読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『戦国のゲルニカ』

2016年10月31日 | 評論
渡辺武『戦国のゲルニカ「大阪夏の陣図屏風」読み解き』(新日本出版社、2015年)

今ちょうどNHKの大河ドラマ『真田丸』で描き始めた大阪の陣(まだ冬の陣の前だが)で引き起こされた、徳川諸大名と、大阪城に終結した豊臣側の浪人たちの戦い、そして敗走する戦闘員と大阪町民たちを襲う徳川方の戦闘員や追い剥ぎたちの阿鼻叫喚の地獄絵図を描いたのがこの「大阪夏の陣図屏風」だという。

何度もこの本で繰り返し述べられているのは、これまでの戦国時代のどんな戦にも見られなかった(たぶん応仁の乱の京都が唯一の先例だと思われるが)、市街戦が大阪夏の陣の本質であり、そこでは、いつの時代の戦争にも見られる、戦闘員たちの狂気に駆られた非戦闘員への非人道的な行為が、ここにも見られるということだ。

戦闘員同士が首を取ったという戦果のために死に物狂いの殺し合いをするだけならまだしも、そうした狂気沙汰が、市街戦であるために、避難民たちにも及び、非戦闘員が殺されたり、女子が性的暴行を受けたり、衣服を剥がれたり、という悲惨な目に遭っている様子までこの屏風絵には描かれている。

したがって、この屏風絵は、少し前に描かれた、これまた大作で、四翼あったと言われている「関ケ原合戦絵図」が、まったく徳川家康の側に立って、その栄光を描くために描かれたのとは、まったく意味が違うと、著者は強調している。

それにしても、秀吉に対する家康の恨みは相当のもので、この夏の陣で自刃した秀頼、茶々の他豊臣家の係累はすべて根絶やしにされ、大阪城は天守から何から何まで埋めてしまい、その上にまったく新しい大阪城を建てさせたという。

その凄まじさ、そして家康のせいで大阪が市街戦にされて戦火に燃え上がり、死屍累々の地となったという恨みが、秀頼は密かに逃げてその子孫が現代まで続いているというような話が密かに語られるというような土壌のもとになっているのだろう。

これから『真田丸』がどんな描き方をするのか興味深い。


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桂米朝一門会

2016年10月29日 | 舞台芸術
桂米朝一門会(第38回市民寄席、ビッグ・アイ)

泉ヶ丘にあるビッグ・アイのホールで桂米朝一門会があった。去年も行った。去年は満員御礼だったが、今年はどういうわけかガラガラ。半分も入っていなかったのではないだろうか。どうしてなんだろう。

トップバッターは二乗という若手。おべんちゃらを言うことを教えてもらったが、まったくチグハグなおべんちゃらで話をぶち壊しにするという「子ぼめ」。二人目は佐ん吉というこれも若手。泥棒がある商売人の家に入ろうとするが、入り口の閂を下から手を入れて抜こうとしているところを主人に見つかり、手を縛り付けられて身動きができないうちに、側を通った商売人に財布を持っていかれるという話。

3人目が南天。何だったかな、けっこう笑いを取っていたことは覚えているんだけどね。そうそう、無趣味の隠居がお茶を始めることになるが、周りにお茶のことを知っている者がいないのをいいことに、緑のきな粉でお茶をたてるなど、無茶苦茶な作法で周囲の人をお茶に招き、さつまいもで作った変な茶菓子をみんな嫌って、隣の畑に投げ捨てていたという話。オチがない。

中入り前のトリが南天。さすがに米朝一門を背負って立つ人だ。まずまくらが面白い。身寄りのない子どもを引き取った夫婦に育てられたその子が成長してフレンチのシェフになり、最初のお客さんとしてその老夫婦に料理を出すという心温まる話。育ての父親は今では80歳になるのに、今日も自転車の荷台に紙芝居を載せて近くの公園に出かけた。どうしてこんなに元気なの?それは毎日、青汁を飲んでいるから。そう実はそれは青汁のコマーシャルだった。「私が久しぶりに流した涙はいったいなんだったんでんねん」と怒って、みんなを笑かせた。

本題は「つぼ算」。これはもう話自体が面白いので、大爆笑を取っていたが、私にはどうしても枝雀の姿がちらついて、南光さんには悪いけど、もう一つ楽しめなかった。

枝雀の「つぼ算」はこちら

中入り後は、塩鯛。大酒飲みの話。トリはざこばで、今年もちょっとしんみりするお話の「子はかすがい」。ざこばはこういう人情味のある話が好きみたい。そして上手い。

去年の一門会のことはこちら

落語人気は凋落気味なのかもしれない。米朝、枝雀、米團治などのビッグネームが亡くなって、コアな落語ファンならいざしらず、年に一回か二回程度落語会に行こうかというような人はみんな老齢化した、だんだんと足を運ばなくなっているのかも。


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『シェア』

2016年10月28日 | 作家カ行
加藤秀行『シェア』(文藝春秋、2016年)

著者の第二作目にあたる。芥川賞の候補に上がったが、残念ながら受賞には至らなかった。

ヴェトナムでサーバーの管理者をしているミワは、まだアラサーだが、バツイチ。元夫と一緒と始めた会社は順調に業績を伸ばし、離婚の時に慰謝料として貰ったその会社の株がどんどん価値を持ち始めている。

ふとしたキッカケから、ヴェトナム出身のプログラマーのミーと一緒に、違法民泊をやって副収入を得ている。都内のワンルームマンションの最上階をすべて借りて、それを外国からの観光客に又貸しして収入を得ているのだ。

元夫とのやり取りの回想や、ヴェトナム人のミーとの民泊経営の日常生活などが描かれている。時にさり気なく書かれるカタカナが少々専門的で理解できないこともある。ここで描かれる生活臭の希薄な人間たちは、まさに東京の現代人の姿なのだろう。

私の出身地の鳥取県日野町が毎月発行している町報を見ていたら、図書館のコーナーでこの本が紹介されていた。その時は別に気にも留めないでいたのだが、順番が回ってきて借りだしたら、著者紹介に「鳥取県生まれ」と書いてある。おやっと思い、調べたら、なんと両親とも日野町の出身とある。

さらに調べたら、著者の祖母が根雨で「朝勝館」という旅館をやっているという記事まであった。おやおや、朝勝といえば同級生の加藤くんの家じゃないか。ということは著者の親は彼のお兄さんだ。おまけにこの人の奥さん、つまり加藤秀行のお母さんは私と同じ村の同級生の○○さんだ。そうか、この著者は、彼女の息子さんだったのか。「鳥取県生まれ」ということは、きっと日野町に戻って出産したんだな。なんだか、世間は狭いというけど、本当だな。

専業小説家になったわけではなく、二足のわらじというやつのようだから、これからも小説を書き続けるのかどうか分からないが、桜庭一樹に次いで、有名人が知り合い(知り合いじゃないけど)にいるのは嬉しいな。

加藤秀行の祖母を紹介している記事はこちら

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鳥取県中部地震

2016年10月23日 | 日々の雑感
鳥取県中部地震

23日に鳥取県の倉吉市や北栄町を中心とした地震があった。これから寒くなるのに、被災した人々は心細いだろうと案じる。

2000年にも鳥取県西部地震があって、このときは私の生家のある日野町もたくさん被害を受けた。復興を早めるためにも、過疎の町なので住民を流出させないためにも被災した住宅の再建のために半額を日野町が出すという手段を取ったことから、町財政がたいへんなことになり、その後小泉政権下で行われた平成の大合併で近隣の市町村が合併したのに、日野町は借金が多すぎて敬遠されたという話も聞く。そういうときこそ国がしっかり存在感を示して欲しいのに、まったくの無策。国って何のために存在しているのだろうと悲しくなる。

地震被害を始めとした天災など、個人の力ではどうにもならない被害を受けた時の救済のためにこそ国家は役立って欲しい。そのために税金を払っているはずなのに、そういう時に国家は何の役にも立たない。国民の税金をジャブジャブと使いながら、まったく効果がないどころか、一部のマネーロンダリングしている連中に吸い取られているのに、そうしておいて何の責任も取らない日銀の連中のやっていることを見ていると腸が煮えくり返る。

地震が起きて何日も何日も学校の体育館のようなところで身動きの取れぬ日々、眠られぬ夜を過ごし、冷たくなったおにぎりやカップ麺で我慢しなければならないとは。毎年のようにどこかで地震が起きて避難生活をする人々が出るのだから、それを想定してトレーラーハウスを準備しておいて、さっと運ぶとか、というようなことがどうしてできないのだろうか?

そして大きな心配の一つは原発だ。今回の地震で言えば、島根半島にある島根原発。なにも報道されていないが、何もなかったのだろうか。きっと2ヶ月くらいたってほとぼりが冷めてから、じつは電源喪失になりかけていたとか、原子炉にひび割れが入っていたなどという報道があるのではないかと心配する。本当に今すぐ全原発を停止して、速やかに廃炉にする政策に転換して欲しい。

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ヘンリー木山作品展

2016年10月21日 | 日々の雑感
ヘンリー木山作品展(鳥取県人会事務所)


大阪駅前第3ビルにある鳥取県人会事務所で、日野町根雨出身の画家ヘンリー木山の作品展があったので行ってきた。

1885年(明治18年)に日野町根雨に生まれ、鳥取県立第二中学(現在の米子東高校)を中退して、19才のときにアメリカに渡り、ハウスボーイなどをしながら絵の勉強をする。29才頃からサンフランシスコ美術学校夜間部で賞をもらったり、奨学金をもらったりして頭角を現し、1920年(大正9年)に35才でサンフランシスコ美術教会年次美術展覧会で入賞して以降たびたび入賞するようになる。その後漫画「漫画四人書生」を書くようになる。1937年(昭和12年)52才で帰国。1951年(昭和26年)に66才で死去。

今回の展覧会は木山が帰国して根雨に住むようになってから近所の人たちを書画風に書いた作品が主なものである。たぶんそういう作品しか残っていないのだろう。

とくに左の将棋指しの図なんかは面白い。典型的な日本人像が滑稽な筆致で的確に描かれている。これにはコメントはついていないが、書画なので、俳句のような川柳のような、書も味わいがあっていい。

鳥取県といえば、先ごろ亡くなった水木しげるや、テレビで活躍しているコナンの青山剛昌が有名なので、「まんが王国」を標榜しているが、フランスでは有名な谷口ジローとか今回のヘンリー木山などの漫画作家がいる。

夕方仕事帰りに寄ったのだが、昨日は午後6時から日野町長の講演と懇親会があるとかで、たくさんの人が集まっていた。知り合いはいなかったので、そそくさと帰ってきた。


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『ファウスト』

2016年10月16日 | 舞台芸術
『ファウスト』(グノー、関西二期会)

シャルル・グノーのオペラ『ファウスト』を観てきた。内容はゲーテの小説で有名なやつだ。老学者のファウストがメフィストフェレスに魂を売って「若さ」を取り戻し、グレートヒェンに恋して妊娠させるが、グレートヒェンはファウストに捨てられ嬰児殺しで投獄されて狂気し、ファウストは最後に悪魔に魂を奪われる寸前で救済されるという話だ。

しかしこのオペラ(1869年)にパリ・オペラ座で初演されてから、フランスでは3000回の上演を数えるという人気のオペラだが、私にはなんとも話の流れが分からないオペラだという印象ばかりが残った。

第一幕で、三つの大きな箱型のセットが置かれており、字幕には「ファウストの保護室」と書いてある。一つ目にファウストがいる。精神病院を思わせる。二つ目はガラス張りになっており、メフィストフェレスの部屋のよう(悪魔の世界をイメージしている)。3つめはファウストの部屋と同じ精神病院を思わせる病室でマルグリートがいる。たぶんマルグリートは最後にこうなるという姿を予告的に見せているつもりだろうが、そんな姿の彼女にファウストが一目惚れをするのも変だ。そもそもメフィストフェレスと悪魔の契約にサインする前は爺さんであるはずのファウストが若いから若さが欲しいという叫びがまったくリアリティーを持たない。完全に演出の間違いだと思う。

舞台美術が上にも書いたように、大きな箱型のセットを回転させて、抽象的な舞台美術として使ったり、部屋のように使ったりするのは、場面転換を容易にするための工夫なのだろうが、場面の違いにメリハリがつかないので、場面の華やかさから一転して悲惨な場面になるというような変化がまったく感じられず、例えば第三幕で冒頭でマルグリートが糸を紡ぎながらファウストに捨てられた思いを歌った後、ジベールに慰められて教会に祈りにでかけてそこでメフィストフェレスに出会い、地獄に引きずり込まれそうになるという場面がまったく恐ろしいものとして見えてこないし、感じられない。完全に演出の悪さだと思う。

いろんな演出がオペラにはありうるが、この作品に関してはリアリティーのある舞台美術を使うことが要請されると思う。なぜなら話自体が現実と夢想の間を行き来しているような内容であり、その違いを見せつけることで、幻想と現実のメリハリがつくと思うからだ。例えば第四幕でファウストが魔女の宴に参加する。それがまるで魔女の宴のように見えない。衣装のせいだ。どうして魔女が白いドレスを着ているのか理解できない。ファウストが嬰児殺しで投獄されて発狂しているマルグリートを連れ出そうとする。ここでも最初からマルグリートが舞台にいるので、ドッキリ観がまったくない。

上さんと一緒でなかったら4時間のオペラ、途中で帰っていたに違いない。初めてフランス語オペラを見て思った。モーツァルトって偉大だ。

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なんという奇遇

2016年10月15日 | 日々の雑感
なんという奇遇

昨日、上さんと天野街道を歩く道すがら、一昨年亡くなった上さんの父親の若い頃の話をしていたら、あれ、もしかしたら北杜夫と旧制松本高校の同級生かもということが分かった。

私が高校生の頃に北杜夫の小説をよく読んでいて、大学一年の時に書いた小説を送ったところ、「もっと修行してください」という返事が来たとか、北杜夫は旧制松本高校から新制に移行する直前にバンカラをやっていたみたいな話をしたら、上さんの父親もちょうどその頃旧制松本高校にいたと言うのだ。

帰宅後、いろいろ調べてみた。上さんの父親は、朝鮮の平壌の出身で、そこで旧制中学まで過ごし、1944年に旧制松本高校の理科甲類(英語が第一外国語)に入学している。同じ年に辻邦生が同じ理科甲類に入学しているし、北杜夫(本名、斎藤宗吉)は1945年に理科乙類(ドイツ語が第一外国語)に入っている。ということは、もちろん上さんの父親も寮生だったはずだから、知り合いだった可能性が非常に高い。辻邦生と同じ授業を受けていたことは間違いない。

しかし、私が北杜夫をよく読んでいたというような話をしなかったからかもしれないが、そんな話は上さんの父親からまったく聞く機会がなかった。分かっていたら、いろいろおもしろい話がきけただろうに。残念だな。

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一年ぶりの天野街道

2016年10月14日 | 日々の雑感
一年ぶりの天野街道

一年ぶりに上さんと天野街道ハイキングに行った。曇り空の下、8時過ぎに出発。まだ気温は上がっていない。20度くらいだろうか。でもすぐに汗が出て来るので、上着を脱いだり、また冷えてくると着たりで、調子が悪い。

どうも調子が悪いので、最初は風邪気味なんだろうかと思ったが、考えてみると、時間的にも糖分を補給する頃だなと思い、アメちゃんを舐めてみる。するとちょっと元気が戻ってきた。どうも糖分が足りなくなっていたためにしんどかったみたい。

ちょっと晴れてきて、体も温まり始めて、コース的にも、アケビが見られる場所になる。あるある、あちこちにぶら下がっているが、今年は夏が暑かったせいか、もうほとんどが口を開いて、中身もすっかりなくなっている。残念。それに今年は棒とかを使っても手の届くところにないので、一つも収穫できなかった。

足は痛くなったが、気持ちは心地よい疲れのなか、やっと金剛寺に着いた。2時間45分くらいで到着。11時20分のバスで河内長野市ラブリー・ホールに行き、ケーズキッチンでランチをして帰った。

過去の天野街道ハイキング
2015年はこちら
2014年はこちら


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『仁義なき宅配』

2016年10月05日 | 評論
横田増生『仁義なき宅配』(小学館、2015年)

副題に「ヤマトvs佐川vs日本郵便vsアマゾン」とある。宅配便の熾烈な競争を、実際に現場で働いたり、従業員から聞き取り調査をしたりして書いたもの。

宅配便の普及は本当に便利さを生活にもたらした。かつてある程度大きなものを遠方に送るといったら、国鉄の駅まで持っていって、そこで受け取ってもらい、それはあのいつ動いているのかどうか分からない貨物列車に載せられて、近場の集積場に送れられ、またそこから遠方の集積場に、そして駅へ、そこからトラックかなんかで配達先まで配達されていたように思う。その日数たるや、一週間くらいはかかっていたのではないだろうか。

それが翌日には配達される。さらに商品なら送料無料だってある。こんな便利なものはない。つまり大事にしなければならないということだ。だが、この本を読むと、上記の大手の熾烈な競争の結果、従業員の労働は荷重になり、会社も一品あたりの送料単価が圧縮されて儲けがでなくなり、扱うのを止めたり、低賃金で働く人が減って、時間通りに配達できないという事態が生じつつあるという。

私は宅配便をよく利用するが、配達に来てくれる人を見て、忙しそうにしているけれども、その分いい給料になっているのだろうな、そうでなければやってられない仕事だな、とぼんやり思っていたが、やはり低賃金で長時間労働(重労働)のようだ。

こんな便利はシステムをなくさないためにも、翌日配達でなくてもいい、送料無料でなくてもいい、働きたい人が増えるような仕組みにしてほしい。

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風邪って、

2016年10月03日 | 日々の雑感
風邪って、こんなにも突然に、何の前触れもなしにやってくるものだったっけ?

風邪をひいた。先週の月曜日、週の中で一番多い仕事をやり遂げて帰宅し、ビールを飲みながら夕食を取り、食後のデザートにアイスを一口食べたところ、それまでなんともなかったのに、喉の痛み。ごっくんしたら喉がヒリヒリ。あ、風邪をひいた?と驚く。

仕方ないので、早めに就寝。火曜日の朝、やっぱり喉が痛い。喉の痛みにはイソジンだということでイソジンでうがいをする。体もしんどい。何もする気になれないので、再び布団に入り、昼前までウトウト。しつこくイソジンをしたが、変化なし。午後からは仕事なので、しんどいけれども仕事に出かける。明日は朝イチで医者に行こうと決めて寝る。

ところがなんだか楽になっている。しつこくイソジンでうがいしたおかげで良くなってきたかなと思い、受診はやめにする。今日は休みだし、またぶり返すようなら昼からでもいいやと思っていると、やはりだんだん悪くなり、首から肩にかけてものすごい肩こりで偏頭痛もする。でも雨が降ってきた。車ない我が家。行くの嫌だな。

翌日木曜日は朝から仕事。しんどいけれども頑張らないと。喉のヒリヒリはなくなった代わりに咳が出始める。鼻汁も出始める。なんとか一日乗り越える。

金曜日朝イチでかかりつけ医に診てもらう。抗生剤、総合かぜ薬、咳止めなどをもらって、金曜日、土曜日と指示どおりにきちんと飲む。日曜日の朝になってやっと咳もとまり、体も楽になってきたが、まだ本調子ではない。

それにしても、前日無理をしたわけでも、年寄りの冷や水と言われるようなことをしたわけでもないのに、どうして風邪をひくのか?自分で自分の体がよく分からない。風邪って、こんなにも突然に、何の前触れもなしにやってくるものだったっけ?


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