感動したのか。もちろん三船敏郎の侍でも農民でもないトリックスター的存在にである。用心棒風の三船しか知らなかった私にはもう新鮮でまぶしかった。

この本を読んでみると個々の登場人物に付された性格描写はけっして読み間違っていなかったことが分かる。しかし従来のチャンバラ映画にたいする革命というのはどういう意味でなのかということや、単独講和と安保条約をセットで締結し、自衛隊を創設したばかりの自民党政権だけが高く評価して一般的には農民の描き方などが侮蔑的だという評価がされていたということなどは、さすがにこの本を読んでみないと分からない。たしかに武装解除されられている日本が自分で自分の身を守るには軍隊をもつしかないよという議論を助けているようにも見えるし、一方的に被害者でしかないという農民の描き方が歴史的考証に耐えないということは最近の歴史学的研究によって明らかになってきたことらしい。

しかし「木枯し紋次郎」が様式化されたチャンバラに風穴を開けたように、この映画は戦闘場面にリアルさを持ち込んだ(ただこの本によるとその後だれも後に続かなかったらしい・・・しかしそれが戦国時代の戦闘シーンだけでなく、戦闘シーンというものにおける日本映画やドラマのリアリティーの欠如と結びついているはずだ)。降りしきる雨の中志村喬が射た弓が水しぶきを上げながら飛んでいく場面、ぬかるみを馬と人間が泥んこになりながら走り回りのた打ち回る場面など、圧巻というほかない。

しかしこの本のすごいところは、この映画が現在の世界でどんな風に見られているのか、また1954年の日本がどんな時代で、黒澤がどんな人間で、ということをきちんと整理してくれたことだろう。そうすることで「七人の侍」のどこがすごいのか、どこが時代の子なのかよく分かるようになっている。一見簡単そうに見えて、じつは大変な作業だ。この映画の前にどんな映画があってそこではどんな風に描かれているかと簡単に書いているから、だれでも簡単に分かるように思えるかもしれないが、それはあくまでも後から言えることであって、そういう的確な引用ができるためには膨大な資料をたんねんにたどってこなければならなかったはずだ。

前書きには四方田がどうして「七人の侍」をもう一度見直そうという気になったのかという動機についても書いてあり、導入部としては申し分ないつくりになっている。

久しぶりに読み応えのある本を読んだ。


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